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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年11月号

風力車と私
~私を失くす当事者の存在と療育・教育のつながり方~

須藤雫

工作の時間。こっそりと自分の作品を壊したのは小学校低学年の頃だった。「身近にあるもので車を作ろう」という課題で、私は牛乳パックを使った風力車を作っていた。しかし、クラス発表の当日に自分の作品を壊し、クラス一番人気の段ボールを使ったスポーツカーを作り直した。誰にも知られることはなく…発達障害の私はクラスメートとは興味関心のポイントが異なった。教科書の隅にある目立たない風力車が私にとっては魅力的だったのに、なぜ壊してしまったのか。

それは私なりの「空気の読み方」だった。私は「みんなと同じでなければおかしい」というクラスの空気をそのとき読み取ったのだ。発達障害といえば「空気が読めない」ことが一つの特性として挙げられることが多い。しかし、私は空気を読んでいた。作品を壊して作り直したことは、先生にもクラスメートにも未(いま)だに知られていない。

発達障害児支援を考えるとき、よくあるキーワードが「社会適応」だ。社会(みんな)に合わせようとすることは、学校教育にとって必要な側面がある一方で、個人(私)を失くす危険性を秘めている。大切にしていた風力車を壊すということは、私らしさを失くす選択でもあったと言い換えられる。では、「私らしさ」を大事にする選択をすべきだったとは思えない。社会で生きていくには「私らしさ」を失くさないと生きていけない場面もある。「私」ばかりを主張していては周囲(社会)とうまくいかなくなることもある。

もし、先生が大切に作った作品を壊したことを知っていたとしたら、どうしていただろう。叱るのか、元に戻すよう指導するのか、何がよかったかは答えはない。ただ、作品を壊したという事実を表面的に受け取るだけでなく、その背景に何があったのかを想像して、確かめてほしかったと思う。

療育と教育が同じ方向を向くならば、当事者の思いを知った上で、当事者と対話し、共に目標設定をする必要がある。社会に過剰適応する前に、「自分自身が大切に思えるようにすること」が重要だ。過剰適応した結果、重度のうつ病等の深刻な二次障害に陥り、大人になって「自分を取り戻せなくなっている当事者」は後を絶たないのだから。

(すどうしずく 熊本県発達障害当事者会Little bit共同代表理事、社会福祉士)


※プロフィール 発達障害当事者で、社会福祉士として自閉症支援施設や放課後等デイサービス等で指導員の経験がある。当事者会の運営の他に、教員向け研修活動も行なっている。