教育 特殊なニーズをもつ大学生の発言:教育経験の質的改善

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特殊なニーズをもつ大学生の発言:教育経験の質的改善

University Students with Special Needs Speak Out:Improving the Quality of Educational Experiences

Ann P.Turnbull,Ed.D.*,Ann Raper**; and Gary B.Mesibov,Ph.D.***

石渡和実****

 肢体不自由、視覚障害、学習障害などのために特殊なニーズ(needs)をもつ大学生は、自分たちが受けた教育経験について、意見、提言を持っている。これらの意見は、教育者やリハビリテーションの専門家にとって非常に有益なものとなろう。このような学生たちは高校を終了しただけでなく、種々の適応上の問題があるにもかかわらず、大学や大学院の課程に入学し、教育的に成功を収めた人々である。さらに彼らの多くは「ありのままを話す」機会を求め、自分たちが小・中学校で得た経験を批判し、特殊なニーズをもつ年少児やその教師の教育経験を質的に改善するため、彼らに助言できる機会を待ち望んでいる。現代の公教育のプログラムを改善するために、とりわけ特殊なニーズをもつ子供を普通学校の教育に統合したり、このような子供について新たに責任を負う教育者を訓練したりするためには、このような学生の存在は非常に意義深いものとなろう。これらの特殊な子供たちが何を欲し、何を望んでいるかを、教育者たちは既によく知っていると思い込んでいる。しかし自分たちが受けてきた教育場面での苦い経験について学生たちが話すのを聞くと、教師はその思い込みのある面を修正することもある。

 教育者やリハビリテーションの専門家にこのような情報を与えることを目的として、三つの大学(University of North Carolina at Chapel Hill,Duke University,and St.Andrews College)で、特殊なニーズをもつ29人の学生に面接を行った。29人のうち、14人は肢体不自由者、9人は視覚障害者、5人は学習障害をもつ者であった。面接を求められた学生のほとんどがこれに参加することに積極的で、2人の学生だけが回答を拒否した。面接の目的、質問紙の構成、所要時間(約1時間半)、彼らの考えや意見が将来どのように生かされるか、などについて説明を受けた後、学生たちは面接の日時と場所を約束した。ほとんどの学生が一人で約束の場所に行くことができ、面接場所を決める際もほんの少し配慮しさえすればよかった。

 以下のような四つの部分から成る質問紙に、面接者は回答を求められた。1) 彼らの教育経験や社会経験に関する質問と、いかにしたらその経験を改善できるかについて、彼らの意見を求めた11の長い質問から成る部分、2) 彼らの教育経験や社会経験について、5段階評定尺度で回答を求める10の質問、3) 統計処理を行うために、彼らの経済的基盤や両親の教育程度についてたずねた2~3の質問、4) 特殊なニーズをもつ子供のプログラムを作成するために、5段階に評定した後、重要な順に並べる八つの質問の部分、という4部である。前の二つの部分は学生の経験を調査するために設けられ、後の二つは教育プログラムを作成するための部分である。

 特殊なニーズをもつ学生の考えや助言は、以下のような三つの領域に分類される。1) 教育経験の場、2) 教育経験の範囲の改善、3) 教育経験の質的改善。まず第一に、学生たちがどのような学校で初等・中等教育を受け、その特殊な訓練場面や普通教育場面をいかに評価しているか、を決定することが目標とされた。このような問題について討論した結果、彼らの教育経験の範囲を改善する方法が示唆された。学生たちは以下のような事がらに関して援助を求めていたので、心理的要素をもつ彼らの広範なニードがまず明らかにされた。これらは自分自身に対してもっと肯定的な自己概念(positive self-concept)を発達させること、仲間(peers)や広くは近隣社会(community)の態度を改善すること、心理的にもっとバランスのとれた家族関係を確立すること、などである。教育経験の範囲の改善については、カリキュラムの改訂に関する指摘もあった。教育経験の質的改善に関しては、教師の教育方法や、年少児の特殊なニーズについて、教師の知識が不足していることなどを挙げる者もあった。

教育サービスの場

 大多数の学生は普通学校の教育のほかに、医学、リハビリテーション、セラピイ、点字、移動方法などの特別な訓練を受けていた。これらのサービスは病院、リハビリテーション学院、夏期大学、夜間学校などに位置づけられていた。これらの特別なサービスを利用した者の多くは、自分の特殊なニーズに対して身体的に適応するには援助が必要だということに気づき、自己を肯定的に評価することに限界を感じたことがあった。他方で、彼らはこれら特別なセンターの否定的側面についても多くの考えを持っていた。第一にスタッフの個人に対する配慮が欠けていることを批判している。「他の人と一緒くたに扱われる」というのがたまらないようである。つまり、種々の身体上の問題をもつ子供も、情緒障害をもつ子供と同じプログラムに従って治療を受ける、といった問題である。さらにこれらのセンター内外での社会的接触や、社会運動に関する厳しい制約により、自立と成長とが妨げられてしまうという問題がある。ある学生は、「自立という問題は口先で言われているだけで、ちっとも実行されていない」と述べている。彼らはまた柔軟性の無い、限界のある課程についても不満を示している。そのプログラムは特殊なニーズにふさわしくないか(多分、その学生についての診断がまちがっているのではないだろうか)、あるいは「あなたにはそういろいろなことはできません」と言われることになるか、といった程度のものでしかない。

 これらの否定的な意見は、特別なプログラムが特殊なニーズをもつ学生を教育する上で何の役割も果たしていない、ということを意味しているのではない。むしろこれらの意見はその質を改善し、ある種の特別な訓練経験の性質を変える方法すら示唆している。このプログラムが自立や社会性の発達、情緒発達を促すものになるとすれば、これらを経験することは一層有益なものとなろう、と学生たちは指摘している。カリキュラムを立てる際、特に適応問題や、教師と学生、学生同士のリラックスした個人的な接触に関しては、教師や行政担当者はもっと彼らの希望に耳を傾ける必要がある、とも学生たちは主張している。

 86パーセントの学生が多くの理由を挙げて、(特殊なニーズをもつ学生だけを受け入れる)閉鎖的なプログラムより、普通学校へ入学させる方が望ましいと考えていた。非常に多くの学生が、「特殊なニーズをもつ者にとって、現実の社会とかかわっていくことが大切であり、一般の人々も特殊なニーズをもつ人と交際することは重要である」という点を強調している。すなわち彼らは、「心理的に見て、統合教育(integration)はすべての人々にとってより健全な形態である」という信念を抱いている。普通学校に入学させることは、子供の社会性の発達や心理発達にとって最上の方法である、と彼らは考えている。学級経営に支障をきたすような再重度の問題をもつ学生は、ある程度まで普通教育から切り離しておく方がよいということも認識してはいる。しかし大部分の者にとっては自分の経験を振り返ってみた場合、ある時間は普通学校にいて、別の時間は特殊学級にいるという妥協策でさえ、教育における「安定性をめちゃめちゃに破壊した」という。また多くの者が特殊学級に入ることや、子供に「資料室(resourceroom)で多くの時間を無意味な活動に費させる」ことを恥辱(stigma)であるとして反対している。

 普通学校に通う方を好むという点に関しては、彼らが近隣社会で成長していた時、その64パーセントの者が、兄弟や健常な仲間と一緒の活動に参加していたということを考えてみれば、それほど驚くにはあたるまい。これらの学生たちはしばしば自分を健常である(normal)と考えており、これらは自己欺[瞞](self-deceptive)とも思えるが、「私は自分の限界を知っているが、他の人にできることはたいてい自分にもできるはずだと思っているだけだ」と言いたいのであろう。

教育経験の範囲の改善:心理的側面

学生の自己概念

 自分の自己像(self-image)、学校生活の肯定的及び否定的側面、特殊なニーズをもつ子供への助言、友人への態度、家族との関係などに関する質問の答えは、主として以下のような2種類であった。第一は、学生の特殊なニーズに対して身体面の適応を図るとともに、社会的・心理的側面でも適応したいという願望である。第二に、「ほかの人にできることはほとんど自分でもやれるようになりたい」というものである。彼らの生活の身体的側面ばかりでなく、心理的側面にも援助の手をさしのべてほしいと考えているようである。

 たとえば彼らに、適応に関する最大の問題は何か、とたずねると、多くの者は「肯定的な自己概念を発達させること」とか「自分自身や自分の問題をどのように理解し、それをいかに処理したらよいかを知ること」を挙げている。3分の1の学生は、どうしたら将来うまく適応できるようになるかがわからないでいる。また「障害をもつ学生のニーズについて考えることの必要性を認識し、そのための訓練を受けたカウンセラーを学校(小学校にも中学校にも)に置くこと」が彼らに対する援助となるということを示唆している者もある。また彼らへのいやがらせや悪口などの問題を解決し、彼らの強さや優れた能力を指摘し、それを引き伸ばすような「対処法(coping skills)」をいかにして発展させるかについて助言してくれる人を欲している。「我々が経験すると思われること(たとえば社会的問題、随伴障害の可能性)について『遠慮無い』討論をすべきである」と主張している者もある。

 他の人から気持ち良い援助を求めたいという彼らのニーズや、適応に関する心理的問題については、子供のころの思い出の中で明らかにされている。これらの問題とは、内向性、臆病、劣等感(太ったり、背が低いことと関係していることが多い)、神経質、意地っ張り、過補償性(overcompensation)、(「私は非常に勤勉だった」とか「私は他の人より優れていると思っていた」)などである。半数の学生が、成長して家族から自立したり、自分自身で生活を管理しようと努めた結果、自己像を適切なものに変えることができたと報告している。しかし多くの者は、社会的な接触経験がこの否定的な自己像を変えるのに役立ったということも意識している。さらに約半数の学生が、学校生活における最も肯定的な側面として、親切で理解があり、適切な援助を与えてくれる教師の存在を挙げている。他方で、3分の1の者が教室の中では「落ち着け」とか「自分の強さ(strength)と弱さ(weakness)とを認めよ」「他の人と異なっていることを恥ずかしく思うな」などの助言も与えている。

近隣社会と仲間の態度

 残念ながら学生とその仲間や近隣社会との関係では、肯定的な自己概念の発達というのは全く望めない。39パーセントの者が、仲間や兄弟の反応・態度は思いやりがあり、援助にあふれ、受容的であると述べてはいる。しかし36パーセントの学生は不愉快な、冷やかなものだと考え、18パーセントは意地が悪いとこぼしている。これでは社会的関係はうまくいくはずがないし、実際そうである例も多い。「私の友達はある社会的場面で、私をどう扱ったらよいかわからなかった」「私がデートしたいと考え始めた時、一人でいろいろなことをやれるということが非常に重要となった。しかしデートを実現する方法はなかった。デートというものはあらゆる面で、その機会を作るのが非常に困難であった」。このようなタイプとは異なる、次のような戦闘的なステレオタイプを示す者もある。「障害者であると、異性間の恋愛関係を成立させるチャンスはない」。ある学生のデートに対する典型的な反応は、「あの娘は僕に親切にしてくれた」といったものである。デートするような年齢になる前にも、仲間や近隣社会の理解は、建築の障害以上に大きな障害となっていた。このような傾向は以下のような文に表されている。「健常児をもつ親は、自分の子供が私から何か病気を移されたり、私たちと遊ぶと礼儀知らずになると考えていたので、一緒に遊ばせようとはしなかった」。実際に意地悪をされるということは幼少期に始まり、高校までになくなるのが普通である。次のような事実も理解不足に起因するものと思われる。「私は他人からおもしろそうに見られたり、よく背後でひそひそと話をされた」「私が知らないことがあると仲間にいたずらをされた」

 あるいは悪口を言われたり、ギャングごっこをしたりする時の生けにえ(scapegoat)にされた。学生たちはこのような意地悪に対処するために、いろいろな方法を示唆していた。「無視しろ」「気にしすぎるな」「寛大であれ。神経質になるな」「ちょっと笑ってやりなさい」「あなたのもつ問題について質問されたら、それに答えるのを恐れるな」。このような助言が小学校に通う年少児に対して、現実的な激励になるかもしれない。

家族の態度

 学生が特殊なニーズに対処していく際、その援助をするのに最大の影響力をもつのが両親である(61パーセント)とみなされている。それゆえ家族というのは、確かに重要な教育経験の範囲内にあるものと考えられよう。多くの学生(3分の1)が、過保護にならず、彼らの自立や社会生活への参加を促してくれる限り、家族は大きな力になってくれると述べている。ある盲学生はバイクの運転を習った時、両親が示してくれた援助を思い起こしている。四肢マヒの女子学生は、彼女を友達と一緒に海へ行かせてくれた両親のことを、誇りをもって述べている。彼らの自信や決定が励まされ、力づけられるのは、このような両親の態度と密接に関係している。ある女子学生は、「父は私を甘やかさないように、必要と思った時は私を蹴ることさえした」と述べている。

 家族、特に両親が、その社会的・心理的発達に強い肯定的な影響を与えている場合でも、なお問題が生じてくる。家族の態度が改められたというのは、この肯定的な影響の範囲内にあったということである。46パーセントの学生が両親が過保護だったとこぼしている。「両親は友達が私を外へ連れ出そうとすると、それを拒んだ」「私は身体的活動を伴うことをやろうとする時はいつも、確かに私にそれがやれるということを両親に示さなければならなかった」。両親は子供がケガをしたり、心に傷を受けるのを恐れるあまり、子供を家のそばにおこうとしがちである(たとえば遊ぶ時は交差点のない通り、ボーイスカウト活動に行かせるなど)。一方で両親が厳しくしすぎたことを不満に思っている者もある。これは彼らが子供の弱さを補おうとして、その強さを誇示することに熱心になりすぎたためであろう。子供が幼い時に過大な期待を抱いたり、一生懸命勉強させすぎたりすると、その子が大きくなってから、「両親は私を尊敬に値する人物と考えているが、いつか二人を失望させてしまうことになるのではないか」と悩ませることにもなる。このような学生は両親の態度を改めるために、自分の訴えに耳を傾けてくれる友人やカウンセラーを必要とした。

 要約すると、学生たちは自己に対する態度や、仲間や家族との関係を発展させていく際に、さまざまな社会的・心理的問題に直面する。これらの問題は、彼らの教育経験の範囲を改善することの必要性を示している。心理的な要素は、以下のような多くの点にまで拡大して考えられよう。1) 可能な限り普通学校に入れることを、学生たちは好ましく思っている。2) 学校で働く心理学者やカウンセラーの数を増加させ、彼らが特殊なニーズをもつ子供の問題に一層熟達できるような機会を与える。3) これらの子供のもつ諸問題を解決するため、学校で新しい方法を開拓するという課題に取り組む。4) 特殊なニーズをもつ子供たちと一緒にやっていく普通学校の全児童に特別な教育を施す。主流化(mainstream:訳者注 アメリカではintegrationのことをこのようにも表現する)は既にその第一歩を踏み出したが、それにたずさわる教師たちは、これら特殊なニーズをもつ子供たちを扱うにあたり、その方法を改める知識を得る機会を求め続けている。

 後で指摘されるように、自分たち自身が特殊なニーズをもつ学生は、その教師、家族、友人に対する意義深い助言を持っている。学生たちはまた相談のできる人、教師やカウンセラー、友人などを得たいという強い願望を表明している。少なくとも35パーセントの者が、その特殊なニーズに伴う問題を解決するにあたり、彼らに影響を与えた専門家や心理学者の援助を認識していた。これらの学生がもつ特殊なニーズの性質をもっとよく理解していたならば、多くのカウンセラーや教師たちが援助の手をさしのべられたであろう。

 最後に、学生たち自身がその特殊な問題を解決するために、次のような二つの方法を示唆していることに注目したい。1) 特殊なニーズをもつ自分たちのような学生に、彼らの問題について年少児に話す機会を与えてほしい。2) 特殊なニーズをもつ子供たちに、同じニーズをもつ子供や健常児とともに、「遠慮ない」討論をする機会を与えてほしい。

教育経験:特別な訓練

 これらの学生が特殊学校で得た、特殊なニーズに対処するための実用的な情報は、他の教育機関でも与えることができよう。たくさんの学生たちが夏期大学や盲人のためのEarly Bird校のような予備校に通った経験がある。同様なプログラムを公教育の場で実施すれば、彼らが普通学校に入学する準備となり、普通校での日常生活や教育課程に馴じむこともできよう。

教育経験:スポーツと他のレクリエーションプログラム

 スポーツや他のレクリエーションプログラムに参加することは、特殊なニーズをもつ多くの学生には困難な問題となる。31パーセントの者がこれらのプログラムを「限界がある」とか「不適切」「私の弱さを強調するもの」と述べている。スポーツやレクリエーションプログラムは、彼らの学校生活における、最も否定的な側面の一つとみなされていた。それらへの参加を強制されたために、社会的問題が生じてくることもある。「私は何かの選手を決める時には、いつも最後に選ばれる子供だった」という類のものである。43パーセントの学生が、スポーツやレクリエーションのプログラムを、兄弟や近所の健常な仲間との活動に加わる際の障害となっていたと述べている。このようなことからも、それらのプログラムがあるからという理由だけで、彼らに学校の体育プログラムに参加するよう強制するのは不合理であると思われる。このようなプログラムがあるために生じた困惑を取り除き、近所の仲間との活動における障害を取り除けるようなプログラムを構成し直さなければならない。こうしてこの困惑や障害から解放されたいという子供たちのニーズにこたえ、その方法を指導できるようなものに改める必要がある。

教育経験の質的改善

 学生の報告には、彼らの教育経験における社会的・心理的側面を改善してほしいというニーズが示されている。また特殊なニーズをもつ年少児の教師たちに、そのような子供に対する教育の質を改善できるような示唆も与えている。彼らは教師たちが以下のような努力をすべきであると指摘している。1) 子供の診断や教育目的、教育方法についての知識をもつ。2) 個人に注意を払い、その子が何を必要とし、何ができるかを観察する。3) 子供を特別扱いせず、子供がうまく作業ができないのを障害のせいだと言い訳したりするのを許さない。学生たちは特殊なニーズについての基本的知識や、それらを克服する方法とともに、感受性や想像性を高めることも勧めている。

 ある学生は教師に次のような助言を与えている。「子供の強さと弱さとのパターンに注目し、その強さを伸ばすために常識と創造性とを用いなさい」。またある盲学生は少し異なった観点から次のように示唆している。「一般の人がするのと同じことをするためには、彼らとは異なった方法を捜す努力を子供とともにしていくことが必要である」。この学生が意図しているのは、従来の教科書に代わって、テープレコーダーや大きな字で印刷された本を使うということだけではない。教室で盲児をフラストレーションに陥らせるようなテクニックを避けるということも含んでいる。この避けるべきテクニックとは次のようなものである。教師が問題となっていることを具体的に挙げずに「これ」と言う。教材を大きな声で読んだり、説明することなく、黒板に書く。視覚障害をもたない学生でも判読困難な、紫色のコピーなどを使う。ある問題について説明する際、何段階かに分けてわかりやすく話すことをしない。ある課題をやらせるのに、ほんのわずかな時間しか認めない。

 子供を観察し、その特殊なニーズを認識している教師は、これらのテクニックについて熟知しているようである。しかし大部分の教師は子供自身やその両親、特殊教育の訓練を受けた教師に相談することが必要である。この個人に注意を払うという問題と関連して、教師に次のような助言をしている学生もある。「子供の自信や自立、自己満足などを促すようにしなさい」「子供にできることを過小評価しないようにしなさい」。次のような種類の注意も子供をただ赤ん坊のように扱ってはならない、ということを意味している。この扱いとは「本当はしてはならないことをしてやる」といったものである。子供がクラスのだれかを好きになるような指導をすれば、その子はグループの一員であるという意識をもつようになり、意地悪される犠牲者になったり、悪口を言われたりすることも少なくなろう。

 学校生活の最も肯定的な側面の一つとして、適切なテクニックを用いる教師を、親切な、理解のある、援助にあふれた指導者として、46パーセントの学生が評価しているということに注目すれば、年少児の教師に対するこのようなアドバイスは、すべて一層意義深いものとなろう。

 結論を言えば、教育組織の中で成功を収めてきた人は、その組織の改善に関する多くのすばらしい意見や考えを持っている。教育環境の質を改善するために、寄宿制プログラムや主流化(main-streaming)などの方法を適切に用いるべきである、という学生たちの示唆に関して、教育者やこれらの分野の専門家たちは注意深く検討する価値があろう。我々がこれらの学生たち、いわば教育の「消費専門家(consumer experts)」の示唆を慎重に検討し、実現に努めたなら、教育環境の質はかなり改善され、すべての学生たちに実り多いものとなろう。

(Rehabilitation Literature,1978.Oct.から)

*ノースカロライナ大学特殊教育学科助教授。

**研究助手。障害児教育のボランティア。

***ノースカロライナ大学精神科・心理学科助教授。

****筑波大学大学院生。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1979年11月(第32号)24頁~29頁

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