国際障害者年とマスコミの役割 国際障害者年─岡山県からの“こだま”

国際障害者年とマスコミの役割

国際障害者年─岡山県からの“こだま”

阪本文雄

 岡山県が全国に例のない福祉都市づくりを進めている吉備高原都市は、いまブルドーザーの音高く建設が行われている。標高 400m、岡山県の真ん中、上房郡賀陽町と御津郡加茂川町にまたがる1800haに、65年度を目標に人口3万人の町をつくる計画。産業よりも福祉、教育、文化を優先した豊かな心の町を目指しており、保健福祉区、研究学園区、住区など7つのゾーンに分けすでに少年自然の家、総合リハビリテーションセンター、大学のセミナーハウスなどの建設は決定し、一部では工事も始まり、来春には授産施設がオープンする。

 この吉備高原都市で4月25日、車イスのカップルが結婚式をあげた。国際障害者年の“目玉商品”として岡山県、地元の賀陽、加茂川両町と松下電器産業が出資する第3セクター方式で一足早く昨年4月に操業した身障者多数雇用事業所・吉備松下(岡山県御津郡加茂川町竹部)で働く若松久行さん(27)と岩永勝子さん(27)の2人。若松さんは広島県三原市出身、54年2月お祭りみこしの下敷きになりセキ髄を損傷。勝子さんは長崎市出身、生後7か月でセキ髄性小児マヒになり2人とも車イスが必要な身になった。55年、若松さんが別府リハビリテーションセンター、勝子さんが近くの太陽の家にいる時に知り合い、働く障害者を募集していた吉備松下へ一緒に入社した。ビデオ製品の電子部品をつくりながら1年間、愛を育て、確かめながらゴールイン。結婚式は吉備松下の会議室、披露宴は食堂で行われ、職場のみんなで盛り上げて祝福、2人は新しい人生へ旅立ちした。国際障害者年でまいた種から小さな見事な花が1つ咲いたのである。

 山陽新聞社は55年11月から、国際障害者年に向けて連載企画記事「あすの障害者福祉」をスタートさせた。社会参加している障害者の苦労、喜びを書いた第1部「生きる―ある障害者の記録」、欧米8か国に取材した第2部「われら仲間」、第3部「この叫びを…施設からの報告」、第4部「自立-その闘いの日々」、第5部「医学の挑戦」などのシリーズを朝刊フロントページの一面左肩にのせたのをはじめ、岡山県内版に随時障害者福祉に関するストレート記事、家庭面には座談会、講演会などの記事をのせた。また、夕刊には精薄者のハワイ旅行同行記、東南アジアの福祉の現状レポートなどを掲載、まさに精力的に報道した。

 読者(地域住民)の反応は企画記事のはじまりとともに強く返ってきた。読者の投書欄「ちまた」には、「がんばれ武ちゃん」-障害に負けず生きる障害児を励ますもの、障害者福祉に関する意見などが連日のように寄せられた。小学校では、私たちの記事「あすの障害者福祉」を先生が読んで聞かせる学校もあった。障害を持つ人たちの行動にも、小さな変化が見られた。外出をする障害者が商店街で、公園で、見られるようになった。総合社会福祉施設・旭川荘が開いた夏祭りの夕べには、市民約5千人が参加、障害のある人もない人も一緒になって盆踊りの輪を広げた。

 市民、県民の関心が高まり、深まった理解が具体的な行動へと形になって表われ出したのはその年の夏(56年7月)だったと思う。ボランティア協会岡山ビューロー、世界救世教岡山県本部などを中心に、市民福祉の立場で障害者福祉を盛り上げ、ボランティア活動を資金面で支援しようと、ボランティア振興基金を創設した。「あすの障害者福祉」取材班の記者に相談があり、計画段階から意見、アドバイスをした。県民から募金して1千万円集め、それを個人、団体のボランティアに配分することになった。市民の手による障害者福祉の基金制度が初めて岡山県に誕生したのである。昨年は1千余万円が集まり、91の団体、個人に活動資金が渡った。岡山県教委は夏休み、高校生ボランティア講座を開講、5百人の生徒が受講、高校生ボランティアの組織が出来た。さらに岡山県は、福祉の心を子供たちの間に育てようと“福祉読本”の作成に着手した。さらにボランティア活動のあり方をさぐるボランティア活動促進懇談会を発足させた。市民も、行政も、素早く、私たちの呼びかけにこだまを返してきた。

 こうして国際障害者年だった昨年まいた種が今年少しずつ芽を出し、花を咲かせている。4月の新学期、岡山県は福祉読本の発行にこぎつけ、県下の小学5年生全員に配布した。障害を乗り越え力強く生きようとする養護学校生徒の作文などをのせ、自立の精神、福祉の心を学ばせようとしている。吉備高原都市には、吉備松下に隣接して身体障害者に最新工作機の操作、コンピューターのプログラミングなど先端技術の職業訓練を行う吉備NC能力開発センター株式会社を第3セクター方式で設立、来春にはオープンする。岡山青年会議所は障害者雇用についてシンポジウムを開き、若手経営者として障害者雇用について研修、促進方法について話し合った。

 「国際障害者年は続いている集会」というイベントの計画も進んでいる。ボランティア、婦人会議所、商店街、ライオンズ・クラブ、障害者グループ、福祉施設などが集まり、9月岡山市のメインストリートで、ボランティア活動写真展、福祉機器展、シンポジウム、福祉映画の集い―などを1週間繰り広げようというもの。昨年、予算規模の少ない町村までが国際障害者年記念集会を開き、タオルまで配ったのに、今年は啓発行事などの事業は当初予算をみる限りまったくなくなったことに対し、「ちょっと待った」と言わんばかりに福祉関係者が行動に出ようとしているのが実状のよう。すでに会場の確保は進んでおり、実現へ着々。

 国際障害者年で火がつき、燃え上がったエネルギーは2年目に入ってもまだまだ持続し、目的の具体化、行動化へ一歩ずつ前進している。

 国際障害者年で私たち取材班は、1つの視点として障害者問題は地域問題である。地域のみんなの問題として考え、理解し、行動することだ、とまず訴えた。私たちが送ったこだまを、福祉県岡山の人たちは敏感に受けとめ、返してきた。言い変えると、まいた小さな種に、水をやり、光を与え…というはぐくむ側の力が大きく、冬を越え、芽を出してきた。小さな花も咲き出した。

 新聞がこうすべきである―とは単純に言えない。しかし、障害のある人たちの生活、苦しみ、喜び、理想を取材し、書くことにより、障害のない人たちの多くは理解を深め、同じ地域住民として、共に生きる連帯の姿勢を見せた。障害のある人にかわり、私たち新聞が訴える内容を聞き、見て、伝え、今度は聞いた人たちが反応を示し、それをまた紙面に出して、伝えた。こだまが行ったり、帰ったりしているうちに、みんなが「こうしたらよい」という考えが自然に生まれ、具体的行動へとつながり出した。障害のある人も、ない人も1つになって模索し、決める。こうして国際障害者年2年目になっても、こだまは続いている。「国際障害者年がお祭り騒ぎで終わったと言うのでなく、10年間のスケールで見、正念場はむしろこれからである」―とある福祉関係者は言った。本当にそうである。こだまは続き、大きくなっても良い。10年間の長期行動計画を―と国連は1区切りつけており、10年間で一応の成果はあげなければならない。しかし、これは永遠に続くべきことであることは言うまでもない。私たちはまだまだ、種をまき、こだまを呼ぶ努力を続ける。

山陽新聞社会部記者


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1982年3月(第39号)38頁~39頁

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