音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2018年1月号

時代を読む99

国立コロニーの開設(1971年)

国立コロニーの開設の経緯をたどると、施設体系の谷間に置かれ、さらに不治永患として医療の対象からも除外されていた重症心身障害児の父母たちが、日本赤十字社産院の小林提樹医師の下に結集し、昭和30年代から40年代にかけて、重症心身障害児(者)のための国立施設の整備を柱とした関係施策の確立を切実に、かつ、粘り強く訴え続ける運動を展開したという事実に突き当たる。

その運動が結実して、昭和41年度予算において、国立療養所の結核病床の転換による重症心身障害児の施設整備費(11か所・520床)が計上された。また、欧米の大規模障害者施設にヒントを得た国立コロニーの建設について、厚生大臣の私的諮問機関として設置された「心身障害者の村(コロニー)懇談会」の意見書が昭和40年12月にまとめられ、昭和41年度には、「国立心身障害者コロニー設置計画」が決定された。

設置計画では、国立コロニーの定員は、知的障害者700人、肢体不自由者700人、重症心身障害児者100人、合計1500人とされ、建設地については、「居住条件がよく、近くに群馬大医学部があり、その協力が得られる。群馬県は手工業が盛んで、入所者の社会復帰にも便利である」などを理由に、群馬県高崎市に決定された。

その後、昭和42年の児童福祉法の一部改正により「重症心身障害児施設」の法定化と国立療養所の委託病床の制度化が実現し、重症心身障害児を受け入れるための施設整備が順調に進んだこと、また、国の財政事情が思わしくなかったことなどを背景に、設置計画も数次にわたり見直され、入所対象者を「重度の知的障害の人」と「身体障害を併せ持つ知的障害の人」とし、定員規模は550人に縮小された。

重症心身障害のある人たちをめぐる深刻な問題への対応をきっかけとして構想された国立コロニーは、結果として重症心身障害のある人たちを対象としない施設として、ようやく昭和46年4月から入所者の受け入れを開始した。

あらかじめ都道府県・指定都市に対して人員を割り当てて入所の申し込みを募り、800人近い申し込みがあった中から優先度の高い人を順次受け入れ、昭和46年度末の在籍者は479人に達した。

入所者の障害の重さや問題行動の状況などを見ると、当時の地域社会の中では居場所を見出せなかった人たち、既存の施設では対応が困難とされた人たちが、やむを得ず避難して生活を始めた場所が国立コロニーであったということもできる。

開設後30年以上が経過し、障害者福祉政策が地域生活支援へと徐々に舵(かじ)がきられる中、平成15年10月、国立コロニーを運営していた特殊法人は解散され、入所者の地域移行に重点的に取り組むとともに、重い障害のある人たちの自立を総合的に支援するために多様な事業を展開する独立行政法人に生まれ変わったのである。

(遠藤浩(えんどうひろし) 独立行政法人国立重度知的障害者総合施設のぞみの園理事長)