教育 病院における教師の役割

教育

病院における教師の役割

The Role og Teachers in Hospitals

 人間性、人格の成熟、処置の安定性、これらは鋭いユーモアのセンスとあいまって不可欠の要素であると、W.J.Sanderson Hospital School,Gosforth,Newcastle upon Tyne のD.H.Lee 校長は書いている。

D.H.Lee

武田洋*

 病院で働く教師は、精神薄弱児のための病院を除いて、二つのグループに分けて考えることができる。病棟で教師として勤務している者と、施設内学校の一員として勤務している者とである。施設内学校の教師の方が、一般にはよりよい給料を得、よりよい勤務条件の下で働き、またよりよい施設や設備を利用できることになる。さらに、両親や地方の教育当局、ほかの学校などともより容易に接触することができる。病棟の方の教師は、その多くがLEAの回覧や労働組合の通知やその他の文書が配布される場合に、除外されてしまうように思われる。

特殊な問題:方法と内容

 単一の病棟、あるいは施設内学校においては、教師は、試験的に入っている精神薄弱児を含めた年齢や能力の幅広いばらつきのある子どもたち、ときには盲児、ろう児さらに重度の言語障害児などの、教師にとってなじみのない子どもたちまで扱うことになるのに気がつく。どのようにしたら、教師がなじみのない子どもたちに対処し、あるいはなじみのない障害を有する子どもたちの教育に対処できるだろうか。

 その答えは次のようなことにちがいない。つまり、教師は学校の中で学校全体の職員の教育の蓄積を頼りにしなければならないこと、あるいは何らかの他の手段によって案出すること、あるいは援助を求めることである。理想的には、施設内学校の職員は、すべての年齢と能力の子どもたちに対処する経験をもつべきだし、変化に富む患者への興味や実力をもつ者も含むべきである。そうすればその人たちの間で、たいていの教育場面で適切に扱うことができる。多様な教育的背景をもつ子どもに対し、変化のある少人数の人々で指導することは、教師の間で協力的な関係をもつこととなる。ときには、LEAからの非常勤の援助を得ることも可能であろう(たとえば、学校職員の中にスペイン語を教えることのできる者がいないような場合)。LEAの委員は、特殊な要求のうちのどれかを満たさせるための忠告や器具を供給することもときどき行うことができる。

 たとえば、盲・ろう・言語障害児の地方の機関の長が、「子どもが施設にいる間、この子どものために私に何か有効なことができるか」とたずねられた場合、彼はほぼ確実に説明をし、例を示すことが巧みにできるであろう。教師が以前に経験したことのない子どもの教育から明らかになるようなことは、そう日常的にでなくとも熟練者の援助があれば、教師ははじめに可能だと思っていた以上のことをできることもまれではない。次に、教師が、みせかけのような専門意見なしに、心から指導を行った場合、子どもは欠点に寛大である。

 DESとNAMHは家庭訪問と施設の教師に臨時に過程を用意している。しかし、施設内指導に関しての問題の多くは、実際にはこのような方法では処理しえないのである。しかし、教師がそれらについて専門的な関心をもち、事柄の本質を極め論じる特定の方法がほかに三つある。第一に教師が特殊な課題(社会研究、交際、技能や技術のある面)の現職訓練に参加すること。次に、施設の子どもの珍しい例の取り扱いに関心をもつすべての人々のための協議会などが設置されている場合、それに参加すること。第三に看護婦や理学療法士のために企画される施設の職員の訓練会のようなものに出席することである。

 しかし、施設の場では教えることのできないことも多いし、教えることができることも、子どもが慣れていないような方法では与えることができない。もし可能なら、子ども自身の本や器具を含む慣れている物の一部を手がかりにすることも大切である。子どもが以前の学校でどういうことをしてきたかを確かめるため、また本や教材を集めるのをだれかに手配するため、その校長に電話するのも、必要があればよく行われることである。子どもが退院し、もとの教師の手に帰されるとき、子どもに与えられていたノートに、施設内でどういう試みがなされてきたかを、その教師に示す役割を果たせることもできる。

 子どもを指導している方法の改善にわりあい役立つことがある(たとえば教師はアルファベット文字を用いて読むことを教えることについて意見が分かれている)。しかし、異教徒を改宗させることや子どもを正規のコースに乗せることは、施設内教師の仕事ではない。子どもは比較的短い期間に以前の環境にたいてい戻らなければならない。「よりよい」方法で教えられること、「よりよい」本を与えられることは、単に混乱を増し、すでに悪化している場をさらに悪くするのみである。

指導の特殊な面

 施設には、たいてい時間表や授業科目表などのない場合が多い。しかし、毎日その場かぎりの指導をしているという意味ではない。教師の計画を構成するためには、少なくとも三つの面がある。それは、

 (1)〈治療〉 私たちは、学校の一部門や、その職員室で12人の読みの遅滞を示す子どもをかかえる女性の訪問教師などを、「治療」という用語から連想する場合が多いようである。読みの標準を上げること、とくに発達の遅れた物や学業不振の子どもについては、このことは非常に重要なことであるのは確かである。また、各々の教師はいかにしてこのことを実現するかについて、確信ではないにしても、単なる偏見や習慣に基づかない明瞭な考えをもっていなければならない。

 しかし治療活動というのは基礎的な技術以上のものを含んでいて、私たちはすべて私たちの知識に欠けているものがあり、施設においては幻想的で知的でないような態度でなく、おだやかな、競争的でないふんい気の中で少なくとも一つの治療を行う機会がもてる。肢体不自由児は、非常に幼い子どもと同じく経験という点で著しいギャップをもっていることが多い。こういう側面の治療ということでは施設は最も良い場とはいえず、このことは心に銘記しておかなければならない。

 しかし、いくら技術が良くても、教師に奉仕的に働かせたり、過剰労働になったりすると、肢体不自由児の施設―家庭―施設の良くない影響を防ぎとめることがむずかしくなる。とくに、一か所以上の施設にわたっている場合や、家庭復帰が正常な学校教育の回復を必ずしも意味しない場合はなおさらである。さらに、肢体不自由ということがその子どもの学習にどの程度影響を及ぼすか、教師がいつも確実に知っていることがむずかしいということもある。

 (2)〈報酬〉 悲しむべきことに、子どもが施設に入っている場合、その活動は制約され、教科の多くも実際に遂行され得ない。いくつかの方法で施設内教師に給料を払うことは、子どもたちにとって役に立たない活動を、それがカリキュラムに含まれているために、先立って提供することになる。このように、施設に何か月か入所していて、フランス語を学びたいという子どもは同じようになってしまう(彼はほとんど教科書はいらないだろうし、おそらく知りたいことを独力で学べるであろう)。同様に、ある子どもはタイプを学べるであろう。こういうコースは子どもが単に興味半分に手を出すことができなかったり、しなかったりという場合と同じように、子どもがするという条件による場合だけ用意されるべきである。

 しかし、美術や技術の場合には、施設内学校はすぐれている。幅広い活動がベッドから離れられない子どもにさえ与えられうる。そういう活動は子どもが求めている以上のもの、向上への挑戦とその機会以外のものも与えることである。その活動とは、織物、皮細工、刺しゅう、ネクタイのろう染めと染色、冷鍛鉄とワイヤー作業、エナメル塗り(移動がまで教師といっしょに作業する)、スクリーン印刷、スクラップやあらゆる材料で絵を作る作業、やわらかいおもちゃ製作、写真、印刷、彫刻、リノリウム印刻、彫金、模型作り、ランプとかさの製作、ネクタイ作り、寄木細工、スツールと敷物製作である。

 これらの新しい教育活動のすべてが指導されなければならないし、この1対1の場の中で子どもはたいてい自己評価が促進され、ベストを尽すよう促がされるのである。もし我々がばかげたことを受け入れ、凡人を賞賛するなら、我々は子どもに何の役にも立たないことになる。

外部に目を向ける必要

 (3)〈反施設的〉 子どもが施設で生活している場合、「施設化」される危険がある。日常のきまりきった生活が用意されているのである。選択と決定をする練習は受け入れられない。彼らがなすべきことは従属することである。こうしたことすべてが、家庭や学校で経験されることに対して異邦人のように映る場面なのに、それを冷淡に受け入れるようにしてしまい、生活の内面的な型でも同様にし、さらには施設の制度のささやかなことに、あまりにも多くの関心をもたせたりしてしまう。

 こういう危機を認識するだけでは十分ではない。子どもが外部に目を向け続けるのに役立つように、行動の測定がとりあげられるし、できるだけ多くの経験を与えるためにも測定する必要がある。美術や技術を含んだ学校教育活動もこのことのために役立つ。しかし、他の事柄は同様にはいかない。興味ある手紙を書くこと、学校雑誌づくりに働くことなども、自己反省で解毒剤の役に立つ。しかし、その中でも最も重要なのは、すべての子どもが、いかに幼かろうとあるいは才能がなかろうと、毎日、施設を超えて物事を見るようにさせることである。新聞、ラジオやテレビのニュースで現在の事件を知ったり、学校放送を見聞きすること、教師との集団や個人での話し合い、また単に窓から天気や動植物の変化に目を向けること、交通の様子、ごみの収集、建築などを見聞きすること、何でも起こっていることで興味をひき珍しく見えることなどによって、こうした施設を超えて物事を見ることになる。

施設内教師の良い性質

 教師の目標は謙遜と現実性でなければならない。教師は、次のようなことを知っていれば、ある程度の成功をおさめることができる。その第一は子どもがいつも不幸であるというようなことがなければ家庭を志向しているということ、第二に子どもはたいていの学校生活に遅れることはないこと、第三に以前試みたことのない教科や技術のうち、少なくとも一つについて子どもが何かを学んでいること、次に子どもが少なくとも一つの、おそらく長年にわたる知的な困難を克服すること、最後に子どもは自分自身で作り、子どもに満足を与え、正当な誇りになる何かの美術や工芸の作品を家庭にもち帰らせることである。

 ベッドやイスから離れられない子どもの教師は、子どもを連れ歩いたり、物を運んだり、落ちた物を拾ってやったり、絵筆を洗ってやったり、物をしまったり、本や備品を片づけたり、その他通常の条件下では子どもが自分でやることをしてあげることになる。これは、非常に疲れるはずで、とくに個々の仕事が活気に満ちたものであればなおさらである。いくつかの教育当局では、施設で働いてもらうために教師を雇用している。その人たちは自身障害を有していて、まちがいなくすばらしい意向をもっているのだが、何が要求されているのかということについては知らないのである。教師というものは、正常な生活の実際ということと子どもとの間の連結器である。教師は制服など着るものではないし、学校における教師に近似していなければならない。したがって、教師にとって健康状態を保つことはたいせつであり、毎日出勤していることが大切である。

 教師は気分に左右されることなく、信頼されていることも大切である。通常の学校では、Mrs.BrownとかMrs.Smithとかが今日は気嫌が悪いなどというのが特徴的である。施設では決してそういうことがあってはならない。個人的な問題をかかえている教師は、施設に入りこむ余地はない。、ましてLEAによってそういう人が送られてくることは、なおさらあってはならない。たとえば、よくあることであるが、神経衰弱を回復させるためにとか、また教育能力に問題があるような教師が施設に送られてくる場合がある。しかしこうした困難をもっている教師は、それを施設にもちこむことになる。彼らは歓迎されない場所にそれらの問題をもちこむ権利はないのである。

 おそらく、もっともたいせつなのは次の二つである。その一つは、教師は子どものすべての面の保護に深くかかわりあうべきこと、次に施設における指導というものを、単なる他の場における指導の変種と考えるべきではないということである。教師はユーモアもなくてはいけないし、自分の仕事を厳粛なものとまで思わなくともよいが、まじめなものとしてとらえる必要はある。落ち着いて楽天的であると評価されるふんい気をもっているのがよい。以上と同様に、施設の教師はまた良い一般教育を受けていなければならないし、合理性のある変化に富んだ経験、とりわけ適応力を備えていることである。

 ある教師たち、とくに派遣教員の場合、施設内での仕事が自分が思っていたことと違うということで、中にはもともと雇用された期間留まって仕事をするのができない者もいる。ときどき、子どもがよだれをたらし、くさい、グロテスクに見えたり行動するという理由でそうなったりする。これらの子どもたちに対処するには、教師は誠実で感傷的でない愛情を必要とする(愛とは非常に低俗的ないい方だが、人はそれを見るとき誠実なものを知る)。教師は子どもに予断の再保証を与えねばならない―もちろん信頼のおける―、そしてこの方法で過ごす時間の量についてやましさを感じてはならない。

行動の自由の必要性

 すべての教師は自由でなければならないし、施設の教師はとくにこのことが必要である。しかし、ときには困難が生じる。もし母親が休日に自分の計画を説明して、教師がその子どもの障害の状態や処置について当然知っているものと誤解されるような場合、教師はどうしたらよいか。あるいはある子どもがふと立ち聞きした自分についての危機的なことで、しかもそのことについてだれも話してくれない場合、その子どもが教師に直接質問してきたらどうしたらよいか。子どもの学校からの問い合わせにどう答えるべきか、とくにその照会が個人的で非公式な場合など。あきらかに、これらすべてが場合による。しかしひとつの鉄則はある。教師の軽率さのために機密事項が漏洩するようなことがあってはならないということである。

 とくに幼い子どもの場合、親の訪問の際は子どもたちを安心させるようにしなければならないし、家庭生活のイメージを保たなければならない。親がときどき訪問することの重要性は、とくに幼い子どもの場合強調しすぎてもいけないし、たいていの施設では、子どもの受け入れ時に連絡帳などで情報を提供することで補っている。しかしいく人かの親が施設から遠く離れて生活している場合当然だとしても、驚くほど多くの親は、毎日施設に来るための時間的・経済的余裕がない。また少数ではあるが、自分の子どもを訪ねたくない親がいるのは不幸なことである―もっともそういう親も想像以上に多いようである。

 訪ねてくる母親の中には、子どもに会い、甘い物、ポテトフライ、プラスチックのおもちゃなどをむやみに与え、子どもが座って毛布をちぎっている間に、訪問時間が終わるまでベッドの側に座って読書していれば子どもへの義務が果たせたと思っている者もいる。またある母親は、子どもにちょっとだけ会い、他の親と病棟でおしゃべりをし、すばやくタバコを吸いに外へ出ては、面会時間が過ぎるとありがたそうに帰る。他方、不安げに見える母親はよくくよくよし、たまにしか面会に来られないことと他の家族を連れて来ないことに罪悪感を抱く。

 長期にわたって子どもに面会に来ることは容易ではないし、教師の援助できることもここにある。たとえば、教師は母親が子どもに本を読んで聞かせたり、子どもが読むのを聞いてあげたりするように助言できるし、そのための本が必要ならとりよせてやることもできる。絵をかくこと、絵をかきながら子どもにその絵について語りかけるのもよいことである。このことでも教師は援助できる。しかし、子どもはもっとも楽しいおもちゃをあきてしまうので、施設にはいつも備品問題がある。

 そのため、一群のおもちゃをとり除いて別の物を置きかえ、後に再生して新鮮な感じでとり出すことができる。こんなことはみなわかりきったことに思える。しかし、不安に悩まされている母親にとってはそうではないかもしれない。多くの教師はこの種の提案と材料の提示とが、いつも暖かく受け入れられてきたと言う。それは疑いもなく気軽に、正直に、好意をもって行われてきたからだし、また妨害になるようなことを指摘してきたのでないことは明らかで、子どもの最上の興味と幸福のために関心を分けあってきたのであるから、教師がそうするのは当然でもある。

死ということに関する問題

 病棟にいる子どもの死の問題を詳しく論じ、またそれを強調するつもりはない。しかし、これには二つの面があって、それらが直接教師に影響を及ぼしている。第一の面は何の希望も見い出せない子どもに関したことである。そういう子どもが、「ぼく、間もなく死ぬんでしょう」とか、「先生はぼくが間もなく死ぬということを知っているんでしょう」とか聞いてきたら、教師は何と答えるべきか。

 もし教師がごまかしたり、知らないの一点ばりだったりしたら、子どもを援助するのに失敗したことになりはしないか。こういうことはたびたび起こることではないし、どう応じるかはその時の病棟や施設の「方針」に大きく依存することになる。しかしその方針がどういうものであっても、それが教師によって明確に理解されていなければならない(もちろん他の職員の場合も同様である)。

 死ということに関するもう一つの面は生活することを支えることが上記のことと同じぐらい困難であることである。子どもが施設にいる期間に、死ということと密接に関係する出来事がときどき起こる。それよりもさらに多いのは、家族全員が自動車事故にまきこまれたり、たまにはそのため致命的な傷害を負ったりもすることである。両親か兄弟か姉妹が死んだという知らせを、教師が障害児に上手に告げなければならないというような事態が生じるようなことはない。しかし、そういう子どもが多くの支えを教師に求めてくるようになる。

 施設の教師は、医療、看護、家庭の人々、さらに医療以外の人々との関係で張網を歩くようなことがときどきある。それは患者や両親との場合と同様である。おそらく、大部分の教師や医療、看護の職員はお互いの間に不和があることを示唆されれば驚くであろう。ある教師は事例研究の会に出席しているし、子どもについての記述に関心をもっている。ほかの者はそれ程幸福でもないが、不平ももっていない。

 しかし、最小限大切なことは実際に困難をかかえているように見えることである。彼らは単にがまんしているだけだと感じ、仕事についての妨害に憤り、施設の職員が話しかけられても返事もしないということに憤っている。訴えることもなく、説明もされずに気ままな決定がなされる。たとえば、一人の病棟の看護婦は子どもが入所して以来、親が教師に話しかけるのを禁じ続けている。他の病棟では(12~16歳の女子病棟)は、「片付けられ」、ベッドは「小ぎれいにされ」、ラジオとテレビは午後の前半にはつけられない。このことに理由は示されない。しかし後に病棟の子どもが語ったことによれば、婦長が病棟訪問に来るからだということである。実際はだれも来なかった。だれがこのようにすることを望んだのか、だれが広々とさせ、それが良いと言ったのか。

 孤立した困難の意味を大げさに言うのは重要なことではない。施設の中といういく分冷めた空気の中で、教師と看護婦という集団間に、たまたまにしても性格の不一致がないというようなことを期待するのは現実的ではない。それがたとえ両方が子どもを見ているときに、子どもに最大の関心をもって深くかかわっていてもである。教師にも施設の職員との不和でとがめられる理由があるし、いく人かは誤った理由で施設内学校に来たことを思い浮かべるのも重要である(にもかかわらず、全国病院入所児童福祉協会〈National Association for the Welfare of Children in Hospital〉は何事か起こらなければ調査に来るということもない)。おそらく、施設における患者、両親、教師への態度も、その上層部にいる人々の態度を反映しているのであろう。

 多くの部門に子どもの欲求に対する広い誤解があるように思える。おそらく冷静な礼儀と良いユーモアがときに固い態度をとり去るであろう。しかし、すべての看護婦の訓練に、子どもの管理上必要なことを含めることの方からより良い結果がもたらされようし、もしひんぱんに相互訓練の会合が地方と国のレベルでもたれるならなおさらよい。

結論

 教師が成功するのには、人間性、人格の成熟、性格の安定、強いユーモアのセンスが必要な要素である。子どもが正常に受けとめる以上の何らかの方法で、単に子どもを洗練された方法で世話するだけでなく、教育の型が提供されなければならない。

(Special Education,Sept.1975 から)

*山形大学教育学部講師


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1976年7月(第22号)23頁~28頁

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