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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年7月号

追悼
花田春兆先生を偲んで

花田春兆さんを偲ぶ

(二松学舎大学専任講師/障害者文化論)荒井裕樹

人間、いつまでも元気で居られるはずはないのだけれど、なぜか、春兆さんだけは別なような気がしていた。春兆さんは、ずっと居てくれて、いつだって話を聞いてくれて、何だって教えてくれる。そんな風(ふう)に思っていたのは、きっと、ぼくだけではないと思う。

本誌を読まれる方には、あらためて「花田春兆」の業績を語る必要もないと思うので、ここでは春兆さんの人柄が伝わるような思い出を書かせてもらう。「肩書き」や「業績」のような「かたち」では残らないものを言葉で遺(のこ)すのが文学の役割。春兆師匠に教わったのは、きっとそういうことだと思うからだ。

はじめてお会いしたのは、大学院生の時だった。当時話題になっていた『障害学への招待』(明石書店)に掲載されていた春兆さんの論文を読んで手紙を出したら、「語り伝えておきたいこともあります。どうぞお越しください」というメールを頂いた。それ以来、「人柄に惹かれた」のと、「春兆ペースに呑み込まれた」のと両方あって、大学院を終了するまで「私設秘書」という名の使いっぱしりをさせてもらった。

そういえば、ふとした折りに、「はじめてお手紙差し上げたら、すぐにお返事くださいましたね」と申し上げたら、ぼくの手紙に記されたメールアドレス(裕樹→ゆうき→yuki)を見て、「女の子かと思ってたら、男が来たからびっくりしたんだよ(笑)」と言われて、こちらもびっくりした記憶がある。

春兆さんから教わったことはたくさんあるのに、思い出すのはくだらないことばかりだ(不肖すぎる弟子で本当に申し訳ない)。ある日お会いしたら、何だかご機嫌が悪い様子。お話しを伺うと、施設の食事で「おでん」が切り刻まれていたとか。「刻まれた『おでん』は『おでん』じゃねぇ!」という憤懣(ふんまん)を発されて、その後、行きつけの居酒屋へ。好物の「アナゴの一本揚げ」をバリバリと召し上がっていたのが印象的だった。

そういえば、まだ結婚する前の妻と、お弁当にサンドイッチを作って「しののめ」(春兆さんが主宰していた文芸サークル)に参加していた時期もあった。春兆さんは、お昼には障害者福祉会館にお越しになっていて、ランチをご一緒しながらお話しを聞かせてくれた。それをまとめて博士論文(『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』現代書館)にしたのだから、本当に、何から何までお世話になった。

春兆さんの周りには、とにかく人が集まっていた。「春兆山脈」(夏目漱石の弟子「漱石山脈」にかけて)の中では、ぼくは新入りだと思う。寺田寅彦みたいな兄弟子の位置に坂部明浩さんがいて、ぼくは久米正雄あたりの末席にいて(芥川龍之介を自称するのは恥ずかしい)、先輩方にいろいろと教えてもらいながら、慶福苑の「秘密基地」を賑やかしていた。

春兆さんは、よく「火守り」の話をしていた。火種が貴重だった昔、囲炉裏(いろり)の火を絶やさぬようじっと見守るのは重要な仕事で、過酷な農作業には向かない年寄りや障害者がその役目を担うことが多かったというのだ。夜になれば、明かりと温もりを求めて人々は自然に囲炉裏辺に集まり、その日のことを口々に語る。だから囲炉裏の火守りは、座りながらにして多くの情報を得られた。

春兆さんは、まさに「火守り」のような人だった。むしろ、春兆さん自身が「囲炉裏の火」のような人だった。その明るさと温かさを求めて、いろんな人が「秘密基地」に出入りしていた。こちらが理不尽な出来事に遭って憤慨していると、批評精神たっぷりの皮肉で相手を斬ってくれたし、こちらが悲しい事態に直面して嘆いていると、あの吸い込み笑いで重たい空気を拭ってくれた。

そんな人が、いなくなってしまった。その心境は、どうにも言葉にならない。言葉にならないから、春兆さんのご盟友・横田弘さん(青い芝の会神奈川県連合会)の詩の一節を借りて、本稿を閉じたいと思う。

「地球は淋しくなりました」(横田弘「鴉」より)