向上心と成果について

向上心と成果について

─若年性のリウマチ性関節炎の患者100名を対象とした調査─

Aspiration and Achievement

─A Study of One Hundred Patients With Juvenile Rheumatoid Arthritis─

Joan Morse,*M.S.W.

新井由紀**

 リウマチ性関節炎がどのようなものか―病院、地域の専門家、患者の家族、そして患者自身が現実的な概念をもってこそ、この病気を病む若い人々のためのリハビリテーション・サービスが実際に役にたつのである。関節炎に関して、その診断や総合的治療についての真実の情報が従来の悲観的な迷信にとって替わってきている。これに加えるべく、教育、職業経験を見るために、16才になる以前にリウマチ性関節炎の症候があらわれ始めた患者100 名を対象にこの調査を行なった。

 患者らは若年性リウマチ関節炎をもつ人々ができること、あるいはできるかもしれないことについての専門家や一般の人たちの評価を高めようと、熱心にこの調査に参加してくれた。彼らの抱いている向上心と実際の成果を検討してみてこそ、幼年時代、あるいは思春期のたいせつな時期にこの病気にかかった多くの若い人たちの前途にある可能性を、じゅうぶんに評価することができるのである。

 リハビリテーションに関係するスタッフは、苦痛を伴い、予想しがたく、また身体の機能に障害を起こしたり変形をきたすようなこの病気にかかっていながらも、はぐくまれていく自然な身体的・心理的成長の様子に常に気を配っていなくてはならない。

 この調査は関節炎の患者についてのものであるが、ここに表われたものが他の慢性の病気に悩む若い人たちの職業に関連した向上心や成果を理解するための手本ともなれば幸いである。

 The Center for Juvenile Rheumatoid Arthritis(院長、Dr.J.Sydney Stillman,1963 年にRobert B.Brigham Hospital,Bostonに創設)には、現在、常時300 名の若年性リウマチ関節炎の患者がおり、診断、治療、および医療の専門家と関連保健分野のスタッフが構成するチームによる患者の一生を通しての調査研究が行なわれている。

 この論文は1969年9月から1970年7月までの期間、同センターに入院のために面接を受けた年齢12才以上の若年性リウマチ関節炎の患者計100 名に関するものである。調査の対象となったグループの患者は、年に一度の3日間にわたって行なわれる総合的な評価か、あるいはもっと長期の治療のために入院していた。急性、慢性、再発の若年性リウマチ関節炎のすべての段階の患者が含まれている。

 患者の中の一部の人たちが若年性リウマチ関節炎の病気にもかかわらず、教育や物事の成果をあげる機会に恵まれている一方、絶えず困難にぶつかっている人たちがいるということが明らかになったので、センター所属のソーシャルワーカーが先鞭をとってこの調査を行なった。患者自身から学校、仕事、そして関節炎などの経験についてどのように考えているかということを聞く形式がとられた。学校教育指導官と州立の職業リハビリテーション委員会のおもな二つの専門指導機関に対しての態度も確認された。既存のサービス機関に対する患者自身の姿勢を改善することによって、あるいはサービスの質を向上させることによって、もっと多くの患者が本来の実力を生かして職業を得、働くことができるのではないだろうか。

 患者について

 100 名の若年性リウマチ関節炎患者のうち、78名は女性、22名が男性であるが、この割合はリウマチ性関節炎が女性に2倍の比率で多く見られることから意外なものではない。身体障害は、重度の人から身体的な症状が完全に消えてしまった人まで、広い範囲にわたっている。再発や悪化を特徴とする病気を系統立てて研究することには、明らかにいろいろな問題があるが、幸いにもこのグループの人数が多いことから、関節炎の深刻な経験をもつ患者たちの断面図を見ることができた。

表1 患者の年齢
12―18才 62
19―22才 10
23―27才 13
28―61才 15

 患者の社会経済状態 この調査の時点で、5名の患者が障害者援助を受けていた。残りの95名は経済的に自立しているか、家族の者に扶養されている。長期の入院費用は例外なく第三者、つまり私設の保険会社か公的保健援助によって支払われている。

 患者の家族は中流階級で、だいたいが商業、専門職、技術関係の職業についている。数は少ないが、公的扶助を受け、両親が中学校以下の教育しかない家庭においても、実際に自分たちがもっている以上のものを望み、これを得るために努力するという意味で生活水準の向上の働きがある。このセンターに来る患者の大半は、ボストン地域外の医師からの紹介で、多くがマサチューセッツ以外の所から来ている。この調査グループの中では12名がマサチューセッツ以外の場所に住んでおり、ボストンにいるのは4名だけである。調査時までに87名は独身で、13名が結婚していた。

 方法:アンケート

 簡単なアンケートを作成し、患者の過去、現在、そして教育、職業の計画について質問をした。この中で、関節炎が患者のいろいろな経験にどのような影響を与えているか、患者の住む地域では学校教育指導課や州立のリハビリテーション委員会を通して、どのようなサービスが提供されているかについても聞かれた。

 向上心と実際の成果に関するアンケート

1. あなたが初めて興味をもった職業を覚えていますか? 何才の時でしたか、その職業を選んだ理由は?

2. その他の職業で自分の目標としたものは? 目標の職業を替えた理由は? 今いちばん働きたいと思う職業は?

3. 今までに受けた教育は? 教育に関するこれからの計画は? 教育に関して目標とするところは?

4. 定期的に行なっていたような奉仕活動も含めて実際にやったことのある仕事は?

5. あなたのもつ病気が就職にどのような影響を与えましたか? 教育や職業の計画を企てる上でどのように影響しましたか?

6. 学校へ行ったり、就職したときに学校教育指導官や州立のリハビリテーション委員から受けた援助についてあなたの感想を述べて下さい。

 このアンケートを使ってのイタビューは、普通患者の入院した翌日に、このセンター所属のソーシャルワーカーが行なった。このソーシャルワーカーは新しい患者を除いてはすでに皆を知っていたので、支障なく患者に接することができた。患者にはこの調査の目的が説明され、彼らも自分たちの経験が他の人々の役にたつことをとても喜んでくれた。なかでもいちばん若い12才から14才の人たちは、この調査をゲームのように見ていたようだ。15才から16才のグループは、折にふれて病院の患者友だちと話し合いの機会をもち、ときには有意義なグループ・ディスカッションに高めていきたいと願っていた。

 この病院に来るまで関節炎をもつ同じ年ごろの仲間に会ったことがなっかたという人がたくさんいた。10代のもっと上のほうの患者になると、このアンケートが彼らの目標を明確にさせる機会を与えることになった。ソーシャルワーカーはこの年齢のグループから、かなり多くの人数を州立のリハビリテーション委員会に紹介し、彼らの就職や訓練の計画をおし進めるようにした。

 患者たちは自分たちの過去や現在の成果をふり返ってみることを楽しんでいたようだ。インタビューでの質問は自由形式になっており、患者は単なる答え以上に自分たちの考えを述べられるようにしてすすめられた。

 このアンケートを採用してみて、ほかの致命的なものではないが慢性の病気をもつ青少年期の人たちにも、同じようなものを応用してみたら、患者自身の目標とするものを明確にさせるばかりでなく、将来必要なときに利用できるように、地域のサービス機関についての情報が届いているかの確認ができるというような、療法的価値があるのではないかと思われた。病院で行なわれている評価の中では、職業に関する計画は、必ずしもコースの一部として話し合われるというわけではなく、ときには医学専門のスタッフも加わって成り行きに沿った決断にまかせなければならないということもある。

 高校や大学の勉強、病院のチームと行なっている計画を見直す必要のある患者が認められた。

 階段のステップの数、通学の方法、そして建物の位置などは、若い関節炎の患者が訓練をやり遂げるうえに大きな違いをもたらす。医師からの連絡の手紙で、必要ならば体育の授業を免除してもらうこと、教科書を持ち運ぶのに級友の助力を得るようにすること、そして普通教職員のためにあるエレベーターを使用する許可を得ることなどができる。

 一部の教師たちには、関節炎をもつ生徒には答案用紙に書き込むのに、普通より長い時間が必要であることも知ってもらわなくてはならない。なかには、授業の途中で身体が硬直したときには立ち上がったり、身体を伸ばしてよいという許可を得ておく必要がある人もいる。それぞれの学校の状況に合わせて、個別にとりあげ対処することがたいせつである。ある父兄はきくわめて気やすく学校との連絡を保っている一方、病院のスタッフから相当の助け舟がないとできない父兄もある。

 2~3のケースでは、このアンケートの答えの様子から患者の病的な精神状態が指摘され、あとで、センターの評価の一部として行なわれている精神科のインタビューによっても、このことが裏づけされた。

 Susan ,12才、は最年少の患者の中でただひとり、おとなになってから何をしたいかということを、言葉にして言うことができなかった。精神科医によると、彼女は全般に、そして数年前の父親の死に関連して抑うつ状態にあるということだった。彼女は自分が成長して、おとなになっていくということを予期していないように思えた。このことを地域の家庭相談所に紹介し、続いてSusan と母親が精神療法を受けられることになれば、彼女により健全な成人への準備ができるようになるであろう。

 アンケートをとりながら、いろいろと話をしているうちに、一部の若い人たちは、気にかけながらも今まで持ち出せなかったような質問をする機会を得た。14才の少女は、自分がしているベビー・シッターの仕事について話しているときに、自分の子どもも関節炎をもって生まれてくるかもしれないので、決して子どもは持たないと言った。スタッフは少女のこの心配事に気づいて、若年性リウマチ関節炎は生まれつきの障害ではなく、直接遺伝することはないということを言い聞かせた。

 患者の受けた教育と向上心について

 ここに示された患者の向上心と教育レベルは、単に診断名、年齢、そして入院の順番に従って選ばれたグループとしては、程度の高いものであった。

表2 調査時における教育のレベル
大学(大学院) 10
大学(普通)

12

芸術学校 1
美容学校 1
電気学校 1
商業学校 3
高校(卒業) 5
高校中途退学 4
高校以下の学校に在学中
(うち28人は大学に進学の予定)
63

 7人が高校卒業の後、短期大学か商業学校に進む予定でいる。高校3年のひとりはすでに看護学校への入学が決まっている。14才の少女は、自分も看護学校へはいるのだと主張していたが、彼女の場合は関節炎による障害がだいぶ悪く、成績もよくないので、この目標は現実的ではない。

 高等教育 2人の患者が博士号(Ph.D. )を取得したいという意欲を表明し、ほかにも医学博士(M.D.) の資格をとることを真剣に考えている人が2人いた。牧師をしているある患者は、将来神学博士(D.D.)になりたいと考えている。このグループにはほかに9人の未来の修士がいる。分野は都市計画から特殊教育までいろいろである。

 教育のための異例の努力 このグループの中でも5人の患者が教育に対して特に強い関心を示している。

 Mr.P.D.,37才、は夜間大学に通い、10年かけてマーケッティングの学士号を取得した。高校を卒業してすぐに結婚し、妻と後には2人の子どもを加えた家族のために、フル・タイムで働いていた。国内でよく知られたかみそりの刃を製造している会社である。彼はそこでかみそりの刃を包む仕事から始め、数年の間に自分の事務所をもつ幹部職である市場分析家にまで進んだ。将来はその分野の修士をとりたいと考えている。マーケッティングの部長になる夢をもっているのである。

 Miss R.B.,ニューハンプシャー生まれ、は関節炎のために6年生で学校を中退しなくてはならなかったが、後に自宅で家庭教師もなしに独学をし、高校卒業の資格までとった。大学へ行く機会に恵まれなかったにもかかわらず、数年来、病院の入院係として車イスに乗りながら働いている。よく勉強をしてMedicare.Medicaid (国による医療保険制度)、私設の医療保険の支払いなどの常に複雑に変化している情報に通じている。すきのない身だしなみと、患者に対するあたたかい思いやりをもって仕事に取り組んでいる様子は、彼女の身体的障害をカバーしている。

 Miss F.A.,22才、は若年性関節炎からきた緑内障、白内障を伴ったブドウ膜炎にかかっている。彼女は最低の視力で、実際にはすでに法定の盲目であったが、短期大学の2年間を完了した。遂に全盲になってしまったときには、1年間家から一歩も出ることも拒み、この最も恐れていた事態に打ちひしがれていた。ようやく説得されて、盲人のためのリハビリテーション・センターに入学し、間もなく優秀な学生となった。自立のための普通の訓練の課程に加えてフェンシング、スキー、そして飛行のレッスンまで受けた。現在は自分でアパートに住み、有名な大学の2年生になって、将来臨床心理学者かソーシャルワーカーになるための勉強をしている。

 Mrs.B.D.,36才、は若年性リウマチ関節炎のために、7年生で学校を中退しなくてはならなかったときには、将来は、「もう何もできないもの」と思っていた。しかし友だちの助けを借りて自宅で速記とタイプを修得した。17才で酪産物販売所の帳簿係、後には係長になり、結婚するまでこの仕事を続けた。身体の障害にもかかわらず有能で愛情豊かな妻として2人のよい娘の育児についている。

 このグループがいかに教育に強い興味をもっているかをいちばんよく説明しているのは、20才になる患者のRichard M.であろう。彼は自分の関節炎にかかった手を見ながら、「多分この関節炎が自分を労働志向型よりも頭脳志向型にしたのだと思う」と言っていた。目下優秀な大学の2年生で、将来は医学校に進み、精神科医になる計画を企てている。

 子ども時代の職業に関する興味──医療関係

 患者は子どものころ、最初に興味をもった職業について思い出すように言われた。この質問に対する答えが、彼らのファンタジーや家族の期待することを反映したり、人によってはひとつの職業を選んだ理由がわかるのではないかということが期待された。

 看護婦その他の医療関係の職業に共感を抱くことは、子どものころから病院や医師を患者として訪れたことのある若い人たちにとっては、ごく自然なことである。28人、グループの4分の1以上が子どものころの希望として看護婦をあげている。このうち5人は、母、姉妹、いとこなどの親戚の者がすでに看護婦の仕事をもっていた。患者の一部には、この決心を自身の経験に結びつけ、子どものころ入院していたときに世話をしてくれた看護婦の仕事を理想化している傾向がある。

 この調査の期間に初めて入院した若い人たちからは、異なる意見が出された。

 何人かは以前に看護婦を自分の将来の職業として考えていたが、看護婦の仕事の現実を目撃した後は、これを取り止めてしまった。看護婦の仕事というのは、どれほど多くの細かい、きまりきった作業を毎日くり返してしなくてはならないものであるかということに気がついたか、あるいは、この仕事が関節炎をもつ人には体力的には無理だということがわかったのだ。

 3人の患者が、医学を最初に興味をもった職業としてあげていた。そのうち2人は目下大学の4年生で、この目標を達成するためにかなり現実的な可能性をもっている。

 何人かの少女たちは、作業療法士、医療ソーシャルワーカー、理学療法士、(実験)研究室の技術者などを目標の職業としてあげたが、どの患者もこれらの仕事が実際に行なわれているこの病院に入院してきてからのことである。医療関係の仕事に興味を示している患者の動機について、さらに詳しく聞いた。

 ある人たちは自分が他の人の世話になったので、他の人の役にもたちたいと真剣に考えていたし、自分たちの看護をしてくれる人々に対して崇拝の念を抱くようになったという患者もいた。しかしながら、この気持ちの裏側には、病院で働いていれば必要なときに手当てを受けられる保証があるという望みがあるようだ。そのような依頼心を受け入れるような人事の方針をもつ病院もあろうが、今や病院というところは(昔のように)一定数の低賃金に甘んじている障害者によっての居心地のよい働き場所ではないのである。

 したがって、リハビリテーション・サービスの分野で働く人たちは、患者の病院関係の仕事をしたいという希望をそのまま支持する前に、身体検査と同様に入念な心理的適格性の審査を積極的に行なうべきである。

 実際的なテストのひとつは、病院での訓練を要するような仕事よりも、もっと低いレベルでの実地の経験を見ることである。この調査グループの中の2人の女子は、病院で「キャンデー・ストライパー」のボランティアとして働いたのち、看護婦にはなりたくないという結論を出した。一方、医学の学校に進みたいという2人の青年は、数年間にわたって病院の雑役夫や実験室の助手として働き、その仕事を楽しんだということである。

 教職への興味

 学生の多いこのグループとしては意外なことではないが、子どものころの興味ある職業として教職がいちばん多い。実に32人があげていた。これまで5人が実際に教員の職についている。

 スポーツ関係の職業への興味

 Dr.ClevelandとDr.Fisher はリウマチ性関節炎患者の反応から、子ども時代に将来の職業として、身体的活動を要するものに興味を示しているのがその特徴であると報告している。グループの中でも最も奇形が進み、動きが不自由で気の毒な38才の婦人は、療養所でベッドかイスにしばられたきりの生活をしているのだが、彼女はいつもダンサーになりたいと思っていたと語っていた。

 2人の若い女性は体育の教師になりたがったのだが、ひとりはソーシャルワーカーに転向し、もうひとりは目下大学に通って教職につくための勉強をしている。

 30代のもうひとりの女性は、頭脳は明晰だが、長年のこの容赦のない病気から身体が不自由になったために、病院の入院係の仕事についている。ベッドに伏せていなければならなかった数年間は、アイススケーターかダンサーか水泳の選手になることを考えていたと話していた。

 Betty M.は3才のときから始めて、8才で若年性リウマチ関節炎のためにやめなくてはならなくなるまで、タップダンスの訓練を続けていた。Petty Helen はバレリーナになるために熱心に練習をしていたが、12才のときにリウマチ性関節炎のために足が腫れ、その目的かなえられないままに終わってしまった。Janeという頭のよさそうな12才の少女の関節炎は断続的で、おもに片方の膝にくるのだが、今でもまだプロのスポーツ選手、なかでもスキーヤーになれると確信している。12才のFrank はプロのフットボール・チームにはいるつもりでいる。

 このような希望は、アメリカの少年少女の間ではごく普通のものであるが、これを答えた患者たちの口調からみると、自分たちが活動的な人間であると思い込んでいる様子である。リハビリテーション・サービスをより成功させるためには、若い関節炎患者たちは何ができないかということよりも、何ができるかということを強調してすすめていくべきである。

 このように選ばれた職業が、いろいろと変化に富んでいるということから、関節炎患者の興味が特別な、あるいは狭い方向にかたよっているものではないということがわかる。特別な束縛があったり、想像力に欠ける点などは見受けられない。カウンセラーは、患者とともに、身体的、心理的に合った職業を選び出すというのではなく、「障害者の仕事」というきまった形をさけながら、広い範囲の仕事の機会を検討するべきである。

 関節炎の教育、職業への影響―患者の話

 患者たちは関節炎が教育やその後の仕事の経験にプラスあるいはマイナスの形でなんらかの影響を与えたかという質問を受けた。多くの患者たちはプラスの面を強調していたが、これはほかの患者のささえになると考えたからか、それとも悲観的な経験は抑圧されてしまっているのかのどちらかの理由によるものであろう。

 23才の青年は、大学の研修のプログラムに参加して成功をおさめているが、高校のときに起きた急性の関節炎の発作からさらにいっしょうけんめい勉強しなくてはならない、ということを学んだと言っていた。「5か月の間は何もできなかった。自分もいろいろなことができるのだということを証明して見せたかった。」

 19才のDorothy は、14才のときから進行性の関節炎にかかっているが、働きたいと思うときにはいつでも首尾よく仕事を見つけた。手先が飛び抜けて器用で、宝石の工場でもたいへんいい仕事をした。この機敏に動く指にきた変形を直す手術のために休暇をとったぐらいしか仕事を休んだことはない。ことし結婚したが、仕事は続ける計画でいる。

 「もし、仕事をしていなかったら、家事などはのばしのばしにして一日じゅう寝ていることでしょう。朝は身体を動かすと痛むのです。仕事があればとにかく朝起きて動き回らなくては。仕事がたいせつと思えば毎日行きます。」

 23才の大学を卒業した女性は、子ども時代からの関節炎が与えた影響について次のように語っている。「私は自分にできそうな仕事を捜しました。一日じゅう立っているようなウェイトレスやセールス・ガールにはなれないことはわかっていました。病院にいたときに、もっと重症の関節炎の人たちに会い、自分はまだ幸運だと思いました。」

 彼女は人事担当の職員として働いているが、障害者の就職問題では他のスタッフよりもよい実績をあげている。「応募者に身体的な障害やそれを特定の仕事にどのように結びつけるかというような質問をするのはなんでもありません。必要以上に感傷的になったり、気の毒だと思うのはよいことだと思いませんし、事態を現実的に処理していきます。障害をもつ人は普通の人の2倍の努力をしていると思います。自分が関節炎をもっていることと、大学で学んだ経験の両方のお陰で、人をより深く理解できるようになったと思います。」

 若年性リウマチ性関節炎の体験に見るその他の利点

 その他の感想の中にも、患者らの楽観主義と病気の経験を自らの成長の起点とする能力がうかがえる。

 「私は入院中のOTの訓練を通して、自分が手仕事に器用なことを知りました。芸術学部専攻で大学に入学が決まったばかりです―しかも、4年間の奨学金付きです。」(C.C.17才)

 「病気のお陰でほかの友達よりも精神的に成長しました。初めは自分をみじめに思っていました。でも今は外を歩けるということがどんなことかその意味がわかりました。もっと恵まれない人がたくさんいるのです。人生は貴重なもの、決して無駄にしてはならないと思います。」(D.M.14才)

 「私は入院生活を通して、忍耐することと、ほかの患者たちと交わる方法を学びました。手の手術が終わったら、医師の秘書になる訓練を受けたいと思っています。」(S.C.25才)

 「関節炎のために病院にいたことは私に新しい世界を開いてくれました。どんな努力をしたらよいのかソーシャルワーカーが教えてくれたのです。私には読み(reading)の障害があり、このための助けが必要でした。それから関節炎のために自宅で療養する間、家庭教師がついての学習が始まりました。お陰で今は、関節炎も読みの方もよくなりました。学校の勉強もうまくいっていますし、ある療養所で糖尿病患者の看護の仕事もしています。」(M.E.18才)

 「ばか気たことに泣き言を言う人たちがいますが、私は自分の病気に耐えて生きていかれるようになりました。」(S.C.15才)

 「関節炎のお陰で神に近づくことができました。今まで歩んできた道を立ちどまり、物事をより真剣に考えることができました。」(D.S.30才 現在牧師)

 「寝たきりでいたために、自分はより内省的に、物事に対して敏感になり、周囲の人々に対しての理解も深めることができました。このようなことを私の芸術に役立てていきたいと思っています。障害が限られた力をよりよい仕事へ結びつけてくれることになりました。」(J.M.25才)

 「関節炎のお陰で私の教育の目標がはっきり定まりました―この目標には心情的にも一致したものを感じています―つまり医師になることです。」(M.S.20才)

 「障害を克服する方法は常に教育の場を求めることだということを発見しました。初めは関節炎のために劣等感に悩みました。学校に戻ってから、だんだん人に会うようになりました。それから、『トーストマスターズ・クラブ(司会者クラブ)』に加入したのです。そこではだれもが話をしなくてはなりません。恥ずかしいと感じる気持ちはほかの人びとにではなく、実に自分の中にあるのだということに気がつきました。」(M.W.24才)

 「関節炎の病気をもっていたら、将来は自分の頭の働きに頼らなくてはならないということはわかっていました。ハイスクールのときに会計学の勉強を始め、よくできました。関節炎にかかっていなかったら、父のように大工になっていただろうと思います。」(B.M.24才)

 関節炎のために始終体を動かしていなければならないということが仕事の妨げになるという患者もいるが、逆にそれが利点になるという人もいる。

 「関節炎のお陰で、ずっと機敏になりました。絶えず動き回っていなくてはならないのです。仕事をしているときには別に気になりません。ゆっくり休んでいると、痛くなり硬直してきてしまいます。義理の母は、あなたは関節炎だから座っているようにとうるさく勧めてくれるのですが、私の方はそのためにすっかり硬直してしまうのです。保育園で教えているときは、立ったり、座ったり、動き回っていることができるので、私にとっては理想的な仕事です。

 秘書というのは机の前にじっと座っているか、書類の上にかがみ込んでいなければならないし、商店の店員はいつも立っていなくてはなりません。

 その点、保育園の仕事はずっと融通性があります。家庭では家事に融通性をもたせることができましょう──庭仕事、裁縫、料理、ペンキ塗り、粘土細工、その他。

 男の子たちがまだ小さかったころには、大きな野菜畑を作っていました。よく、朝早く起きて働いたものです。融通性ということが一番大切だと思います。忙しければ忙しいほどいいのです。」(Mrs.N.G.59才)

 就職への障害

 アンケートの回答の中に、患者の就職に対して雇用者側の消極的な態度が報告されている。

 E.T.,21才──彼は股関節炎であるのだが、就職希望先の雇用者にあたる人たちが、彼に対して余り率直な態度を示してくれなかったことに、ひどく自尊心を傷つけられたことがある。ある会社の人事課では、彼がただ「求人の資格に向いていないのだ」ということだけを言われた。別の大きな電機会社では、彼のためにモデリングやドラフティングの仕事を探してくれたが、結局は床の上に油があるのですべる危険があるということで拒否された。労働の条件に関連して、彼の身体障害のことを率直に話し合うほうがいいのである。

 J.S.,29才──彼は「労働者災害補償法」(保険会社は一般の会社が身体障害者を雇用することを認めないということを公けにしている)の関係でという理由で、いくつもの工場から精密作業を拒否された。結局、州の職業安定所は彼を身体障害者ばかりが働いているおもちゃ工場に紹介した。彼はそこで最低基準以下の賃金で、しかも精神薄弱の人たちと一緒に扱われることに憤慨した。その会社は障害者の雇用に協力したことで表彰されたけれども、若者は自分たちが犠牲にされたように感じていた。

 Mrs.K.,51才──彼女は関節炎のために好きな仕事が選べなかったと思っている。高校を卒業したばかりのとき、電話会社から彼女を雇用することは「失敗の危険性」が高いとして就職を拒否されたのだ。今では、ある電機会社で長年の経験を積み、モーター用の巻線と製品の品質管理の仕事の指導者になっている。長い階段や駐車場から従業員入口までの長い道のりなど、関節炎をもつ患者にとっての建築上の障害を最も強く感じている。

 M.J.,26才──身体障害をもつ求職者に対して、もっと率直であることを願っているもうひとりの患者がいる。彼女は化学製品を製造している会社の事務の仕事に応募したが、会社側は化学薬品にさらされるのは彼女の健康のためによくないだろうといっていた。後になって、この同じ会社から実に直接工場の中で化学薬品を取り扱う仕事をすすめられたのだ。結局、会社としては松葉づえをついた人をフロント・オフィスには欲しくなかったのだと結論せざるをえなかった。ついにこの患者は無条件で身体障害者を募集している広告にひかれて、ニューヨーク市に行ってしまった。そしてそこで彼女は、いろいろな会社に雑誌を売りつけている「恐ろしい人たち」に使われて働いている自分を発見したのである。「片輪者」は人々の憐れみと罪悪感をそそるために利用され、彼らがその利益をむさぼっていたのだ。

 患者の実際に経験した職業:過去と現在

 100名の患者に、有給で働いたことのある過去および現在の職業について簡単に述べてもらった。奉仕の仕事も定期的にそしてまじめに続けられたものはこれに含まれる。若い10代の人たちにとっては「ベビーシッター」も仕事と考えられ、家事は家族をもっている婦人に限って一職業と見なされた。

 彼らの従事した広い範囲にわたる活動を見ると、患者たちの並外れた融通性が―これは一般的にはリウマチ性関節炎とは無縁の資質なのであるが―うかがわれる。明らかに重労働はこのグループには適していないようである。この例外を除いては、彼らの仕事の多様性は、ニューイングランド地域のどの部分の人たちのものとも劣らず比較できるのではないだろうか。

 奉仕の仕事 奉仕の活動は、若い人たちがいろいろな状況の中で自分を試してみるという一方、自分たちの理想を表明するアメリカ社会の伝統となってきている。この若年性のリウマチ性関節炎のグループの10代の女子たちの間で、最も多く行われている奉仕活動は、地域の病院で「キャンデー・ストライパー」として、病人の看護の手伝いをすることである。ある高校生は、関節炎のために敏速に動き回ることができなくなったとき、自分をインフォメーション係にしてくれるように病院側を説得してしまった。

 John C.は14才のとき、Robert B.Brigham病院のO.T.科の夏期ボランティアになった。翌年の夏は無給で実験室の助手として働き、16才のとき、この実験室の正職員となった。そこで将来は医師になろうと決めたのである。大学に通っているころから、夏には地域の病院で精神科医の助手として働いた。彼のもたされる責任は年ごとに重くなり、彼の夢もふくらんだ。目下のところ、精神科医になるための長期訓練が待ち受けている。

 このように、病院での奉仕の仕事は若い人たちに将来の就職につながるような経験を与えるばかりでなく、病院関係の職業に就きたいと思っている人には、その希望の現実性を試してみる機会にもなる。ある高校生は、彼女のしたキャンデー・ストライパーの仕事について正直な報告をしていた。患者たちに花を配るのは好きだけれども、年寄りの患者の食事の手伝いをするのはいやでした:「それはひどいのよ。」と。

 別の患者はヘッド・スタート・プログラム(幼児向けの教育企画)でボランティアのスピーチ・セラピストをしていた。若い婦人の患者は、学校の教師をしているのだが、暇な時間にはガール・スカウトのリーダーとして奉仕した。19才の女子は、整形外科の手術の回復を待つ間、友達と一緒に彼女の住む地域の麻薬常習者のための電話サービスの仕事に参列した。

 このサンプル中の成人患者のほとんどは、仕事や家族の世話で精一杯に忙しいが、障害が重すぎるために普通の外での奉仕活動はできないようだ。しかし、ある69才になる年配の婦人は、子どもたちもみんな大きくなってしまったので、いろいろな婦人向きの社会活動に参加する時間がもてた。地域の赤十字で働いたり、YWCAの役員になったり、日曜学校で教えたり、教会の例年行事の手伝いなどをした。

 最も想像力豊かなボランティアは、この地方からの14才の少女であろう。関節炎の状態が良いときには、家畜小屋のペンキ塗りや馬の訓練をかって出たり、教会のファションショウや外に出られない人たちのために、アイルランドの民族舞踊を見せて回るグループに参加した。

 親せき関係への就職 親せきのもとで働いて経験を積んだという若い人たちがいる。

 Jocelyn J.は高校に通っている間、父の石油暖房器具の仕事の事務を手伝っていたが、この期間を通して、自分は学問の方が好きだということがわかった。現在、大学の教養学科で学んでいる。

 Lucille B.は15才で株式仲買人である父がお客に送る時事通信を作る手伝いをした。Kathy S.は15才のとき、夏の間祖父の経営する洋服店で働いた。15才のSu Ann C.は祖父の手伝いをして、彼が労働組合の代理人としての報告書を作成した。Laurie D.は13才で父が編集している最高裁判所の判決文の抄録の校正をやっていた。

 Mary M.13才は保険代理店を営む父のタイプの仕事をしていたし、Evelyn B.12才は父の経営するピザレストラン・チェーンのためにピーマンを刻むのを手伝って給料をもらっていたのだと誇らし気に報告している。

 このように、社会に出て競争の仕事をするには若すぎる人たちが、家族や親せきの保護の下で働く経験をもつことができるということは、彼らを成人の従事する職業に紹介すると同時に、自分たちも役に立つことができるという自信をもたせることにもなる。

 保護雇用 ニューイングランド地域にはいくつかのシュルタード・ワークショップがあるが、そこで働いたことがあるというのは、100人の患者の中でたったひとりだけである。明らかに、このグループは自分たちを障害者と見なすよりも、一般の人々と競争をして生きていく道を選んでいる。また、多くの人たちにとってはそのような、ワークショップに通うことが難しかったということもあろう。しかしながら、障害者のための職業訓練やパートタイムのためのワークショップが、このようにわずかしか利用されていないということは、障害者の人たちが隔離される状態におかれることに積極的な気持ちをもっているのかどうかという疑問を投げかけている。

 主婦 この100人の患者のグループの中に3人の主婦専業の人がいるが、みんな子どものころから股関節炎を患っている。しかし3人とも自信をもって2人ずつ子どもを育ててきた。かなり進行した関節炎のために重度の身体障害があるにもかかわらず、家族の人の援助もめったに受けないで家事を切り回してきているのである。Robert B.Brigham病院のO.T.科での日常生活動作訓練(ADL)は、特にこの婦人たちにとっては、料理、家事、衣服の着脱、トイレット、身だしなみなどを、どのように行うか工夫するために大きな助けとなった。個人個人の必要に合わせて補助具も作られた。O.T.科の台所やふろ場では、専門家の監督の下で、弱くなった関節を保護しながら、日課の仕事をする訓練を受けることができた。

 この婦人たちはみんな、結婚前に既に関節炎にかかっていることがわかっていたが、彼女たちの夫もその状態を知っていて、妻たちができるだけ普通の生活を送れるように協力してくれた。一方婦人たちも彼女らの報告から見ると(平均9年間にわたる専門家による観察結果とも合わせて)、決して必要以上におんぶをしてはいなかった。できるだけ多くのことをやることに誇りを感じていた。48才で独身の婦人は、15才のころからの関節炎で障害がひどく進んでいるが、夫に死別して2人の子どもと残されてしまった妹のために、彼女が外で働いている間家事をみることになった。3人の中でいちばん障害が軽いのは、32才、大学卒業の学歴をもつ主婦で、自分の男の子と女の子が小学校に入学してしまったので、時間のゆとりのできた午前中幼稚園で教えている。彼女の関節炎はかなり良い状態が続いている。

 学生のアルバイト 患者たちは、まだ高校や大学に行っている間にも、パートタイムや夏休みのアルバイトでいろいろな仕事をしている。この点では彼らの覇気と実際の成果は、同じ年ごろの一般の学生層の中でも、熱意のあるグループと比較して決して劣るものではない。リウマチ性関節炎の患者には、過度の依頼心が見られるという前記の報告とは反対に、この比較的若い年齢のグループは一生けん命に独立しようと努めている。その余りに、彼らの行動には思慮分別の足りないこともあり、若いエネルギーが一時的に燃えつきてしまうようなことのないよう関係者はいつも心配させられているのである。

 若年性のリウマチ性関節炎患者の従事した仕事(フルタイム) 今日の社会では、リハビリテーションに成功したかどうかということは、その人がフルタイムの有給の仕事をもったかどうかということで決まる。明らかに、この100人のリウマチ性関節炎患者の人たちは、圧倒的に活動的で向上心に燃えている若年、中年の男女である。

 彼らが勤めに成功した職業は、大体において手か頭脳を使うものである。何人かの患者は手の変形があったけれど、まだ十分に器用な動きを残していて、ある種の操作はかなり能率的にやってのけたし、指導官の仕事をするまでに伸びていった。一般の人びとと直接相対するもので、良い声、落ち着きのある態度、作法などを要求される職業も多く見られる。大学に進み、将来はビジネスや専門職につこうという目標を立てた人たちは、関節炎のために計画が遅れたり、人一倍の努力をしなければならないこともあったけれど、みんなその道を歩み続けている(仕事の一覧表、表4,5を参照のこと)。

表4 若年性リウマチ性関節炎をもつ高校、大学生の就いた職業(有給)
技術関係 大学の写真屋
 (写真現像用の)暗室での作業
大学のコンピューター・センターでの助手
電話交換手(大学)
Theme corrector
校正
機械工
管理関係 夜間の監督者
軽作業 菓子の包装
重労働 トラックの運転手
倉庫の荷役
Quahogger
木材の荷役
労働者
サービス関係 病院 外科雑役係
精神科助手
消毒係
手術室での洗浄技術者
手術室雑役係
療養所 看護婦助手
糖尿病患者の看護
レストラン ウェイトレス
サラダ係
バスボーイ
食器洗い
コック
デパート カーテン売場の店員
棚下し係
盗難防止のための監視係
レクリエーション 遊技場での助手
湖のライフガード
赤十字水難救助訓練士
キャンプのカウンセラー
水泳教師
ディスクジョッキー
ガラス製の造花の製作
プールの掃除人
夏期の演劇人見習い
農業関係 野菜農園の労働者
野菜販売人―路上店舗
タバコ農場の労働者
庭園士―芝刈人
その他 ベビーシッター及び児童福祉関係の仕事
カーペット張り職人
犬の調教士
ガソリンスタンドの店員
清掃業(事務)
寮のフロント係
ペンキ職人助手
大工職人助手
新聞配達人
スーパーマーケットの会計係
掃除人
自転車修理工
ギフトショップの手伝い
図書館員


表5 患者の就いた職業(有給、フルタイム)
専門職 精神科のソーシャルワーカー
入院受付係
高校教諭
研究調査の面接者(母子健康に関する調査)
プログラマーの責任者(電気)
軽作業 接合機械操作員(靴工場)
靴製造業の組立作業員(靴のリボンや材料の製造)
衣料品製造―ジッパー工場の労働者
おもちゃの組立工
電球のフィラメント取付工
テレビ・電話組立工
精密抵抗装置の抵抗器容器の組立工
不熟練労働 化学品の混合(光学品の会社)
創作 芸術家
サービス モーテルの寝室係
ロッカールーム係
会社重役の運転手
電話交換手(技術)
電話会社の指導員
技術関係 出版社のセールス・ライター
歯科医助手、歯科技師
指導員―モーター用巻線と製品の品質管理(電気)
製作助手(市場調査のコンピューター操作を担当)
精密作業 宝石の彫刻師
時計の整備
小さな電気器具の修理
商業関係 重役秘書(社会事業機関、保険、株式仲買、法律)
クレジット・マネージャー(自動車ローン)
会計士(靴のチェーン店)
事務員(清掃業、租税係、市場調査、通信販売、証書の記載)
簿記係(酪農業)
市場分析(かみそりの刃の製造会社)

 

 この調査のために無作為に選ばれた患者たちが従事してきた職業のいろいろは、後に病状が軽快した人も、センターに来たときには若年性リウマチ性関節炎のかなり重い症状を呈していたことを思い返すと、実に驚異である。

 このグループのしてきた職業を見るとその実際は、特殊で、狭い「リウマチ性患者の性格」という定義を掲げている学者の考えをくつがえすものである。それによると患者たちは「自己犠牲的、自虐的、順応性の強い…、内気な完全主義者…、自分の病気に大げさな反応を示す」ということになっている。実際の若年性リウマチ性患者による職業の説明を読むと、彼らには適応性があり、覇気満々で、積極的で、ときには創造的でさえあることが示されている。

 学校指導員に対する患者の見方

 慢性の病気の治療にあたる病院にとっては、患者が実生活の場で最善の機能を発揮できるようそれぞれの地域に協力者がいて、活動していてくれることが必要である。現在では、ガイダンス・サービスはほとんどニューイングランド中、どこの高校、ときには中学校にも設けられているので、100名の患者たちにこのサービスに関する経験についての質問をした。

 彼らが期待していたような援助が受けられたかどうか? 若い障害者たちのためのこのサービスをより効果的なものにするために、病院と学校が協力してできることがあるかどうか?

 ガイダンス・カウンセラー(学校生徒職員のためのサービス・ワーカーとしても知られる)の任務について、Edward Landy,Ed.D.,が次のように定義づけをしている。

 「……生徒個人を助けて、彼が自らを正しく評価し、将来の方向を決定し、性格の欠陥を克服し、そして自らと周囲の人たちと共に積極的にかつ建設的に生活していけるような強さや性格を形成していけるようにすること。」

 若年性のリウマチ性関節炎のような慢性の病気をもつ学生は、将来の職業、性格、自分自身に対する認識などに関して、特にそのような指導を必要としている。思春期の青少年のもつ普通の問題も、関節炎の痛みや身体的精神的ストレスとの苦闘、身体の変形が進んで活動が妨げられたり、容姿が変わっていくなどのためにずっと拡大されて深刻なものとなってくる。

 しかしながら、身体障害をもつ学生の経験した学校における指導についての調査結果によると、Dr.Landyの述べている理想と、実際に行われていることとの間にはかなりの差があるようだ。

 役に立った指導 指導のよい成果をあげたあるカウンセラーは、不安定な病状をもつ生徒と高校時代を通して近いつながりを保ちながら、指導を続けた。

 Janeが高校最後の6か月間をRobert B.Brigham病院に入院しなければならなかったとき、このカウンセラーはJaneのひざもとで卒業式ができるよう手配した。Janeは卒業のキャップをかぶり、ガウンを着ることができたのだ。学校の役員、家族、友達が病院のスタッフと並んで立ち合い、“Pomp and Circumstance”のレコードが流れると共に涙した。そしてJaneの住む市の市長の卒業証書を手渡した。この特別の日の出来事よりも大切なのは、このカウンセラーの日ごろの変わらぬ援助である。Janeが大学入学準備のクラスをみな同じ階の教室で受けられるように組んだり、クラスの友達が教科書を運んでくれるようにしてくれた。Janeが運転免許をとったときには、校舎の入口のすぐそばへ駐車できるような許可をとってくれた。

 カウンセラーはJaneの普段の学業成績と内申書をよく見ており、Janeが学校に出られないときには、すぐに家庭教師の世話をしてくれた。Janeを州のリハビリテーション委員会に紹介し、大学4年間の経済的援助が受けられるまでいろいろと連絡をとってくれた。そして今Janeは、雇用関係のカウンセラーになるための訓練に励んでいる。

 Janeはこのカウンセラーを彼女の一番の親友と呼んでいる。病院のスタッフから見ると、このカウンセラーの指導は想像力豊かで、しかも現実的、擁護的である一方、常にJaneを自立の方向へと力づけるものであった。

 Marieは今は既に大学を卒業しているが、以前私立の予備校に通っていた。その予備校にひとりのカウンセラーがいたのだが、Marieが後に同類の職業を選んだのは、このカウンセラーの仕事に感動し、有意義なことを知ったためだと言っていた。このカウンセラーは彼女自身ポリオからのマヒがやや残っていたので、Marieのこともよく理解してくれた。彼女自身の体験から、身体障害者にとって大切な実際的な事柄をよくわきまえていて、Marieにはキャンパスが広すぎるような大学には応募しない方がいいだろうと忠告した。

 他のカウンセラーは身体障害をもつ学生にとって建築上の障害がどんなに大きなものか認識していないようだ。例えば階段の多いこと、手すりのないこと、エレベーターのないこと、そしてところどころにしかない車イス用のスロープなどがどれほど重大なことか。

 指導に対する消極的な態度 患者が報告している指導に対する批判は、普通の健康な学生からも聞かれるようなものであるが、慢性の病気のために既に重症になっている学生からのものは、更に重大なものとなってくるようだ。

 ある重度の障害をもつ少年は次のように指摘している。彼の指導にあたったカウンセラーは「現在の限られた世界をそれ以上のものに広げるよう後押しをしてくれるわけでもない。僕たちは身体と一緒に精神的にも限界があると思っているのではないでしょうか。」

 別の少年は、カウンセラーはとかく他の職員みんなの前で生徒に関する情報をしゃべってしまうものだと思っている。ある15才の優秀な生徒は、彼女の学校では“指導室”は“事務室”を意味するようなもので、生徒たちは何の信頼も置いていないと言っていた。

 関節炎に悩む若い人たちが必要としていることについて、全く誤解をしているようなカウンセラーの態度のことを話していた学生もいる。高校3年生の生徒は、なかなかの美人で、カウンセラーの指導を受けていた。カウンセラーは、彼女に将来自宅営業の会計士になることをすすめていたのだが、その理由は彼女が数学を最も苦手としているので、競争の激しい社会には出ない方がよいと考えていたためのようだ。彼女自身は本当は他の人々と一緒のオフィスで働きたいと思っていた。彼女の社会生活の経験は既に限られたものなので、他の人たちと一緒に働く仕事を選ぶかどうかということは、これからの一生にとって重大な問題なのである。

 ほかの患者は高校で指導を受けた経験を、カウンセラーが職業の選択について十分な知識をもっていなかったので、ごく限られたものでしかなかったと見ていた。何人かは、学校の指導課は大学に進む人にしか関心をもっていなかったと言っている。才能に恵まれているが、重度のリウマチ性関節炎をもつある若い男子の患者は、芸術家になりたいと思っていた。しかし彼が通っていた障害者のための特殊学校の先生が「もう芸術家などは必要とされていないんだ。最近ではすべてカメラがやってくれるんだからね!」と言ったとき、彼の芸術家への道は閉ざされてしまった。

 難読症のために同じ学年を何度もくり返してきたMiriam(17才) とっては、リウマチ性関節炎治療のために入院したことが幸いして、彼女に合ったよい学習計画がたてられた。前の年にはたった2回しか学校のカウンセラーに会わず、そのカウンセラーはMiriamの関節炎のことも難読症のことも知らないのだ。病院にいる間に、Miriamは自分の必要としている援助の性質を明確にし、退院のときには、それをはっきり要求することもできた。

 新しいカウンセラーは毎週1回面接をし、Miriamの自分自身に対する認識を高めたり、もっと早くするべきだった読解の補習のために家庭教師を手配したり、関節炎と難読症のことを学校の記録に明記した。また、Rhode Islandリハビリテーション委員会に連絡をとって援助が受けられるようにしてくれた。Miriamは今では学校の成績もよくなり、放課後には看護婦の助手の仕事をしている。将来はOTになりたいと思っている。

 病院のスタッフが気がついて初めて救われたケースもある。ある10代の女子は、リウマチ性関節炎のために1学期間学校を休んだ後、退学してしまった。その理由は、彼女のカウンセラーが“厳しく”同じ課目をくり返させようとしたことと、病気の間来ていた家庭教師の指導がわるかったためだと言っている。家庭教師の指導も地域によっていろいろと異なる。

 ある患者は自分のクラスの担任の先生に来てもらうことができ、教室でよりもよく勉強ができる。一方、家庭教師に来てもらうまで長い間待たされた上、現れた人が教師としての資格を十分に備えてなかったという場合もある。積極的なカウンセラーは家庭教師と学校の間のよい橋渡しになるのだが、多くはそこまで興味をもっていないか、忙しくてその時間が全くないかのどちらかである。

 自宅学習計画について報告をしてくれた学生の大体みんなは、計画が成功してよい成果があげられるかどうかは、家庭教師とか教室との連絡方式あるいはその両方を採用するといった方法によるのではなく、学校の職員の学生に対する関心の持ち方で決まるものだ、と考えている。

 最も悲しいのは、ある17才の高校男子の場合で、彼はリウマチ性関節炎と血友病のために、主に自宅で療養して過ごさなければならない状態であったにもかかわらず、大学に進んで勉強をしたいと願っていた。前年中は教室との連絡をとりながら、クラスに遅れないようにまじめに勉強した。けれども担当のカウンセラーは彼が友達と一緒に参加できるような数少ない校内活動からも除外しようとしているように思われた。例えば、彼はクラス写真にぜひ一緒に入りたかったが、それは許可されなかった。「危険すぎる」とカウンセラーは言うのだ。この若者にとって、それは何よりも個人的な拒否であるように感じられた。

 ここにまとめてみると、これまであげてきたガイダンス・カウンセラーに対するいろいろな見方から、関節炎をもつ学生を指導するには、より高い感受性と融通性が必要だということである。関節炎の状態は患者の運動、階段を昇降したり、本を持ち運んだり、書いたりする力や全身的な疲労の程度に直接影響してくるので、ときによって患者の具合と必要としていることを、常に学校関係者に知らせておくことが大切であり、それは医師や患者の家族と折衝のあるスタッフの責任である。体育の課目については、その内容に従って再検討するべきである。リウマチ性関節炎の学生たちは、学校のガイダンス・サービスが学生たちのもつ限界ではなく、可能性を強調して行われるものであることを最も強く望んでいる。

 常に人間的な興味と豊かな想像力にあふれたカウンセラーであることの方が、数多くの学位をかかげていたり、特別の年齢、性別であることよりもはるかに重要である。ある少女が大変によく援助してくれたカウンセラーについて言っていた。

 「そのカウンセラーは特に知識が豊かだったというわけではないけれど、私に関心をもっていてくれたし、どこへ行くべきかを知っていたわ。」

 このようなカウンセラーこそ、関節炎に悩む学生が自宅や特殊学校にとり残されて差別されてしまうのではなく、友達と一緒に学校で学び、人生に立ち向かっていけるようになるために、欠くことのできない存在なのである。

 州政府リハビリテーション委員会のサ ービス

 若年性リウマチ性関節炎患者のほとんどがカウンセリングや訓練(教育も含む)を受けられる、第2番目のサービス源として、州・連邦政府による職業リハビリテーション・プログラムがある。この調査の対象となった患者の大多数の出身州であるマサチューセッツ州のプログラムは、従来、戦傷者のみを対象としていたサービスを労働災害者にも拡張することにより、1918年に開始された。1921年までに、このプログラムは障害をもつ一般市民にも開放され、州政府の文部省の管轄下に置かれた。

 マサチューセッツ州で、1956年にリハビリテーション委員会(the Rehabilitation Commission)が、独立機関として設立された。そのとき以来、この委員会は毎年サービスを拡張し、徐々に職員の数および質を向上させ、活動的な調査活動によって成果をあげた10。ほかの患者が出身しているその他の州でも、同じようなプログラムをもっているが、マサチューセッツ州がもっとも長くつづけられており、人口が少ない他の州よりも、職員構成がすぐれている。この調査にあたって、リハビリテーション・カウンセラーとどのような接触をしたかを告白している患者は、必ず、人材不足だったことを指摘している。しかしこの人材不足は、現在は改善されたところもあるが、同じような落とし穴が他の専門家の仕事をさまたげていることを知らなければならない。

 この調査の対象となった百名の患者のうち、20名は各自出身州のリハビリテーション委員会による訓練を受けたことがあった。この20名以外の患者は、若すぎる(12才から15才)ためにサービスの対象にならなかったか、または、家族の者が訓練費を支払えるために、リハビリテーション委員会のサービスを受けなかった。年齢が高すぎるためやその他の理由によって、就職を目的とする訓練の対象にならなかった患者もいた。

 リハビリテーション委員会の訓練を受けたことのある患者は、その当時をふり返り、患者とカウンセラーとの間に親密な関係がなかったと述懐している。患者の側もカウンセラーの側も、リハビリテーション・サービスに関する法体系は、個人の能力を最大限に生かそうとするよりも、むしろ能力を限定してしまう、と感じていた。

 誤解 訓練を受けたあとの就職にだれが責任をもつのかについて、しばしば混乱があった。病院に来た高校生の年齢の患者のほとんどは、学校の指導主事(school guidance personnel)と連絡をとっている リハビリテーション連絡コンサルタント(rehabilitation liaison consultant)から、リハビリテーション・サービスに関するなんらかの情報を受けていた。しかし、若年性リウマチ性関節炎センター(The Center for Juvenile Rheumatoid Arthritis)に評価を受けに来た高校生には、「リハビリテーション分野に従事しているだれか」と学校で話したのだが、という程度の知識しかない者もいた。これらの高校生は、そのカウンセラーの名前も知らなければ、どのようにその人と連絡を取ったらいいのか、高校卒業後に適切な訓練を受けるためにカウンセラーのサービスをどのように利用したらいいのか、さえわからないようであった。

 重症関節炎患者である一人の女高校生は、アリゾナ州で4年制大学の奨学金を受けられるはずであった。しかし、彼女が相談していたカウンセラーが地区事務所を辞めてしまったため、奨学金を受ける資格を喪失してしまった。この女高校生は最終的には大学にいきたいという希望を実現することができたが、それは、病院のリハビリテーション・チームが、リハビリテーション・サービスの利用のしかたを彼女に教えたあとであった。

 26才の男性A.S.は下肢がひどく悪かったのだが、その障害でもって働ける職場をみつけてもらいたかったが、ニューヨーク州のリハビリテーション・サービスはそれに対してなんの力にもなってくれなかったと、不満を述べていた。もっともリハビリテーション委員会のおかげで、医療を受けるためになんども休学をしたにもかかわらず、大学を卒業することができたと認めていた。そして彼はとうとう自分の仕事を見い出した。自宅の近くにある出版社で教育プログラムを計画する仕事である。

 ロードアイランドリハビリテーション委員会のサービスにより短期大学に通っている学生、Johnも不満を述べていた。米国中西部にあり、報道写真学科のある大学に進みたいと決意したのだが、その学費を拒否された。その結果彼は、関節炎を悪化させるような重労働に従事してお金をため、自分の希望を実現させたのである。

 カウンセラー リハビリテーション職員の配置がえがしょっちゅう行われるために、迷惑をこうむる患者は少なくない。「私が行くたびに、新しい担当者に話さなければならない」といっていた者もいた。

 Richard,22才、は、二人のカウンセラーを比較して次のように述べていた。「C氏は彼がもっともよいと考えることを私に強制しようとした。私をじゅうぶんに理解しようとはしなかった。私には全く不向きな、ボート場での仕事に就かせた。大きな巡洋艦に重い厚板を運ぶ作業もあった。他方、M氏は若者の扱いかたを知っていた。彼はとてもうちとけてくれ、私をひとりの人間として知ろうとしてくれた。」

 後者のカウンセラーはこの患者を電気学校に通わせ、テレビ電話の部品をつくる会社に就職させた。この会社には、現職訓練プログラムがあるので、Richardは 自分の能力を向上させることもできる。また、障害者のための配慮がなされ、ランプ(傾斜路)、手すり、エレベーターなども整い、その上、車イスのまま利用できる浴室もある。Richardは現在このような障害者用の設備を必要としているわけではないが、彼の関節炎が悪化した場合でも、この会社で仕事をつづけられるわけである。

 才能とフラストレーションについて 26才の黒人患者Frank M.は、リハビリテーション委員会が彼の希望をちっとも聞こうとしてくれなかった、と述べている。彼の関節炎は6才のときに始まり、障害児のための特殊学校に通った。美術と簿記の成績がよかった。学校を卒業するとき、リハビリテーション・カウンセラーに、「ビジネス・スクールの授業料の援助は受けられるが、その学校に通う交通機関を自分でなんとかしなければならない」といわれた。

 Frankの障害では公共交通機関を利用できなかったので、彼は運転免許講習を受けた。彼の母親は未亡人であったが働き者であり、彼に中古車を買ってやり、彼が運転できるように改造した。この車を実際に道路で運転できるようになったときには、学校の入学時期を逸してしまい、そのためFrankはごみ処理会社の事務所につとめ、電話の応対や帳簿つけをし、週給30ドルを受け取った。Frankはこの仕事を短期的なものと考えていたが、彼がリハビリテーション事務局に訓練を受けたいと申請したら、彼はすでに就職しているのだからそれ以上学校に行く必要はないと断られた。(マサチューセッツ州リハビリテーション委員会職業 手引書(Professinal Manual for the Masachusetts Rehabilitation Commission)によると、「1967年8月、障害者でその能力以下の仕事に従事している者は、その能力にもっと適した 仕事に就くために、職業リハビリテーション・サービスが提供されるものとする。その者の興味および希望をよくみきわめ、適切な職業に就けるようなプログラムを用意しなければならない。」と記述されている)。

 その秋もFrankはごみ処理会社で働きつづけたが、ビジネス・スクールに夜、週3日通うことにし、その授業料は自分で支払った。このようにいろいろとごたごたし、過労のため、彼は右腰がひどく悪くなり、クリスマスを前にして入院するはめになった。そのときが「人生の下り坂の始まりだった」とFrankは述べていた。

 救急病院で右腰の手術を受けたが、術後の出血が多量だったために、その手術は失敗であった。一年後、彼はRobert Brigham Hospitalに移されたが、そのときには左右の腰が固定してしまい、両腕も動かせなくなっていた。Frankは座わることもできなくなり、その後の人生を寝たままか、クラッチに頼って立てるだけであった。

 しかし、集中的なリハビリテーションを行う病院に移ったおかげで、Frankは残された可動能力を最大限に 生かす方法を学ぶことができた。そして遂には、短距離の歩行が可能となった。彼にとってもっとも重要なことは、Robert Brigham Hospitalの作業療法部でのプログラムによって 、美術の才能を伸ばせたことである。

 彼は再びリハビリテーション委員会に照会された。Frankは世界的に有名な美術学校に入学することができたので、こんどは、カウンセラーは彼に美術の勉強をさせる授業料を認可してくれた。Robert Brigham Hospitalのボランティアが彼のために特別のテーブルをつくってくれたので、そのテーブルを使えば、他人の介助なしに、自宅で直立姿勢になることができた。現在彼は自宅で絵筆を取ることができ、新世界を切り開けた思いである。

 油絵、水彩画などFrankの作品を発表する第一回展示会が病院のロビーで開かれた。この第一回展示会が契機となり、その他いくつかの展示会を開催するはなしがまとまった。自分の作品が売れ始めたし、また絵を教えたいと思うようになった。

 ところが一方では、新しくFrankの担当になったリハビリテーション・カウンセラーは、Frankは「非現実的」なことをいつも考えているので、訓練を受ける資格は なかったのだ、と不平を述べていた。Frankはイヤリングを作ったり、グリーティング・ カードを印刷したり、写真の色づけなどを自宅でしているにすぎないじゃないかと、指摘している。しかしFrankが描いた感動的な作品を買いつづけている人々は、美術も有意義な立派な就労であることを証明している。

 一貫性のない政策 18才のFlora M.も、リハビリテーション・カウンセラーは彼女の能力を無視して独断的方向づけをしたがる、と感じているひとりである。この患者は10才のときリウマチ性関節炎にかかり、クラッチとブレースを使用しながら高校をなんとか卒業し、成績も優秀で、課外活動にも積極的であった。彼女はRobert Brigham Hospitalから彼女の出身地のマサチューセッツ州リハビリテーション委員会事務局に照会され、ソーシャルワーカーか指導員のような職業に就くための養成を受けたいと申請手続を取った。

 Floraは他人に対する思いやりが深く、また非常に美しく、魅力的なパーソナリティーをもっている。長距離を歩くことはむずかしい。書きものなどをすると手が疲れやすい。彼女の障害を考えるよりも、彼女の持てる能力のみに焦点をあて、特定の職業に的をしぼり、その目標を達成するための教育を受けるための援助を申請したほうがよいと、病院で指示された。

 しかしFloraが自分の希望を表明したとき、リハビリテーション・カウンセラーは、彼女の目標は「教育を必要としすぎる」という理由でただちに拒否した。それではどんな職業をすすめてくれるのかと、彼女はカウンセラーにたずねた。彼は医療技師とか医療関係の秘書としての職をすすめてくれたが、これらの職業は手の巧緻性を要求するので、Floraには無理と思われた。教育は2年以内に完了 するものでなければならない、とリハビリテーション・カウンセラーにいわれた。(しかし、前述のマサチューセッツ州リハビリテーション委員会職業手引書に規定されているわけではない。)

 Floraはテストを受けるようにカウンセラーにいわれた。カウンセラーの手配により、75マイルも離れたところから彼女の家に心理学者がやって来て、投射検査など各種のありとあらゆるテストを実施した。Floraの学業適性テストは、すでに優秀であることを示していたにもかかわらずである。これらのテストを実施するために州政府が多大な出費を負ったにもかかわらず、その結果については、Floraにも彼女の家族にも知らされなかった。

 そしてとうとうカウンセラーは、Floraが地域の大学に入学することを認可した。しかしこの大学の授業料はたったの200ドルである。その上カウンセラーは、第一学年で選択する学科にまで口をはさみ、会計学をなんとしてもとるように指示した。「われわれは実用性を重んじなければならない」と主張して。

 この時点で「実用的」とは、Floraにとっては「将来進むべき方向を限定される」ことにほかならなかった。教養課目は「あいまいすぎ」、科学関係の課目は「むずかしすぎる」とまで、カウンセラーはFloraにいっている。

 この例とは反対のケースになるが、19才のBeatriceは、特別のテストを 受けずに、作業療法士になるための大学に行くよう、マサチューセッツ州リハビリテーション委員会に認可された。彼女は情緒が不安定のために、2回も大学から脱落し、カウンセラーは現在、彼女が精神科治療を受けられるよう手配をしている。

 これらのケースが意味することは明らかである。リハビリテーション委員会は、もっと教育を十分に受け、各種職業をもっと現実的に把握していて、クライエント自身とその人の持つ個々の障害をより深く理解できるカウンセラーを必要としていることである。この調査で明らかとなったが、教育的に高い水準の職業を求めるクライエントは、単純労働に満足できるクライエントより、カウンセラーとうまくいかないようである。

 単純労働のケース 32才のGeorge L.は腰の手術のあとに受けた訓練に満足している。彼は地区オフィスで適性検査を受けてから、電気部品を修理する工場に現職訓練として派遣された。訓練ののち、週3日働く正規職員になった。この職場に彼は満足し、彼の妻や子どもに対する扶養家族扶助(Aid to Dependent Children)の額も下げることができた。この患者はカウンセラーが指示した目標に満足し、カウンセラーの期待を満たすことができたのである。

 特殊な職業も可能 リハビリテーション委員会がより広い範囲のクライエントを網羅し始めていることが、5人の患者のケースから明らかになった。5人のケースは、たとえ全面的援助でないにしても、大学に通わせてもらっている。この若い男女は、自分の職業目標をはっきりさせ、リハビリテーション委員会に援助を申請する前に、大学入学許可をとっている。このようにして、リハビリテーション援助(rehabilitation assistance)によって、彼らは自分たちの授業料を稼がなくても大学に行けることになる。

 これらケースの5名の患者は、今年から教職に就くLinda、都市再開発分野に働く予定のJanice、作業療法士になりたいと思っているBarbara、そして、現在大学4年生であり医学を志しているJamesとLarryである。若年性関節炎のような疾病のある者は、その悪化を防ぐために適切な休息が非常に重要であり、すでに述べたJohnやFrankのように大学と仕事を両立させようとしたために症状が悪化することが多い。

 このような患者にとっては、自活できるようになることばかりでなく、社会的に有益な職業に就くことによって、自分たちの地域社会生活を強固なものにすることが必要である。教育(訓練)を受ける期間に提供される援助は、予防的役割と経済的役割をもっているようである。

 リハビリテーション・カウンセラーをもっと有能にするためには

 クライエントをリハビリテーション委員会に照会する医師、看護婦、ソーシャルワーカーなどは、リハビリテーション委員会が提供できるサービスの法的機構によく精通していなければならない。例えばマサチューセッツ州では、「就職に実質的なハンディキャップ」となる「身体的または精神的障害」を有するという必要条件があり、しかも、「就職できる」者でなければならない。これら三つの定義は、若年性リウマチ性関節炎のような慢性病を扱うには、あいまいである。ときには症状が比較的に良好であっても、症状が急激に悪化するときがあり、そんなときには就労などとうていできないことになる。

 リハビリテーション委員会は単なる診断だけをするのでは不十分である。個々の患者の疾病を十分に理解し、学校、訓練、仕事などに及ぼす影響を詳細に記述し、どのような〈適切な〉活動を処方すれば予後に〈効果〉があるかなど、予後を慎重に検討しなければならない。むずかしいケースの場合は、他所へ照会する前にカウンセラーと話し合い、患者、カウンセラー、病院の三者がフラストレーションや敵対心をもたなくてすむようにすべきである。

 リハビリテーション・プログラムに対する作業療法の果たす役割 Robert B.Brigham Hospitalのように、独立した作業療法部をもっている病院は、患者をリハビリテーション委員会に照会できる段階にまでもっていくことができる。若年性関節炎センター(The Center for Juvenile Arthritis)にひとりの作業療法士が配置された。彼女はリハビリテーション・カウンセラーに役 立つ情報をもっている。作業療法士は、衣服の着脱、身だしなみ、入浴のしかたから、食事、料理、家事に至るまで、広範囲にわたる日常生活動作能力を評価したり、能力の向上を期すことができる。セルフケアは常に職場に就く前に達成されていなければならない。

 若年性関節炎は、書字、タイプ、電話の使用などのコミュニケーション手段にも影響を及ぼすことがある。作業療法士はこのようなコミュニケーションの能力を判定するとともに、これらの活動をやりやすくするための補助具なども処方できる。指に障害があらわれた場合には、電動タイプライターを使えば多少楽になるであろう。交通手段に関連する諸問題も作業療法士が解決できる。この場合、理学療法士の力を借りることもある。バスや電車の乗降や賃金の支払い方なども含まれる。自分で運転したほうがたやすい患者もいるであろうが、その場合は車に取り付ける特殊設備に関する助言が必要とされよう。

 このように、病院のなかで働く作業療法士は、手先の活動から工芸に至るまで広範囲にわたる患者の能力を観察し、訓練をし、テストもできる。手の巧緻性、指示を理解する能力、速度、想像力、色彩感覚などは、数多くの職種に重要である。社会的能力(social skill)、リーダーシップ、進取の精神、および協調性は、作業療法部におけるグループ活動において観察できる。筋力および耐久力は職種によって要求される。このような評価や前訓練プログラムを通して、患者は正しい姿勢による作業、エネルギーを消耗しない働き方、変形をもたらすようなストレスをためないために関節や筋肉の保護のしかたなどを学べる。このような情報を患者担当のリハビリテーション・カウンセラーにも提供し、それを職場にも生かすようにすべきである。

 理学療法と職場訓練(Job Training)の関連

 理学療法士は、患者の現実的な職業目標を設定する場合に大いに力を貸せるはずである。勉学においてもまた就労においても、可動性(mobility)は重要である。若年性リウマチ性関節炎患者は自分の教室まで歩けるだろうか。教科書類を自分で運べるだろうか、それとも他人の援助が必要だろうか。車イスを使うべきか否か。訓練を受ける場においてまたは就労の場において、階段があった場合、その段数や階段をなんとかこなせるのか、どのくらいの時間立位を保たなければならないか。

 各運動技能(motor skill)は、個々の場面に合わせてみなければならない。例えば、学生や技術者が絶えず立っていなければならない科学研究室は、数多くの若年性リウマチ性関節炎患者にとって、イスに腰掛けていられる職場(または教育の場)よりもきびしいであろう。どのようなとき、どのような場合に痛みや硬直が起こるかについての情報を伝えなければならない。関節炎患者の多くは、午後とか夜のほうが気分がよく、早朝のクラスや早番を避けたいと思っている者もいる。

 面接のとき関節炎患者の多くは、すべての理学療法士が知っていること、すなわち、ひとつの姿勢を長時間保持することはむずかしい―ということを強調していた。からだを動かしたり伸展させることにより、坐位や立位の耐性が増加されるであろう。病院の治療チームの一員として理学療法士は、患者の体力、耐性、そして柔軟性を大いに伸ばしてくれる。

 コミュニティー・サービスへのかけ橋役としての病院ソーシャルワーカー

 多分野の専門家でもって構成される病院チームの一員であるソーシャルワーカーは、コミュニティーにおけるサービス源を最大限に活用するためと患者の家族関係をスムーズにするために、患者が若年性リウマチ性関節炎と診断されるやいなや、患者およびその家族との人間関係を樹立しなければならない。関節炎患者が青年期にはいったときには、彼が将来自立し自活できるおとなとして生きられるよう計画を立てなければならない。将来適切な就職をするためには、彼が学校に通っている段階から始めなければならない長期訓練もある。

 患者の将来の希望や能力を早期に評価することにより、目標がはっきりするであろう。学校の指導サービス(guidance services)に早く照会し、州のリハビリテーション・プログラムに援助を申請すれば、目標の達成も早められるであろう。ソーシャルワーカーは、患者およびその親たちが地方教育局(local school department)や州リハビリテーション・サービスの機構のなかにあるサービスの活用のしかたを知っているかどうかを、確かめなければならない。

 病院のスタッフ(医療およびパラメディカル)とコミュニティー・サービスの間に、情報がスムーズに流通するようなチャンネルを設立しなければならない。ソーシャルワーカーはこのようなコミュニケーションを促進し調整する役割をもっている。病院においてチームアプローチをする場合には、チームのすべての人の考えや専門知識を生かさなければならないが、しかし、患者の主治医のしっかりしたリーダーシップを尊重しなければならない。

 患者が心理・社会的(psychosocial)諸問題をかかえていると学業や仕事に影響するので、病院で働くソーシャルワーカーは患者の主治医や精神科コンサルタントと相談した上で、その患者がどんな心理的サービスを必要としているかを、決める役割をもっている。病院のサービスは通常高度に専門化されているし、患者は地域社会における援助を必要とするので、外部のサービスも活用しなければならない。

まとめ

 12才以上の若年性リウマチ性関節炎患者百名を対象にして行われた調査は、彼らの教育および職業上の希望(向上心)やその成果がかなり高いことを明らかにした。学校の指導サービスや州政府のリハビリテーション・サービスが患者に役立っている。しかし残念ながら、ひとつひとつケースを分析してみると、専門職者の理解が足りないために、カウンセリングが生かされず、学生やクライエントを落胆させ、心理的成長をはばみ、ケースによっては身体的ストレスを増強させている。

 患者、医療チーム、地域社会の教育サービス、リハビリテーション・サービスとの間の理解とコミュニケーションが改善されれば、慢性病に苦しめられているより多くの若い患者は、自分の能力をもっと生かせるはずである。Robert B.Brigham Hospitalの若年性リウマチ性関 節炎センターは、この調査の対象となった患者群のために、このような状況が改善されるよう努力している。

参考文献 略

(Rehabilitation Literature,October 1972から)

*Mrs.Morse はシモン・カレッジの社会事業学部でM.S.W.を修得し、1972年6月からChildren's Hospital Medical Centerのソーシャル・サービス部で、腎臓疾患のある児童・成人の透析・移植促進計画のケースワークとソーシャルワークを合わせて担当している。
**日本障害者リハビリテーション協会嘱託。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1973年7月(第11号)38頁~44頁
1973年10月(第12号)26頁~34頁
1974年1月(第13号)42頁~48頁

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