「精神薄弱児」というラベルについて

「精神薄弱児」というラベルについて

理論的分析と諸研究の検討

The Mentally Retarded Label : A Theoretical

Analysis and Review of Research

D. L. MacMillan,* R. L. Jones** & G. F. Aloia***

中司利一****真田英進、生川善雄*****

 これまで、児童に「精神薄弱児」というラベルをはる(ラベリング)は、有害な効果をもたらすということについて、多くの論文が書かれた(Blatt,1972等)。そこでは、主として社会的地位の低い、軽度な精神薄弱児に関心が向けられた。裁判事件では、「精神薄弱」というラベルの有害なことが事実として引用されている。しかし、証拠となるような実験的研究をさがしても、ラベリングに関する研究にはほとんど出会わないし、手に入るデータはどれも、結論をくだすにはほど遠い傾向のものである。それにもかかわらず、大多数の特殊教育者の見解は、ラベリングは有害な効果を持つといっているようである。

 精神薄弱児というラベルとはったことが、児童にひどい害を与え、永続的効果をもたらしたという訴訟記録の一部を読んでも、こうした点は明らかに問題にされていない。

 ラベリング効果の性質とそのダイナミックスによってラベリングはある結果をひきおこすが、それは現在までなされた大ざっぱな説明よりもっと複雑であることは確かである。この問題について、2~3の研究者は、科学的研究のために、あるタイプのカテゴリー化又は分類が必要であると指摘している(Cruickshank,1972等)。また、別の研究者は、問題の複雑さを認めている(Jones,1972等)。今日まで、研究者たちは、ラベルが児童にどのような影響を与えるかについて、存在する証拠を検討し、手に入る証拠のうち、比較的重要なものから、それがどんなに薄弱であろうと、可能な結論は何でも引き出そうと試みた。しかし、そうした証拠は非常に乏しくて、結論をくだすのはとても難しいのが現状である。

 最後に、ラベリングの場合、ラベルの使用を主張する人々は、カテゴリー化が確かにラベルをはられた者の利益になるのだということを示す義務を持っていなければならない。すなわち、その支持者は、ラベリングのような行為が利点を持ち、その利点は、ラベリングによってもたらされる弊害よりも、ずっとまさっているということを立証する責任を持っている。本論文を書くにあたっての筆者らの目的は、ラベリングの有益な効果を示すことではなく、むしろ論争についての見通しと考えられるものを提供することである。

 その意図は次のようである。(a)問題を明確にし、ラベリングの問題をしばしば混同される他の出来事と区別すること。(b)ラベリングの効果を支持して、しばしば引用される証拠を検討すること。(c)ラベルと交互作用し、その効果を決定すると仮定される変数を解明すること。

問題

 多くの者が診断カテゴリーやラベルが持つ偏見効果に対する懸念を口に出したが、その中で特殊教育者たちは遅いほうであった。ラベリングの問題やそれに固有の危険なことがらはMaslow(1948)によって論じられ、その後Rotter(1954)によってさらに詳しく述べられた。Rotterは全カテゴリー過程を非難している。1961年,ZiglerとPhillipsは精神健康分野における診断分類問題で対立している心理学者の議論を要約した。8年後Dunn(1968)は、軽度精神薄弱児に関して特殊教育者に挑戦状を発表したが、その一部は精神薄弱というラベルについて仮定された有害な効果の議論にもとづいている。他の研究者たちはそれより早く特殊学級の効果について異議を唱えている。(例Johnson,1962)。しかし、その理由はラベリングを原因と考えるよりむしろ成果の低いことにあった。Dunnの論文以来、ラベリングの有害効果への言及がしばしばあらわれた。次の文章はこうした主張の例である。

 「……強調は……ピンで留められた有害で生涯にわたるラベルが児童に及ぼすネガティブな効果に置かれていた。(Catterall,1972)」「カテゴリーラベルは、焼き印となり個人にくっついて消すことができなくなる傾向を持ち、しばしばスケープゴートをもたらす。(Reynolds & Balow,1972)」

 ラベリングに対する懸念の根拠はたしかに存在するかもしれないが、精神薄弱ラベルの効果に関するそのようなはげしい、一見決定的な記述は、早計であるように思われる。不幸にも、文献の検討から明らかなように、「有害で生涯にわたる」効果に対する証拠はかならずしも多くない。そのような効果は何ら存在しないとまではいわないが、研究は仮定された効果に対して明瞭な支持を与えるようなやり方では計画されなかった。

問題発見における混乱

 ラベルの効果に関する文献は、いくつかの異なった問題を結びつけ混同し、ラベリング自体から焦点をわきへそらしている。一つの議論は、教育可能な精神薄弱児のための独立した学級の効果に対する不満に関するものである。それは、この種のプログラムへの措置は結果的に孤立と分離をもたらし、児童にとって学力の上でも社会的にも有益ではないと論じている。Johnson(1962)とDunn(1968)は特殊学級の効果に疑問を投げかけ、一方、Kolstoe(1972)はそれを弁護している。

 もう一つの議論は、知能検査の信頼度に関係している。知能検査は多くの人々によって文化的に偏っており、地位の低い児童にとって不利であると考えられている(Barnes,1974等)。この議論に関係して軽度精神薄弱と分類された少数児童の不均衡な数についての関心があらわれている。それらはMercer(1970)によって述べられた。しかし、それは、別にとりあげられるべき問題であり、本論文の焦点ではない。さらに又、別の議論があり、それこそ本論文の焦点であるが、それは児童に与えられている精神薄弱というラベルの効果に関係したものである。ここでは、筆者らは行政的配置又はカリキュラムの適切さについても、児童を分類するための知能検査の妥当性についても取り扱わない。その代わり、「児童が一度ラベルをはられると、それはさまざまな結果にどのような影響を与えるか」を問題とする。

 実のところ、ラベル「精神薄弱」の議論は二つの問題を残している。ラベルがある児童には適しているが、他の児童にはそうでない場合、誤ってラベルを与えたときどんな結果が生じるか? ここでの仮定は、ラベルは児童が実際より能力が低いとみなされたときのみ害を与えるということである。それとやや異なった関心は、ラベルの適切さとは無関係に、すべての児童に与える影響に関係している。ここでの仮定は、児童は、ラベルをはられる原因となった行動制限があっても、あるレベルの成績を得ることができる。しかし、いったんラベルをはられると、それが名誉を傷つけられるようなものであれば、それによって本来のレベル以下に成績を低下させられるというものである。

 ラベリングの結果どのような有害な影響を与えられるかをくわしく述べることができないと、さらに混乱が生じる。ラベルが自我のある面に与える仮定された直接的効果と、ラベルをはられた者に対する他人の行動に与える間接的効果から、二つの最も一般的にみられる関心が生まれる。最初の場合、一度ラベルをはられた者に、ラベリングの直接的結果として、前より低い自己概念や自己評価、要求水準などを見いだすことが期待されよう。こうした変化はラベリングの結果、生じるにちがいない。それは、特殊学級入級のような他の変化と無関係な証拠であることを意味している。第2の現象は自己実現的予言という考えを含んでいる。これは、教師や両親、兄弟は、児童が一度ラベルをはられると、彼に異なった反応を示すというものである。他人は、ラベルがはられなければしなかったような異なった行動を行うことによって、ラベルが内包する悪い成績の予言が実現するよういろいろと児童を援助するということが仮定されている。Potter(1971)が指摘したように、これらの二つの現象は単独にはみられない。むしろ「ラベリングは常に相互作用的体制の中で生じる。そして、ラベルの適用はそれ自体将来を決定する要因である。」

方法論的問題

 ここで検討する研究の多くは、自然な場面(たとえば教室)で行われたか、同時にいくつかの「処理」(たとえばラベルをはられることと特殊学級に入れられること)がなされた被験者について行われた。その結果、独立変数(ラベル×分離×カリキュラム×教師と生徒の比)は現実ほど複雑ではない。さらに、ラベルと特殊学級にあるその他のさまざまな要因との組み合わせは、その効果を実験におけるようなラベルの個別適用の効果と異にしていると思われる。

 関連する研究のいくつかで使用された別のやっかいな手続きは、本来の標本の抽出である。Heber(1961)とGrossman(1973)によれば、精神薄弱児であると分類された児童は、低IQに加えて適応行動に問題を持っていなければならない。適応行動の評価は正確でないかもしれないが(Clausen,1972)、信頼しうる心理学者によって精神薄弱児と分類された児童は、普通学級での学習において、教師の注意で引きつけるような問題を明らかに持っている。児童はそのときはじめて、個別の知能検査を実施される。簡単にいえば、精神薄弱はIQだけによっては診断されない。

 学級には、精神薄弱とラベルをはられた者と同じIQの児童が多く存在している。しかし、このグループは精神薄弱と考えられないし、考えられてならない。Mercerはこうした児童を「準精簿」(1971a)とか「有資格者」(1971b)などさまざまによんだ。

 彼女は、ランダムに選ばれた普通学校の1,298人の児童の中から、IQ80以下の児童を126人(74以下は57人)発見した。Mercerはこれらの児童(有資格者)は、精神薄弱児と分類される資格を等しく持っているが、見落とされた、又「彼らがまだ普通学級にいる事実は、学校による発見と教育的措置のミスと解釈される」と述べているが、この推理は我々に当感を与える。有資格者は等しい資格を与えられていない。学習問題に出会わないか又は適応行動の障害を明示しない限り、彼らは決して精神薄弱の分類への候補者と考えられたことはないであろう。これらの種類の児童とラベルをはられた精神薄弱児の比較は、ラベルの効果(又はラベルと入級の効果)を明らかにするのに何の役にも立たない。なぜなら、ラベルをはられたグループと、はられていないグループを説明する正確な変数は、このような研究では通常従属変数であるから。 

 ある場合、ある児童が特殊学級入級の検討のために照会されるかどうかは、学力の遅れ及び不適応行動に対する教師の寛容さに依存していると思われる。このことは、分離された精神薄弱児とそれと等しいIQを持つ児童の間のはじめの差は、児童ではなくて照会してきた教師の固有のパーソナリティー特徴に帰することができるかもしれないということを意味している。しかしながら、今日までこうした考察はなされていない。それは、二つのグループの児童の比較を意味のあるやり方で行う前に、ぜひやらなければならないことである。

有効性についての研究

 特殊学級の有効性に関する研究は、ラベルの効果についてほとんど何も明らかにしていないが、かなり広く引用されている。それらの研究を要約して、MacMillan(1971)は次のように述べた。「少数の例外(Goldstein,1965等)を除いて、これらの研究は、計画が不十分で、結果を解釈不能とするような標本の偏りでみちているということができる。」

 これらの研究を批判するために、読者は、Bruiniks & Rynders(1972)などを参照してほしい。これらの研究は、ラベリングの効果を知るためにほとんど役に立たない。なぜなら、処理(独立学級)は実際はさまざまな独立変数で構成されたいるから。これは又、Goldsteinら(1965)による研究にもあてはまる。二つのグループが一つの要素を除いて同様のプログラムを与えられる計画―そうすればその効果が従属測度にどのように影響するかがわかる。―の代わりに我々は次のことを見いだす。ラベル×分離×カリキュラム×教師×友人×教師と生徒の比。各グループはこれらの変数のどれについても異なった経験を与えられている。従属測度(通常、ある面の成績又は適応)のどのような差も、これらの差のいずれか一つに、又はそれらの交互作用に、又は従属測度を反対の方向に影響するものにさえ原因づけることができよう。

 このような混乱をもたらす独立変数のため、我々はこれらの研究から精神薄弱ラベルの影響について多くの啓蒙を得ることはできない。せいぜい、精神薄弱ラベルが、分離、異なったカリキュラム、「特殊な」訓練を受けた教師、低IQの友人、適応行動の障害、生徒と教師の割合が低いこととが組み合わされたとき、ラベルがなくて、分離されず、よりアカデミックなカリキュラムを与えられ、特殊な訓練を受けていない教師や平均的IQの友人がいたり、生徒と教師の割合が高いと生じるものとは幾分異なったものがあると結論することができるだけである。

 Gallagher(1970)は別の問題をあげている。「さらに、そのような解釈にあたって考慮されなければならない隠れたハンディが、大半の特殊学級プログラムによって共有されている。大多数の児童は、単に知的遅滞のためでなく、相当な行動上の又は他の学習上の問題のために特殊学級に入れられた。もし軽度の精神薄弱児が、教室で静かにすわっており、だれにも迷惑をかけなければ、多分彼は特殊学級に入れられないであろう。彼が学級で落後する前に特殊教育に参加することは、コントロールグループのメンバーとして役立つかもしれない。彼はそこでそうぞうしい特殊学級の仲間と比較されるであろう。ここに報告された大多数の研究には、特殊学級のプログラムに対するこの種の組み込まれた偏見が含まれている」

 この一節は、はじめに述べた標本についての問題を我々に思い出させる。そこでは、被験者はIQだけで等しくされ、他の面では同様であると仮定された。ある児童は特殊学級に入れられるのに、他の児童は普通学級に残ることが許されるのには理由があるのである。

 IQに関して、特殊学級と普通学級の児童を等しくすることから生じたさらに別の問題が、Guskin & Spicker(1968)によって述べられている。彼らは、非典型的な標本について得られた結果を、はじめのマッチしていない母集団に一般化することはできないと指摘した。普通学級でIQ55の児童を発見することは、あっても非常にまれであり、マッチされたペアの大多数はIQ70~74の範囲であろう。その結果は、処理(条件)が低IQ群に及ぼす効果を理解するのに役立たないかもしれない。

 Goldsteinら(1965)は、今日のところ、児童をランダムに特殊学級と普通学級に指定し、特別なカリキュラムの性質を詳細に述べ、児童の教育的措置以前の生育歴をコントロールした唯一の研究者である、しかし、第1年次に学級を指定するにあたって、彼らは人工的な取り決めを作った。そこでは、IQだけが選抜の基準とされた。すでに指摘したように、低IQだけでは精神薄弱と分類するのに十分でない。さらに研究開始後1年の終わりまでに、「精神薄弱群」の2分の1以上は80以上のIQを得た。 

 Zito & Bardon(1969)は本来のサンプリングのためのコントロールに別のテクニックを使用している。彼らは特殊学級への入級を結果としてまねくと思われる変数を統計的にコントロールしようとした。しかしながら、それは、4歳群と別の6歳群をとりあげ、それらを5歳に「する」ため共分散分析を使用することに等しいものである。5歳児には5歳児のユニークな特性がある。不幸にも、有効性に関する他の研究と同じように、彼らはラベリングの効果を明らかにしなかった。

 一般に特殊学級の有効性に関する研究は、どのようにみても、ラベリングの有害さを支持していない。実際、特殊学級在籍児がよりよい適応をしているということを示した多くの研究をみると、ラベルが有害であると解釈することは、データからみてほとんど適当でない。

従属測度

 研究者たちは、ラベリング問題を論じるとき、精神薄弱というラベルをはることが、「有害な」「生涯にわたる」「外傷的」影響を与えることについてしばしば論及している。しかし、また、彼らはラベルによって何が影響されるかについてしばしば正確に述べることができない。異なった研究では結果のカテゴリーは非常に多様で(例、自己の知覚)その特性を評価するため実施された用具はほとんど比較できないものであって、「用具効果」のため研究結果の比較の可能性に疑問が投げかけられる(Schurr ら,1972)。次のようないくつかの従属測度が、ラベリング現象に感度が高いと仮定された。又は実際そうであることが明らかにされた。

 (a)自己概念、(b)友人による拒否、(c)要求水準、(d)教師による学力についての期待、(e)成人期における適応のさまざまな指標(結婚、就職)、(f)児童がラベルをはられることを好まないという事実。

 従属測度についての懸念は、精神薄弱被験者にしばしば実施される用具の適切さに関する証拠が欠如しているところから、もっともであると考えられる。第1に、測度の多く(例、自己概念)は非精神薄弱被験者で標準化されており、精神薄弱被験者への使用の適切さは不要である。

 紙と鉛筆のよる尺度で得られた同一のスコアが、精神薄弱被験者にと非精神薄弱被験者に同じ意味を持つかどうかについては疑問がある。特に、精神薄弱被験者が社会的に望ましい、又は受け入れられる反応をする傾向が多い(Jones,1973)という点に照らしてそういえる。精神薄弱被験者と非精神薄弱被験者がパーソナリティー尺度に行った反応を比較できるかどうかの問題は今後の課題の一つである。

自己概念

 最もしばしばなされる非難は、精神薄弱というような名誉を傷つけるラベルをはられることは自己の価値低下をひきおこすというものである。どうも児童は、ラベルをはられると、自分自身を前よりも貧弱に評価し、価値が低いと考えるようになる。この際、強調しなければならないことがある。それはラベルが自己概念に与える効果は、特殊学級入級、孤立、及び他の処理変数などと混同してはいけないということである。それらはラベルに関係なく自己概念に影響を与えるものである。

 さらに大事なのは、ラベルをはられた条件とはられない条件へのランダムな割当がなければ、そうした推理を行うために、実験後データしかない結果を使用してはならないということである。

 研究者たちが、自己知覚、教師による評価、パースナリティーインベントリー、又は自己の価値低下を確かめることを試みた研究の多くは、ラベリングの前に生じた自己の価値低下をコントロールしかなかった。彼らは、実験後のデータしかない結果を解釈するとき、ラベルをはられる前の失敗又は拒否のようなものを考慮することができなかった。それらは、被験者がラベルをはられ、そして又は特殊学級に入れられる前に、すでに自尊心を低めていたかもしれない。

 ある研究は、早く行われた特殊学級入級と遅く行われた特殊学級入級は、自己概念にどのような効果を与えるかを調べた。

 Mayer(1966)は98人の軽度精神薄弱中学生にChildren's Self Concept Scale とThe Way I Feel About Myself を実施した。彼らは被験者のスコアと標準化サンプルのスコアに差がなかったと報告している。さらに、特殊学級への早期・中期・後期入級の結果にも差がなかった。

 これらの研究で使用された用具はしばしば疑問をなげかけられている。たとえばGardner(1966)はCalifornia Test of Personality がしばしば使われることに注目した。彼はこれらの研究を批判して、信頼度の少ないサブテスト得点がどんなに頻繁に使用されているかを指摘し、精神薄弱者に対する全検査の妥当性に疑問をなげかけた。しばしば引用されるのは、Meyerowitz(1962等)の研究で、そこでは、児童は高い声で読まれた1組の文章のうち一つを選ぶ(一つは名誉を傷つけるようなもので、他は社会的に望ましいもの)よう求められた。 

 これはIllinois Index of Self Derogationで、この研究はGoldsteinら(1965)による研究の一部であった。尺度は3回(1年の終わり、2年のはじめ、および2年の終わり)実施され、そのとき異なった形式のものが使われた。ここでも、尺度の妥当性と信頼度は不明である。Kolstoe(1972)は、Meyerowitz(1962)が22アイテムのIllinois Index で80%の再テスト信頼度を示したこととグループ間の平均の差の小さいことは納得がいかないことを指摘した。この尺度で同じように差の少ないことがCarroll(1967)によって見いだされている。しかし、80%の再テスト信頼度という説は当惑を与える。0.80の再テスト係数はありうる。又、80%の分散は信頼度係数(その場合、信頼度係数は約0.90)によって説明されよう。しかし、いずれの場合にも、80%の再テスト信頼度というのは適当でない。さらに、Carroll(1967)やKostoe(1972)による平均の差の大きさのとり扱い方は適切でないように思われる。問題は、グループ間に推計学を使って統計的に信頼しうる差が見いだされるかどうかである。

 一群の研究者たち(Schurrら,1972等)は、軽度精神薄弱児を追跡し、「能力ついての自己概念テスト」を実施した。最初、児童は、選ばれた学習に先立ち、6月に検査を受け、次に、ラベルをはられ入級して1年の間に4回検査を受けた。能力についての自己概念は特殊学級に入級すると上昇し、最初の年の終わりまで上昇しつづけ、そしてやや低下することがわかった。ここで、効果の研究と関係してさきに述べた変数とラベリングが混同されているということを指摘しなければならない。それらの児童を追跡すると(Schurr ら,1972)7名が普通学級に戻っていた(そして、それいよってラベルがとりさられた)。彼らは再指定に先立って24.57の平均点をとっていたが、1年後20.57の平均点になった。このことは、ラベルの除去及び又は普通学級への再指定のあと、能力についての自己概念が減少したことを示している。自己比較の基礎として関係群の重要性が強調されるようにみえる、これらの研究で使用されら能力についての自己概念の限界は、Schurrら(1972)によって考察されている。

 要約すると、自己概念とラベリングの間の直接的関係を示す証拠は見いだされていない、この関係に関する証拠のほとんどは、特殊学級入級対普通学級入級と混同されている、この混同された証拠は、ラベリング及び又は特殊学級入級はなんらはっきりした効果を自己概念に与えていないということを示しているようにみえる。ある研究者たちは、ラベルをはられた、及び又は特殊学級の生徒のほうに低い自己概念のあることを見いだし(Borgら,1966等)、別の研究者たちは、反対の結果を得た(Drewsら,1962年)。そして、1人の研究者は差のなかったことを報告した。また、これらの研究の大多数に内在する方法論的問題はその結果を解釈困難にしている。

仲間の拒否

 別の推理は、ラベルをはられた児童は、精神薄弱児というラベルをはられた結果、前より人気がなく、さまざまな活動に対して他の人々から選ばれることが少ない、そいうものである。ここでも又、そうした示唆を支持する、又は支持しない証拠はほとんどいつも効果に関する研究から得られ、ソシオメトリックな証拠から引きだされる。どこかほかのところで指摘したように、我々は特殊学級から得た軽度精神薄弱被験者と普通学級から得た軽度精神薄弱者(Guskinら,1968等)のデータに、比較が可能かどうかについて疑問を持たなければならない。軽度精神薄弱の級友によって中度に受け入れられることは、普通学級の高い能力の児童によって中度に受け入れられるのと同じ程度の受容性を示すか? 又はそれより高い(低い)受容性を示すか?

 Dentler & Mackler(1962)のレビューを要約した際、Guskin & Spicker(1968)は普通学級、特殊学級、及び施設入所者の知能と仲間の受容の間に一貫したプラスの相関(0.25~0.50)のあることを報告した。さらに、Meyerowitz(1965)の結果を述べた際、彼らは次のように書いた。

「他の人々が実験群の精神薄弱児(特殊学級)とコントロール群の精神薄弱児(普通学級)に対する反応の間に、識別しうるような差は存在しなかった。両方の精神薄弱児群は、比較群の正常児とくらべて、知られることが多く、遊ぶこと、仲間として拒絶されること、ネガティブな特性を与えられることが少なかった、簡単にいえば、普通学級にいるにせよ特殊学級にいるにせよ、精神薄弱児は正常児よりも多く知られるが、ポジティブにも、あるいはネガティブにもお互いに影響されることは少ないようであった。」

 Haywood(1971)は、Johnson(1950)らの研究を検討して精神薄弱児の受容が低いのはラベルをはられたことによると考えた。彼は級友による拒否をラベルの結果であると述べている。しかし、これらの研究がそのような因果関係を示していると解釈することはできない。なぜなら、それらは相互関係を持ち、処理を混同していたから。Johnsonら(1950)は低IQの児童の社会的地位がラベルをはられていない普通学級でも低いことを見いだした。しかし、彼はこれら普通学級にいる低IQ児のうち5%がソシオメトリックテストでスタートされていることを見いだした。低IQだけで適応行動になんら明瞭な障害がなければ、これらの5%はどんな環境のもとでも精神薄弱児というラベルを与えるべきではない。

 この文献を検討してWilson(1970)は、精神薄弱児は普通学級で非精神薄弱児と人気を争うとき拒否されるようである、と結論した。彼らはラベルのために拒否されるか? 彼はラベリングは原因でないと論じている。

 「教師たちは、ソシオメトリックな地位で精神薄弱児がよい地位を得るよう援助しようと試みているが、それは一般に精神薄弱児が、いばるとけんかをするなど又は単にポジティブな望ましい特性や行動がないということを含む、やっかいな、不適切な、又は反社会的行動のために受け入れられないということを思い出す必要があるであろう。」 

 Wilsonはこの結論を支持してBaldwin(1958)らの研究を引用している。Johnson(1950)は反社会的行動は教科学習の失敗の結果かもしれないと仮定したが、それはいくつかのもっともな説明の一つとして提出されるにすぎない。Wilsonが結論を引きだしている研究に含まれる方法論上の問題が指摘された。しかし、それにもかかわらず、その結論は我々に刺激を与える。このことから、Edgertonの研究結果をさらに発展させたいという気持ちを持つかもしれない。彼は、軽度な精神薄弱者(平均IQ65 範囲47~85)は注意と愛情についてもっと多くのニードを持っているが、それを求めることができず、彼らに好意的な人々さえ追いはらう、と示唆している。

 Guskin(1963)はソシオメトリックな結果の解釈に含まれる問題に注目した。そこでは、低いソシオメトリックな地位はグループの敵意とグループからの排斥を示すと考えられている。しかし、Miller(1956)は、低知能の児童(IQ=60~80)は社会的距離尺度で他の者より低く評価されるが、拒否よりむしろおだやかな受容と解釈される評価を与えられていることを示した。さらに、彼は社会的地位の評価を行い、評価された人気が低IQ児と他の児童の間に何ら差のないことを見いだした。そこで拒否(又は軽度な受容)は低い自己受容をもたらすようには見えなかった。自己受容は、前に論じた自己概念と関係しているものである。

 ラベリングを特殊学級入級とわけ、別の現象と考えるとき、ほかの問題が生じる。仲間は精神薄弱児を特殊学級に通う児童と見るかもしれない。すなわち、精神薄弱児は他の人々によって、学級への入級の点(たとえば、彼は紙を切ったり、はる)からだけ考えられる。その結果は、非精神薄弱児は本を読んだり字を書くより、むしろ紙を切ったりはったりする児童を拒否するということかもしれない。それは彼らがどのようにラベルをはられるか(たとえば、精神薄弱、学習障害)とは無関係である。

 要約すると、ラベリング及び又は特殊学級入級が仲間にどのような影響を及ぼすかについての証拠は、いくつかの一致しない解釈を受け入れている。これらの研究の結果は明らかに不確定である。ラベルをはられる及び又は分離されるかどうかにかかわらず、これらの児童の社会的交流は能力の高い児童とくらべてうまくないであろう。さらに、精神薄弱児が拒否されているという結果を得た研究では、非精神薄弱の仲間たちは、ラベルに対してよりも、反対すべきと考えられる行動により多く反応したのではないか? もしそうならば、受容を促進するためのもっと理にかなった方法は、単にラベルを取るということよりもむしろ、社会的技能と援助をするということであろう。

 自己実現的予言:多分このことについての最初の主張者はDexter(1964等)である。彼は、ラベルをはられた者が示す遅れた行動の多くは他の人々の期待と取り扱いによって決定されると示唆している。そのダイナミックスの中心は二つの仮説にある。(a)ある児童が精神薄弱であることを知っている者は、そのことをいろいろとその児童に伝える。それは先に述べたように自分自身の価値低下をひきおこす。(b)ある児童が精神薄弱であることを知っている者は、知らないときとは異なった行動をその児童に示す。(b)の問題について、Guskin(1963)はすぐれた考察を行っている。

 自己実現的予言の存在についてのRosenthalら(1968等)の研究はDunnの論文(1968)の中で非常に厚く信頼されている。しかし、MacMillan(1971)はそれを批判して次のように書いた。「DunnのようにRosenthalらの研究からそんなに簡単に結論をくだすということができるならば、単に問題の児童に天才というラベルを与えることにより教師の期待を増すことによってただちに問題を解決することができるであろう。」

 さらに、Thorndike(1968)の批判はまったく適切である。彼は次のように述べている。

 「ああ、それは技術的にとても欠陥があるのでそれがオリジナルな研究者の目にとどかないことをおしむだけである。この本は教育的宣伝に加えられた効果的な資料であるかもしれないが、教育研究の標準を高めるためには役立たない。」

 さらに、

 「次に結論として、ここで示されているのは、構造を組み立てている基本的データが非常に信頼できないため、それに基づいたどのような結論もうたがわなければならないということである。結論は正しいかもしれない。しかし、もしそうならば、それは幸運な偶然の一致と考えられなければならない。」

 この現象に言及している他の研究者たち(Heywoodら,1971等)もそれを支持する確固とした証拠をさし示すことができない。良く計画された一つの研究(Beez,1968)の結果は、同じような方法を用いてあとで行われたいくつかの研究では支持されなかった、学級での自己実現的予言を立証することを試みた研究(Clairborn,1969等)ではRosenthalらの研究ほどうまくいかなかった。

 Rosenberg(1959)のかなり独創的な研究は、大学生に、高い能力と低い能力によってグループ分けされた施設児の面接を行わせた。大学生は低能力の児童に、より「2元的」質問(賛成か反対かだけを必要とするもの)をするだろうと仮説された。面接者は自分の行動を、とり扱っている児童の「タイプ」にふさわしいと考えられるレベルにあわせると考えられた。もし、教師、施設職員、友人、両親などにこうした調整がみられるならば、ラベルをはられた児童は過度に単純化された刺激にさらされるのではないかという心配がひきおこされよう。不幸にも得られた差は有意でなかった。

 Guskin(1963)はさらに別の点を考察する必要があると仮定して、次のように書いている。

 「換言すると、『欠陥』という役割概念は多分ある特権と罰をもたらす。それは自活や自己防衛の要請をしないことと非欠陥者に対するノルムと矛盾したある種の異常な行動を受け入れることを含んでいる。」

 最後の点については、いくつかの証拠を手に入れることができる。無学年制小学校の軽度精神薄弱児の社会的受容に関する一連の研究の結果は、この問題に関係している(Goodmanら,1972等)。Goodmanら(1972)は、普通学級に完全に統合された精神薄弱児はソシオメトリックな点で非精神薄弱児と比べて有意にしばしば拒否されることを見いだした。さらに、統合された精神薄弱児は独立した特殊学級にいるものより有意にしばしば拒否された。後の研究(Gottliebら,1973)では、統合された精神薄弱児と分離された精神薄弱児がゲームの「パートナー」として選ばれる頻度になんら差がなかった。しかし、Gottliebら(1972)の研究にみられるように、非精神薄弱児は分離された精神薄弱児又は統合された精神薄弱児のいずれかよりもしばしば選ばれている。最後に、Gottliebら(1972)の研究で、ソシオメトリックなデータは、非精神薄弱男子は分離された精神薄弱児より統合された精神薄弱児を多く拒否することを示した。

 上述の結果に対する説明はさまざまである。Gottliebら(1972)は統合された軽度精神薄弱児の拒否がより多いことについて次のような説明をしている。

 「非精神薄弱児たちは社会的受容を構成するものについて2組の標準を持っている。精神薄弱と定義されない統合された軽度精神薄弱児は、多分正常児によって『正常』であるとみなされている。そこで、彼ら(統合された軽度精神薄弱児)は他の正常児と同一の標準に従わされる。」

 こうして、統合された精神薄弱児と分離された精神薄弱児に対する考えかたはさまざまである。

 訓練可能な精神薄弱児についてのデータは示唆に富んでいる。一つの研究(Gershら,1973)で訓練可能な精神薄弱児の観察可能な行動が分析された。いくつかの特徴がそれらの児童によって一般的に示されると判断された(スピーチパターン、運動行動、アカデミックな行動)。これらの行動を正確な脚本を使って一人の12歳の俳優によって演じさせビデオテープに録画した。一つずつ示された行動と組み合わされた行動について6本のテープが作成された。そのシーンは12学級の6年生に見せられた。二つの学級は1本のテープを見たが、各学級のうち半分の被験者は精神薄弱児とラベリングされた俳優のテープを見、残りの半分はラベルを与えられないテープを見た。テープを見たあと、被験者たちはセマンティックディファレンシャルに反応した。そこには、さまざまな特性がリストされていたが、そこから好意的評定のようすがわかるようになっていた。本考察に最も関心のある結果は、「ラベル」の条件下でシーンを見ると、有意に高い好意的評定が得られるということである。

 先の証拠(Gershら,1973等)はまた前述したことに対する別の説明を可能にする。ちょっとの間、関連した社会的行動について、これらの研究で比較されたグループは、実際は異なっていなかったと仮定してほしい。ラベルは不一致を減少するのに役立つかもしれない。非精神薄弱児は児童が「正常な」基準に一致しない行動を「なぜ」示すか理解できない。しかし、ラベルをはられたグループについては理解できる。なぜなら、彼(知覚者)はその基準を不適切なものとして拒否するから(ああ、彼は遅れているためにそのような行動をするのだなあ)。

 不一致の減少が知覚者の心の中に生じると、彼は今や精神薄弱児の行動が正常な標準以下にもかかわらず、彼と交渉するでだろう。ラベルをはられない児童の場合、不一致の減少はなんらおこらず、非精神薄弱児は彼との交渉をさける。なぜなら、非精神薄弱児は行動を判断するための標準を拒否する理由を持っておらず、その行動は標準によれば不適当であるから。

 もしもそのダイナミックスがすでに仮定されたようなものであるなら、ラベルの機能はこれに関連してポジティブなものである。精神薄弱の分野にいる人々の間に強い信念が存在する。それは、児童に精神薄弱というラベルをはることは、彼と交渉しそのラベルについて知識を持っている人々の行動に影響を与え、そして次にそうして変えられた行動の結果は、精神薄弱児の反応にいろいろと影響を与えるというものである。今日までそうした信念を支持する証拠は乏しい。「ラベリングを行う人々は、ラベルをはりつけるその過程で、その正しさを証明することへの既得の興味を発展させる」というPotter(1971)の主張を支持する証拠はそれよりなお少ない。

(American Journal of Mental Deficiency, 1974, 79, 241-249)

卒業後の適応

 ラベルに関して最も明白な反ばくには「6時間遅滞児」(ある人はこれらの子どもたちをそう呼んでいる)の例である。すなわち、こうした子どもたちは学校に入る以前は異常児であることがわからなかったり、学業期の学校場面以外では異常児であることがわからなかったり、また、彼らがかつて退学したり、落第した異常児であったことがわからない程度の者たちである。

 事実上は、彼らが学校に出席している6時間は遅滞しているのである。彼らは学校以外でのあらゆる環境において判定されることを避けていると以前に述べ、また、同じ筆者は分類されたり特殊学級に入れられたりすることの生涯的影響について述べ反ばくした。ラべリングが適当であるとみなされるただ一つの方法は、自尊心にはったラベルの生涯的効果を考えたり、自分の過去を隠そうと試みる場合のみである。しかしながら、これらの点に関して証拠と言えるようなものは、以前に施設に入っていた精神薄弱についてのEdgerton(1967)による資料を除けば入手されていない。

 軽度精神薄弱対象者に関する卒業後の適応についての資料は、前に能力に関する研究について検討を試みたときと同様な制限を受けている。しかしながら、Haywood(1971)はその結果をまとめて以下のように述べている。「資料は全く明確ではないものの、多くの初期の研究は精神薄弱者たちがその役割から身を隠したいという意向を持っているということを示唆している。」

 この文献を概観した人々によって同様な結論が出されている(Goldstein, 1964; Guskin & Spicker, 1968 ; Kirk, 1964)。

 Baller、Charles、それにMiller(1967)は前の研究(Baller, 1936)の被験者を追跡し、その割合は全米的基準よりも下まわってはいたものの、大部分の者が自立できたということを明らかにしている。子どもたちのIQが66~80であるような大グループが成人してからMcIntosh(1949)は面接し、彼は2.2パーセントの者が未雇用で、1.1パーセントが刑務所に入っており、37.8パーセントがトロント市で平均的あるいは平均以上の所得を得ていると報告した。もしも遅滞グループを高程度能力、中程度能力、低程度能力といったサブグループに分類化するならば、そうした楽観主義は正当化されてくる。

 Charles(1966)はBaller(1936)のグループを追跡して、16パーセントの者が何らかの援助を必要としており、それに反して、中および高(能力)グループにおいてはほとんど全員が雇用されていると報告した。高能力対象者はより容易に職が得られるように思われ、また、その仕事はしばしばよりよいものである(Collmann & Newlyn, 1957 ; Kennedy, 1966)。

 最も悲観的な証拠はMiller(1966)により報告された。彼は以前にEMR児であった50名のうち、わずか30パーセントだけが仕事を持っており、そのうちわずか5名が1週間に40ドル以上を稼いでいたのみであると報告した。しかしながら精神薄弱というラベルをはられることが職業的失敗となる主要因となるかどうかは明らかでない。事実、労働の点火をなさしめるのは通常はパーソナリティ要因であるからである。それにもかかわらず、ラベルがパーソナリティ要因と相互に作用し合って、非生産的で、人格に関連するような仕事をやっているような精神薄弱とラベルづけされた人は、同様な仕事に従事しているラベルをはられない人に比べて、より労働の点火がなされやすいといったような可能性は存在する。

 Goldstein(1964)とWilson(1970)は精神薄弱者の卒業後の適応はそうでない同輩に比較すると劣っているという結論を下している。しかし、このような種類の比較は非常に多くの解釈を受けるところである。卒業後の適応に関する他の基準尺度(例えば、結婚の成功、娯楽の興味など)についてみると、ラベルづけされたもの、またあるいは、特殊学級に入れられた子どもは、普通学級に居残っていた同程度のIQをもつ子どもたちよりも勝っていたといういくつかの証拠がある(Peck & Stephens, 1964 ; Porter & Milazzo, 1958)。

 しかしながら、この文脈の中で重要な点は、その生徒が普通プログラムあるいは特殊プログラムのどちらに配置されたかというのではなく、有益あるいは不利益であると思われるその計画の中に何が漏れていたか、ということである。例えば、以前に特殊学級の生徒(また、彼らは特殊学級の候補者として判定された)であった者について、大規模な追跡調査を行った資料から、次のようなことが明らかになった。すなわち、作業学習計画に編入されていた教育可能な精神薄弱(EMR)の高校生は、こうした計画が適用されない生徒に比較して、より高い賃金を得ており、仕事に満足しているということである(Dyck & Jones, 1970)。人間相互関係における特殊な労働習慣は、こうした学習経験をもたない生徒に比べて、作業学習経験のある生徒を、労働者としてより容易に受け入れられるようにしていると考えるのが妥当であると思われる。引用された研究において-少なくとも、雇用の準備に関する限りでは-普通学級に残っていてEMRと判定されたような生徒に対するプログラム以上に雇用を好ましくするといった独立した特殊学級の特徴が存在したのである。しかしながら、こうした資料は特別なニードを有する生徒を抱える普通学級にこれらと同じ技能が導入できるか否か、といった重要な疑問にまでは言及していない。ある程度までは特殊な技能を、汚名をきせられていない所(普通学校)に導入することは可能であり、これがより好ましい教育プログラムであると思われるところである。

 この文献をふり返って、著者らはGuskinとSpicker(1968)の立場を支持したい。彼らは次のように述べている。

 「平均的な教育可能な精神薄弱者は非精神薄弱者よりも経済的、社会的に貧しく暮しているということを明らかにするための研究をさらに進める必要はほとんどないように思われる。あるいは、典型的精神薄弱者が成人生活にまあまあ満足しているとか、社会にとって重大な脅威となるような精神薄弱者はほとんどいないといったことを、明らかにし続けてゆくことに重要な点があるようにも思えない。」

 Albizu-Miranda と協同研究者たち(Albizu-Miranda, Martin & Stanton, 1966 ; Albizu-Miranda & Stanton, 1968)の研究結果はラベリングの反対者たちにかなり広く引用されている。以前の報告において、全プエルトリコ人の31パーセント以上は心理測定を行ってみると精神薄弱者であった。しかし、31パーセントの大多数は何らかの困難にも遭遇しなかったということが明らかにされた。これらの資料はそれ自体(ラベリングに)反対の解釈に役立つものである。

 第1に、ラベリングの反対者はこれらの資料が次のようなことを示唆するものであると解釈するであろう。すなわち、低い知的能力にかかわらず、この31パーセントの者は、彼らがラベルづけされることから逃れたがために、正常に機能を発揮できたのであると。この解釈に含まれる意味は、もしもこれらの人たちがラベルをはられていたならば、大半の者は困難に会っていたであろうということである。他の解釈はHaywood(1971)によって提示された。彼はAlbizu-Mirandaら(1966)の結果が次のような考えを支持するものであると解釈している。すなわち、軽度精神薄弱者とラベルづけされるか否かは、個人が生活する文化の複雑性が決定すると。

 Haywood(1971)ならびにHeberとDever(1970)は彼らの所見で、Albizu-Mirandaら(1966)は軽度精神薄弱は単純な文化においては問題にならないということを示していると強調している。同様の知的能力水準でも、もっと複雑な社会においては、結果として、判定ならびにラベリングされがちとなる(Albizu-Mirandaの研究においては小作農グループの約50パーセントと大農場グループの60パーセントはIQ75以下であった)。この考察で、「罪人」はラベルでも「精神薄弱」児でもなく、それは、複雑な能力に対する社会的要求なのである。Wilson(1970)は以下のように述べて最初の解釈に明確な反対を唱えた。

 「ある人はこれらの結果が、次のようなことを示すものであると解釈したいかもしれない。すなわち、精神薄弱は実際的には全く特別な問題ではなく、また、もし社会がその実態を探し出し、それにラベルをはり、勝手にそれを無能と定義するといったようなときにのみ問題となる。そうした解釈は最も不適応であるだろう。」

 Albizu-Mirandaらの研究は卒業後の適応におけるラベルの効果に関する研究をさらにそれ以後明確にはしていない。

 Mercerの資料(1970, 1971a, 1971b)は、また、卒業後の適応へのラベリングの影響を明らかにするためにしばしば引用されている。彼女のデータでは、成人の82パーセントが職を持っていたうえに、64.9パーセントが半熟練あるいは熟練の職業に就き、80パーセントは経済的に自立し、ほとんど100パーセントが自分で買物ができ、一人で旅行ができていた(1971b)。はっきりしないのは、Mercerが「教育的基準以下であったような成人」と述べたこれらの対象者たちが、実際に、かつて精神薄弱児と診断されたのか、あるいは、彼らが、(Albizu-Mirandaの対象者のように)子どもの切りすてとして使用された学区の基準から単に心理測定的に下まわっていたといったようなものであったのかどうかということである。

 不満足な結果(例えば、職業的状態、収入、結婚の成功など)が、ラベルのような何らかの一つの独立変数に起因するものであるといったようには、この研究のどこからも結論を下すことができない。そのかわり、これらの人たちがずっと精神薄弱者と分類され続けられないという事実は、Mercer(1971)ならびにHeberとDever(1970)らを、それが大人の状態と関連しないところの学業期間はラベルが不必要であるといった結論に結びつけるように思われる。しかしながら、職業の種類、あるいは職務の結果についてラベルの生涯的効果の資料を提供することからはこれは非常に隔たりがある。

 成人の社会的受容の分野で、Edgerton(1967)は施設から出た患者について報告し、このデータから、以前患者であったことを全く知らない人たちはその事実をすぐに知り、否定的な反応をするということが示唆されている。軽度の精神薄弱者にとっては、もし人々が職に就いているとか、法の実施に伴う問題を持たないとか、有効な独立尺度として結婚上の問題を持たないといったことを認めたような場合には、成人の適応は非常に好ましいように思われる。ラベルの消極的効果は、もしそれが大人になるまで存続するとするならば、たぶんそれらは自分自身とか、少年時代の友人の認知とか、それらに関する生涯的記憶などといった明らかにすることができないようなものに内在しているのであろう。

ラベルづけされることに対する反応

 今までほとんど注意を払われなかったものの、当面最も関連があると思われることは、ラベルづけされる人たちがそれについてどう思っているかということについてである。Mercer(1971)はそうした措置がとられる自分の子どもに対する両親の反応を述べている。一般的に、これらの反応には、精神薄弱児に対する計画が少数の子どもたちを特に虐待するものであって、そうした計画に配置することは教育的行き詰まりであるといったような両親の考えが反映されている。

 Gozali(1972)は以前EMR児であった56名の男性に面接して、特殊学級に対する彼らの見方を明らかにしようとした。85パーセントの者が特殊学級を経験したことは不名誉で、無益であったと報告した。しかしながら、Mercer(1971)が調査した両親の反応とGozali(1971)が面接して得られた以前精神薄弱児であった者からの反応は、ラベルづけされること、教育経験、あるいはその両者などに対するこれらの反応がどの程度であるか、といったことを明確にすることができないにしても、ラベリングを理解するのには役に立つものである。個人がみつけるであろう満足の程度に従って、これらの子どもたちは普通学級に残ることが許されたり、学業の可能性が与えられたり、あるいはまた、そのために、最初に診断の対象とされる人となってしまうような社会的失敗も与えられると推測されるのである。

 EMR児とEMR者が精神薄弱というラベルをはられたり、特殊学級に入級させられたりすることをいかに感ずるかについて、たぶん最も説得力のある資料はJones(1970, 1971a, 1971b, 1972印刷中)によって提示される。

 精神薄弱児であるとか、特殊学級に入れられているといったことを人に知られないために、高校生たちは自分の学業課程について嘘をいったり、自分が「精神薄弱児だとわかるので」見学者をいやがったりする。そして、一般的に、ほかの人が自分が特殊学級に在籍していることを見つけ出すのではないかと恐れている。さらに、ある人はラベリングや措置が彼らの友人関係を変化させたり、ガールフレンドとの交際をまずくさせたり、あるいは、卒業後の職務配置の機会に悪い影響があると非難している。

 額面通りに受けとるのであれば、こうした資料はラベルづけや精神薄弱児の隔離に対する強い告発のように思われる。しかしながら、これと同じ資料に対して逆の解釈もなされ、そこでは、ラベリングや配置にかかわらず、こうした高校生の社会的無能は明らかであり、ラベルとか配置とかのことばで、自らが社会的落後者であることを合理化しようとしているのだ、とされている。もしこの解釈が正しければ、合理化されることによって、彼らが社会的、職業的に無能であるといった理由を失い、これらの人たちが自己の品位を低めることから免れられるわけである。EMR生徒の両親ならびに生徒たち自身の報告は精神薄弱というラベルをはられ、特殊学級に入れられることを悲しんでいることを、はっきりと示唆するものである。

要約

 資料にもられた証拠は、ラベルに有害な影響があるだろうということを示唆している。そしてこのことは、ラベリングや能力別編成の実施に真剣な再考をうながすはずである。ある人は重大な問題はラベルをはることによって成功をより阻げることになるかどうか、それはどの程度であるか、といったことであると決論を下したがるかもしれないが、現在利用できる理論や資料(Edgerton, 1967 ; Heywood, 1971 ; Jones, 1972)、それに、論理的、法律的考察(Potter, 1971 ; Ross et al., 1971 ; Segal, 1972 ; Weintraub, 1972)などにもとづく「最終的結論」は、ラベルづけをする人たちに対して、ラベルが子どもの利益となることを明らかにするための立証責任をとってもらう、という考え方が妥当である。結局、問題をより限定的に扱う研究を企てることが可能であろうという仮定から、「ラベリング現象の複雑性」の項目で、念願に入れておく必要がある諸変数、あるいは、ラベリング効果を明らかにしようと試みる研究に含まれる諸変数について筆者らは検討を加えたい。

 前途の諸研究で採用された独立尺度(自己概念、受容、低い成績、卒業後の適応など)にかかわらず、その結果は好ましからざるラベリング効果が存在するといった結論を支持してはいない。

精神薄弱の外延的意味と内包的意味

 精神薄弱に関しては、ラベリングの問題は他のカテゴリーにおける場合よりもいくぶんか異なっている。精神薄弱の外延的意味と内包的意味の両者を考慮しなければならない。特に、精神薄弱は本論文の冒頭に示されたAAMDの定義(Heber, 1961)に明らかにされている状態に関連している。Haywood(1971)はすべての精神薄弱者は学習における相対的非能率性という単一の共通な特徴を持っていると述べた。同時に、200あるいはそれ以上の臨床的症候があって、それら全部が学習上の問題を伴っている。(外延的意味と内包的意味の混乱といったこと)まさにその問題はPotter(1971)のような人たちにより論じられている。「生物学的基礎にもとづく症状、実質的に回復の見込みのない症状と、多様な個々の社会的環境によって無法則的に変化するいろいろな原因から生ずる症状との両者を包含するために、単一のラベルを使用することは適当な中間的なものの存在の可能性をぼかしてしまう。」

 明らかに、精神薄弱の外延的意味は(もしも、AAMDの定義を使用するとすれば)精神薄弱の分類に入れたり除いたりする異動を無くしてしまうわけでは決してない。そしてなお、その言葉の内包的意味を考えるならば、Potterの所見はたぶん妥当であろう。この問題はMeyers(1973)によって次のように論じられている。

 「就学年齢になるまで、コミュニティで十分に行動していた健康なEMRたちの親やほかの知人たちは、その子どもが『精神薄弱』-そのラベルは奇妙な身体で重複障害を持つ、より重度の薄弱児のイメージを呼びおこす-の一般的な項目に入れられるということに多少困惑する(Hollinger & Jones, 1970 ; Meyers, Sitkei & Watts, 1966)。この概念には不治と慢性といった特徴が含まれているが、軽度EMR児たちは就学年齢の間だけは『慢性的』であり、学校を出ると『回復』するのである。」

 身体障害の有無とか、機能レベルが変化する人人に、同一のラベルをはることは明らかに外延的意味と内包的意味の間における連続性の欠如をもたらすことになる。Haywood(1971)とHollinger並びにJones(1970)が示唆したその他の明らかに混乱をおこす原因は、ほかのラベル、特に、精神病という名称から生ずる不適当性に関するものである。明らかに、「精神」ということばは両方のラベルに共通であって、多くの人々はこの2つを混同し、精神病者の特徴を精神薄弱の特徴であるかのようにみなしたりする。

 その他の明らかに混乱をおこす原因は「紋切型の人(model man)」とZigler(1970)が呼んだことに関連するものである。本質的に、この現象はなんらかの名称(例えば、文化的はく奪、精神薄弱など)を持つすべての人々が同様の特徴を持っているとみなす場合、また、これらの特徴の特定の名称を持つほとんどの人々によって持たれているものであるとみなす場合などに生じてくるのである。本来、これは精神薄弱者が持っているきまりきった特徴に関連し、その文献もGuskin(1962, 1963)により提示され論じられている。Guskin(1963)によって書かれた章は卓越しており、精神薄弱者のきまりきった特徴に興味を持っている読者にはぜひ読まれるべきである。

 一般的精神薄弱者の特徴を思い浮べるというよりも、むしろ、「精神薄弱」という用語は人々に身体障害があり生物学的に障害のある精神薄弱者とか、予後の見込のない最重度あるいは重度に知的に遅滞しているような者を連想させるようにみえる。換言すれば、精神薄弱という用語が使用される場合、一般的な精神薄弱者よりもむしろ、最も重度な障害のある人が思い浮ぶということである。この問題に関するほとんどの研究にはセマンティク・ディファレンシャル技法が使用され、精神薄弱ということばに対する反応が抽象的に与えられる。人が自分の予想していたのと異なった精神薄弱者とかかわりを持ったときに、以上のような知覚が働きはじめるかどうか(そして、働きはじめるとしたらどのように)という疑問については推測の域を出ない。

ラベリング現象の複雑性

 前述の項目で、MacMillan(1971)はDunn(1968)が論じたラベリング現象の類別的方法を批判した。この論文の前の節では、精神薄弱者のラベリング効果の可能性に関する証拠を要約するために一つの試みがなされた。何よりも先に、そのような効果を支持するいかなる明白な証拠も明らかにされなかった。このことから、そのような効果が存在しないということを意味すると解釈されてはならないのであって、概観された諸研究が差異を見いだせなかったり、あるいはそれらの結果をあいまいなものにするような他の多くの変数とラベリングとを混同していたりしたということを意味するとのみ解釈されなければならない。

 筆者らは、この節において、ラベリング問題の複雑さを解明しようと試みるだろう。そして、その過程において、ラベリングが理解されるものであるとするならば、実験的に統制されなければならなかったり、あるいは算定された従属測度の変動にその寄与を持たなければならなかったりする変数を詳しく述べようと試みるだろう。あいにく、経験的な証拠はこれらの変数にほとんど役立たない。その結果として、それらの変数は、ラベルの効果が知られているかのようであるというよりも、むしろラベルの衝撃を変化させているだろうと仮定されている。

 精神薄弱とラベルづけされることの衝撃は、個人ごとに非常に異なっており、環境に従属している。極端な場合には、ラベルはおそらく何らの衝撃も持たないだろう。例えば、学業の成功の経歴を持つ非常に頭の良い青年は、そのようなラベルを忘れ去るだろう。そして、IQが10以下で施設に入っている水頭症の者は、精神薄弱とラベルづけされることの意味を理解することができないだろう。これらの場合には、ラベルはいかなる結果の測度においても何ら決定的な効果を持たないだろう。

 精神薄弱に関して、これらの極端な場合から境界線の場合へとゆくにつれて、(a)精神薄弱は否定的な含みを持っているということを本人が理解するような、そして、(b)さまざまな場面における彼らの成功や失敗の経歴により、彼らがラベルに疑問を持つほど十分に明確でない多くの場合を次第に見いだしてゆくことを人々は当然のことと思うだろう。だれの基準によっても明らかに精神薄弱であり、しかも自分が持っているラベルの否定的な含みを感じることのできる者に及ぼす潜在的な効果を無視すべきではないが、論議はこれらの境界線の場合に集中しているようである。

 境界線の場合のラベルの効果を研究すると、多くの変数が個人の衝撃を変化させることができるように思われる。以下の節において、筆者らがそうした役割を演じていると仮定しているいくつかの変数について考察している。

複数のラベル

 精神薄弱と分類されている多くの子どもたちは、同時に、「文化的にはく奪された」、「文化的に不利益を受けた」、「非行性の」、あるいは「貧弱な」というような別のラベルで分類されている。このことが子どもの問題を込み入らせているのだろうか(例えば、子どもが精神薄弱で文化的にも不利益を受けている場合、自己の価値低減ということがより印象的なものとなるのだろうか)。同様に、複数のラベルの効果は使用されたラベルの特殊な組み合わせの関数であるだろか(例えば、精神薄弱を伴った脳性マヒ児は、精神薄弱の非行少年以上にすさんでいるだろうか、あるいはそれほどすさんでいないだろうか)。

 Dunn(1968)によって提出された問題の前後関係においては、彼が関心を示した少数の子どもたちの多くは、精神薄弱で文化的にはく奪されている(あるいは何か他の婉曲なことば)というような複数のラベルづけをされているようである。しかしJones(1972)は、後者のラベルはそのようにラベルづけされた者にとっては不愉快なものであり、低く下げられた結果の測定(例えば、自己概念)が、単に精神薄弱というラベルのみによるものなのか、単に文化的にはく奪されたというラベルのみによるものなのか、あるいはそれら二つの何らかの相互作用によるものなのかどうかについて人々の推測に任せている、ということを明らかにした。したがって、精神薄弱というラベルの効果に関するすべての研究は、複数のラベルに帰せられる変動を統制したり算定したりしなければならない。

形式的ラベリングと非形式的ラベリング

 Mercer(1972, 1973)の研究は、それぞれによって確認された精神薄弱の数ばかりではなく、精神薄弱とラベルづけすることに責任を負うべきである機関(例えば、学校、精神衛生機関)をも明確にした。ラベルづけをする組織としての学校は、ある程度の深まりの中で研究されてきた(Robbins, Mercer & Meyers, 1967)。これらの機関の一つによってラベルづけされるということは、いかなる結果についても強制力を持たなかったり、あるいはラベルづけの結果として選択的な配置をしたりすることもないような仲間や他人による非形式的ラベリングとは反対に、形式的ラベリングを構成するだろう。形式的ラベリングの結果として、人は普通学級から除かれて特殊学級に入ったり、施設に入ったりするだろう。

 Dunn(1968)は、精神薄弱というラベルは区別の記章(badge)ではないと主張した。MacMillan(1971)は、普通学級の高い能力の子どもたちによって「ばか」と呼ばれることでもないということに注目した。Goldstein(1963)は、「あらゆる正義において、普通学級の精神薄弱児が特殊学級の子どもたちと同様に、たいていの場合彼の仲間によってラベルづけをされ得るし、またしばしばラベルづけをされているという事実に対して、われわれは目を閉じることができない。」と述べた。

 特殊学級の生徒を表現するために使われている用語についての教師の報告に関するJones(1972)の調査結果は、ばかな(dumb)、ばかなウサギ(dumb bunny)、ばか-ばか(dum-dum)、のろまな(retard)、ズィー(Z,無価値の人)、左巻き(eddie)、およびドードー(dodo、今は絶滅した飛べない大型の鳥の名)という用語が含まれていた(他のより嘲笑的な用語は直さなければならなかった)。これらの用語は、普通の生徒、わずかに能力の高い生徒および他の特殊教育を受けている生徒らによって使われていた。子どもたちのお互い同士の残酷さは長い間確認されている。ここで出された疑問は、形のない何らかのものによってつけられたラベルの衝撃と仲間によってつけられたそれとの比較に関係している。

 小学校の高学年において発生し、中学校の各学年を通して強く増大する仲間集団への適応については、発達を取り扱った文献がはっきりと実証している。子どもたちが小学校の高学年に達した場合、さまざまな機関によってつけられたラベルよりも、仲間によってつけられたラベルの方がより大きな効力(potency)を持っている、というようなラベリングの過程に相当する現象を人々は見いだすだろうか。そのような仮説が確認されるならば、そのときには、だれがあるいはどんな機関がラベリングをするのかということにかかわらず、子どもがこうむることになる問題が再び考えられ、そして、(機関がつけたラベルを変えたり廃止したりすることによって少なくされることさえあるだろう)最小限の破壊的な場面に目が向けられるであろう。

 ラベルの永続性についての関心は、形式的ラベリング対非形式的ラベリングということに関連している。形式的に適用されたラベルは捨てるのがより容易だろうか、それともより困難だろうか。また、Tarjan(1970)が問うているように、「ラベルを捨てる速さは最初の診断をした機関の性質によるものだろうか」。この問題は、個人がラベルの保証をとかれた後にもその否定的な効果が続くのかどうか、と単純に疑問を発することよりもおそらくずっと複雑であるだろう。効果の永続性は子どもがラベルをつけられた年齢によるものだろうか、あるいはラベルがつけられた期間の長さによるものだろうか。それとも、これら二つの変数は、個人が非形式的にラベルをつけられたのかどうかということによる特定の効果を持っているものだろうか。もし後者であるとすれば、ラベリングを行った特別な機関による特定の効果を持っているのだろうか。

ラベルの妥当性の承認ないしは否定

 EdgertonとSabagh(1962)は、軽度の精神薄弱者が、施設において重度の精神薄弱者と彼ら自身とを比較した場合、軽度の精神薄弱者にはある種の自己の誇張(aggrandizement)があると報告した。さらに彼らは、低い社会経済的地位の少数家族出身の子どもたちが、精神薄弱という診断の正確さをしばしば否定している(あるいは、少なくともこのことの否定を言葉で表している)、ということを見いだした。彼らはこのことについて以下のように記述している。

 「この不承諾は、さまざまな環境によって助長されてきたのかもしれない。例えば、精神薄弱者の家族全体が一般に社会から拒否され屈辱を感じさせられてきたのかもしれない。そして『権威』の猛攻撃に対してその成員を保護する必要性を感じているのかもしれない。精神薄弱者の多くは低い社会経済的地位の家族出身であり、家族の成員は法の施行や福祉機関に対して屈辱的な経験を持ってきたのかもしれない。そのような家族は精神薄弱者のことで自分たちを『非難する』者に対してその成員を保護するだろう。そして、非難されているのは実際には精神薄弱者であると信じさえしないかもしれない。なぜなら、精神薄弱の知的レベルは彼の身内の者のそれに比べてずっと低いということではないかもしれないからである。彼らにとっては、このことはまさに家族全体に対する差別待遇の別の例であるかもしれないのである。」

 MacMillan(1971)は、そのような例においては、特別な子どもは自己の屈辱に対して免疫化されるかもしれない、そして、その場合には、子どもがラベルは正確なものとしてそれを受け入れる場合に衝撃となることに比べてずっと衝撃が少ないだろう、ということを示唆した。

 それ故、家族がその子どもを元気づけるために励まし、ラベルの正確さを否定するならば、子どもが自己の価値を減じることがあったとしても少しでしかないかもしれない。さらに、別の子どもは、たとえ彼の家族が元気づけてくれなくても、ラベルを否定するかもしれない。両方の場合において、ラベルづけされることの効果は最小となるだろう。他方、精神薄弱というラベルの正確さを受け入れる子どもにとっては、ラベルの効果は深まるかもしれない。精神薄弱と分類された少数家族の子どもたちと低い社会経済地位の家族の子どもたちの双方、あるいはそのいずれか一方は、ラベルが等しく適切である場合には、中流家族の子どもたち以上にラベルの正確さを否定するだろうか。ラベルの正確さを家族が否定する場合には、家族が診断に同意する場合に比べて、自己概念の減衰率(decrement)がより少ないのだろうか。これらの考察は、個人に関するラベルの衝撃を決定することにおいて、重要な役割を演じているように思われる。

ラベルづけされる以前の経験

 子どもに関するラベルの効果を確かめるためには、ラベルづけされる以前の経験を統制することが必要であるように思われる。ラベルの確定以前に、両親、教師、また仲間に笑いものにされたり、非形式的に「とんま(dummy)」とか愚か者とラベルづけされた子ども、また学校や近所において社会的孤立に直面した子どもは、ラベリングが自己に関するより一層の価値低減の原因にもなりえないほど貧弱な自己概念しか持っていないかもしれない。他方、そのような失敗経験を持たない子どもは、そうしたいかなる屈辱にも耐えるような強い自己概念を持っているかもしれない。人々は全く背中合わせのことを仮定するだろう。このことは、おおざっぱにいうなら、学業の得点を解釈することと類似している。測度において高くからスタートする者は成長の余地をより少ししか持っていないのだろうか、それとも、彼はさい先のよいスタートをきっているのだろうか。自分自身について十分に考えている子どもは、「最低(rock bottom)」に対して自己概念の重圧を持つことと同様に、ラベルづけされることを外傷的であると認めているだろう、と人々は推測する。現在のところ、筆者らは、ラベルづけされる以前の経験が子どもにおけるラベルの衝撃に影響しているであろうとのみ、それらの研究の結果を予測しているのではない。

子どもに関連した他の変数

 子どもによって異なっていることがわかっているいくつかの他の変数、例えばラベルづけされるときの子どもの年齢も、また関係しているだろう。それほどよく発達していない防衛機制しか持たない幼い子どもたちは、解決法においてより洗練された防衛機制しか持つ年長の子どもたちに比べて、より傷つけられやすいだろうか。あるいは、新しい身体を受けつぎ、新たな刺激を感じながら、自分自身であるという感覚を探索している前青年期の子どもは、9歳の子どもに比べてより傷つけられやすいだろうか。これらの疑問に対する答えは、彼らを診断したり、彼らと意志の伝達をしたりすることに責任を負わされている人々にとって最も有益なものになると思われる。

 別の変数、すなわち統制の場所(locus of control)は、精神薄弱と分類されることに対する個人の反応に決定的な役割を演じるだろう。統制の内的な場所を持ち、自分自身の運命を決定することができると信じている人は、自分にラベルをつけた人々を論ばくしようと企てるだろう。統制の外的な場所しか持たない子どもは、彼の苦境としてのラベルを受け入れ、この運命に身をゆだねるだろう。統制の場所がラベルづけされることの効果に関係していることを見いだしたが、筆者らはそれが暦年齢(CA)とは無関係に作用していることを知って、驚かされている。

 性、知能年齢(MA)、人種、および社会経済的地位というような子どもに関するいくつかの別の変数を、子どもたちのラベルの衝撃を研究するための試みの中で考慮すべきである。いずれか一方の性の重度精神薄弱児を持つ家族に特定の衝撃が与えられるとすれば(Farber, 1959)、それは、男子の方の知能がより大きな社会的評価の対象となるために、精神薄弱とラベルづけすることが女子に比べて男子をよりじゅうりんしているということであるかもしれない。同様に、一定の水準の知的発達(すなわち、MA)は、精神薄弱とラベルづけされることの意味を理解するのに欠くことのできないものであるかもしれない。

場面変数

 環境的な変数もまた、ラベルに多かれ少なかれ影響を及ぼしながら、ラベルの衝撃を変化させているものであろう。例えば、子どもが施設に入っているか否かということは、その子どもが自分自身と比較する異なった関係集団という面からみると、ラベル効果を十分に変えているだろう。EdgertonとSabagh(1962)によって報告された自己の誇張は、「重度の」精神薄弱児がケアーを受けている施設に特有なものだろうか。それとも、教育可能な精神薄弱児学級の能力の低い子どもたちは、EdgertonとSabaghによって報告された子どもたちと同様、能力の高い子どもに自己の誇張をできるようにするというような十分な対照を示すことができるだろうか。

 どのようにして、社会の価値が子どものラベルの衝撃を変えるのだろうか。例えば、知的到達度が子どもの周囲の社会によって高く価値づけされていないなら、精神薄弱とラベルづけされることは、子どもにはほとんど衝撃を持たないだろう。逆に、もし知的能力や学業の成功が高く価値づけされているなら、そのようにラベルづけされることは子どもをじゅうりんすることになるだろう。

 別の考察が特殊なラベルに適用されよう。いくつかの州においては「教育可能な精神薄弱(EMR)」が使われており、一方、別の所では同じような子どもたちは「学習遅進児(slow learners)」と呼ばれてきている。そして、英国では「教育的に普通以下(educationally subnormal)」という用語が使われている。使用された特殊なラベルは、ラベルづけされた子どもの率直な性質に関する効果を変化させてきたかもしれない。あるいは、そのような子どもと接触する人々に偏見を与える効果を変化させているかもしれない。また、その両方であるかもしれない。

 以上の場面変数は、精神薄弱というラベルの効果と関係するいかなる討論あるいは研究においても考察されなければならない。そのような考察をしないということは、ラベリング現象の複雑さを単純化しすぎることになるだろうし、たぶん誤った結論に到達することにもなるだろう。

仮定された効果の特殊性と一般性

 ラベリング問題の前後関係の中で考察を必要とする別の問題は、仮定されたラベルの否定的な効果が各場面を通して広がる程度である。例えば、学校関係の中での子どもの自己概念は、運動関係や社会関係における彼の自己概念に比べてより低いものだろうか、等しいものだろうか、あるいはより高いものだろうか。軽度の精神薄弱児は、学校の中で最も頻繁にラベルづけをされる傾向にある(Mercer, 1970)。答えられなければならない疑問は、そのようにラベルづけされることの否定的な効果が、例証され得るとするならば、教室場面に限られているのかどうか、それとも運動場、家庭、近所、そして社会へと広がっているのかどうか、ということである。

 ラベルの否定的な効果は非常に広がるものであり、子どもの生活のあらゆる面に浸透し、学齢を終わっても十分に存続するものであるというのが特殊教育に携わる教師の感情であるように思われる。この論文で概観された証拠からみて、そのような結論には異議が唱えられるであろう。事実、人々は、IQが十分に低い(そして、学校場面において貧弱な学業成績であったり、貧弱な適応行動であったりあるいははその両方であったりする)多くの子どもたちが、(主に家庭および近所関係を扱っている)適応行動に関する測度においては高いというMercer(1970, 1971a, 1971b)のデータを見ることに注目するだろう。これらの子どもたち(低IQ、高い適応行動)は、貧弱な適応行動の基準に合っていないので、精神薄弱ではない、というのがMercerの主張であった。しかしながら、人々はまた、これらのデータをラベルの一般化された効果に関しての否定的な証拠と解釈するだろう。言いかえれば、ラベルが効力を持つものであり、その効果は一般化されるものであるとしても、家庭および近所関係においてそのようによく適応している教育可能な精神薄弱児に対して、このように大きく区分するのはなぜだろうか。

 ラベルの効果の特殊性についてのより一層の支持は、ノルウェーで行われたGottlieb(1971)の研究から生じている。教育可能な精神薄弱児は学業の不適切さの結果としてラベルをつけられているので、彼らに対する他者の態度は学級を通してよりも遊びを通してより望ましいものとなるだろうということが予測された。この予測はデータによって支持された。ノルウェーの子どもたちは精神薄弱というよりもむしろ「援助を必要とする子どもたち」として言及されているので、Gottlieb(1972)は、これらノルウェーの子どもたちに対する態度は合衆国の精神薄弱児に対する態度よりもより好ましいものであるだろう、という仮説をたてた。この研究における差異は有意なものであったが、それらの差異は予測とは逆のものであった。

 自己に関する測度は、従来考えられてきた以上により一層場面に特有なものであるかもしれないという仮説がたてられた。ラベルの効果を研究する場合、研究する場面の前後関係が特殊化されるということは絶対に必要なことである。

期待に関する研究

 教師の期待の効果に関する研究は、より初期に論じられてきたが、いくらか述べておくことは適切である。ひき続き行われるいかなる研究も、少なくとも三つの能力水準(高い、平均的、低い)が三つの期待水準(高い、平均、低い)と組み合わせられている3×3の要因計画を、これらの変数の交互作用を算定することができるという規則の中で、用いなければならないように思われる。

 さらに、そのような研究は教師と子どもの両方の個人差を考慮しなければならない。例えば、精神薄弱についての知識がない教師は、明らかにダウン症候群である子どもに多く期待してもむだであろう。しかしながら、精神薄弱を熟知している教師は、高い期待を受け入れないようである。同時に、身体的徴候のない子どもに対する高い期待は、知識のない教師と知識のある教師の双方、あるいはそのいずれか一方の教師にとって、身体的徴候(例えば、ダウン症の特徴)のある子どもに対する期待よりもより一層「信じることのできる」ものであるかもしれない。

 別の流れの中においては、そのような研究は偏見を与える現象のダイナミックスに本気でとりかからなければならない。まちがった情報(高いものであれ低いものであれ)が教師の行動の変更(始められた接触の数、質問の水準)になるということを知ることは重要であるかもしれないが、そのことは、本来、変更された教師の行動が子どもの行動に影響を持つかどうかという疑問には答えない。その場合、ラベルの効果が場合の関数であるかどうかを確かめなければならない。例えば、他の子どもたちと交わることによってラベルづけされた子どもを避けることができる大きな学級においてのみ、教師の行動は変更されるのだろうか、あるいは、そのことは教師がラベルづけされた子どもと互いに影響しあわなければならない個別指導の場面においてもあてはまるのだろうか。

 教師の期待に関する研究は、方法論的な面できびしく批判されてきたが(Elashoff & Snow, 1971 ; Snow, 1969 ; Thorndike, 1968)、それは刺激的であり、可能性としては意味のあることである。小学生(Clairborn, 1969 ; Fleming & Anttonen, 1971a, 1971b ; Jose & Cody, 1971)、中学生と高校生(Goldsmith & Fry, 1971)、そして精神薄弱児(Gozali & Meyen, 1970 ; Soule, 1972)に関してそのような効果を見いだすことができなかったにもかかわらず、より一層の研究が必要とされている。教師の特徴と子どもの特徴との交互作用、期待水準と能力水準との交互作用をそれぞれ認めることができなかったこと、また、これらの交互作用を統制する研究を計画できなかったことが、幾分かは、上の諸研究が効果を見いだせなかったことの原因であったかもしれない。確かに、現象の複雑さは、精神薄弱児に対するこの研究によって一般化された補外法(extrapolation)から人々が推論するであろう以上にずっと大きいものである。

おわりに

 子どもたちに精神薄弱とラベルづけすることは有害な効果を持つということを、多くの者は事実として受け入れているが、このような効果についての確実な経験的証拠は見いだされなかった。この問題に関係を持つ諸研究は、混乱した論述を有し、討論をほとんど明確にしていないことが見いだされた。問題の複雑さを明るみに出し、今後の研究が偏見を与えるラベルの効果に関して、我々の理解を明確なものにすることであるならばその研究において統制される必要があるいくつかの変数を示唆するために一つの試みがなされた。 

 しかしながら、討論の中心になっているそれら境界線上の子どもたちは、彼らがラベルづけされるか否かという教育経験から最大限には利益を受けていないようであるということに注目すべきである。特殊教育に携わる教師が直面する課題は、そのような子どもたちの教育経験を最高に活用することであるように思われる。換言すれば、特殊教育に携わる教師は、そのような研究がはっきりと論証できる効果に欠けているということで、罪を着せる力(例えば、行政上の手配、ラベル)を確認するために子どもたちのあら捜しに従事してはならない。そして、教師は、社会で成功するために必要であると思われる技能や心構えをこれらの子どもたちに教えるという根本的な課題を見失ってはならない。

(American Journal of Mental Deficiency, 1974, 79, 249-258)

参考文献 略

*カルフォルニア大学リバーサイド分校
**カルフォルニア大学バークレー分校
***カルフォルニア大学リバーサイド分校
****横浜国立大学教育学部助教授
*****東京教育大学大学院


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1975年10月(第19号)2頁~11頁
1976年1月(第20号)22頁~33頁

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