評価 批判的論評

評価
Evaluation

手塚一朗 中島和雄 池田勗訳

批判的論評

A Critical Response

Paul R. Hoffman,* Ed. D.,& David W. Corthell,**Ed. D.

 Simon Olshanskyの最近の論文は、自分のプログラムは改善する必要がないと考えている職業評価担当者、訓練された職業評価担当者を採用しようとしないとか、その領域の新任職員に現任訓練をしようとしない施設管理者、さらに、施設でのサービスの適切性を検討しようとしないリハビリテーション・カウンセラーなどにとって、大いに学ぶべきものとなっている。

 この論文にはいくつかの真実が述べられている。しかし一方、ひどい誤り、誇張、根拠に乏しい非難といったものも含まれている。したがってこれらのことに対し挑戦しないままに過ごすわけにはいかないのである。すなわち、(1)概念構成ないしは理論的根拠、(2)個々の見解、(3)Olshanskyの叙述戦略、の3点について挑戦しなければならない。

挑戦Ⅰ-概念構成

 Olshanskyの序論およびタイトルでは、この論文がワークショップにおける評価について検討しようとするといっている。ところが彼は、職業評価、作業適応、そして拡大雇用といった個々別々の点について批判的に論じているのである。さらに彼は、Barton、Dunn、Hoffman、Lashner,Nadolsky等の論者に代表される人たちの、職業評価と作業適応に関する多くの今日的な考え方や文献を無視している。

 The Tenth Institute on Rehabilitation Servicesでは職業評価と作業適応がその研究課題として指定され、Hoffmanが職業評価と作業適応の定義について案を提示した。これらは委員会で多少修正されただけで承認されて、IRS出版物に発表されている。前記二つのプロセスを明確に区別するため、これらの定義をここで引用しておく価値があろう。もっと総合的に検討したい読者はIRSの文献を参照されたい。

 <職業評価>は、評価と職業的探究を焦点として、現実のあるいは模擬的な作業を体系的に活用する総合的プロセスであり、その目的は、個人の職業的発達を援助することである。職業評価はその諸ゴール達成のために、医学的、心理学的、社会的、職業的、教育的、文化的、経済的な諸データを総合する。

 <作業適応>は、個人が作業の意味、価値、作業に要求されることを理解するのを援助すること;態度、人格的な特性、作業行動を変容させ向上させること;さらに、必要に応じ個人の最も適した発達という方向で機能面の能力を促進すること、などの諸目的に向けて、個別的作業や集団的作業、あるいは作業に類した諸活動を利用する治療、訓練プロセスである。

 今日的な考え方や論文では、以上二つのプロセスを区別する一方、それらの類似性、共通のゴールをも明記しており、これらは相互排反的なものではないとされている。しかしながら、明確に区別しておくことによって効果的なプログラミングが可能となるのである。

 Olshanskyは「伝統的な評価過程」について言及しているが、彼はその定義づけに際し、PruittとPacinelliによる文献だけを引きあいに出しており、これ以外のものに触れないままにしている。彼の論文を注意深く読み、そして彼の苦情を解釈すると、彼は伝統的な評価というものを、(1)ワークショップへの入所に先立って行う能力の把握、(2)評価過程の期間が比較的短期間に限られているもの、(3)評価過程に参加しているクライエントに対しては賃金が払われないもの、というように考えていると結論づけられる。

 Olshanskyは評価過程の再構成ないしは新しいモデルを打ち出すべきだと主張している。それとして、不幸にも一部のワークショップで長年実施されてきているプロセスをとりあげている。このプロセスとは、(1)前もって評価をせず、あるいはプログラムを組み立てもせずにクライエントをワークショップ・プログラムに組み入れ、(2)職業評価と作業適応との間に一線を引くことができないまま、(3)職業評価の目標、目的と、作業適応と結びついていなければならないプログラム・モニタリングとを区別しない、といったものである。現実には、後者のプロセスこそあまりにも多くのワークショップで「伝統的」なものであったけれども、幸いにも、上で概略を述べたプロセスに賛同する高度に洗練されたワークショップからしめだされることになってきたものなのである。

 実際問題として、Olshanskyは職業評価のモデルを提案することすらしていないのである。彼が述べているのは作業適応のプロセスなのである。「問題は行動をいかに変容させるかであって、行動をいかに評価するかではない」、「人がどんな潜在能力を持っていようとも、それを評価することから開発し完成させていくことの方へと我々の関心を転換すべきである。」さらに続けて彼は、「人間の潜在能力を開発するための戦略」について検討をすすめているが、その潜在能力を評価するということに関しては検討していないのである。これらの表現に示されているもろもろの目的は、作業適応の基本的な目的、すなわち行動の変容という目的そのものである。それらは職業評価における職業的能力把握、探究の目的とはなっていないのである。

 職業評価それ自体と、作業適応過程と結びついた評価ないしはプログラム・モニタリングとの区別が欠けている点が、Olshanskyのおかしている共通のきわめて重要な混乱点なのである。正しくは、Olshanskyは作業適応プログラムの有効性を決定するためにはプログラム・モニタリングというものが必要だと指摘しているのである。にもかかわらず、彼はこれがDVRのカウンセラーが職業評価として購入している評価過程だとレッテルをはっている。彼はこういったプログラム評価と職業評価との目的の違いに目を向けられないでいるのである。

 Hoffmanと前出のIRS文献の第2章では、職業評価それ自体と、作業適応と結びついた評価過程との目的の差について触れ、それらを明確にしている。職業評価の目的は「広範囲にわたる諸要因を査定し、リハビリテーションに関する勧告をつくることである。このような勧告には、(1)直接の職業紹介へ、(2)教育へ、(3)実務での訓練へ、(4)作業適応訓練へ、(5)長期の庇護雇用とかワークアクティビティ、あるいはデイケアーといったプログラムへの入所紹介、また、(6)リハビリテーションサービスの継続に適さない、などが含まれることになる」。Hoffmanが提唱しているそのモデルでは、クライエントをカテゴリー(5)に入れる場合には、継続的な再評価ということをも含めているのである。

 作業適応期間中のプログラム・モニタリング(プログラム評価)プロセスの目的は、「(1)行動と成績を観察すること、(2)適応プログラムの目標へ向かっての進展度を測定すること、(3)作業適応期間終了時に、必要な変更あるいはサービスの終了を勧告すること」である。人によっては「シラミをつまむ」ような細かなことのように思えるかもしれないが、これらの目的はそれぞれ異なっているのである。自分たちの諸活動を綿密にひとつひとつ区別することができるようになるまでは、我々がクライエントに対するサービスを改善するために自分たちの努力を適切に調査するということもできないし、クライエントにとって最大限に効果をもたらすプログラムを確立することもできないのである。

 最後に、最近の諸文献でもいわれているように、ここでも、作業適応の計画的プログラムを作るためには、職業評価はいかなる作業適応プログラムにも先行しなければならないということを指摘する必要がある。この評価は、正式の評価ユニット、ワークショップでの観察および評価の期間としての最初の2~3週間、あるいはケースによっては、リハビリテーション・カウンセラーの事務室でも行うことができる。問題が把握され、可能な場合はベースラインがセットされ、そして行動を変容するための必要なプログラムが決定されるということが必要なことである。

 CampbellとO'Tooleが非常に適切な形で指摘したように、訓練プログラムは問題に応じて異なったものとならなければならないのである。Olshanskyは、開発のための過程を調整するプログラム・モニタリングが必要であると強調することによって、効果的プログラミングの提案者となっている。しかしながら彼は、必要とされる調整、あるいは開発のための過程のタイプを決定するという問題、および、いかなる変数がモニターされるべきかということを正確に取り扱うことには完全に失敗している。

挑戦Ⅱ-個々の見解

 1.<ガイド仮説>:Olshanskyは、「多くの専門家が抱いているガイド仮説というのは、人間には身体諸器官があるのと同様に、能力、適性があるということである」と述べ、さらに、これらの「特質は…所与のもので概して不可変のものである」と述べている。直接的には述べていないが、彼はこの仮説は彼の所説を認めない評価担当者たちが考えているものだということをいっている。とんでもないことである!この仮説は古い心理学の検査理論では真実であったが、今日ではほとんどの人はこのような考え方を支持してはいないのである。

 職業評価領域で強調される点は、人間を援助すること、現在の職業的発達水準を正確に測定すること、職業的潜在性を測定すること、障害者の職業的探究を援助すること、そして今後の職業的発達を最大限まで伸ばすこと、などに置かれているのである。

 職業評価において問われる問題は、(1)クライエントは職業紹介あるいは訓練への準備ができているか、(2)もし準備ができているならいかなる職業あるいはいかなる訓練か、(3)もし準備ができていないなら、なぜできないのか、(4)いかなる処遇プランによってクライエントが育ちないしは環境変化がもたらされれば、クライエントが職業分野を決定しそこに入っていくことができるようになるか、といったことである。

 Olshanskyは、論文のこの節の中で、評価担当者は短い評価期間で障害者の確実な状態像をとらえることができると考えている、と指摘している。彼はこの点に関して、そのような評価では評価担当者と被評価者の人間関係の効果、単調で一貫性のない課題から生じる緊張の効果などの要因を説明し得ないと指摘して批判している。十分に訓練されていない評価担当者の手によって行われる場合や、不適切なプログラムで行われる場合には、評価は上述の欠陥を有することになろう。

 しかしながら、Olshanskyが提唱したワークショップ・プログラムの場合にも、そのスタッフが適切に訓練を受けていなければ同様のことになる。効果的なプログラムには、技能、巧緻性、適性、態度、人間関係、作業習慣、環境の影響といった諸要因に関する観察と評価が含まれるものである。重度の障害者にとっては、特定の作業適応訓練が必要であることはすぐに認識されるであろうから、この場合、職業評価は比較的短期間で完了できるであろう。強力な適応、開発プログラムを終了したクライエントを、正式の職業評価へもう一度もどすというのは、リハビリテーション・プロセスにおいては次のステップとなろう。

 2.<開発のための戦略>:Olshanskyは行動関係に触れたことばを「ほつれ髪」としてからめるという誤りをおかしている。彼はある何ごとかを開発と名づけ、訓練形式のプログラムを提唱しており、その後に、職業評価を批判しようとしている。

 彼のとった最初の戦略は、「種々の複雑性を持った、幅広く多様な、興味ある挑戦的な作業課題」を与えることであった。常に単調な反復課題しかないワークショップが多すぎるという点にはだれにも異論の余地はない。事実我々は、極めて限定された課題しかないワークショップはリハビリテーション・カウンセラーが利用するのを制限すべきだし、また全く利用されるべきものではないと信じている。そういったプログラムは、せいぜいワークアクティビティ・センターだけに限定すべきであろう。

 彼は、ワークショップが作業標本や職務評価などの検査の利用を通して、どのようにその評価能力を伸ばすことができるか、という点を示し得ないまま、その後に、主として作業適応あるいは開発ということに触れている。彼は評価およびリハビリテーションの中には、単調な反復課題の入りこむ余地はないと考えている。作業というものはある人にとっては単調で反復的なものかもしれないが、他の人にとってはそうではないかもしれないのである。「労働の世界」における多くの職務は単調で反復的である。それゆえ、現実的な職業評価の中でこれが必要とされるのである。これらの課題は、職業評価にとって貴重なフラストレーション耐性、作業習慣、きまりきった仕事に従事する能力などに関するデータをもたらすのである。

 第2に推薦している戦略は、クライエントに現実の賃金を支払うことである。作業適応プログラムにおける賃金、およびいくつかのワークショップにおいてみられる微々たるもの以上の賃金というものは極めて望ましいものである。しかしながら、金というものが常に最も価値のある強化刺激であるとはいえない。たとえば、賞賛とか、成就や目的を重んじる心というものも大きな報酬となり得る。さらに作業適応プログラムにおいて賃金は望ましいことではあっても、総合的プログラムにおいてはクライエントの興味および動機を得るために賃金が必要なものとはいえない。

 彼のとった第3の戦略は「正常行動」の標準を利用することで組み立てられている。再度、彼は職業評価の概念再構成を主張しつつ、開発のための過程について述べている。職業評価は人の現在の状況を査定し、その科学的潜在能力を予測しようとするものである。この差異こそ、クライエントの職業的発達水準の決定を助け、不適切な行動を客観的に記述し、さらに訓練プランを勧告するために評価を適応訓練に先行させる必要があることを示しているのである。

 3.<所要時間>:Olshanskyが問題にしているのは、職業評価の期間ということのようである。適切な評価プログラムを持たないいくつかのワークショップでは、職業評価を行うには、2~4週間とか6週間ですら十分ではないと主張している。そして、クライエントにはもっと高いコストで長い調査期間をかけなければならないと述べている。必要以上長期間にわたってクライエントを開発あるいは適応プログラムの対象にするということは、クライエントにとっても、紹介機関や専門職員にとっても不公正なことであると我々は考えている。プログラムは、最初からクライエントごとに目標が個別化し明確にされていないと、不必要に長期的なものとなるものである。そしてその結果適応訓練は論文の中で示唆されているように何年もかかるものとなろう。

 Olshanskyは「あるクライエントが通常の作業に対する潜在能力に欠けているということを降参して認めるのはどの時点であろうか」と述べているところでは宿命論者のように思われる。しかしながら、職業評価の目的は、すぐに希望をすてることではない。逆に、その目的は、潜在能力があるか、あるいはその問題を扱う他の方法があるかということを決定することにあるのである。

 Wisconsin-Stout州立大学のThe Evaluation and Training Centerのスタッフは、一見“望みがない”と思われる。あるいは“希望をすてている”という言葉がピッタリな多くのクライエントを見ている。それでもクライエントは、彼らのために開発された総合的職業評価プログラムおよび職業的探究プログラムに参加している。

 Olshanskyは自分の受け持つ代表的なクライエントは精神薄弱(教育可能)あるいは情緒障害のいずれかであると述べている。これらのハンディキャップを有するクライエントが長期的な作業適応プログラムを必要としていることは確かである。しかしながら、彼らもまた施設においては先行的な評価のために2~3週間という期間を必要としているし、そこで重要視されることは観察-評価-訓練プランの開発であって、即時的な適応訓練ではない。多分、彼がこういったタイプのものを引き合いに出している理由は、彼が総合的職業評価プログラムを持っていないからであろう。

 彼はまた、「他の人に半ぱものを売るという危険に走るよりも、金と時を浪費する方がはるかにましだ」と述べている。これは、大変高尚な表現で、異議をはさむことはむずかしい。不幸にも、厳しい財政制限の今日、彼の態度は我々が財政資源と人材という点からちょっととり難いぜいたくな態度である。我々は、コスト/利益率に関する堅実な目を持って、人々にサービスをする最も効果的な手段を決めることが必要である。ワークショップに競争雇用の潜在能力を持っている人を入所させ、そして長期間とどめておくことは、クライエントにとって害悪であり、そのコストは州-国家プログラムにとって耐えられるものではない。効果的な職業評価というものは、これらの点に関して役立つべきものだし、またそうすることができるものである。

挑戦Ⅲ-叙述戦略

 Olshanskyのあれこれの論文における戦略は、読者を攻撃し、混乱させ、そして同情に訴えるということのようである。我々の世界にいるOlshanskyのたぐいの人は、はなやかで、話を聞いたり著書を読んだりすると大変興味を引く人であり、我々の社会では精力的な役割をはたすものである。しかしながら、今やOlshanskyに対して挑戦する時であろう。この論文で、彼は極端な表現(たとえば「優秀な人物」「信じられないほど無邪気に」)を用い、いくつかの大きな失敗、ひどい過誤をおかしている。そのうちのひとつは、この批判論文で前に触れているが、評価者は適性などについてこれを肉体的器官のようなものと見、不可変的なものと見ているというような過誤である。

 ガイド仮説に関する節の中で、彼は評価過程に対し専門職員の権威とか、すぐれた人間は劣った人間の上にいる、という表現を当てている。この非難は完全に否定され得ない。職業評価担当者はこの非難を読み、熟考すべきであり、「それが当てはまるなら」行動を変えるべきである。ワークショップの職員、リハビリテーション施設の管理者もまた慎重に自省すべきである。何故なら、是正の必要性は評価担当者に限定されるものでないからである。他の人々より優れているという感覚はあらゆる職業人を堕落させるものである。それゆえ、この非難を職業評価担当者および評価過程だけに向けることは不正確なことであり、不公正なことである。

 二つの集団という節の中で、彼は再度、全面的に転換している。すなわち、「…専門家は多くの制限を伴ったその人の過去ばかりをとりあげていて、将来を探究しようとしていない…」と述べている。暗に、職業評価担当者が精神薄弱者に「愚鈍で可能性がない」と感じさせる役をしているといっているように解釈される。再び、彼は職業評価過程を理解もせず、不正確で、不公正で、そして反論せずにはいられないようなひどい記述をしているのである。

 もしOlshanskyが、引き続きいくつかの論文(「職業的リハビリテーションに関する六つのスキャンダル」Rehabilitation Record, January-February1973を参照)〔六つのスキャンダル…〕に対する追加論評はこの号の中でなされている;Isadore Salkind-編注)のやり方を続けると、その時はおそらく彼の「アブ」としての有用性はおしまいである。「スキャンダル」という言葉の使用はまったく不適切なものである。専門職業としてのリハビリテーション、職業評価、その他のリハビリテーション・プロセスはそれぞれ挑戦されることが必要であり、そして常に改善される必要がある。しかし最近のOlshanskyの論文にみられるようなたぐいのものは、その戦略の結果として、リハビリテーションおよびそのプロセスをきわめて不当に扱い、そしてはかり知れないほどのきずをつけることになろう。

参考文献 略

*Dr.Hoffmanは教育学博士で、Wisconsin-Stout州立大学のリハビリテーションサービス、マンパワーサービス部門の委員長である。
**Dr.Corthellは、Wisconsin-Stout州立大学の職業リハビリテーション研究、訓練センターの講師であり、訓練担当責任者である。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1974年10月(第15号)11頁~16頁

menu