障害児の教育的措置の実際

障害児の教育的措置の実際

―視覚障害児と肢体不自由児の場合における比較―

Educational Placement Practices with Visually

Disabled and Orthopedically Disabled Children―A Comparison

Mel W.Weishahn, Ed. D., and Richard Mitchell

新井由紀

著者について

 ノーザン・コロラド大学特殊教育助教授である。Mr.Weishahn は本年、オレゴン大学より教育学博士号を授与された。
 Mr.Mitchell はカリフォルニア州San MateoのU.R.S.Research の教育専門官である。

 最近行なわれた中度精神遅滞児と情緒障害児の入級措置の効果に関する研究の結果、子どもたちのもつ教育的ニードに見合うためには、何か新しいアプローチがとられなければならないことが明らかにされた。この新しいアプローチの研究が必要であることは、精神遅滞児や情緒障害児についてばかりとは限らない。特殊教育の全般にわたり、現行措置のしかたの再評価および再検討、そして従来のものにとって代わる障害児の真の教育を行なうための教育的措置の開発が必要である。

 視覚障害と肢体不自由の共通性について議論する根拠はないが、それぞれの障害をもつ子どもたちの教育的措置の傾向を比較するうえで、ひとつ共通の土台となることがある。障害児の教育的措置の発展は、子どもたちを家庭や社会の一部として育てたいという願いに沿ってすすめられてきているということである。変化、変革の激しい今日、教育者たちは自分の専門の範囲にのみとらわれず、広い視野に立って考えなければならない。教育的措置の問題の再評価をとおして、障害児の教育指導の直面している問題そのものを、じっくりと認識すべき時にきているのだ。視覚障害児と肢体不自由児の教育的措置の実際を比較してみることより、適応性のある教育指導の方向が見い出せるのではないかと思う。

 寄宿舎制指導

 視覚障害児や肢体不自由児のかつての指導方法は、ヨーロッパの伝統に習い、普通とは異なった人々を差別し、隔離するというものだった。障害の性格に従って差別し、それぞれの必要に応じた指導をすることが最善の教育方法であると考えられていた。肢体不自由児の場合の寄宿舎制指導は盲児、聾児、精神薄弱児の場合ほど進まなかった。肢体不自由児の教育指導は、医学的治療をそのおもな役割とする総合病院、メディカル・センター、療養所における付随的なものとする傾向があったからだ。教育、医療に関連したサービスに対する関心が高まるにつれて、肢体不自由児のための病院、自宅、特別学校を通じての種々の指導が講じられるようになった。

 今日、寄宿舎のある特殊学校の果たす役割と責任はかなり変わってきており、多くの学校は障害児たちが地域の公立の学校へ参加できる機会を設けている。

 特殊学校、特殊学級

 寄宿舎制指導による隔離の弊害、家庭生活の重要性についての専門家や父兄の高まる関心は、公立の学校組織の中に、障害児のための特殊学級や特殊学校を設立するに至った。この訴えは、視覚障害児たちが将来一般社会に出て生活し、一般の人々とともに働いていくことを目的とするならば、たいせつな学齢期に普通の子どもたちといっしょに教育を受けることにより、彼らと交わり、ともに活動に参加する機会を与えてやるべきであるという個人個人の気持から生まれたものであった。これとは対照的に、肢体不自由児の社会復帰の概念は、身体的能力の回復と経済的自立をする準備を目的として、自分の家に帰るということを必然的なこととした。

 このようにして行なわれた視覚障害児の指導は、特殊学級、通学制の特殊学校、点字教室のようなものである。これらの学級は中心的な位置に設けられていて、周囲の地域から、子どもたちが毎日通えるようになっていた。これは指導の方法としては新しい試みではあったが、間もなく専門家たちはこの方法も単に以前の寄宿舎制から一歩外に出たにすぎないものであることを認めた。つまり、子どもたちは一日じゅう、一つの教室の中にいて、特殊教育の資格をもつ教師が、教科の免許にかかわらず教えているのである。一般の子どもたちや普通の学級の教師との接触はほとんど見られない。この特殊学級は、正に昔の教室が一つしかなかったころの学校に似ていた。

 肢体不自由児の特殊学校が発達し、建築的にも便利な建物が設けられて、その中で子どもたちの特殊な問題をとり扱うリハビリテーション・サービスが行なわれるようになったことにより、子どもたちはさらに一歩、家庭、社会へと近づいた形になった。このように、各地域につくられた特殊学校は関連した分野の専門家が、チーム形式で肢体不自由児の問題に取り組むことを可能にしたが、やはりまだ寄宿舎制指導に見られた欠点が残っていた。つまりこの形では、子どもたちはまだ隔離された状態にあり、一般の同年代の子どもたちと交わる機会はまれにしかなかったのである。

 合同授業

 特殊学校の成功のお陰で、また視覚障害児が真に必要としているものは何かということがわかり、よりよい教育を行なうためには、同じ学校内の特殊学級と普通教育の教師の間の強力な協力をはかることが、たいせつであることが明らかになった。特殊教育教師、普通教育教師、管理者の間での、この“合同”に関する合意の結果、“合同授業”というものが作られた。この計画によると、視覚障害児はなお特殊学級で大部分の時間を過ごすが、毎日数時間はほかの教室へ行って、目の見える子どもたちに接し、普通教室での経験を味わう。

 視覚障害児のこの合同授業に匹敵して見られるのは、肢体不自由児のための特殊学級の誕生である。特殊学級は多くの場合、普通の学校の建物に隣接して建てられ、距離的に普通の学校に近接していることが、特殊教育と一般教育の協力指導を可能にした。特殊学級では、PT、OT、言語治療、そのほか基本的に必要なサービスを総合的に行なう。この指導方法をとおして、肢体不自由児たちは普通の学校に出席し、同時に特殊教育の教師のサービスをも受けることができる。Dunn はこのような指導方法が、肢体不自由児や慢性疾患をもつ子どものいる学校で、ますます人気を得ていることを指摘している。

 相談形式の指導法

 障害児を普通の教室へ戻そうという動きの中で合同授業に続いて生まれたのが、相談形式の指導法である。これは視覚障害児が一般の子どもたちと交わり、ともに活動に参加すべきであるとするならば、視覚障害児たちも一般の子どもたちと同じ教室で、同じ教科書を読み、普通教育の豊かな恩恵に浴せられるべきであるという信念のもとにすすめられた。実務上、子どもたちは普通の学級の正式なメンバーとして教えられた。普通学級にはいった障害児とその学級の教師は、特殊教育の訓練を受け、相談役をしている教師から補助的、補佐的な援助を受ける。この相談役の教師の直接的なサービスに加えて、子どもたちは必要なときに、また学校での指導内容を強化する必要が認められるときなどに、この相談役の教師のいる特別教室へ行き、専門の資料を使っての特別の指導が受けられるようになっている。

 この相談形式の指導法は、つい最近まで肢体不自由児のために限られた形で行なわれていた。肢体不自由児は普通の学級に配属され、学科のほとんどをほかの子どもたちといっしょに勉強する。そして相談役の教師は、肢体不自由児たちが普通の教室で勉強するのに必要な特別の教材教具を準備し、与えるのである。この指導法は、肢体不自由児たちを一般の同年代の子どもたちの中でいっしょに教育するきわめて効果的な方法であり、伝統的な隔離された特別教室の教育から、普通の教室で一般の子どもたちとともに受ける教育への重要な過渡的役割をもつものである。

 巡回訪問教育

 相談員または巡回訪問教育の形式は、視覚障害児に近隣の学校の一般の子どもたちの中で教育を授ける機会をもつものとして人気を集めている。この指導方法では、子どもたちは一日じゅう普通のクラスに出席しながら、巡回指導の教師から補佐を受ける。

 この巡回指導教師は、教材の獲得、準備、配布に気を配り、点字読書やタイプのような技術の個人指導にあたる。このように視覚障害児たちに直接の指導を施すほか、この巡回指導教師は、子どもたちの出席している普通学級の教師の相談相手ともなる。

 肢体不自由児のための巡回訪問教育についてはまだじゅうぶんに研究しつくされていないが、肢体不自由教育の第一の目標を、近所の学校にもどれるようにすることとするならば、この相談役の教師を伴った巡回方式はそのためのよい手段と見られるべきである。この相談役となる人は、子どもたちが病院、自宅、特殊学級での学習から近所の普通の学校へ帰るまでの過渡期の橋渡しの役割をする。Cruickshank は、病院や自宅学習の指導をする先生が教材を応用したり、個々の子どもに合わせた授業をすることにより、ある程度この巡回教師の役目を果たすこともできるが、総合的な巡回指導の相談役の面などに欠けることを指摘している。

 討論

 指導の形は地域によっていろいろと異なる一方、すべての子どもたちの必要性に見合う形というのはひとつとしてない。理想的には、種々の指導法を組み合わせ、子どもたちの措置を決定する際には、年齢、実力、そして自立の程度などが考慮に入れられるとよい。

 障害児の教育指導の方法が、年を追って普通教育との融合の方向に向かっていることは、疑問をはさむ余地のないことである。この一般教育と合致した指導方法の利点については、数多くの研究、専門の著作の対象となってきた。しかしながら、肢体不自由児のための教育指導を視覚障害児のためのそれと比較してみると、その発達に全体的な遅れが見られる。この遅れは一部には医療面をより強調することに原因すると思われる。障害児にとって医療が欠かすことのできないものであることは、すでにじゅうぶんに認めらていることであるからには、教育指導計画の上まで必ずしも第一次的なものとして考えられる必要はない。

 医療面を基準として考えられた教育指導法が発達した初期のころは、教育的に妥当であるかどうかということよりも、医療的要素に従って子どもたちをクラス分けしていた。この医療と教育が結びついた指導法は、わずかな工夫がなされれば普通の学校へ通えるような、軽い障害をもつ子どもたちに誤った措置をすることになった。

 障害の種類に従って学級が編制されると、反対の性格の障害をもつ子どもたちが好ましくないグループをつくりあげることがある。McCormickは初期の研究で、肢体不自由児の特殊学級は普通の学級に比べて、生徒のもつ能力に見合うという点で落ちることを発見した。極端に幅広い年齢、学年、実力を混ぜた子どもの組み合わせ方は、カリキュラムを形骸化し、学習の内容よりもカリキュラムそのものを強調する傾向になることを忠告している。

 普通の学校に付属して特殊学級が作られたことにより、重度の複合障害児から限られた治療のみを必要とする軽い障害をもつ子どもたちと、広い範囲を対象として順応性のある教育的措置が可能になった。重複障害児は、限られた中で、可能なかぎり一般の子どもたちとともに参加し、一方軽度の障害児たちは、必要な治療の時間以外いつも普通の教室に出席していられる。普通の学校に距離的に近いということは、必ずしも、「合同授業」が保証されていることにはならない。肢体不自由児が一般の子どもたちといっしょに勉強できるようになるには、断固とした努力がなされなければならない。相談役の教師の補佐的な指導は、子どもたちにとっても教室の教師にとっても欠くことのできないものである。

 しばしば子どもが身体的に自力でやっていける程度に回復し、普通の学校に戻るようになると、この補佐的指導もなしに全くひとりでやっていかなければならないような場合がある。このように、急にそれまでの指導をやめてしまうと、自立を目標として続けられてきた過渡期における努力を、全くむだにしてしまうことにもなる。このようなとき、巡回指導の教師などが過渡期にひき続いて、子どもの自立を完全なものにするためにもっともよい効果を発揮するのである。

 肢体不自由児の教育指導に関して、もう一つ考えなければならない点は、子どもたちの行動の支障となる建築上の障害物である。初期においては、特殊学級だけがこの点で子どもたちに合ったものであったが、今日では、1階建ての校舎、そして進歩した学校計画のお陰で、肢体不自由児たちの一般の学校への通学が可能になった。

 National Society for Crippled Children and Adults などの団体の強い関心と努力の結果、学校を建てるには建築的にも妥当な企画でなければならないという規定が、法律的にも実際的にも作られた。現在、肢体不自由児たちが使用できないような建物の学校は改善されて、だれもが通学できるようになるだろう。

 結論

 視覚障害児と肢体不自由児の教育指導法を比較してみると、障害児を普通の教室へ参加させる方向に向かって平行線を描いて発達してきているが、肢体不自由児の場合には、その実施にかなりの時間的遅れが見られる。この子どもたちのための指導法を再評価してみる必要がある。この明らかな時間的差異の原因を解明するために、専門家たちは次のような質問を自らに問うてみるべきである。

 1.各種分類されているものを見わたして、例外となっている分野の指導の実際を推しはかることができるか?

 2.指導法を作成するうえで教育的基準となっているものは何か? 医学的条件が指導法を形成、方向づけるものとなってはいないか?

 3.カリキュラムか授業改善により、個人個人に合った指導計画を企てる機会はふやされたか?

 4.最近、学校建築物の計画を検討する際に、障害児にとって支障となるようなものについては考慮されたか?

 5.障害児の特殊学育の一般教育への融合は、障害児の教育をより実際的なものとしたか?

 6.子どもの発達に新しい方向が見られたときに、肢体不自由児の指導法の再評価、または変化に応じた措置をすることができるかどうか?

 7.子どもが、すでにある指導法に合わせていくようにするのか、それとも子どもの教育的必要性に応じて指導法が企てられるのか?

 今日の急速に変わりつつある教育界では、新しい教育の方法、建築の進歩、現実中心の特殊教育への移行がすすみ、現行の障害児の教育的措置の方法を再評価を迫られてきている。われわれは、果たして今まですべての子どもたちがそれぞれの必要にかなった教育を受けてきている、と自信をもっていえるだろうか?

(Rehabilitation Literature,September 1971 より)

参考文献 略

日本障害者リハビリテーション協会嘱託


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1971年10月(第4号)13頁~17頁

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