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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年9月号

1000字提言

障害者と健常者の境は?

岡部宏生

1年間にわたって寄稿の機会をいただいたことに感謝を申し上げます。この1年は津久井やまゆり園の1年でもあり、私は自分を含め障害について深く考える機会になった。

日本には現在、790万人の障害者が存在していると言われている。知的・精神・身体のいずれか、または複合して障害をもっている人の合計である。人口の約6%のこの数字を知ったとき、私は大変多いと感じた。しかし、今は全く違う見方になっている。790万人というのは何らかの基準にあてはまる人であり、それにより社会制度の利用ができる。私もその1人である。

しかし、この社会には潜在的な障害者は一体どれくらいいるであろうか?というのが、今の私の想いである。そもそも障害の定義をどのようにするかによって、その人数は大きく異なるであろう。その定義は古今東西の研究者にお任せし、私なりに障害者について考えてみる。

私は週に5日程度外出するので、大変よく公共交通機関を利用する。その際、親切にされる機会が圧倒的に多いが、時にはエレベーターに並んでいて車椅子が並んでいることを分かっていて割り込む人もいる。また仲間の患者は、若者にすれ違いざまに頭を殴られたという経験などもしている。私はこういう人たちに出会うと心の中で、「人としての障害者」だなと呟(つぶや)く。認定されていないが障害をもった人は、実に多いのではなかろうか?やまゆり園の犯人も精神鑑定で障害があること(当事者能力はあり)が分かったが、こんなに極端な人でも「障害者」ではなかったのである。

先ほどの私たち障害者への対応例ではなく、皆さんの身近な人に目を向けてみてほしい。仕事を誠実に遂行しない人、嘘ばかりつく人、嫌なことは人に押しつけて自分はやらない人、責任を果たさずに言い訳ばかりしている人など、結構いるのではなかろうか?私はこういう人は「人としての障害者」だと思う。そもそも欠点のない人など存在しないが、その欠点または個性といえるものは、もしかすると障害とグラデーションのように繋(つな)がっていまいか。

障害者と健常者の境とはどこにあるのだろうか?最近、共生社会とよく耳にする。共生とは、そもそも異質なもの同士が一緒に生きられるということで、もちろん一人ひとり違うのであるから、そういう意味でなら共生は必然である。しかし、共生の中には優れた者、強い者が弱者を一緒に包含して暮らせることを指してはいないだろうか。確かにそういう面は私も否定しない。しかし、見方を大きく変えてみると誰もがほとんど障害者かもしれないのである。わざわざ共生社会と言うことによって差別や区別を生んではいまいか?隣人は皆、同胞であるかも。


【プロフィール】

おかべひろき。1958年東京都に生まれる。1980年中央大学を卒業。同年建設会社に就職。2001年建築不動産事業コンサルタント会社を設立。2006年ALSを発症。2007年在宅療養を開始。2009年日本ALS協会東京都支部運営委員。同年胃ろう造設、気管切開・人工呼吸器装着。2010年訪問介護事業所ALサポート生成設立。2011年日本ALS協会理事・副会長。2016年日本ALS協会会長に就任。