障害者にも生きる喜びを!

障害者にも生きる喜びを!

The Quality of Life

Dorothy G. Jackson*

George A. Engstrom**

新井由紀***

 ベートーベンは聾、ロートレックは小人、ミルトンは盲目―彼ら自身のもつ不幸にもかかわらず、実に多くの障害者がこの世の中に永遠の美なるものをもたらしてくれた。それほど創作的でないまでも、ほかにもいろいろな形で芸術を楽しみ、味わってきた人々も多いことだろう。しかしながら大部分の障害者、特に盲人、耳の聞こえない人、そして貧しい人々はいまだその恩恵に浴したことはないのである。社会では障害者にとっても、障害をもたない普通の人々と同様、美しいものを経験するということが、調和のとれた生活と健全な成長のために欠くことのできないものであることを今まで見落していた。

 その結果、多くの障害者たちは芸術の心をよみがえらせ、精神を高める力を知らないままに過ごしてきた。

 社会・リハビリテーション庁(SRS)はこの現状を是正し、多くのアメリカ市民の真の生活を向上させるために、障害者の生活にもっと美しいものを紹介する企画をいくつかとりあげて後援した。SRSの関係者は芸術に親しむことは障害者が職業、社会、そして家庭に適応していくうえで、非常に重要な要素であると考えている。障害のいかんにかかわらず、彼らが参加し、楽しみ、さらには貢献することのできる芸術があるはずである。私たちの実際の経験は「その答えはすぐそこに、ただ機会の訪れるのを待っている」ということを語っている。

目の見える人と見えない人

 SRSの後援したいくつかの企画の第一番目のものとして、著者でもあり、芸術を通じてのリハビリテーションの主導者である故Dr. Allen H. Eatonは目の見える人々と盲目の人々が、美しいものの楽しみを分かち合うことにより、交流を図ることを勧めた。Dr. EatonはThe American Foundation for the Blindで働いているときに、彼の示唆的な著者“Beauty for the Sighted and the Blind”(St. Martin's Press, New York, 1959)の中にも書いている芸術品の移動式収集をした。この収集にはおもに手工芸品、中でも盲目の人々とともに目の見える人々の生活をも豊かにするものであるよう、目で見、かつ触れてみることの両方に美しい作品を選んだ。41そろった作品は変化に富み、フランスからの先史時代の石器、黒たんのきりんの彫刻、バビロニアの楔形文字の刻んである土製の銘板、直径2.5インチのクリスタルの球、水晶の結晶、トスカニーニの愛好した指揮棒、コルクの柄と苔色とさんご色のプラスチックのはめ輪のついたかばの木製の細い鞭などが見られる。これらの作品には全部で19の異なる材料が代表されているが、このことは必ずといっていいほど「これはなんでできているのですか」と聞く盲人にとっては、非常にたいせつなことである。盲人の人は使われている材料のひとつを知ることにも、純粋な喜びを感じるのである。

 Dr. Eatonは、盲目の人々がこのような作品に触れる経験を通して、彼らの世界を広げることを願い、また目の見える人々には盲人の発達した触覚のもつ大きな力についての理解を深めるばかりでなく、自分たちもこの感覚を訓練したなら、さらにどれほど深く美しいものを楽しむことができるかを認識してもらうことを目的とした。そしてこの収集を国じゅうの盲人と目の見える人々のグループに紹介してみて、これらの希望が正当なものであることを知った。どこへ行っても人々は熱意をもってこれを歓迎し、再び見たいとの手紙もたくさん書かれた。

 The Kansas Rehabilitation Centerにいる最近盲目になったある患者は、きわめて典型的な次のような反応を示した。「全くの盲人になり切ろうと努めていますが、なかなか容易なことではありません。けれども、ひとつ私にとっての救いは視力を失ったときに、同時にすっかりなくしてしまったと思っていたものをここに見つけたことです。私は二度と再び美しいものを観賞することはできないものと思っていました。…しかしそれは間違いでした。触れることができるかぎり、美しいものを楽しむ喜びに終りはないのだということを知りました」

 そしてこの企画に初めから関係しているある婦人は次のように語った。「盲目の友人たちは私に、新しいとは言わないまでも確かに高められた知覚の力を与えてくれました。このごろは目にはいる美しいもの、興味あるものは、できればすべて手にとって見なくては気が済まないようになりました。以前には全く気がつかなかったことなのですが、『感じることは信じることなり』ということのためです。そして、往々にして触れて感じてみることが、物を見る最良の方法であるということがわかってきました。盲目の友人がときどき家に遊びに来るときには、私の大好きな感触をもつものでいっしょに楽しめるような物を回りに置くようにしています」

 数年後、North Carolina美術館ではこのDr. Eatonの考えを一歩進めて、永久的な展示の企画を実行した。理事会が盲人のためのThe Mary Duke Biddle Galleryの設立を決定したのだ。これは特に盲人と目の見える人々の両方のために創作芸術品を展示するギャラリーとしては最初のものである。Charles Stanfordがその創設者であり、館長となった。

 Mr. Stanfordは次のように説明している。「1966年にこのギャラリーが正式に開かれて以来、国じゅうの心あるかたがたから278点に及ぶ作品を寄贈していただきました。作品の年代は先史時代から現在にまでわたっています。私どもの目ざす最終の目的は目の見える人々と見えない人々がともにすべての時代の、そしてあらゆる文化の芸術品を吟味し、感じとり、楽しむことのできる収集をすることです」

 目の見える人々も、このギャラリーを毎日一定の時間利用できるようになっているが、実際は特に盲目の人々の必要にこたえるように設計されている。第一番目の部屋にはオリエンテーションを聞くための受話器が備えられている。作品はコルクでカバーされたカウンターの上に並べられ、さらにカウンターの縁には2インチの高さのレールがとりつけられている。このレールが参観者を次の部屋に誘導するようになっており、内側にはそれぞれの作品の点字のラベルがつけられている。芸術作品に関連したレコードやテープが聞ける聴覚装置もある。作品について論議をしたり、情報、印象を交換したいと思う人のためには、訓練された職員が手近に控えている。

試験的調査

 このギャラリーの設立に際し、美術館は初め盲人が美というものについて必要としているもの、および美について彼らのもっている実際の能力を正確に知るために試験的調査を行った。そしてその調査から次のような要項がまとめられた。

 ―盲人のための芸術関係の企画を始めるうえで最もたいせつな第一歩は、この事業を普通の目の見える人々のためのものほど広範にわたるものでないまでも、その重要さにおいてはまさるとも劣らないものであるとの決意のうえで行うこと。

 ―盲人の美術後援者らは、常に人々の興味をひきつけておくよう展示物を替えていくと同時に、すでになじみ深い作品を永久的に陳列しておくこと。常時飾られている作品はその美術館の特色を形成し、借りてきてある他の作品の価値をより有意義に、また美学的にもおもしろいものにする。

 ―作品の収集にあたっては、作品についての知識を得るというよりはむしろ美しいもの、審美的経験への道としての感触に専念すること。

 ―作品はあまり大きすぎても小さすぎてもいけない。手のひらと指先で軽く包める程度のものがよい。

 ―作品の手ざわりと形に加えて、温度も作品を研究、鑑賞するうえでたいせつな要素である。例、木のもつ比較的あたたかい感じに対する大理石の冷たさ。

 ―復製のものでなく創作品に触れる心理的効果は、盲人にとっては根本的な問題である。

 ―危険を恐れる疑い深い人たちを説得しなくてはならないときには、子供に恐竜や化石にさわらせてみること。自分も蝶にさわっても安全だということがわかるだろう。

 Mr. Stanfordによると、このギャラリーが盲人からも目の見える人々からも、開場とともに大歓迎を受けたことから、HartfordのWadworth AtheneumやBrooklyn Museumなど、他のいくつかの美術館も似たような事業を企画したということである。

 The California State Commissionも、これと同じ意図をやや異なる方法で実行した。ギャラリーの移動的要素を検討し、これが実行可能であることを確かめたうえで、移動式展示とギャラリーの両方を設立したのである。この移動式展示は目下州の美術館を次々と巡回しており、さらにはイスラエルのテルアビブ、南アフリカのケープタウンまで旅をした。

耳の聞こえない人々の劇場

 1967年、ニューヨークに地方公演をしてめぐる劇団The National Theatre of the Deaf(NTD)が誕生した。この同じものを長く続演せずに、幾種類も替わりの劇を出す劇団グループは、女優のAnn Bancroftと彼女のディレクターのArthur Pennにより、彼らがワシントンにあるGallaudet Collegeで耳の聞こえない学生たちが「オセロ」を公演したのを観たときに考案されたものである。学生たちが指話で劇を演じているのを見て、二重の目的をもつ新しい劇団の可能性を思いついた。その構想は耳の聞こえない俳優たちに手の動き、マイム、音楽、ダンスの組み合わせを生かした演技を、もっと多くの観客の前で演じる機会を与えるばかりでなく、耳の聞こえない人々に興味のある新鮮な職業の可能性を開く新しい職場を提供するものであった。

 当時のVocational Rehabilitation Administrationの委員であったMary Switzerの支持と後援を得て、この案はゆっくりではあるが実現の方向へ向かっていった。今日、この耳の聞こえない人々の劇団は、正規の演劇の形として認められているものである。

 劇団のディレクターDavid Haysは、このような実験的劇団の概念は、耳の聞こえない人々は生まれながらの演技者であるという事実にのっとったものであると語っている。「耳の聞こえない人々にとって、生まれたときから生活の大半は他人との意思の疎通のための戦いである。しかし、このことは逆に彼らの高度の集中力と、言葉を想像の中でふくらませて身体全体に表現するすばらしい感覚を育てることとなっている」

 普段でも観衆の約3分の2を占めているのだが、正常な聴力をもった人々はこの俳優たちの優雅な動き、明快な表現により深い感動をおぼえるのである。ニューヨークでの公演の後、ある批評家は次のように評していた。「このブロードウェイ上演は…この劇団に彼らのやっていることは障害者の救済ではなく、真の芸術であることを証明するたいせつな見せ場となった」

 1968年、NTDのニューイングランド地方の巡行のとき、一行はマサチューセッツ州のニューベッドフォードにあるRodman Job Corps Centerに立ち寄り、そこで公演をし、また少年たちを訪れた。

 その二日の間に、二つの少年たちの小グループが劇団の人々とくつろいだふんい気の中で話し合った。少年たちはこの新しい演劇についての感想を述べたり、職を得るための自分たち自身の経験を話したり、耳の聞こえない人々がどのように意見の交換をするのか観察したり、またいくつかの指話を習ったりした。その後、少年たちのひとりは次のように語っていた。「ここのJob Corpsにいる僕たちと耳の聞こえない人たちとは比較にならないと思う。僕たちにはチャンスがあり、また彼のほしいと思っているものがある」

 一方、NTDの団員は少年たちとの談話の後、次のように結んでいた。「社会的に恵まれない人々も、身体障害者と同じようにいろいろな問題に悩んでいるし、その傷も同様に深い。けれども、いろいろな意味で彼らのほうがより大きな障害を負っていると思う」

 1960年の終りに、シカゴにあるDePaul UniversityのThe Institute for the Study of Exceptional Children and Adults(ISECA)で、耳の聞こえない人々と社会的に恵まれない人々に関係したもうひとつの企画が実施された。NTDに勢づけられて、The Chicago Silent Dramatic Clubを復活させ、またChicago Experimental Theatre for the Deafを設立したのである。これにはHull House, YMCA, Barnard Horwich Jewish Community Centerなど、地域の社会事業団が協力している。

 社会的に恵まれない地域に住む耳の聞こえない子供、成人のためにダンス、絵画、ドラマのクラスが開かれた。

社会的に恵まれない人々のためのガラス器製造コース

 恵まれない環境で育った若い人たちを援助するために特別に企画されたプロジェクトがロスアンゼルスのWattsの近くにあるPepperdine Collegeで行われている。ここで学生たちはガラス吹きの技術の訓練を受けている。この訓練は、若い技工らがわずかの道具と材料の経費でガラスの容器や彫刻を作ることができるという点で、特異であり、画期的なものといえる。大理石と管と棒を使い、パイレックスガラスを吹きあげる過程でいろいろな工夫をしながら、昔のものの色や形を作り出す技術を学ぶのである。

 このコースは恵まれない学生たちの創造力のはけ口となり、また将来、生活をささえるための技術を身につける機会にもなっている。ここで作られた製品の市場もすでにいくつか準備されている。

 このガラス器製造を学生たちの将来の専門の職業とすることを奨励して、大学の経営管理学部では、技術訓練と関連して商業訓練も行っており、さらに実際に社会に出てからも事業として成り立っていくよう引き続き指導もしている。

 ここに述べたSRSの企画は、この10年の間に、障害者の生活を豊かなものにするために行われてきた種々の活動のほんの一部にすぎない。ほかにも数多く同じ性質をもつ貴重な努力が払われ、あるものは連邦政府、あるいは州政府、あるいは私設の慈善事業団体の支持、支援の下に行われてきた。そしてこれらの企画を受け入れる側の熱意と声援は、多くの障害者がその感知する手段のいかんにかかわらず、美しいものを真に理解することができるのだということを実証した。

 直接的にせよ、間接的にせよ、芸術に参加するということはすばらしい経験である。想像の世界を明るく照らし、仲間意識を高めるものである。そしてさらに、才能と技術をもつ人々には新しい職業への道ともなるのである。

(Journal of Rehabilitation, Jan.-Feb., 1971より)

参考文献 略

*Mrs. Jacksonは社会・リハビリテーション庁のReserch Utilization Branch,Office of Research and Rehabilitations,に勤務する社会科学評論家で、Research and Demonstrations Briefのシリーズの著者であり、毎年1度発刊されるResearch and Demonstrations補助金の注釈付目録Researchの編集者。
**Mr.Engstromは児童局企画課のアシスタント・チーフを経て、現在Research Utilization Bureauのチーフ。ニュー・メキシコ州ラスベガスにあるHighland UniversityおよびUniversity of Denverで教鞭をとった。学士課程(B.A.)をUniversity of Montanaで、修士課程(M. S. W.)をUniversity of Denverで修めた。
***日本障害者リハビリテーション協会嘱託


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年1月(第5号)17頁~21頁

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