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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年7月号

フォーラム2017

JDF災害総合支援本部 報告会

山中沙織

去る4月18日、衆議院第二議員会館において、日本障害フォーラム(JDF)主催の「JDF災害総合支援本部 報告会 ~熊本地震1年 東日本大震災6年~ 誰もが取り残されない復興とまちづくりに向けて」が開催され、国の防災施策担当者・国会議員・自治体担当者・当事者団体担当者など、約140人が参加しました。

2016年4月14日に発生した「熊本地震」から1年、2011年3月11日に発生した東日本大震災から6年が経過しました。被災地では今もなお厳しい状況が続いています。特に障がいのある被災者にとってさまざまな課題が明らかになっており、そのような被災地の実情と課題、ならびに関係者の取り組みについて報告するとともに、今後の復興と、将来予想される新たな災害を見据えながら、誰もが取り残されない防災とまちづくりについて話し合われ、障がい者と災害について情報交換が行われました。

私は、パネルディスカッションのパネリストとして参加しました。本稿では、そのことを中心にご紹介します。

コーディネーターの藤井克徳さん(日本障害フォーラム副代表)の進行で、4人のパネリストから報告がありました。

西惠美さん(熊本市手をつなぐ育成会副会長・専務理事)は、会員430人にアンケートを実施した結果、一時的に避難所に行った人もいましたが、車中泊をした人が大勢いたこと。その理由は、障がいのある本人が大勢の中が苦手、ストレスを感じると思って、車の中の方が気兼ねせず自由など、知的障がい児・者とその家族が直面した問題を報告しました。

中島秀男さん(熊本県健康福祉部障がい者支援課参与)は、県の障がい者支援課で熊本地震における避難行動要支援者への支援が不十分であったとして、高齢者や障がい者の避難を想定した避難所運営マニュアルの見直し、福祉避難所制度の理解促進、関係機関による研修や訓練の実施などの取り組みを行なっていることを報告しました。

菊池春子さん(河北新報報道部震災取材班)は、東日本大震災発生直後の福祉サービスの停止、ライフライン寸断、物質の不足や復興、仙台市に設置された津波避難タワーのバリアフリー問題など、取材を通して感じたことなどを報告しました。

私は、東日本大震災及び福島第一原発事故を経験した聴覚障がい者の立場から当時の状況について述べさせていただきました。以下に、私が報告した内容をご紹介します。

東日本大震災

今から6年前…2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生しました。

いつものように仕事をしていた時、ゆっくりとそしてゆらゆらと体が揺れ始めました。揺れがだんだん大きくなり、急にパソコンが倒れ、電気が消え、自動販売機がずれ、壁にはひびが入り始めました。周囲は何やら慌てていろいろと話をしていましたが、私にはその声を理解することはできませんでした。しかし、周りの様子や表情から、明らかに良くない状況が起きていることだけは理解できました。会社の中で聴覚障がい者は私一人。そのような状況の中、筆談で状況を教えてくれる人はいなく、当然手話で会話ができる人もいません。私は全く情報を得ることができないまま、揺れが収まるのを待ち、散らばった書類や壊れた破片を片付け仕事を終えて帰宅しました。

帰り道はものすごい渋滞でした。普段20分くらいで帰れるところが、1時間もかかり、聞こえる人であれば、車内のラジオで震災情報を得ることができるのかもしれませんが、聞こえない私にはそれもできませんでした。

家に帰るなり一目散にテレビを付けました。そこで目にしたものは、広い海…。よく見るとその海の中に家や車が浮かんでいます。いったいこの映像はどこの映像なのか? 字幕もない、音の聞こえない映像の中から、まさか津波が起きているなど知ることができませんでした。

私が住んでいる郡山市は、福島県の中央部にあり、海が遠いせいか、地震=「津波」ということが私の中での意識にありませんでした。ですから、映像を見ても起きている現実をすぐに理解することができませんでした。

事の重大さを知ったのはずいぶん後のことでした。また、「原発」が福島県内にあることを知らずに育った私は、その原発が爆発し、放射能が漏れ、危険であることも全く理解することができませんでした。

家でテレビを見ていても、字幕といえば、安否確認や避難所情報だけ。アナウンサーの話は字幕には反映されないため聞くことができません。地震情報を正しく理解できないまま、不安の中、時は過ぎていったのです。

地震発生の2日後、NPO法人郡山市聴力障害者協会と手話サークル「こおりやま」、福島県手話通訳問題研究会郡山班が集まり、災害本部を立ち上げました。市の専任手話通訳者も一緒になり、現在の状況や郡山市に住んでいる会員の安否を確認し、食料品の確保やガソリンの給油情報など、生活に必要な情報を集め、情報が入りにくいろう者のための情報提供に力を注いでいきました。

震災後の動き

東日本大震災をきっかけに、2013年から郡山市主催の「郡山市総合避難訓練」に、郡山市聴力障害者協会、手話サークル「こおりやま」、福島県手話通訳問題研究会郡山班の3団体で参加を始めました。当初は、私たち聞こえない者への情報保障は全くありませんでした。市に対して、聴覚に障がいのある私たちには、災害時における手話での情報保障、目でわかる情報の取得が大事であること訴えました。

2014年の訓練では、市の専任手話通訳者が配置されました。しかし、避難所の受付で対応する一般の職員は、私たち聞こえない者への理解が乏しくコミュニケーションがとれない状態でした。黒板には「お話が聞きにくい方は、要約筆記します。」と書かれ、会話ができない時に手話通訳を呼ぼうという配慮がなく、手話への理解がまだまだであることが、はっきりと感じられました。

郡山市手話言語条例制定

2015年4月、念願の郡山市手話言語条例が施行されました。条文には、今全国が注目している「災害時の対応」が定められており、「災害時に情報取得及び意志疎通支援に必要な措置を講ずるよう努めます。」と記載されています。条例制定後の2015年の避難訓練では、手話通訳者の配置のほか、受付に手話のイラストが描かれたコミュニケーションボードが置かれるようになり、手話のできない一般の職員もそれを使用しながら対応し、詳しい説明が必要な場合には、手話通訳者を呼んでコミュニケーションを図るなど、職員の意識が変わり始めました。

さらに、2016年の訓練では、「コミュニケーションボード」の他に、手話通訳と書かれたオレンジ色のビブスが用意され、着用した手話通訳者をすぐに見つけることができるような配慮がなされ、情報提供に努めるようになりました。

「郡山市手話言語条例」施行後、少しずつですが、災害時の情報保障に対する市の意識が変わり始め、改善されてきていることが目で見て感じられています。私たちも、大震災を経験し、その後、訓練に毎年参加することで災害に対する意識も変わり始めました。

今後もさらにスムーズなコミュニケーションを図り、正しい情報確保ができるように、郡山市と共に活動していきたいと思います。

報告会に参加して、関係者の方々の報告や議論の中で、聴覚障がいの私とは違った困難や苦しみ、辛さ、問題があったのだと改めて気づかされました。実情を伝えることの大切さ、実情を正しく知り、次につなげることの大切さを感じさせられた貴重な報告会だったと思います。

同時に、私が他の障がいの困難や課題に今まで気づけなかったように、私たち聴覚障がい者の現状も伝えなければ、気づいてはもらえないのだと考えさせられた報告会でもありました。

(やまなかさおり NPO法人郡山市聴力障害者協会事務局長)