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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年9月号

列島縦断ネットワーキング【大阪】

誰とでも楽しめる「ふうせんバレー」で地域づくり
~「ぐるり」のオモシロ社会実験

今井雅子

ぐるりはおまじないです。「ぐるぐるぐるり~交ざっていけ~」その思いをたっぷり含んだおまじない。

代表であるわたし自身、SMA(脊髄性筋萎縮症)という不思議な四肢ハンディスーツを着て生まれてきました。立ったことも歩いたこともない自分の特性について、物心つくころの混乱「どうしてわたしだけ歩けないの?」と母に尋ねたことがあります。その答えが「大丈夫、大丈夫、そのうち飛べるから!」なんと罪作りな人でしょう。

けれども当時は「歩けないけど、飛べるんだ~」と思うことで、苦しみを少しだけ和らげていたところがありました。すぐさま飛べない現実を思い知らされましたが、飛べなくても魔法くらいは使えるかもしれない。そんなファンタジーな含みを持ちつつ、このシビアな現実社会を見ていかないと、障害者という役割を演じ切るのは難しいと思うのです。

わたしたち障害者といわれる人たちが生き延びるために、いま必要なおまじない『ぐるり』。それは本当は、どんな人にも大切なおまじないでもあります。

地元で一人暮らしを始めてから次第に膨れあがっていった疑問、それは「わたしの生活って本当に地域で生きていると言えるのかな」ということです。ふと気付けば、周りには福祉系(介助者・事業所・職場・友人)、医療系(訪問リハ、かかりつけ医、病院)の人たちばかりで、その領域から出ようともせず、理解のある人とだけ過ごす毎日。

地域の学校に通っていた期間は、当たり前のようにいろんな人たちが目の前にいて、豊かな思い出と偏見や排除など嫌な思いもたくさん経験しました。だからこそお互いのことを知り、友人ができ、学ぶことも山のようにありました。

けれど、大人になるにつれその生活範囲は限定され、特定の集団とだけ付き合うことを選べるようになると、人は守りに入ります。特にわたしの場合は、障害者という理由から差別的な扱いをされることがよくあり、その摩擦からとてもダメージを受けます。できるだけ理解のある人と過ごしていれば、傷は少なくてすみます。そうやって守られたフィールドの中で縮こまっていると、新しい出会いやサポーターは減る一方で、自分自身の生きるチカラが無くなっている感覚に襲われました。

この街には多様な人がいるのに関係性を築く力は弱り、少しの摩擦にも柔軟に対応できないことに違和感は増すばかりです。このままではダメだ、心の中に点(とも)った黄色のシグナルは、だんだん無視できないものになっていきました。

でも、ふと周りを見渡すと、フィールドの中に入り込んでいるのはわたしだけでは無かったのです。見えてきたことは、障害のある/ないに関係なく、同じカテゴリーの集団にばかりいて、自分とはちがう人は目にも入らなくなっているということでした。すぐそこで、無関心の渦が広がっているのです。

人が引き起こすいくつかの問題もそこに起因するのではないか、ヘイトクライムの風を身近に感じることも、障害のある人のサポーターが切迫するほど足りなくなっていることも、人の心の奥底でますます加速する無関心が影響しているのではと推量します。

知らないことは、無関心を加速させます。障害者のいる世界の扉は、思った以上に重く、待っていてもフィールドの中から声をかけてももう変わりません。であれば自ら動いて、この地域にいる多様な人たちをぐるぐるかき混ぜてみよう、交ざって出会えば自然に会話がうまれます。その仕かけづくりのため、2015年5月に一般社団法人ぐるりは誕生しました。

いろんな人を交ぜていく活動のなか「コミュニティ×コミュニケーション事業」の一つとして行なっているのがふうせんバレーです。知らない人と交ざると言われても、今までの道徳で強調されてきたような「助けてあげなければいけない」といった上からの“しなければならない”論では、お互いの理解の種は育ちません。何より交ざりたいとは思わないでしょう。

こどもたちは一緒に放っておけばすぐに仲良くなります。それぞれのちがいも喜びに変わります。気負って向かい合うのではなく、楽しいから、したいからしていたら周りに多様な人たちがいた、というのが自然で本質的な出会いだと思うのです。ちがいを楽しみ知りあうための社会実験にはこれしかない、と白刃の矢を立てたのがふうせんバレーです。

ふうせんバレーはそもそもコミュニケーションスポーツと言われています。その所以(ゆえん)は、この球技の特性にあります。まず、誰とでも一緒にプレイできるよう設計されており、どんなに機能的な制限があろうと参加できます。参加者は障害のある/ないという分け方ではなく、プレイに支障がある/ないで見ていくので、関西ルールでは、小学生やお年寄りなどもハンディプレイヤーになります。プレイに支障があるメンバーとないメンバーがごちゃ混ぜで一つのチームをつくり、6人対6人で対戦します。

次に、ルールとして、コート内の全員が触れてからでないと相手コートへは返せないというものがあります。ゲームに勝つためには、メンバー全員の特徴を把握しどういう順番で回すのか、誰がどうフォローするのか、どんなプレイが得意かなどを話し合って戦術を立てることが必要です。この対話で戦術を練っていく過程や、対戦中の声かけが大きく試合を左右するため、自然に言葉が生まれます。ここが大きなポイントです。

また、できないから迷惑をかけるという発想ではなく、どうしたらチームとして勝てるのか、良いプレイがつくれるのかといった思考の転換も起きます。障害=できないことがあることが、時に美技や爆笑プレイを生むこともしばしばで、ゲームを通してステレオタイプ的に思い込んでいた障害観も流れるように変容していきます。お互いの魅力を発見して馴染むまでの距離が短く、予想以上に素晴らしいツールかもしれないと実感しています。

わたしたちチーム『ぐるりずむ』の練習は、月に一度、福祉センターや市内の体育館をお借りしてバドミントンコートで行なっています。モットーは「楽しんでたら、そばにいた♪」新しい人をいつでも大歓迎して、多様な人と一緒に大いに楽しもうというスタンスです。もうすぐ2年、『多様』という思いが強いおかげか、毎月のようにゲストさんが来てくれます。アロマセラピスト、クラシックバレエの先生、作業療法の学生さん、目の見えない大学院生さん、地域の放課後児童デイのこどもさんたち、経営者さん、プロボノチームさん等と交流することができました。

『ぐるりずむ』のメンバーもこどもから年配層まで老若男女、見た目は異国の人なのに全く英語がしゃべれないメンズもいます。まだまだ小さなチームですが、どんな人とでも楽しむ力が備わり、一人ひとりのちがいを尊重して面白がる空気感も育ってきています。それぞれの持ち味を発揮して、提案があったり主体的に動いてくれる様(さま)はとても心強く、有機体として変化の途を辿(たど)っていることを実感しています。刺激しあいながら可能性を押し広げているこの場を、もっと多様でオープンなものにしていきたいと考えています。

組織運営や認知度、呼び込み力、やり繰り等課題は山積です。3年目を迎え、交ざりあえばすべてが解決するのかという自問もあります。もちろん交ざることは摩擦を生むことでもあり、いい結果ばかりではありません。けれど、知って交ざりあえる機会を障害者自身が主体となってプロデュースし、地域の土壌にしていく意義は大きく、無関心に向き合う有効な手段の一つと考えます。

わたしも含め関わってくださった方々の自身に起こるぐるり化学反応は、あらゆる人が心地よく生き延びるヒントにつながっていきます。一筋縄ではいかないテーマですが、おまじないを口ずさみながら焦らずあきらめず。

(いまいまさこ (一社)ぐるり代表)