職業検査

職業検査

-理論と形式-

Vocational Assessment-Theory and Models

Walter S. Neff

著者について……

 Dr.Neffはニューヨーク大学心理学教授であり、また地域社会心理学博士課程のコーディネーターをつとめている。1968年にAtherton Pressから“Work and Human Behavior”(仕事と人間行動)を出版した。この著書は、人間の仕事のプロセスを総合的に描き、人間はどのようにして労働者となるか、労働能力はどのようにして損なわれるか、作業不適応はどのように判定し、どのように矯正するか、などを扱っている。最近、彼がもっとも興味を持っている研究は、精神リハビリテーションにおける仕事の役割である。

心理学的測定の諸問題

 心理学の理論や実際において、測定という語は特殊な意味を持っている。測定されるものが存在することは明白であり、また測定のための数式はいくつかあるのではあるが、人間の行動の測定は物理的な物質やエネルギーの測定を行うほど単純なものではない。多くの行動の次元で0点を設定することはむずかしく、また、心理学的測定の単位が、あらゆる行動の次元と等しいと仮定するのは危険であるために、心理学では、真の比例尺度はまれである。たとえば、IQ80というのは、知的能力がIQ160の半分であるとは言えないし、高度の優越性は低度の優越性のX倍であると言うこともできないのである。

 心理学での測定は、自然科学における測定と類似していると言うより、むしろ<配列>の過程ordering processと理解したほうがよい。すなわち、個人Aは個人Zにくらべていくぶんかのものを余分に持っているというような言い方で、われわれは人間を1またはそれ以上の次元で配列する。分布の概念がこの場合の特色である。こういう意味で、加算的または乗法的な量よりも分散と関係が深い。このように、IQ160はIQ80よりも、確かに知能はあると言えるが、この二つの数値は、普通の算術的な手続きによって関係づけられるようなものではない。

 心理学的測定に重要なほかの特徴は、顕著な条件性、すなわち、「もし・・・ならば・・・・」ということである。もちろん、厳密な意味で言えば<すべての>測定が手続上の条件に依存している。しかし、物理的な量は、ゆるい条件性の下でもかなりの程度まで固定されるが、一方心理学的行動は大きな(そして、しばしば予測不可能な)変動性を持っている。人の身長とか指紋では、その人がどんな立場にあろうと、顕著な類似性を見い出しうるが、ある人の勇気とか仕事の能率とかは、場合によって、非常に変動が激しい。このような変動の原因は、その人個人の持つ特性というより、むしろ、その人がかかわっている特殊な状況によるのである。このように、測定には、一連の場面的特性が背後に隠されている。われわれはそれに気づこうと気づくまいと、人の行動を評価し、また<同一、または類似の条件下での>別の人との比較をしている。もっとも一般的な心理学の誤りの一つはこの基本的命題を忘れること、あるいは、研究中の行動を喚起している条件を無視して、自分の測定がまるで絶対的な値を生み出しうるかのようにふるまうことである。

 次に、心理学的測定の決定的な特徴として、高次の婉曲性がある。まず、心理学での測定は間接的であり、before-the-factでありがちである。

 われわれは、まず第一に予測に興味を持つ。しかし、よくあるように、社会的現実が、われわれにある条件下の行動を測定し、それによって、まったく異なった条件下の行動を予測するように迫っている。このことは、おそらく、知能検査における方法本来の姿に最も典型的に見られる。私が他の論文で述べたように(Neff,1966,1968)、職業検査は、コップを唇に持っていくまでに(注-古い格言)失敗してしまうという、本当に古典的な例をもたらす。測定者が予測したいことは、ある個人の能力が、ある種の作業に必要とされるものに適するかどうかということである。そうするために、測定者は、論理的な操作と思われる多くのことを行う。

 まず検査者は、ある職業において、その作業者に要求されることは何であるかについて、組織的・体系的な観察を行う。次に結果として生ずる現象的な複雑性を、予測の遂行には欠くべからざることと考えられる、少ないがよく規定された部分過程に分割する。そして、テスト法を簡潔にし、標準化するのに有効であると思われる価値を見い出す。3番目に、一連のテストを作成する。ここでは、被験者のサンプルが、工場等で典型的に見い出される作業者の範囲rangeを代表するものであることに注意する。4番目に、測定者は、テストの得点と作業遂行度の多少を示す基準との関係を研究したり、サンプルの人数やその作業遂行度を研究することによって、新しい方法を実際に試してみる。これらの手続きは理論上はたいへん論理的き思えるが、最もすぐれた産業テストでも、人間の作業遂行度の実際の変異の20~30パーセント以上を測定することはできないのに気づいてまごつくのである。

 これらの本質的な問題-測定単位固定の困難性、場における変動を伴った人間行動の変動性、測定法の婉曲性-の三つが、職業検査の分野の現在の地位と、歴史的発展との双方に大きな影響を与えてきた。このことは、これらの困難性についての意味が常に明確に理解されてきているとか、今日、その意味がじゅうぶん明確に理解されているということを言っているのではない。逆に現代のソシオメトリー家は、測定理論に関して、かなりのこじつけをしているようにみえる。つまり、非常に印象的な統計的技術は、われわれが第1のタイプの問題をうまく扱えるように発達してきた。すなわち、問題は測定単位決定のところにあったのである。しかしながら、われわれは今、ほとんどの検査手続きにおける場面による制約や、婉曲性という問題に含まれる固有の困難に直面しはじめている。この論文の後半で、この二つの問題について、2~3の観察をし、そのいくつかの解決を図ってみたり、これらの説明は、職業検査自体について、特に明らかにする一方、どんな種類の心理学的検査にも適切なものである。いずれにせよ、興味の分野は作業能力や学業成績や性格と関係していなくてはならない。

人と場面

 原則的にも実際的にも、心理学的測定は、第1に人の<内部で>進行していることや、その人の周囲で起こることに注目してきた。検査器具や技術は、能力、素質、態度、焦点、反応型等、比較的特徴が持続すると思われるようなものを測定するように意図される。基本的な仮定は、個人的特性に関する知識が、他の多くの異なった場面での行動を予測しうるであろうということである。私が<心理学者の誤り>と呼んだほうがよいと思われることに遭遇するのはここなのである。この誤りは、人間の行動はその人の特性の関数であるだけでなく、その人が置かれている場面の特性の関数でもあるという事実から生じてくる。<行動は、個人とその環境との間のかかわり合いの非常に複雑な組み合わせとして、最もよく理解しうる。>

 ところが、科学的に行動をとらえようとするときに、心理学者はこの等式の一方の項、すなわち個人の行動にのみ興味を向ける傾向があった。心理学者は、環境の考察を他の科学分野にまかせたままで満足してきた。しかしながら、そうしたことで、心理学者は一方に偏した重大な還元主義者reductionistの誤りを犯してきた。この誤りは心理学的検査に関連した多くの失敗の原因となっている。Egon BrunswickとRoger Barker(cf. Barkar, 1968)が再三指摘したように、行動は行動環境によって完全に決定されるという実例を見い出しうるし、その場面が個人に要求する特性が人間のするほとんどのことに関しての重要な条件であるというのは確かに真実である。

 作業場面の要求する特性は、当然、職業検査のどんなプログラムにおいても重要な役割を持つという事実を認めることは、そうすぐれた眼識を持たなくとも理解できる。不幸にも、われわれは、この重大な課題を今やっと取り上げはじめたばかりのところである。最近の論文(Neff,1966)で私は職業検査は、適性検査、職務分析、作業見本法、リハビリテーション・ワークショップでの行動評価の体系的使用の四つの主要な技術に依存してきたことを述べた。

 これらの方法は、それぞれ作業行動の異なる面に狙いを向けているもので、おのおのは幾分特殊化した問題を解決するために発展してきた。四つの方法のうち、職務分析は、私は発展させようと思っている場面測定situational assessmentの類に最も近い。しかし、この分析者は、体系的でテスト可能な厳密さをもつ手続きをわれわれに与えてくれない。作業見本法とリハビリテーション・ワークショップの評価尺度は、実際の現実的要素realistic componentsを含むという方向と幾分へだたりがある。これらは必要以上に、知能テストの抽象性と人工性とに近すぎる。

 ここでは、私は職業検査全体の問題に新たな目を向けるよう主張する。この新しい方法では、今までわれわれが作業者の特性に注意を向けていたように、すくなくとも、作業場面の緊迫した事態にも注意を向けなければならない。私は道具を与えるより作ることのほうがはるかに簡単であるというじゅうぶんな認識を持って、この提案をすすめる。これまでに、われわれはテスト構成にかなりの技術を発展させてきたし、また、この科学技術の多くをさらに状況に適応させた系にあてはめることができた。ソシオメトリーの分野は、信頼性、模範、人に関する測定の妥当性をかなりの厳密さをもって決定可能とする非常に有効な統計的技術を発達させてきた。しかしながら、われわれが問題を顧みなかったために、状況分析に関する技術はほとんど持っていない。

 作業場面に関してわれわれが知っている(あるいは知っていると思っている)ことのほとんどは質的な印象と常識的現象学に由来する。筆者はある種の作業のおもな要求特性の分析を試みた(cf.Neff,1968)。しかしそのときには、産業社会学者と応用人類学者の仕事に頼らざるをえなかった。

 60年以上前に先駆者Hawthoneが研究して以来、われわれは、作業への適応には認知能力と運動能力のある一定以上の能力を必要とするいうことに気づいていた。作業場面は、人々が演ずることのできる、あるいは、よろこんで演ずるにちがいないある役割を規定する。そして、それは結局人々が受け入れざるを得ない広い意味での地位となる。作業者は、ある要求された仕事を遂行しなけらばならないだけでなく、多くの非常に複雑な方法で他の人々と関係を保つように強いられる。作業能力は、認知能力や運動能力と同じように社会過程でもあるということは言いすぎではない。ここで、認知や運動の技術を測定するわれわれの力量が少なくともそれと同じくらい重要な、微妙でとらえにくい社会的適応を測定する能力をはるかに越えて発達しているところに問題がある。

 私が提案していることは、work settingの要求特性に関係する検査法を発達させるために、協力して懸命な努力をしようということである。リハビリテーション・ワークショップ運動から作られた2~3の弱い検査は、考え方としては有益であった。しかし、それらは、それ以上のものではなかった。私が提案している場面検査は、最も基本的種類の作業のみを行っているワークショップにのみ適すると考えることは誤りであろう。実際に、教師や科学者や技術者や熟練工の作業も比較的未熟な労働者と同じように、競争的な作業場面によって影響されるのである。われわれは、単純な労働を要求する場面や、巧みで複雑な操作を含んでいる場面のような、いろいろな作業場面の全範囲における重要な違いの測定を可能とする技術を緊急に必要としている。

婉曲性の問題

 われわれは、職業検査や心理学的測定のすべてが、間接的で婉曲的な傾向があることを述べた。人の行動は一場面(たとえば知能テスト場面とかwork-sample settingとかシェルタード・ワークショップとか)で測定され、次いで、実際の職業についた際のその人の行動が予測される。ここでの著しい困難性は、われわれが、保護のない、競争の激しい現実の雇用場面において作業に影響を与える非常に多くの厳しい変数を考えに入れないでいることである。

 検査場面は職業場面(雇用場面)と多くの非常に重要な点で異なっている。まず前者では要する時間はふつう非常に短い。2番目に、検査の際にはその人の持つすべての能力が働くよう激励されるが、雇用場面では自分自身でうまくやらなければならない。3番目に、検査場面で関係を持つ権威者は非常に親切で支持的であるが、雇用場面ではせいぜい中立で無関心である(悪くすると制約的で懲罰的ですらある)。4番目に、彼が職業で要求されていること(失敗に対する制裁や罰)は確かにリアルであるが、検査の際には、場面がfor realではない。5番目に、最もうまく現実的に構成された検査場面ですら、仕事で遭遇する多様な作業や技能、ハプニング等のすべてを再現するのは不可能である。

 これらのほかに、労働市場のすべての変動、雇用主の偏見、ひいき、仲間や労働組合からの強制や社会的圧力等-ふつうの賃金雇用の非常に複雑な社会の姿-があるので、われわれの妥当性の相関ががっかりするほど低い傾向にあるということも驚くべきことではない。そうであってもわれわれの測定技術のいくつかの予測効果が0より意味があるということは、われわれの研究に幾分かの価値を与えてくれる。

 しかしながら、一般にやっかいな0点からの大きなブレを減少させるために、われわれはいったい何をすることができるのか。われわれはできるだけ多くの真の雇用の実際の姿を検査場面に作り上げる必要があるという認識から出発した。リハビリテーション・ワークショップが知能テストよりも職業検査に実際の土俵を与えているというのはこういう意味においてである。しかし、最もうまく工夫された授産所でさえその限界を持っている。たいていのリハビリテーション・ワークショップで行われている作業が非常に限られたものであるばかりでなく、実際の雇用条件に似せようと努力をしているようなところでさえも、基本的には保護された状態なのである。概して、これらの施設の在園者の大部分は、自分たちが手助けされ、訓練されていること、ワークショップは真の雇用に似てはいても<ほんもの>ではないこと、またワークショップの長が、生産高にまったく興味がないことに気づいている。

 私は測定過程の拡大という意味で現実の工場場面を代用しえないのではないかと恐れている。このような提案の実行に対しては、非常に多くの社会的な障害があるが、私は、それにうち勝つべくやってみるべきだと思っている。結局、雇用のほとんどの形態で、新しい被雇用者に生産の標準にまで追いつけるよう力をつけるために時間を与えるという試験期間を認めている。しかし、ここでの問題は、個人は自分で責任をとるということにある。彼は与えられた時間内で標準に達するかどうか。もし達しないときには、彼は簡単に解雇されてしまい、だれも、彼の失敗の理由はわからない。

 なんらかの社会変革を生ぜしめる必要があるのかもしれない。職業評価者の位置は作業場そのものの中にあるべきである。そうすれば、能力のある被雇用者は、うまく計画されたリハビリテーション施設で今受けているような、強い、個人的な援助と注意を受けることができる。事実上、試験期間は真の<試験作業>に変えるべきである。そして、そこでは、測定者は、職業検査や作業標本法、行動評価等の今ある技術にじゅうぶん腕をふるうことができる。

 もし、これが千年もかかるように思えるなら、われわれは賢明なスタートをきることができると思う。われわれが今リハビリテーション施設で評価している多くの被検者は、現実の工場で注意深く監督された<試験作業>抜きに、簡単に職業紹介をされるべきではない。試験作業は検査過程の本質的な部分とみなされるべきである。すなわちそれは、訓練された専門家が、実際の雇用の初めの間、被検者を観察助力できるような位置にいなければならないということを意味する。明らかにこれには、雇用主とリハビリテーション機関との間にかなりの程度の協力が必要とされる。しかし私は、このような協力態勢が問題外であるとは思わない。確かに、最初は限られた計画であるにしろ、努力はなされるべきである。現在用いうるものよりははるかに現実的な妥当性の基準を発展させるために、われわれは、この測定の拡大の持つ小さな効果を確信している。

展望

 これらの多くの制約はあるが、職業検査は有力なものである。あまりにも(人種的に異なる者に対して)それらは選択の方法としてより、除外の方法として用いられるという、テスト本来の役割が変えられて用いられた場合があったことは確かであるが、適性検査は大ざっぱなスクリーニングの方法としては有効である。よく作られた作業見本体系work sample systemやリハビリテーション・ワークショップの評定尺度は、知能測定に特有な抽象性や間接性のレベルを、より具体的なレベルにしていくには有効なものである。しかしわれわれはまだ、実際の労働市場では明らかである作業行動の複雑性をじゅうぶんには解明していない。

 われわれは、より正しく、より適切な想定法を作成するという新たな段階にとりかかりつつあると信じられる。

 この新たな段階では、実際の工場内での作業の測定をも行えるのものでなければならない。一度それを行うことができれば、作業行動は、作業する人を特徴づけるものと、作業場面を特徴づけるものとの2組の変数の複雑な産物であることが明白になるであろう。

 職業検査の将来の方向は、少なくとも、われわれが人間の固有な特性を求めるために従来努力してきた以上に、状況分析を重視しなければならないのである。

(星野 公夫訳)

参考文献 略


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1971年4月(第2号)30頁~34頁

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