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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年7月号

追悼
花田春兆先生を偲んで

春、兆すひとを悼む

(明治学院大学教授)茨木尚子

春兆さん(と呼ばせていただく)との最初の出会いは、本誌の編集会議だったと思う。緊張して参加した最初の会議後、春兆さんからメールをいただいた。「面白い企画を一緒に考えようよ。編集会議とは別に企画会議を一緒にやろうよ」と声をかけていただいたのだった。

春兆さんの住まいである特別養護老人ホームは、私の勤める大学から近く、このお声がけをきっかけに、いろいろな場所でご一緒させていただき、またわが大学でのゲスト講義や、講演などにも何度もいらしていただいた。

春兆さんの講義は独特だ。いつも事前に講義録をメールで送っていただき、それを印刷して学生に配布する。そして「じゃ、あなたから」と春兆さんに微笑みとともに指名された学生は、春兆さんの声になって、その講義録をマイクを片手に読み上げることになる。

春兆さんの講義録は、優しい語り口調で書かれているのだが、内容はとても深い。またところどころに、漢詩や俳句も仕込んである。ある時、指名された学生が、「私は天の邪鬼で…」と書かれたところを、「てんのじゃき」と読み間違えてしまったことがある。その時の春兆さんの大きな口を開けた笑顔、教員として冷や汗が出たこと、今でも忘れられない思い出である。学生たちは、ドキドキしながら自分が読む箇所を懸命に予測しながら、読めない漢字を見つけて青くなったり…。教室はシーンとし、みんな春兆さんの講義録にくぎ付けになる。自ら声を張り上げなくても、大教室で学生が集中して聴講する講義の展開、まさに春兆マジックであった。

「春兆さんは、どうしてこんな文章を書けるのか?」「どこでこんなに豊富な知識を身に付けたのか」。学生たちは、春兆さんの知識の奥深さに驚く。そしてそこから、戦前の光明学校の特別な障害児教育について学んでいく。障害のない子どもたちが軍事教練などで、授業時間が埋められていく中、光明学校の肢体不自由児たちは、日本の古典、文芸作品の講義を受け、俳句や和歌の手ほどきを受けていたという。そんな教育を受けた春兆さんは、「特別支援学校なんて言ってほしくない。まさに特殊学校だったんだ」とおっしゃっていた。そこに春兆さんの強い反骨精神を感じたものである。

さて、作戦会議は、春兆さんのホームに集合、その後、近くのカフェや居酒屋さんで2次会ということも多かった。ホームを訪問すると、受付で入居者の方との関係を書かねばならないのだが、他の入居者の方のほとんどが娘や息子、親戚であるのに、春兆さんの欄だけは、編集者、記者、友人、知人、仲間、弟子(!)など多様だったことを思い出す。そして門限9時を過ぎて、いつもするっと部屋に戻る春兆さん、それを困ったような顔で迎える職員さんの顔も忘れられない。

ある時、春兆さんの俳句に、若い介護職員さんが撮影した写真が添えられているのを見た私が、「素敵なコラボ作品ですね~」と言ったら、「コラボ!いいね!」と早速エッセイを書かれ、その年の暮れには、ホームの職員さんとの写真と俳句のコラボカレンダーを制作された。どんな障壁でもするすると超えて、多様な人たちをつないだコラボの達人、春兆さん。

今でもホームの前を通ると、春兆さんがいらっしゃるような気がして、さみしさが身に染みる今日この頃である。