特集/第12回世界リハビリテーション会議 第12回世界会議の概要

特集/第12回世界リハビリテーション会議

第12回世界会議の概要

小池文英

◇はじめに

 世界リハビリテーション会議が、さる8月27日から9月1日に至る期間、オーストラリアのシドニー市において開催された。

 この会議に日本から42名が参加したが、そのうち約30名は日本障害者リハビリテーション協会の協賛による団体としての参加であって、会議終了後、ニュージーランド、メルボルン市(オーストラリア)、クアラルンプール、タイ、香港等、各地の関係施設を訪問・視察した。

 なお、リハビリテーション会議の開催に先だって、シドニー市および近傍の各都市において四つのセミナーがそれぞれ数日間にわたって催された。すなわち、(1)医学(リハビリテーション)セミナー、(2)教育セミナー、(3)社会セミナーおよび(4)職業セミナーである。

 このうち日本から(1)に2名、(2)に1名、(4)に2名のかたがたが参加された。これらのセミナーは、いずれも比較的少人数のグループによって構成され、実りの多い討議がなされたと聞いている(注―筆者は国際協会の理事会に出席のためにセミナーには参加できなかった)。

◇背景

 この世界会議は、従来3年に1回(今後は4年に1回)、国際障害者リハビリテーション協会とその加盟団体のうち一つ(今回はオーストラリア障害者リハビリテーション協議会)との共催で開催されてきている。

 国際障害者リハビリテーション協会(International Society for Rehabilitation of the Disabled,略称ISRD,通称 Rehabilitation International)は本部がニューヨークにあり、世界60数か国が加盟しており(注―日本における加盟団体は財団法人日本障害者リハビリテーション協会)、これらの加盟団体との密接な連絡・協調を通じて国際的な規模における障害児・者のリハビリテーションの事業推進に寄与しているのである。

 この国際協会(以下ISRDと略称する)の重要な活動の一つが、前記のように世界会議であって、今回で第12回を迎えたのであるが(注―なお、日本周辺の地域におけるISRDの国際会議としては汎太平洋リハビリテーション会議があり、従来は世界会議の間を縫って3年に一度の割合で開催されていた)、ところでISRDは歴史的にみると、本年で50周年を迎えたのであった。そのため、開催国オーストラリアの会長ブロイノフスキー氏は開会式におけるあいさつの中で、ISRDの「黄金の記念周年」と称して、同協会の長年にわたる業績をたたえるとともに、将来の事業の発展を祈念したのであった。

 ここで、歴史を足早にふりかえってみると、ISRDは1922年に米国のシカゴにおいて、国際肢体不自由児協会(International Society for Crippled Children)なる名称のもとに発足したのであった。(注―初代会長は国際ロータリー・クラブのメンバーのEdgar F.Allenで、彼の息子が1907年に鉄道事故で肢体不自由児となったことから一念発起し、上記の協会が結成されるに至った)。

 その後、1939年に国際肢体不自由者福祉協会(International Society for the Welfare of Cripples)と改名され、それによって児童のみならず成人の肢体不自由者も対象の中に包含されることとなった(注―それとともに米国肢体不自由児協会―National Society for Crippled Children―が分離・独立することとなった)。しかしながら、対象は依然として「肢体不自由」が中心となっていたのであるが、1960年に至って―第8回世界会議がニューヨークで開催された―「国際障害者リハビリテーション協会」と改名され、現在に至っている。

 このように改名された理由は、一つにはCrippleという言葉がそもそも語源的には「這う」という語から由来しており、あたかもわが国における「不具」とか、「片輪」のような侮蔑的ニュアンスを伴っているので、これを避けたいということと、もう一つには、リハビリテーションの対象としてあえて肢体不自由のみにとどまらず、もっと広く各種の障害を取り上げていこうとする意向が大きく働いていたのであった。

◇参加者

 今回の世界会議の参加者は総計1,293名であった。従来の参加者はおよそ3,000名であったから、それと比べると約半数ということになるが、これは開催地がオーストラリアという地理的にかたよった場所であったことが、少なからず影響していたものと思われる。

 したがって、汎太平洋ならびにアジア諸国からの参加者が比較的多かったこともけだし当然であろう。地元のオーストラリアや隣国のニュージーランドからの出席者が多かったことは異とするに当たらないが、香港からの参加者数が今回は特にぬきんでていたことが注目される。

 西独と日本も目だっていた。米国は主催国のオーストラリアに次いで多数の参加者を送っていた。これは毎回のことであるが、今回は特にきわだっていたように思われる。念のために国別の参加者人数を示すと、次のとおりである。(カッコ内は参加人員)。

 オーストラリア(621)、米国(196)、ニュージーランド(84)、香港(63)、西独(44)、日本(42)、英国(30)、カナダ(26)、台湾(16)、インドネシア(11)、タイ(8)、インド(8)、オランダ(7)、ノルウェー(6)、フィリピン(5)、デンマーク(5)、フランス(4)、オーストリア(4)、イタリー(3)、南ベトナム(3)、東独(2)、(以下省略)。

 次に参加者の職種についてであるが、これは毎回のことながら、リハビリテーションのあらゆる領域にわたっていた。すなわち、医学面……医師(各種専門家)、看護婦、理学療法士、作業療法士、言語療法士、等。教育面……特殊教育関係の教師等。社会面……ソーシャルワーカー、心理学者等。職業面……職能評価、職業指導、就職あっせん等の専門家、等。

 このように多数の職種の専門家を包含しているだけに、一見雑然とした学会である感を免れない(注―リハビリテーションの医師だけを対象とした国際学会としては国際物療学会がある。)しかしながら、反面において、リハビリテーションは各種専門家のチームワークによってはじめて成立する、という鉄則にたち戻って考えてみると、このような学会こそ理想的な姿である、ともいいうるであろう。

 要するに、この学会は長所とともに運営上の難問題を宿命的にかかえているのであるが、このたびの世界会議に関するかぎりチームワーク的な長所の面がクローズアップされ、運営面の困難性が比較的よく克服されていたように感じられた。これは事務局長ジーン・ガーサイド女史、会長ブロイノフスキー氏等の手腕に負うところも大であったが、同時に、前記のように、参加者が地理的条件から従来と比べて相当少なかった事実にも関係があったように思われる。

 つまり、参加者が比較的少なかっただけに、バランスのとれた落ち着いた内容豊富な学会となり得たように感じられたのであった。

◇理事会および評議員会

 この世界会議に先だって理事会が開催され、私は理事のひとりとして出席した。また、それにひき続いての評議員会には太宰博邦評議員とともに代理評議員として参加したのであるが、この両会議を通じての最大の課題は財政問題であった。

 すなわち、ISRDは1973年以降重大な財政的危機に当面しており、これをいかにして克服すべきか、が当面の焦盾の課題であった。これは、もとをただせば、ISRDに対して米国政府保健福祉教育省が従来多額の補助金を支給していたのであるが、1973年度以降は打ち切りとなったことが直接の原因となったのであった(注―ベトナム戦争の影響と推察される)。この深刻な財政問題に関して長時間が論議に費されたのであったが、結局は建設的、効果的な具体案は出ずじまいで、今後の執行理事会において引き続き検討されることとなった。

 次に世界会議の開催の時期であるが、従来は3年に1回の割合であったが、今後は4年に1回ということに決定した。このおもな理由は、3年ごとの開催ではISRD本部は常時その準備に追いかけられて、平常業務がおろそかになりかねない、ということであった。

 これに関連して、今後は毎回オリンピック(したがってパラリンピックも)と開催の年次が一致することになるので、そうすると関係者のうちの相当数(とくに脊損関係の人たち)が参加について、二者択一的選択を迫られることともなるのではないか、という趣旨の反論もあったが、開催の日時を慎重に選べば(つまりパラリンピックと近接した時期を選べば)両方に出席することも可能となり、かえって好都合である、という意見が多数を占めて上記のように決まったのであった。

 なお、次期の開催地はイスラエル(1976年)と決定した。また、次期会長には西独のヨッホハイム博士が選任された。

 ちなみに、汎太平洋リハビリテーション会議を今後どのようにすべきかに関して、関係国の事務局長(National Secretary)が集まって検討したが、なにぶん時間が短くじゅうぶんの論議を尽すことができなかったので、来年インドネシアかまたは台湾において再度会合して、ゆっくり時間をかけて会則、次期開催地等について話し合うこととなった。

◇会議の進行と内容

 会議の進行は、第一日がシドニー市公会堂で開会式が行なわれ、レニエ会長、アクトン事務総長、ブロイノフスキー氏(オーストラリアの会長)等のあいさつがあった。

 次いで、ラスカー賞の贈呈式がとり行なわれた。この賞はリハビリテーションに関して国際的に大きな貢献をした人に対して贈られるもので、今回の受賞者は米国のガレット博士(心理・職能の領域における貢献)、ニムカー女史(インドにおけるPT、OPの養成等)およびベルギーのレニエ氏(国際協会長としての活動)の3氏であった。

 第二日からの会議はシェブロン・ホテル(総会場・分科会室)および近接した六つのホテルに分散して行なわれた。

 そして最終日には、医療委員会、社会委員会、教育委員会、職業委員会(注―ISRD内に常設された委員会。従来はこのほかに脳性マヒ委員会1)、義肢装具委員会2)、脊損委員会等をあわせて十数の専門委員会が常設されていたのであるが、前回のダブリンの世界会議の際に上記四つの委員会に統合された。ちなみに、1)と2)はそれぞれ独立した国際協会を結成し、ISRDとは準加盟団体としての関係になった)の各委員長から、それぞれ要約的な報告があり、最後にレニエ会長の閉会の辞、次いで新会長ヨッホハイム博士のあいさつがあって会議の幕が閉じられた。

 新会長は就任の抱負を語るとともに、リハビリテーションの世界的発展と国際協会の財政的再建について、参加者の特別の協力を求めたのが注目をひいた。

 なお、会議と並行して、映画(16ミリ)の映写会が行なわれた。これは、世界各国からリハビリテーションに関するフィルムを応募し、提示したものであって、(1)専門的または科学的性格のフィルムと、(2)非専門的で、一般大衆を対象としたもの、との2種類が対象とされ、合計56のフィルムが提出されたが、最終審査において(1)、(2)両部門において最優秀と認められたフィルムにつき、それぞれ250ドル(オーストラリア・ドル)が贈呈された。

 また、器具・器械・義肢・装具類の展示がシーベル・タウンハウス(主会場のシェブロンホテルから徒歩数分)において行なわれた。各国からの展示物が公開されたのであったが、地理的関係もあって従来より比較的出品数が少なく、小規模であり、また内容的にもとりわけ目新しいものはなかったと思われる。

 会期中施設訪問見学のコース(13コース)が組まれていたが、私は時間的余裕がなく、残念ながらこのうちの1コースにのみしか参加できなかった―Center Industries。これは世界的に有名な脳性マヒ者の授産施設であり、参加者の人気を呼んでいたように感ぜられた(注―この施設については別稿の記事を参照されたい)。

 さて、会議の内容であるが、これを要約すると、すでに述べたように、医療、教育、社会、職業の各部門にわたり、かつ会場に関しては総計8室に分散して実施されたのであって、私はそのうちのごく一部分に参加したに過ぎないので、全貌を逐一報告する資格を持たない。また紙面の関係からもこれを省略させていただく。しかし幸い、それぞれの部門に集中的に参加したかたがたの報告が別稿に収録されるので、それを参照されれば会議の内容がほぼ把握できるものと考える。

 会議のテーマとして採り上げられたものは、既述のことからも推察されるように、肢体不自由に相当のウェイトが置かれながらも、これのみに拘泥することなく、たとえば、呼吸器疾患、アルコール中毒、薬物中毒、精神病、精神薄弱、ハンセン氏病、てんかん、心臓病、がん、盲人、等の問題もプログラムに織り込まれていたことは注目すべきところであろう。

 そして、これらの諸問題が、リハビリテーションの基本的な四つの側面である医療面、教育面、社会面、職業面にほどよい調和を保って論議されたのは成功といってよいであろう。

 今回の会議の主題は「リハビリテーションの計画―環境、刺激、自助」であって、全般を通じて、プログラムもこの主題にふさわしい内容に重点が置かれているように感ぜられた。

 日本からの演者とテーマは白木博次氏(障害の予防―環境の立場から)、小島蓉子氏(社会福祉―障害者に対する法制)、大塚達雄、野田武男両氏共演(居宅障害者)、小池文英(全国的リハビリテーション事業―計画、財政および地域社会への理解の推進)であった。

 なお、この会議の特色の一つは障害者自身の参加が考慮されていた、という点であろう。

 たとえば、総会第一日冒頭における「増大しつつある問題」という課題のシンポジウムにおいて、ウィルキ氏(先天的両上腕切断者)が「障害者の立場から」という課題のもとに、身体障害者の直面する諸問題とその解決等について客観的な論説を行なったこと、また閉会式においてポリオの車イス障害者ロナルド氏(在台北)の演壇からあいさつを行なう、などである。

 注―なお、今回の世界会議における各演者の講演内容がすべて事前に議事録―Ⅰ、Ⅱ巻、計850ページ、A4版―として出版されているので、会議の内容と詳細を知りたいかたがたには参考となるであろう。申込先―Australian Council for Rehabilitation of the Disabled,Corner Bedford and Buckingham Streets,Surry Hills,N.S.W.2010,Australia。価格―5.00ドル(オーストラリア・ドル)。

日本障害者リハビリテーション協会事務局長


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年10月(第8号)2頁~5頁

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