心理 ただ単に子どもだけの責任か

心理

ただ単に子どもだけの責任か

脳性マヒの子どもたちの心理的問題と家族関係

Is it Only the Child's Guilt?

Some Aspects of Family Life of Carebral Palsied Children

Ilinca Podeanu-Czehofsky,M.D.*

武藤安子**

 ティーンエイジャーが、自分自身の同一視の正常な発達の過程において、また、現実の自己と理想の自己との統合においていだく問題を議論するとき、Johnson は、そのような問題は、身体に障害を持った青年にとっても障害を持たない人にとっても共通して生じるものである、と述べている。彼女は、二つのグループがおちいる窮地においては、類似性の方が差異性より大きいことを指摘している。もちろん、どんな差異性も、現実的には考慮に入れなければならないし、同じ問題領域に関するぶつかり方の度合いは、二つのグループではいく分異なるかもしれない。

 青年期における心理的問題と身体障害との関係についてのもうひとつの研究が、Wenar によって報告された。彼は、専門的な助力を必要としている心理的問題の深さにおいては、障害のある青年でも、ない青年でも大した違いはないと仮定した。彼の結果は、障害のある若者の方が、活力、内面的資源、創造力の面でやや健全の傾向をみせているが、外界における潜在的危機に対してはより感じやすいことを指摘している。彼の概括的結論は、身体障害は心理的問題と一致しえないということである。

 Van Roy は、障害を持った子どもの広範な研究の中で、「ローゼンツバイクの絵画欲求不満テスト」(the Rosenzweig Picture-Frustration Test)を使い、子どもやその家族と話をして、正常な子どもたちと、身体に障害を持った子どもたちの欲求不満反応における違いを研究した。結果は次のように要約される。

・ 7歳までは、両グループ間に重要な相違はみられない。

・ 8~9歳あたりでは、障害に対する強い意識、傷つけられることを表す自我の防衛・欲求不満をはばからない拒否反応が現れる。

・ 10~12歳の間では、典型的な反応に一致させようとする傾向がある。

・ 思春期あたりでは、障害がどっと前面に現れて、障害者は、欲求不満からひき起こされる問題に、適切な方法で対処することが不可能となる。

 著者は、欲求不満に対する反応は、直接には他の人の態度によるものであることと、障害というものが、まず、社会的レベルにおいて「欲求不満地帯」を生じさせるということを強調している。

 児童心理学者のすべてが、子どもの自我の確立において、家族の持つ重要な役割をこれまでしばしば強調してきた。子どもの、自分自身についての考えに影響を及ぼす要因は多くあるが、最も重要なもののひとつは、他人が彼をどのようにみなすか、とりわけ両親がどうみなしているかということである。その後、この「他人」の範囲は拡大していき、仲間の意見というものが重要になってくる。Jersild は以下のように述べている。

 普通の子どもは自分と同年の子どもたちとの役割を演じることを学ぶ前に、年長者とつきあうのが上手なものである。自分と同年齢の友だちとの気楽な関係が確立したあとであえ、子どもは、あたかも大人たちを、自分の仲間たちとの世界へそこから飛び出していく基地として使っているかのように大人のところへ来る。もし子どもと大人との間に確実な関係が培われているならば、子どもは、たぶん、同年齢の友だちの中へ、より確実にふみ出していけるだろう。

 

 Cahuzac と共同研究者たちは、121 人の脳性マヒの子どもたちの社会適応についての追跡研究を行った。彼らの結論は、職業に対する将来の適応の可能性については、当然、運動面での自立の程度や、知的レベルにもよるけれども、等しく関係するその他の要因―つまり、家族のふるまい方や社会に起因するものの影響などがある事実を強調している。彼は、よくわきまえた家族と、よくわきまえた市民により結果が改善されうるものだと考えている。

 Ingramは、200 ケースの研究での同様の発見を報告した。

研究

 これらの理論的仮説から出発して、私たちは、脳性マヒの子どもと家族および友だち関係の研究を試みた。研究活動は、身体機能訓練のために子どもたちを入院させている病院でなされた。そこは、120 ベッドの収容力があり、年間、約400 人の子どもたちが訪れて、各々、少なくとも3か月間は入院する。多くの子どもたちは、1年か2年のうちに数回入院する。いろいろなタイプの脳性マヒの子どもたちがみられるが、統計的に最も意味のあるグループは、片マヒと両マヒである。

 研究対象となるのは65名の子どもである。心理学的な検査と、精神医学的な面接が実施された。子どもたちの行動については、リハビリテーションナースと教師に尋ねた。家族との面接が不可能なときは、質問用紙を両親に送り、「日常」生活における家庭での行動を尋ねた。私たちは、両親、教師、子どもたち自身により描かれた家族生活に関する満足すべき結果を得た。

 総括的な発見から得た私たちの結論は;

 1. 自我の発達および家族関係についていえば脳性マヒの子どもは―質的な観点からは―正常な子どもと同様の問題を持っている。2~3のケースのみに身体障害のために量的な側面(すなわち問題の程度)が増加している(私たちの統計では20%)。つまり、多くの子どもたちは、正常な家族と、愛情豊かな家族生活と、大変理解のある両親を持っている。さらに彼らの兄弟や姉妹は正常に発達しており、身体の不自由な子どもを、自分たちの普通の同等の仲間としてみなしている。むしろ、脳性マヒの子どもたちと近親者との関係において存在する問題は、「障害を持っている」という強い感情に起因するものだといえる。これが、孤立や一人遊びの傾向を伴う極度の内向性、兄弟へのあからさまな攻撃性(結果として争いとなる)、母親の愛情と世話を極端に求め、そして望んだほど満たされないときは、表に出すか出さないにしろ、ひどいめにあっているとか、おろそかにされているなどの感情を持ったり、両親へのあからさまな攻撃性、といったものとして表現される。

 2. 彼らの仲間や同年の友だちとの同一化についていえば、身体の不自由な子どもたちは、発達上の問題を高い割合で(85%)示していて、その問題は、これらの子どもたちが、自分自身を発見するときの「特殊な状況」から起きるものであろう。非常に小さな家族の範囲は、子どもの社会生活のひろがりのある範囲とは比べものにならない。つまり彼は学校へ行き、他の子どもたちと出会い、彼らのようになりたいと思っている。障害のない子どもたちは、しばしば、あからさまに障害のある子どもを拒否し、一緒に遊ぶことを拒む。あまりないこととはいえ、まだまだみられるのだが、身体的に正常な子どもたちは、身体の不自由な子どもに対して、えてして残酷であり、その子に、身体の障害に関する軽べつ的なあだ名をつけて、あらゆる場合にそれを使ったりする。時々、障害を持たない子どもは、自分が正常な友だちとけんかするほど体力的に強くないと、容易に勝てそうな障害のある子どもたちに攻撃的になる傾向があるが、幸いにも、これらの態度はめったにみられないし、他の子どもたちにとがめられる。こういうことは、からだの不自由な子どもたちが、自分から人に告げたのよりもっと多く起きているのではないかと思われる。

 私たちの研究の、65名の子どもたちのうちで、45名は普通の小学校へ、20名は特殊学校へ通学していた。第一のグループの2名だけが何の問題も持っていなかっただけだが(すなわち5%)、第二グループの8名(すなわち40%)は、彼らのクラスに、よく統合されていた。

 65家族のうち52家族に、私たちは「問題」をみい出した。できるだけ現実的に考慮しようとすると、それらの問題の原因をみわけることは容易ではない。しばしば、その要因が混じりあっているからである。例えば子どもの神経過敏、両親の理解の欠如、兄弟の思いやりのなさ、あまり辛抱づよくない性急な両親、家庭崩壊や両親の間の極端な不仲のような特殊な状況(しばしば身体の不自由な子どもが犠牲になる)、子どもへのあからさまな拒否や、慢性病の施設に子どもを捨てようとすること、あるいはおそかれ早かれ彼を暴君にし、おおっぴらな、あるいはかくれた兄弟間の争いのもとになるような、子どもへの盲愛。そのような状況はいつでも起きるが、身体に障害のある子どもの場合には、子どもの存在および彼の特殊な問題によって生じる比重の大きいものをさがすことが必要である。私たちは、このことを二つのケースレポートにより説明しようと思う。

 

 Milan は、脳性マヒで、両マヒタイプの13歳の少年で、6回目の入院をしている。IQは110 である。長子で、8歳と6歳の2人の妹がある。2年前に彼の父親は死亡し、Milan は父の死をひどく恨んだ。彼は、その期間の家族生活についてあまり語りたがらない。それ以来、子どもたちと祖父母との関係が親密になった。8歳の女の子は祖父母のもとにひきとられ、Milan と下の妹は、休日をまるまるそこで過ごすようになった。子どもたちはごきげんで、祖父母は、子どもたちが遊べる広い庭を持っており、川へ泳ぎに出かけることも許しており、Milan は自転車を持っている。「そこは楽しいんだ。なにをしてもいいんだよ」彼は、家での生活について文句はいわない。「お母さんはとてもすてきだし、テレビも何か面白いものをやっているときはいつでもみさせてくれる」という事実にもかかわらず、彼は、母親が神経質でおこりっぽくて、「お母さんは忙しすぎてぼくのための時間がない」という事実をよく話した。

 Milan は、祖父母と生活している妹にやきもちをやき、彼の攻撃的な感情を下の妹にぶつけ始めた。彼の母親は、彼に、もっと自分の手助けをしなければいけないといつも話しており、この家の中にいなくなった男性の代わりをつとめるように話したが、時には、彼には「いいところが何もない」といったりもした。母親からは、素直でない、役にたたない少年のように、そして祖父からは、かわいそうな子のように扱われて、彼は男性としての同一視を成し遂げることができず、また、母親が彼にしばしば負わせようとする重荷を担うことができない。彼は悪夢にうなされるようになり、学校の成績も優秀であったのがやや下がってしまった。

 ついに彼は、特別な3か月間の治療をうけるためゼレズニス(Zeleznice)へ送られた。最初の週に、スタッフは、彼の中の変わった様子に気がついた(おこりっぽく、何か攻撃的で、機能訓練にうんざりしている)。しかし、約2週間後に、彼の行動は再び正常にもどった。Milan は包容力のある態度で、彼自身と彼の家族のことについて話すようになる。入院してから3週間後に実施された「家族描画テスト」(The Draw‐the‐Family Test)は、ある問題を示している:祖父母と一緒に住んでいる妹の不在、そして要求されてから不完全に描かれた自分自身の描画。しかし、母親の大きなしかめ顔とちがって、笑顔で好意的な祖父とMilan の共通性およびMilan 自身の不完全な描画に注意すべきである。

 もしもMilan が正常な身体であったら、彼が持っている問題はもっと少ないことが予想できるだろうか? 彼は、家をきりもりしている母親(彼女は余暇に仕事をしている)の手助けにベストをつくすが、しかし、祖父母のところでの生活がもっといいと考えずにはいられない。Milan が優秀な生徒で、勉強したり、学校へ行くことが好きだということはあきらかである。時々彼の母親が「いいところは何もない」かのように彼をあしらうが、これは、Milan にとっては、自分の身体的な障害を思い起こさせるので最悪のことなのである。母親は大変神経質で、ひどく疲れきっているが、理解力がある:彼女は話し合っているうちにこれらの問題を理解した。

 

 Janaは12歳半で、2回目の入院である。彼女は脳性マヒの両マヒタイプで、眼瞼に先天的な奇形があり(彼女は2回手術をうけており、今は全く正常にみえる)、手にも奇形がある―右手の人指し指の基関節と、左手の第二、第三、第四指がない。彼女は長子で、7歳と11歳の2人の正常な弟がある。IQは、最初は66であったが、再テストしたときは75であった。彼女は病院に早く適応し、最初からスタッフに親しげで、うちとけて、ていねいであり、よく相手になる人を捜し求めていた。彼女は手作業のときにも、人とつきあうのにも、いくらか落ちつきがなかった。

 Janaは、自分自身を「ちょっと神経質」であるといっており、家でだれかラジオを大きくかけると、外に出ていなければならなかった。母親が、彼女やほかのだれかをどなり始めるときも同じようにする。父親は、Janaは、それほど素直な少女ではないが、彼の妻とやや対照的にほがらかでゆかいな子である。妻は大変厳しく、ほとんどいつも機嫌がわるく、子どもたちの冗談やさわがしいゲームを強くとがめる、と述べている。Janaは、母親を好きだと認めているが、しかしあきらかに父親の方を好いている。父親が、彼女にとっては理想の男性を表すものである―父は「すてきだし若い」。「三つの願望テスト」(the Tree Wishes Test)では、彼女は次のように答えた。健康でありたい、よい夫(父のような)を持ちたい、健康な子どもを持ちたい。

 彼女の父は、お気に入りの子はJanaだと認めている。「なぜなら、彼女はほがらかだし、その上病気だから」。家庭のふんい気について尋ねられたとき、彼は「他の人たちのように全く普通だ」といっている。めったに口げんかもないし、あったとしてもささいなことである。彼は長時間働いているし、妻や子どもたちと一緒に多くの時間を過ごすことはできないが、子どもたちは、家をきりもりしている母親の手助けをしている。母親は、4年前、職場での事故のため、左手の指を4本失ったので今は働いていない。

 ここで、この事故について、2~3付け足すことが役だつだろう。どうしてそれが起きたのか?精神分析学派によれば、そのような事故の大半は意識下の要因によるものだとする。このケースでは、それらの要因がどのように働いたのか? 妻は夫より2歳年上で、彼女は3人の子供の母であり、工場で無資格の労働者として8時間働かなければならないし、家事もしなければならない。彼女は34歳で年よりふけてみえるようになり、そのとき夫は32歳であった。

 彼女は、娘の不自由な足と切断された指にもかかわらず、娘に嫉妬を感じ始めた。なぜなら、Janaは父親を大変愛しており、彼もまた、同じくらいの愛情でこたえていたからである。母親は、Janaを敵意をもってあしらうようになった。父親はかばい、それが家庭内における緊張を高めていった。そんなとき、母親が働いていて事故にあったのである。それが子どもたちを母親により近づけるもととなり、彼らは家の仕事を以前にもまして手伝い、そしてまた―結局、母親の神経質と不気嫌をうけ入れることとなった。しかし、家庭は、家族全員にとって依然としてそれほど居心地のよいものではなかった。「家族描画テスト」(The Draw‐the‐Family Test)は、Janaの父親と彼女自身が述べた時期と一致している。まず最初にJanaが手全体を描いた様子に気づかされる:それは指のない、ちょうど卵型。それから母親のイメージ、ズボンをはいている母親を描いたあと、Janaはつぶやいた。「そう、でもやっぱりお母さんは女の人よ」そしてその上からスカートを描いた。私たちは、目鼻のない母親の顔も見ることができる。これはその彼女が描いた2番目の絵である。Janaは、ズボンをはいた自分自身を描き、自分から説明した。「ね、私は私の足が好きじゃないの」

 私たちが手にしているこの家族についての全様から、問題を、どの程度までJanaの身体障害によりものであるとするかを述べるのはいささか難しい。しかし、私たちは、現在の心理学的な傾向においては、障害はさほど重要なものではないということが確認されると思われる。

結論

 1. 脳性マヒの子どもたちは、身体的に正常な子どもたちと同様の、多くの心理学的問題を持っている。

 2. 脳性マヒの子どもたちにみられる精神病理学的な特徴は、一部分は、彼らの特殊な性格により決定されるが、一部分は、かれらの存在自体が家族生活にひき起こす特殊な問題により決定される。

 3. これらの子どもたちの家族は、歩行や、ものの扱い方などの改善を重要に、しかも不可欠に考えているので、不幸にも、彼らの特殊な心理学的な問題が十分に考慮に入れられているとはいえない。

 4. 身体に障害のある子どもたちは、多かれ少なかれ、敵意を持つ仲間や同年の子どもたちがつくり出す多くの問題に出会うことを通して、自信を獲ち得る。

 5. 脳性マヒの子どもの身体機能訓練は非常に重要であるが、私たちは、これらの子どもたちが必要としている精神医学的な助力を軽んじてはいけない。身体障害が、心理的ニードをおおっているかもしれないが、そのことは、それらが全くないということではない。

(Rehabilitation Literature, 1975年10月号から)

参考文献 略

*ルーマニア生まれ、ブカレスト大学小児科で学んだ後、1968年に医学博士号を得た。彼女は今、小児神経精神医学の専門家として、オーストリアのウィーン新総合病院小児神経医学科で仕事をしている。
**日本肢体不自由児協会中央療育相談所児童指導員


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1976年7月(第22号)13頁~17頁

menu