施設見学を概観する

施設見学を概観する

小池文英

はじめに

 第12回世界リハビリテーション会議の開催中、主催地シドニー市において施設見学が行なわれたが、さらに会議終了後、日本からの参加者42名のうち約30名が、財団法人日本障害者リハビリテーション協会の協賛による団体ツアーとして、ニュージーランド、メルボルン市(オーストラリア)、クアラルンプール、タイ、香港を訪れ、これら各地における施設を見学・視察した。

 シドニー市における施設の訪問記事はほかのかたがたに譲り、会議終了後の訪問先の各施設の状況を報告するのが私に与えられた課題である。

●Wilson Home for Crippled Children

 住所:St.Leonard Road,Takapuna,Aukland,New Zealand

 院長:R.F.Moody 博士、婦長:E.M.Dow

 この施設は故W.R.Wilson夫妻が1935年に1万200ポンドを寄贈したのに端を発する。土地は13エーカーで、海に面し環境良好の場所。建物周辺の庭が実に美しく整備されているのが印象的。

 病床は60~65ベッドで、年齢的には0才から14才までの肢体不自由児を収容する。平均収容期間は、2、3か月~2年(あるいはさらに数か月延長)。

 親の経済的負担はゼロ。

 収容対象は現在:脳性マヒ20名、二分脊椎18名、そのほか、ペルテス病、内反足、先天性股関節税臼、進行性筋ジストロフィー、等で、これらの患児は肢体不自由児協会、専門医、病院等を通じて紹介されてくる。地域的にはオークランドの周辺の児童が多数を占めるが、ニュージーランドのその他の各地からのケース、さらにはまた太平洋諸島からの患児も少数ながら入院している。

 職員は前記のほかに、看護婦(5)、看護助手(28)、PT(4または5)、OT(2)、ST(1)、小児科医(週1回訪問診察)、整形外科医(月1回訪問診察)、教師(4)、校長(1)等である。

 教室は4クラスと言語教室1クラス、それに幼稚園が1クラスである。なお、病室の面積は5ベッドにつき約30㎡の割合とのことであった。

 この施設は要するに肢体不自由児のホームであって、手術が必要な場合には他の病院でなされ、術後の後療法からリハビリテーションがこの施設の本命とするところである。

 ニュージーランドという静かで平和な国における、まことに落ち着いた美しい施設という印象を受けた。それと同時に、入院している患児がどちらかといえばいずれも軽症であると感じられた。

 重度の脳性マヒ児または重症心身障害児は、どこでどのようなケアを受けているのかと質問したのであるが、明確な答えは得られなかった。養護学校が別にあって、重度の脳性マヒ児はそこに在校している、ともいっていたが、しかしそれとても、さほど重度のケースが受け入れられているようには受けとれなかった。さらに立ち入って質問を試みたのであるが、相手(副婦長)がやや困惑の表情を示したので、中途で引っ込めざるを得なかった。

 私の受けた感触としては、ニュージーランドにおいては、重度・重症の脳性マヒのケースは現在のところ家庭に埋もれているように思われた。

●The Disabled Re-establishment League(lnc.)

 住所:21 Lloyd Street,P.O.Box 6296,Wellington,New Zealand

 このリーグはニュージーランドにおける障害者のための職能評価と職業訓練および就職あっせん―つまり職業的リハビリテーション―の業務を遂行している団体であって、政府の強力な補助を受けて運営している。民間団体ではあるが政府のやるべき業務を肩代りして遂行しているわけである。

 われわれが訪問したのはこの団体の運営する施設の中の代表的なものであるウェリントン支部であった。所長はF.H.McCluskey氏で、おもな職員は職業指導員(9)、OT(1)である。

 この施設で実施している職業訓練の職種は、製本、印刷、木工、装身具類(ブローチ、ネクタイピン、等)、パッキング、料理(レストラン)である。

 この施設の対象としているおもな疾患別内訳は、精神神経症(30.8%)、精神薄弱(26.3%)、てんかん(7.6%)、心臓疾患(6.5%)、切断肢(0.8%)等である。

 ながめたところいずれも軽症で、重度の者が見当たらなかった点が不満であったが、この施設の特色は、施設だけを中心として、地域社会から孤立、隣絶した形で業務を遂行するのでなく、地域社会の一環として、それに融けこんで機能を営んでいるところにあると考えられる。

 具体的にいうと、この施設内において職能評価、職業指導のサービスを受けている者は約20名であるが、この施設の機能はこの20名だけで終わるのではない。つまり、これとともに、常時約20~40名の障害者が外部の一般工場等に配置され、そこで実地の仕事の経験を積むのであって、施設の内と外との作業をあわせて評価、指導が完成する方針、しくみとなっているのである(注―1人のクライエントが外部の作業場を平均2~3か所回る結果となっているとのことである)。

 このような経緯をへて実社会にフル・タイムの就職をするのは46パーセントとのことである。残りは庇護雇用、その他ということになるであろうか、前述のように比較的軽症障害者が対象となっている割合にしては、完全雇用の率がいささか低すぎるのではないか、という感じがしないでもない。ちなみに、ニュージーランドの失業率は1.4パーセントと聞いている。なお、この施設に入所してから就職するまでの平均期間は148日である。

 この施設ではクライエントの作った製品を施設内の売店で販売しており、それを運営資金の補助にしている。

 なお、この施設における評価(職能評価)は次のようなしくみをとっている。

 ①医学的評価(medical assessment)

 ②心理的評価(psychological assessment)

 ③職業相談(vocational counselling)

  就職に関して最も適した職業を選び、その訓練を受けるのを助ける

 ④社会福祉(social welfare)

  クテイエントの環境と個人的問題を評価し、それを本人がいかに克服すべきかを援助する

 ⑤作業評価(work assessment)

  仕事に対するクライエントのポテンシャルと能力を評価する

●Yooralla Hospital School for Crippled Children

 住所:P.O.Box 53,Balwyn,3103,Melbourne,Australia

 常務理事:Mr.Geoffrey V.Say

 会長:Mrs.A.E.Roberts

 校長:Miss E.Baglin

 これはオーストラリアのメルボルン市郊外にある代表的な肢体不自由児施設の一つである。

 ただし、わが国の肢体不自由児施設と異なる点は、この施設においては手術は行なわれないことであって、手術を必要とするケースはメルボルン市の王立小児病院(Royal Children´s Hospital)において実施され、術後若干日をへてこの施設にまわされてくるのである(注―王立小児病院とこの施設との間に緊密な連携が結ばれており、この病院の各種専門医が定期的にこの施設を訪れて診断、指導を行なっている。)

 Yoorallaという言葉は土語で「愛の場所」を意味するのであって、1917年に市内の地域に重度障害児のための幼稚園として発足したのであったが、その後2か所に移って現在のような形態をとるに至った。

 すなわち、その一つがBalwynのこの施設であり、もう一つはCarltonの施設である。

 われわれの訪れたのは①であって、代表的なものであるが、(②は設備その他がいまだ劣っているとのことである)、対象児の病類別内訳は、①と②をあわせると、脳性マヒ(94)、二分脊椎(51)、筋ジストロフィー(32)、外傷後遺症(13)、心臓疾患(10)、先天性奇形(9)、神経筋疾患(6)、ポリオ(6)、てんかん(5)、多発性関節拘縮症(4)、以下省略(ちなみに、Carltonへの通学児は121名。いずれも5~19才の児童を対象としている)。

 さて、われわれの訪れたBalwynの施設においては、145人の不自由児が就学しており、そのうちの64人は施設内の寄宿舎(hostel)に入所していた(残りの81人は家族からスクールバスで通学)。

 つまり、この施設は学校部門と寄宿部門(病院)の二つの部門で構成されているわけである。そして、前者は文部省関係の直営、後者はYooralla財団によって経営されており、両者のチーム・ワークによって一貫した事業が成立しているのである。

 その施設に患児が紹介されてくる経路は、地域の医師が発見して、王立小児病院の専門医にまわし、そこから教育庁をへてここに来る、というのが一般的である。

 IQは70以上を対象としている(注―ただしこれはSay常務理事の説明であって、同席したBaglin校長は、もう少し弾力的で、60以上のこともある、といっていた。ちなみに、IQが70以下だと精神薄弱児養護学校の対象となるのが原則である―ただし、身体障害の程度のいかんによってそこで受けいれられるならば、という前提条件においてである。さらにいうならば、重度の脳性マヒ児や重症心身障害者に対する施設は、オーストラリアにはあまり発達していないのではないか、という印象を受けた)。

 さて、寄宿(病院)部門(64床)は16床ごとの4棟から成っており、居住的な立場からも、また医学的管理の立場からも細かい配慮がゆき届いているように感ぜられた。また、この部門にはPT、OT、ST等のサービスが付設されており、職員は、PT5名(1)、OT3名(1)、ST2名(1)(注―カッコは補助者)であり、かつ、看護婦8名、看護助手27名である。

 次に学校部門についてみると、教師は24名、ほかにパート・タイムの教師4名で、教育を行なっている。そして年間に平均7~9パーセントの児童が普通学校へ移行している。

 授業は朝9時に始まり、午後3時30分に終わる。ひとりの教師の受け持つ人数は8人の生徒とされている。特殊教育の教師の資格を得るには、一般の教師の資格に加うるに、12か月のコース(精神薄弱および身体障害を含む)を取ることが要請されている。ちなみに、特殊教育の教師の給与は年俸にして平均6,000~10,000ドル(オーストラリア・ドル)とのことである(注―1オーストラリア・ドルは約360円)。

 この施設でとくに感服したのは、諸設備がはなはだ快適に設けられているということのほかに、病院(寄宿)部門と教育部門とのチーム・ワークがきわめて円滑にいっているように感ぜられたことであった。

 さらにいうなれば、病院部門の執行部の努力と理解に負うところが大きいように思われた。

 教育部門は文部省関係によって建築物、職員等すべてまかなわれるようになってきているのであるが、病院部門に関しては100パーセントの補助は望みの得ないので、執行部(主として婦人団体)の募金活動に依存するところ大なるものがある。この婦人グループの熱意と幅の広い協力、理解がこの施設の大きな支柱となっているように感じられた。

 ちなみに、その病院部門における年間の経常費は5億4,000万ドル(オーストラリア・ドル)で、そのうち州政府の補助は1億ドルである。また、最近、建築物に対しては連邦政府が65パーセントの補助金を支出するようになった。

●Rehabilitation Center for Physically Handicapped Persons

 住所:Cheras,Selangor,Kuara Lumpur

 これはクアラルンプールの代表的なリハビリテーション・センターといってよいであろう。国立で、1965年に開所したものである。

 場所は市の中心地から車で40~50分行った、やや辺ぴな田園地区に位置している。

 クライエント:113名

 職員:48名、うち、医師1名(一般医)、OT2名、PT(0、定員は2名)、ST(0、定員は1名)、看護婦(定員1名だが、現在欠員)、ボランティアのPTが週1回

 入所者はポリオ後遺症が80パーセントを占めており、そのほかは先天性奇形、外傷等であって、脳性マヒはほとんど零であることは注目される(注―脳性マヒは脳性マヒ協会にまかせるとのこと)。

 年齢的には8~24才を対象とし、すべて宿舎に収容することとなっている(24才以上の障害者は外来にて訓練を受ける機会が与えられている)。

 職業指導の職種としては、ラジオ、機会器具類、熔接、洋服、木工、自動車修理、である(注―国連UNICEFから機械器具の寄贈を受けている)。

 ここへの入所の手続きは各地域の社会福祉主事(social welfare officer of district)を通じて行なわれる。

 この施設はリハビリテーション・センターとはいうものの、職業的更生に重点を置いた施設であるといってよいであろう。わが国の施設に当てはめれば、肢体不自由者更生施設と身体障害者職業訓練校とを抱き合わせたようなものであるが、私の率直な感想を述べさせていただくと、わが国の代表的な施設と比べて、さして遜色があるようには見受けられなかった。

 もちろん、これは当該施設に関するかぎりの印象に過ぎないのであって、国全般としての職業的リハビリテーションの事業に関する発言ではないことをお断りしておかなければならないが、それにしても、マレーシアという国において、建物、設備において相当よくととのった職業更生センターが現に実在するということは少なからず考えさせられるところであった(注―しいていうなれば、この施設の弱点は医学面における診断、指導の後進性にあるといってよいであろう)。

 なお、この施設の所長は、最近まではAppu Raman氏であったが、マレーシア政府のリハビリテーション次長に昇進し、現在はHo It Chong氏が所長となっている。ちなみに、この施設の年間予算は180万ドル(マレーシア・ドル)で、各クライエントに対するそれは6.3ドル(毎日)となっている(注―1マレーシア・ドルは約110円)。

●Spastic Center(脳性マヒセンター)

 住所:14 Loring Utara A Petaling Jaya,P.O.Box 48 Selangor,Malaysia

 このセンターは脳性マヒ児のための通園センターであって、Spatic Children´s Association(脳性マヒ児協会)of Selangor,Kuala Lumpurが経営している。前記の施設とちがって、比較的市の中心地に近い場所に位置している。

 歴史をたどると。このセンターは1960年に上記協会が7名の脳性マヒ児のために、赤十字の敷地内のガレージを借りて、これを使用したのが発端となっている(その際ロータリークラブが1年半の間借用料を負担した)。

 その後居を移し、5年後には50名(少年25名、少女25名)を受け入れられるようになったが、さらに80名が待機患児として受け入れを待っている状況となった。

 そこで、1966年にマレーシア政府(Ministry of National and Rural Development)が23ドル(マレーシア・ドル)を建築費として支出し、また州政府が土地を寄贈して、現在のセンターができ上がったのであった。

 このセンターには現在140名の脳性マヒ児が通園しており、年齢は0才~19、20才にわたっている。重症度はかならずしも問わない。

 サービスの内容としては、PT、OT、STレクリエーション、ならびに学校教育である。

 学校教育に関していうと、教室が四つに分れており、6名の教師が配属されている。教師の俸給はほとんどすべて文部省関係から支出されているのであるが、その他の職員は協会が募金活動によって寄付金を集め、それからまかなわれている。

 このセンターで注目されたのはボランティア活動がはなはだ活発であるという事実である。上記教師と、若干名の助手を除いては、すべてボランティアによって業務が運営されているかの観があった。

 そのことがらの善悪については批評の余地があるかもしれないが、いずれにもせよ、この背後に地域住民(といっても多分やや上層階級の婦人たちではあるが)の積極的な善意、熱意が反映していることは疑う余地のないように思われた。

 われわれがこのセンターをおとずれた当時は所長は留守で、所長代理のR.Gill夫人が代わって応接してくれたのであったが、彼女自身もボランティアであった(注―彼女の夫は医師とのこと)。しかし、ボランティアとはいえ、仕事に対する責任感と情熱にはなみなみならぬものがあり、このことは、対話の過程において自ずからこちらの胸襟に響いてくるのであった。

 PT、OT、ST等のサービスについても専門家が払底しており、専門技術的な角度からみると、あまり高い評価は与えられないかと思うが、ただ、その底流にあるそぼくな熱意、献身といった点については頭の下がる思いがした(注―ちなみに、わが国の通園センターに関しても、PT、OT、ST等の専門技術的内容が、一般的にいって、決して高いとはいえない現状にある)。

 GNP世界第2位を誇るわが国において、障害児の施設に対して地域住民がはたしてどの程度の理解と関心を寄せているであろうか?―マレーシアと日本の現状を比較して感概なきあたわざるものがある。

 なお、このセンターから出て、実社会に就職した脳性マヒ者はこれまでに何名いるか?との問いに対して、Gill夫人は2~5名と答えた。マレーシアの失業率は35パーセントという一般の現状と照合してみると、この数字ははたして悲観的な結末とみるべきであろうか?

●Center for Crippled Children(肢体不自由児センター)

 施設の実情にはいる前に、まずタイ国の社会福祉の機構について少しく触れておくことが必要と思われる。

 タイ国の社会福祉施設は、主として民間団体によって運営されているようである。そして、これらを統合、連絡する機関が、Council on Social Welfare of Thailand(タイ国社会福祉協議会)である。この協議会の会長は筆者の友人であり、国際障害者リハビリテーション協会の理事のひとりであるSampatisiri女史であるが、203の加盟団体から成り、48名の職員を擁している。事務局の住所:Mahidol Building,Rajavithi Road,Bangkok,4。

 そして、この協議会は次の六つの部局から成立している。すなわち、

 ①児童福祉

 ②リハビリテーション

 ③家族福祉

 ④青少年活動

 ⑤ボランティア活動

 ⑥地域社会サービス

である。

 ところで、われわれが訪れた標題の施設と、ならびに次に紹介する盲人職業訓練センターは、このうちの②リハビリテーション部門に属するのであって、協議会としての直接の上司はMiss Chalermsee Chantara Timである。

 当日彼女がホテルまで迎えに来てくれ、バスにて約50分、バンコク郊外の辺ぴな場所にと案内してくれたのであった。

 さて、この肢体不自由児センターは辺ぴな場所に設けられているにもかかわらず、建物、設備はモダンで、かなりよくととのっていることが注目をひいたのであった。建物、設備に関するかぎりにおいては、わが国の肢体不自由児施設の全国平均をむしろ上回っているとさえ思われた。

 このセンターはFoundation for the Crippled(肢体不自由者財団)によって運営されており、学校部門における人件費(教師の給与)は文部省から支給されているのであるが、病院部門の職員に対しては財団が支払わなければならない。したがって、ここでも募金活動がゆるがせにできないのである。

 入所児はポリオが大多数を占めている―97名。これは、バンコク市内では、過去4年以来ワクチンが普及しているが、タイの国全体(バンコク市の外)としては、いまだほとんど野ばなしとなっており、そのためポリオの新規罹患児がはなはだ多いことを反映しているものである。なお、このほかに、phocomeliaが1名いた。

 この施設では手術は行なわないのであって、もし必要な場合は外部の病院(主としてSiriraj Hospital。当日この病院の整形外科医長であり、筆者の友人のDr.Damrong Kikusolが同席していた)に依託することとなる。

 このセンターのPTは1名(ただし、オーストラリアから就職してきたPT)、OT(0)という状況で、専門的サービスについては、いまだしの感なきにしもあらずであった。

 ちなみに、タイ国のパラメディカル職員の養成施設としては、6年前からPT養成所が1校設けられている(注―Siriraj Hospital内に併設)。

●Vocational Training Center for the Blind(盲人職業訓練センター)

 住所:上記と近接(タイ国)

 所長:Mrs.Khunying Samanyai Damrong Baedyagun

 この施設はFoundation for the Blind(盲人財団)が経営するところであって、この財団は、この施設のほかに盲学校を経営している。盲学校には女子の盲人生徒のみが就学しており、この施設には男子の盲人約30名が訓練を受けている。

 以前には、盲学校の卒業生のみを採用したが、現在はそれにこだわらず、タイ国のあらゆる地区から採用する方針をとっている。

 職種についていうと、かつては六つの種目を訓練課程としたのであったが、その後、一つには資金の不足と、さらには熟練した職員の不足のために、現在では木工芸1本にしぼっている。

 ワークショップには職業訓練部門と生産部門より成り、20名の職員が指導している。また寄宿舎も整っており、活気にあふれたセンターのように受けとれた(注―日本からのマッサージ技術者の来訪、居住的指導を切に求めていた)。

 所長の話しによると、タイ国では、障害者に対して同情はするが、積極的に雇用しようとはしない、というのが伝統的な風習である、とのことであり、そのために労苦が多いとのことであった。

 ちなみに、この施設は純粋な民間施設として運営されており、それだけに運営、経理面における管理者側の労苦、苦心は莫大なるものがあるように察しられた。

●John F.Kennedy Centre

 住所:15,Sandy Bay Road,Hong Kong

 校長:Miss Marion Fang

 この施設はいわば脳性マヒ児の養護学校というべきものである。

 John F.Kennedyという名称が付せられてはいるが、実際にはそれとは無関係で、World Rehabilitation Found(世界リハビリテーション基金―会長:Howard A.Rusk博士)からの寄付金によってこの施設が建設されたのである―1967年。ただし運営についてはこの基金は関与するところではなく、主として香港政府、赤十字社、共同募金等がその掌に当たっている。

 このセンターの対象児は総計80名で、そのうち寄宿舎入所児60名、通園児20名である。

 教師10名、寮母10名、PT3名、OT2名、ST1名、ソーシャルワーカー1名、寮母長1名、校長1名、というところがおもな職員構成であり、授業は午前9時~午後3時15分が原則となっている。

 このセンターは脳性マヒ児を対象としたまことにユニークな施設であることは疑いないが、しいていうなれば、IQが相当高い脳性マヒをのみ対象としていること、したがって、香港という地域社会において重度、あるいは重症の脳性マヒ児がどのような処遇を受けているか(おそらく全く施策のわく外に置かれているであろう)という点がはなはだ気にかかる点であった。しかし、これはもちろん、施設長の責任ではなく、香港政府の負うべき問題であることは申すまでもない。

 こうした香港全体としての事業のあり方はとにかくとして、このセンターだけに限って見れば、校長であるFang女史の方針や熱意がすみずみにまで行き届いていて、業務内容においても、また設備の点においてもはなはだ充実した、すぐれた施設であるとの印象を受けた(注―筆者はこのセンターが開所後まもないころ訪れたことがあるが、今回の訪問で、内容がより充実し、軌道に乗っているという感じを受けた)。

 ちなみに、ボランティア・サービスに関しては、このセンターはどちらかといえばあまり歓迎しない方針をとっているように見受けられた。

●Sandy Bay Children´s Orthopedic Hospital

 前述のJohn F.Kennedy Centreを視察してのち、やや時間の余裕があったので、急遽この病院を訪れることにした。この病院は前記の施設と道路をへだててすじかいの場所(香港島の西端)にあり、香港大学医学部整形外科の関連病院の一つとして重要な役割をになっているものである。

 私が最初にここを訪れたのは昭和35年で、Hodgson教授(整形外科)のもとに1週間滞在しているときであった。当時は50床の小じんまりしたconvalescent home(回復期ホーム)であって、骨関節結核患児が主たる対象であった。(これら患児が屋外で日光浴を楽しんでいた姿が今でも脳裏に焼き付いている)。

 その後中間に1回の訪問を経て、今回が3回目の訪問ということになるのであるが、いまや約200床の堂々たる小児整形外科病院に変貌、発展している。

 入院対象としてはポリオと骨関節結核が大きな比重を占めており、入院患児に対する学校教育もある程度は行なわれている。

 建築、設備の点からみるとわが国の肢体不自由児施設の全国平均よりはかなり上まっているように見受けられる。また、医学的サービス(手術、処置、など)の点においても西欧の長所を積極的に採り入れようとする姿勢が濃厚に察知されるのであった。これも、見方によっては、香港が西欧文化とアジア文化の接点としての役割を受け持っていることの一つの現われともいえるのかもしれない。

むすび

 以上、われわれが訪問・視察した九つの施設を手短かに紹介したのであるが(注―ニュージーランド―2、オーストラリア―1、マレーシア―2、タイ―2、香港―2)、いずれの施設もそれなりによく整備され、りっぱに運営されている点が印象的であった。

 建物、設備にじゅうぶんの費用が投ぜられ、また、運営に必要な職員は惜しみなく確保される、というのが一般的な常識となっているように見受けられた。つまり、一般国民、大衆が社会福祉施設というものをたいせつにしようとする姿勢が、個々の施設に象徴されているように感ぜられた。

 このことは、オーストラリアやニュージーランドのみでなく、東南アジアのいわゆる後進国においても全く共通するところであった。GNP世界第2位を誇る経済大国日本としては、この点大いに反省を要するところであると思われる。

 だが、国全体としてのリハビリテーション・プログラムとなると話はおのずから別である。これまでも多少触れたのであるが、たしかに個々の施設はりっぱであるが、それが国全体のリハビリテーション計画においてどのような役割を占め、その足らざるところはほかにどのような施設があって、これを補っているか、という点になると多くの疑問が残る。

 端的にいうなれば、国全体としてのリハビリテーションの計画がいまだはなはだ粗雑な、未熟な段階にある、というような印象をぬぐい切れなかった。そして、これはあえてアジアといわずニュージーランドにおいてもやや共通するのではないかとすら感じられたのであった。

 こうした観点からみると、日本は種々のリハビリテーション施設が全国的に設置されており、地域社会的プログラムの立場からみると、おそらく世界でも有数の先進国のうちにはいるのではなかろうかと考える。

 ただし、その一つ一つの施設をとりあげて、設備と職員(職員の定員と質)の面を省りみると、決して楽観はできないように思われる。

 少なくとも、個々の施設が建築、設備において相当のレベルまで上昇し、かつ、職員数が必要にしてじゅうぶんなだけの人数を確保しうるような体制に到達することが目下の急務と考えられる。

 要するに、わが国においては、リハビリテーション・プログラムに関して、従来は量的な方向に関心が向けられ、対策が推進されてきたのであるが、その結果質的な面に大きなひずみを残すこととなった。今後はこの重大な欠陥を是正するため、質的向上に重点を置いて施策を進めるべきであると考える。

日本障害者リハビリテーション協会事務局長


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年10月(第8号)22頁~29頁

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