特集/太平洋地域のリハビリテーション 独立諸国

特集/太平洋地域のリハビリテーション

独立諸国

キリバス共和国

 35の低い平らな環状さんご島からなり、総面積は806平方キロ。人口63,000人がヨーロッパの2倍の広さの海域内に住む。独立国。漁業以外、資源はほとんどない。

 障害

 障害の発生

 大腿部切断、下腿部切断の数が多いのが目立つ。これは木からの転落(ココナッツなどの採集中)オートバイ事故、化膿によるものが多い。足の小さな切り傷も熱帯では化膿しやすい。

 政府サービス

 キリバス共和国は、資源がほとんどないうえに、外国の援助や「低金利借款」に依存することを良しとせず、障害者のニーズも未だ認識せずにいる。

 教育大臣はあいもかわらず、特殊教育はスタートさせたいが、まず障害児数を把握しなければと言うばかりである。続けて、特殊教育がスタートすれば教育省予算でカバーできるので、外国の援助には興味がないとも言う。

 成人後に障害者となった者は失業しないですむようだが、幼児期から障害をもった者の雇用は厳しく残念である。

 政府はオーストラリアとニュージーランドから医療チームを迎えている。長年、眼科医が定期訪問していたが、最近になって形成外科医グループがそれに加わり、頭部・顔面などの成形をしている。

 非政府組織

 赤十字はしばらく活動したあと休業状態であったが、1984年初めにマーガレット・イートンさんが専任の上級職員としてソロモンから着任し、活動を再開した。

 そして1984年後半から1985年半ばにかけては、Kireata Taaram氏をAdelaide DPI会議に出席させるべく活動したり、地方電話局の交換手Raoi Tokanangさんにニュージーランドから寄付された車椅子を贈呈し、障害者30名を集めてイベントも行った。中には、それまで自分の村から一歩も外に出たことがなかった人も数人いた。

 また長年にわたってCommomwealth Society for the Deaf(「オーストラリア聴覚障害者協会」)と連携して、50名以上の重度聴覚障害者に補聴器を提供し、切断者に対しては義足の装着とリハビリに必要な渡航を援助してきた。

 目下の中心目標はオーストラリア政府基金をもとに30名の歩行不能者に手押し車を提供することで、1985年のクリスマスには5台の手押し車が手渡された。しかしこれで国内の亜鉛メッキパイプが底をつき、輸入待ちの状態で、先の見通しはたっていない。国内産で低コストの補助具を求める声が高まり、赤十字は小規模のワークショップ設立を検討しはじめている。

 キリバスには赤十字の他には障害者のための組織はない。しかしプロテスタント教会学校同窓会が各種のプロジェクトのために基金集めをしており、障害者が援助を必要としていることに気付いて、庇護工場「マネアバ」がすでに建てられ、ホステルも計画中である。しかしこのプロジェクトへの資金援助が減る方向にあり、障害者が社会の主流の外に置かれていることがうかがえる。

 将来

 キリバスの障害者が消費者グループを組織するには、まだ時間がかかるであろうが、赤十字は障害者を巻き込んでサービスを提供する方向にある。公式にも非公式にも赤十字は国際的援助と障害者の間をとりもつ役割を果たし、手押し車製造などのプロジェクトは高く評価でき、援助し奨励されるに価する。

 

ナウル共和国

 小さなナウル島一島からなる国で、面積は8平方キロ。赤道直下の太平洋の真中に位置する。人口5,000人のうち約3,000人が燐酸塩鉱業に従事し、人口一人当りにつき世界で一番豊かな国の一つである。

 障害

 障害の発生

 ナウル人は遺伝的に糖尿病になりやすい体質のため、それに関連した障害が発生しやすい。それに加えて、生活が無気力で、食事は西洋式だが貧しく、過度の飲酒のため罹患率は20パーセント以上となっている。

 政府サービス

 医療サービス局長のトーマ博士は重度障害者の名前を全部覚えている。通常のけがは中央病院で扱う。医療費は全額、政府が負担し、この中には障害者の補装具、オーストラリアでの専門治療費も含まれる。しかし何らかの理由で車椅子の費用は含まれていない。眼科医チームによる訪問は年2回ある。近年、障害児が誕生したという報告はない。

 教育局長代理のAiwo Akaruwo氏の話によれば義務教育は4才から16才まで行われ、これまでに数人の口蓋裂の児童を治療のためにオーストラリアに送っている。ある聴覚障害をもつ男児は普通学級に入学し、読み書きを覚え、卒業して職についている。てんかんをもつ児童は2名、整形外科的障害をもつ者1名が報告されているが、視覚障害児については報告がない。かつて医学的に学校不適合と認定されたのは精神簿弱児1名だけである。学習遅滞児は普通学級内で必要に応じて補習する。全児童についてはオーストラリアの訪問医療チームが定期的に視力・聴力検査を行い、必要に応じて職業進路指導が受けられる。

 非政府組織

 ナウル共和国は小国にして巨大の富を持つ。(公平に分配されているとは限らないが)非政府組織や自助グループの構造がはっきりせず、目的などもわからずじまいであった。

 将来

 西側諸国の人々が考える障害者の不安感、疎外感、偏見についてナウルの人々は障害者も健常者も感じていないようである。すなわち、あまりにも小国で誰もが顔見知りだからである。しかし将来国民の中に、これまでの基準と合い入れない障害者が出現する時がくる。その時になってはじめて教育サービス、職業サービス、医療サービス、リハビリ・サービスについてアドバイスが必要となろう。ナウル共和国のような富める小国はこれらのニーズに答えるのも、さほど問題とはならないであろう。

 

ソロモン諸島

 主に10の島々からなり、パプアニューギニアの東に位置する。面積は30,000平方キロ以上あり、人口は20万人。約100の言語がある。政治的には1970年に独立し、人口の90パーセントが自給自足の生活を送る。

 障害

 障害の発生

 1949年から1951年にかけて小児マヒがソロモン諸島全域に流行したが、罹患者の数はわからない。奥地の村落の中には一番近い診療所まで来るのに数週間かかる所もあり、数千とまではいかなくとも数百人は小児マヒという言葉も知らずに死んだはずである。それから20年たった時点で、医療援助の必要な小児マヒ者は約3,000名いたことがわかっている。当時の人口は10万人弱であった。

 今日ではマラリアその他の予防注射キャンペーンが行なわれている。ハンセン氏病についてはまだ2、3報告されているが問題はない。自動車事故による障害が目立ち、目の病気から視覚障害がおき、暴力によるケガも多い。アル中によるものもある。ここ数年、脊髄損傷マヒがなかったのに1985年の4月から5月にかけての6週間に5人の対マヒ者が出た。そのうち少女2名と中年の男性2名は木から落ちたためで、あとの1名はケンカの最中にドライバーで首を刺されてマヒしたものである。木から落ちて足を単純骨折しても障害につながるのは、奥地であったり認識不足のために適切な治療が遅れるためである。

 政府サービス

 公共サービス委員会が障害者雇用政策を実施している。この政策は植民地時代から他の政策とともに受け継いだものらしい。この政策はさらに推進さるべきものであるが、すでに障害者が公務員として雇用され、交換手、実験助手、部課長として働いている。

 労働局の説明によれば、通常のフルタイム職、もしくはパートタイム職についている者は人口の20パーセントにも満たない状況下で、障害者の私企業への雇用促進には限りがあるということだ。初等公教育を奨励し、障害児の入学を継続的に認めれば将来の雇用促進につながる。しかし自給自足の村落経済の中で「就職」は皆にとっても現実の目標である。たとえ障害者保護の運動がされても障害者で仕事の見つかるのは数人にすぎず、社会の発展につれて障害者差別が問題化するという指摘があった。

 保健関係機関は連携して眼科医訪問チームと関係グループとの仲介役をつとめている。我々の訪問時にはマラリアが流行し、薬品供給、村落の消毒薬散布そして大規模な報道キャンペーンを最優先させていた。その他の保健プログラムとしては栄養プログラムや予防注射プログラムがあり、地方保健所網を通じて初歩的な保健行政を行っている。

 Honiaraの中央病院には理学療法士が数人いる。(最初の1、2年見習いをした後、推せんを受けて認められれば訓練のため外国へ派遣される。)残念なことに有能な療法士が1984年に退職してのち、病院は非常勤者数人に頼っている。保健関係機関は常駐の後任者を見つけ、リハビリテーション分野にも、手を広げたいと願っている。リハビリテーション担当者は経験豊かで各種の障害者に合わせて運動指導ができ、村落生活に即した作業療法ができ、国内で低コストにできる補装具のデザインもできる人が望ましい。保健関係機関はソロモン諸島リハビリテーション協会(RASI)と連絡をとって目標達成に努力している。

 歴史的に中央病院と肢体不自由者協会とは提携して多数の小児マヒ者に援助活動を行ってきたが、それに習ってRASIも参画するようになった。

 1970年にオーストラリア人の小児マヒ専門医のHuckstep教授がHoniaraに5日間滞在した。教授はウガニダで長年、経験を積まれた方で、この短期間に約600人の小児マヒ患者を診察し、当時の実習外科医であったトニー・クロス氏に簡単な外科手術を教えた。この手術はHoniaraでは大成功となった。

 ソロモン諸島には義務教育がまだなく、教師も学校も資金も不足しており、特殊教育は後回しにされている。介助なしに通学できる障害児は受け入れているが、介助の必要な児童は受け入れていない。

 非政府組織

 ソロモン諸島では非政府組織が活躍している。Development Services Exchange(DSX)は非公式組織であるが定期的に会合を開き、32ある各地の非政府組織と国際的な非政府組織との間の情報交換を推進している。たとえば国際的にはボーイスカウト、ガールスカウト、平和部隊(Peace Corps)、国内的には全国婦人評議会や赤十字などである。DSXの目標は次のとおりである。

「ソロモン諸島の開発サービス、人間サービスおよび社会サービスに関連する組織もしくは団体のために情報網を整備する。そして関心をよせる村民、町民、国家組織、地方組織、海外組織の情報を送るため要員を集める。」

 1985年ソロモン諸島婦人評議会会長にAfu Sadeさんが任命された。彼女はRASI会長のELLison Sade氏夫人であり、夫君と共に、障害をもつ女性の問題に取り組んできた。婦人評議会は立派な新聞を発行し、夜のラジオ番組では子供の保健衛生について放送している。

 英国国教会牧師のJeffrey氏はHoniaraに小さなワークショップを建て、聴覚障害者と視覚障害者の若者が8人働いている。まだ始めたばかりだが、早速、二大目標を達成してしまった。すなわち道端にたむろするだけの彼らに収入を得させることに成功したわけである。Jeffrey氏が言うには「神に祈ることは十分にした。これからは彼らの自立を手助けしたい」と。氏は現在、米国もしくはオーストラリア式手話を導入して、ソロモン諸島の聴覚障害者と健常者のコミュニケーションを促進しようと試みている。

 マラチア島では教会が視覚障害児と聴覚障害児のために小さな学校を開いている。

 赤十字は各地で活動し、海外の赤十字や個人から寄贈された車椅子や補聴器を配布している。フィールドワーカーは必要に応じて障害者のいる村落を回り、毛布、鍋、ふとんなどを支給することもある。赤十字の最大の功績は特殊学校の設立である。

 特殊学校は1978年に生徒16名でスタートし、校舎も小さな家であった。当初から教師はフィジーで訓練を受け、フランク・ヒルトンのADAB/ACRODプログラムで勉強した。学校ではフルタイムの教師が4名必要で、教師には読み書きそろばんを教える他に、理学療法ができ、親を指導し、初歩の手話を教え、歩行訓練ができることが求められる。

 教師は見習い期間(月給約65ドル)を経て6ヵ月間フィジーに派遣され、経験を積み訓練を受ける。帰国後は有資格教師として基本給月額160ドルを支給される。在職中にフィジーやマニラで再訓練を受けることもできる。教師の人件費はドイツのChristoffel Blinden Missionやニュージーランドのアジア太平洋活動委員会(ニュージーランドに拠点をもつ精神障害者サービスの支部)などから資金がでている。国際ロータリー(ロンドン)からミニバスが寄贈され、Overseas Jersey Internationalは新しいセンター(大きな店を改装する)の改装費を負担した。

 平均32名の生徒のうち毎年数名が卒業し、普通学校に入学したり、就職する。生徒は8ヵ月児から14歳までいて、読み書き、保健衛生、美術工芸などのプログラムがある。肢体不自由者協会ワークショップでは障害児の補装具を製作している。

 赤十字のフィールド職員が離島で障害児を発見し、その報告を受けて経験豊かな教師がそこへ派遣されることも時々ある。その場合は聴覚テストを行ない、理学療法を紹介し、障害児とその親に必要な援助を判定する。

 自助

 ソロモン諸島で障害者が設立したり、障害者のために特に設立された組織は主なものが3つある。まず第1がIYDPだが、我々の訪問時は休会中で議長も海外出張中のため不在であった。したがって組織の目標や目的について詳しい説明を受けられなかった。

 最も歴史の古いのが肢体不自由者協会で1970年に設立され、小児マヒ患者に補装具を提供して病院を援助することを目的としていた。国外在住者達が数千ドルを集めて、協会を設立し、ワークショップを建て、障害者2名を訓練して低コストのカリパスやプラットフォムシューズや松葉杖を製造した。そのうち1名を台湾に派遣して、さらに訓練を重ね、補装具の製造法を習得した。

 1974年にはRyder Cheshire Foundation of Victoria(オーストラリア)が基金を出して男女用ホステルを建設した。これは離島者が医療のためあるいはカリパスの調整、修理のためHoniaraを訪れる時の短期間滞在用である。

 今日では小児マヒ患者で手術を受けた者は全員治療が終っている。しかしまだホステルとワークショップの存続が求められている。病気やケガが原因で障害者となった人々を援助する役割が増えたためである。

 ワークショップは今だに重要な存在である。15年たった現在も最初の目標をかかげ続けている。今だに障害者が作業者として雇用され装具を製造している。製造法は簡単であり、資金難の時には(しょっ中だが)地域の建築現場から切り落し材をもらう。装具の注文が途絶えた時や資金難で賃金が支払えない時はカリパスの代りにテーブルや椅子や本棚を製作する。これが売れれば本来の目的にもどって低コストの装具を作り出すのである。

 1985年半ばになると肢体不自由者協会は活動を縮小し、新しく設立されたソロモン諸島リハビリテーション協会(RASI)に引き継いだ。RAS1は各種の障害者の援助を目的としている。RAS1は新しいワークショップと小規模のリハビリテーションセンターの建設を希望している。RAS1の目的は村落生活に即した職業訓練を行ない、病院を援助して理学療法や歩行訓練、各種の低コストの装具の製作を指導できる人員を訓練することにある。現在の主な活動は切望される新しいワークショップとリハビリテーショシの建設用地の入手である。その一方でRASIの基金調達小委員会が積極的に調査を行ない、目的達成のための資金調達の方法を探っている。

 1年もたたないうちにRASIは保健関係者や赤十字、肢体不自由者協会、地域社会そして主役となるべき障害者達の関心を引きつけ、支援を受けることができた。現在はまだ障害者が中心となって運営するには至っていないが、一定期間訓練を受け進展があれば、障害者が組織の運営にたずさわることを関係者は考えている。もとは国外在住者が運営していたという組織が各地に見られるが、それと同様にRASIも地方分散化をはかり各地域の障害者に運営をまかせることを目標としている。

 将来

 当然、RASIは目下最大のプロジェクトのために経済的援助を求めることになろう。そして障害者のニーズを満たすために経験豊かな国際組織に協力を求め、低コストの技術や地域に根差したリハビリテーション、ワークショップやリハビリテーションセンターの効率的な立案方法・建築方法・運営方法について情報を求め、アドバイスや援助を求めるようになろう。

 

バヌアツ共和国

 人口12万人。人の住む島は66あるが、大半はそのうちの16島に住む。南太平洋中央部、フィジーとオーストラリアの中間に位置する。かつてフランスとイギリスの共同支配下にあったが1980年に独立した。太平洋非核運動を支持し、植民地の人々や圧政下の人々の独立を応援している。

 障害

 障害の発生

 Vila Base病院長代理のBernard Montaville博士によれば、障害の原因はさまざまあるとのことである。1981年に行なわれた障害調査はまだ結論がでていないが、IYDP委員会にデータを提出しニーズの高いものを明らかにした。人口の約10パーセントが障害者である。

 政府サービス

 1981年に政府が設立したIYDP諮問委員会は障害者への継続的援助について勧告することを目的とし、立派な報告書もでき上ったが、まだ実施には至っていない。

 特筆しておくが、政府はフィジーの特殊教育教職コースを修めたバヌアツ人を雇用すると約束しているが今だに実現していない。さらには1981年以降、各種の報告書や提案書が政府に提出され、地域学校内に特殊学級を設置する要望がなされているが、教育局長は実施以前の情報収集がまだ不足していると我々に解答した。障害児の一部は個人レベルでスポンサーを得てフィジーの特殊学校に通学している。

 保健サービス面では当局内グループの他に視覚・聴覚医療チームが定期訪問している。仏英共同占領下時代に保健サービスに多額の資金が投資されたため、保健サービスは比較的しっかりしているとMontaville博士が断言している。

 Austin Langon氏はある非政府組織の援助で台湾と香港で訓練コースを受け、今ではVila Base病院で副木・義肢の製作者として働いている。来年はブラジルで再教育コースを受ける予定になっている。

 障害者の雇用機会の促進はあまり活発とはいえないが、障害者4名が公的機関に雇用されている。アデレイドDPI大会に出席したLeitangi Solomonさん、警察官補で下半身マヒのWalter Kalomorさん、事務職員で聴覚障害をもつLeisal Sopeさん、銀行支配人で車イス使用者のMarsden Philip Vuvuさんの4名である。

 非政府組織

 IYDP諮問委員会の前議長のSusan Bariloさんは障害者問題に関心をもつ人々の仲介役と目されている。首都ポートビラは大都市ではないが、Susanさんは快く公的会合に参加し、太平洋諸国の諸問題を我々と議論してくれた。地域の障害者や関心をもつ国外在住者、外国人にも参加してもらい、この会合を強力な院外諮問集団にしようとSusanさんは希望している。このような集団の形成の動きは政府が6月にバヌアツ最初の慈善団体を承認したことを背景としたものであることに注目すべきである。いずれにせよ、バヌアツには非政府組織がほとんどないといってよい。

 赤十字は海外から寄贈された車椅子と補聴器を配布しており、昨年は簡単な車椅子式手押車の現地生産とその配布のための調整役を演じた。

 赤十字はポートビラにBESAクラブも運営し、約25~30名の障害者が利用している。このクラブでは月例会の他に、隔週に手工芸教室を開いたり遠足をしている。

 将来

 政府は西側諸国の批判に敏感で、特殊教育の推進やリハビリテーション施設の設立援助、公機関での障害者雇用推進には慎重な行動が必要とされる。プロジェクトが骨抜きにされてしまう危険性があるからである。

 

フィジー

 フィジーの2島は太平洋最大の島で、比較的豊かな経済をもち、632,000人が住む。半数がフィジー人、半数がインド人から成る。独立国で政治は安定している。

 土着のフィジー人は次のように信じている。

「あの世の人生は自分の死ぬ時の状態のまま続く。だから重病人で死にたくない。身内に高齢者や障害者のいることを極端に嫌う。ゆえに不幸に苦しむ人々はほうむりさられる。母親は足を骨折したり、サメに足をもぎとられた息子をかまうのを恥る。病人に友人がなければ死ぬがままに放置される。友人同志で病人を見るが、弱って手がかかるようになると野ざらしや生き埋めや首つりにされる。その時、悲しみの表現として鋭利な貝殻で自分の手や足の小指を切り落す。死の度毎にその切り傷部分を固い石で血がでるまでこする。自分の体を切断することは愛情の証しであり、価値がある。喪に服す女性は自分の体をやけどさせて水泡をつくったり腕や肩や胸に傷をつける。」今日の常識からは考えられないが、西欧人だけでなく現代フィジー人にも理解しがたい。今日、フィジー人は障害者に対し温かい心と親しみのある同情をもっている。

 障害

 フィジーでは政府と非政府組織による障害者サービスが広範囲に行われている。組織構造が拡大すると誰が資金調達、管理運営、助言するのか明確でなくなることがある。関係者の広範囲な要望に応えて協調し相互援助している関連組織のサービスと相互協調について次にまとめてある。

 障害の発生

 家庭保健機構の長、Mataitoga博士によれば、障害に関する詳細な調査は行われていないが、風疹は12、3歳の女子全員の予防接種によって今ではコントロールされている。また、政府はフィジーの障害のレベルを知っており、予防、治療の推進のためには地域社会の積極的参加が不可欠なことを認識している。そのため、政府はプライマリー・ヘルスケアに力を入れ、WHOモデルにもとづいて農村地域リハビリテーション(RBRP)のパイロット・プロジェクトに取り組んでいる。これらのプログラムを実施することによりフィジー人やインド人がともに持っていた大家族制にみられた伝統的相互扶助を復活させることができればと期待されている。農村地域でRBRPをいくつも実施したFrank Hiltonは、その20年の特殊教育の経験においても太平洋地域で有名な人物である。

 糖尿病は、現在フィジーの保健上重大な問題の一つになっている。統計によると成人の8%が糖尿病で毎年少なくとも千人の新患者が発生している。インド人はもともと糖尿病の患率が高いがフィジー人の間にも西洋風生活習慣や食生活の普及の影響で追いつきつつある。過去30年の間に糖尿病による入院患者が6倍に増え、病院の総ベッド数の20%が糖尿病及びその合併症で占められている。糖尿病は腎臓病、心臓発作、失明、神経炎、下肢の壊疸などの主要な要因の一つである、フィジーの死因の少なくとも10%を占めている。他の島々と同様にアルコール中毒の増加も政府や地域担当者の頭を痛める問題となっている。1985年7月に、フィジーラジオで放送された地域問題プログラムによると、過去3年間にフィジーの自動車事故は40%増加しており、驚くことに全事故の80%は事故の主たる原因がアルコールによるものである。事故が起きると第三者の損害賠債請求に保険会社は、およそ250万ドルを払い、車の修理に400万ドル払う。この数字には自動車事故で障害にあった人々への額は入っていない。

 政府

 教育

 政府特殊教育担当官、Solo Vasailahe氏は、障害児教育で三者の調整役をつとめている。三者とは、障害児を認め、特殊学校と連絡を取り、普通学校の特殊学級と連絡をとることである。島々を回り援助を提供し、学校の先生、両親を励まし、助言を与えるのが役目である。地域、学校の先生達を助けるのに、その学校のラジオ放送サービスを利用する。ここで特殊学校の先生方がある特定の問題を提供して話をし、その問題をいかにして克服したかを話す。放送は午前の休み時間に行われるので、先生方は各自の部屋で放送に耳を傾けることができる。教師を希望する学生は、一般教育の一部として障害児が必要とする特別な点についての教育指導を受ける。政府は6ヶ所の民間経営の特殊学校の先生の給料を負担している。地域学校を担当する特殊教育局は4つある。

 下半身マヒ者のスポーツに、長年関わってきた経験から、Vasailake氏は、障害児のスポーツ活動の向上に努めている。「スポーツは、身体障害者や健常者の目を各々が持って生まれた可能性に向けて開かせる一つの方法である。一度私たちが、ある分野に自分の可能性を見いだすと、他の分野に潜む可能性をも引き出すことに真剣になる。」と述べている。

 「障害に関しての報告や勧告も、それらを討論し、実行に移すための機会が用意されなければ無意味になる。」と考える氏は、政府の責任ある立場にある者としてフィジーでフォーラムを開催している。

 南太平洋大学の心理学講師Maas博士は、教育学部の「特殊児童の研究入門」コースのコーディネーターである。この一学期間のコースの目的は、特殊児童に関連した要因と条件について学生に示すことである。診断、処置の仕方や治療作業などが検証される。

 大学生たちは、特殊学級、リハビリテーションセンター、少女たちの家、老人介護などの機関によるサービスを評価する。大学生たちはケーススタディの技術を学び、知能障害者、聴力・視力障害者、脳、脊髄損傷、言語障害に基因する問題点や原因などの問題について学ぶ。(この他社会的不利をもつ人、特別の才能のある人、情緒的に不安定な人々も)

 雇用

 雇用産業省は1973年以来、障害者雇用のため、独立した職業安定所を維持しているが、労働省高官のMr.Prasade氏に言わせると、雇用の増加はないという。障害者、健常者にかかわらず地方でも都市部でも家族経営の事業にかかわっている人々が多いようだ。職を求める障害者にとって公共分野での就職により大きなチャンスがあり、個人経営者はほとんど障害者を雇用しない。

 Mr.Prasade氏によると小規模な事業をおこすため必要な自立助成金設立の資金の余地はあるという。賃金法のもとで労働大臣は生産が通常基準に満たないときは基準以下の賃金を払うことも認めることができる。適用されることは少ないが、この条項は一部の人々のためになるように考えられている。

 保健

1.リハビリテーション・ユニット

 Famavua医療リハビリテーション・ユニットは1984年に脊椎損傷患者、脳卒中及び四肢切断患者の治療のために建てられた。1981年にWHOの専門家が訪れた時にユニットを作る必要性が提唱された。フィジー政府は翌年、そのユニットを設けるために必要な資金をオーストラリアから得た。障害患者をうけいれ、リハビリにあたるにあたり訓練をうけるために4人のスタッフ(一人の医師、看護婦一人、PT二人)がオーストラリアに派遣された。

 現在ユニットはSuvaから6km程のTamavua病院の一画にある。ユニットは将来、移転の可能性があるため、念願の水療法用プールはまだできていない。南太平洋地域初のユニットは収容ベッド35床に対し、Dr.Maharaj以下看護婦15名、看護助手4名、雑用係3名からなっている。Dr.Maharajは医学生、看護学生に障害について講義し、セラピストたちは職業紹介のためのユニットに所属している。

 リハビリの分野で必要としているのは日常生活に準ずる生活の場すなわち、男性のための短期的ホステル(女性用は既にひとつある)と職業訓練プログラムである。TamavuaのユニットはVanua LevuのLafasaに小規模な理学療法所と水療法プールをもつ。さらにSuvaのColonial War Memorial病院に理学療法士訓練学校がある。

2.糖尿病センター

 1984年の9月にフィジー政府は糖尿病に伴う健康問題の急増に対処するための国立糖尿病センターを設立した。センター設立のきっかけの一つは糖尿病患者の約50%が自分の病気に気づいてないという事実であった。

 フィジー島の各地から保健専門家を対象としたコースが毎月Suvaで開かれる。センターの目的は糖尿病患者が自分で自分の処置ができるように、尿の検査の仕方、尿糖の測り方を教え、もし必要とあらばインシュリン注射の仕方を教えることである。

 センターは人々を教育することを目的としている。そうすれば予防につながるからである。そのために症状、体質、食事療法及び一般的な健康上の注意を網羅したパンフレットを配布してきている。1985年8月発行の全地域対象の新聞に情報特集をのせ、全国的に糖尿病を意識するキャンペーンが行われている。センターも又糖尿病に関する種々の情報や、専門家のアドバイスなどを広範囲にわたって提供している。

社会福祉

 1982年のIYDP(国際障害者年)リポートの勧告を政府がうけ、社会福祉局が全国障害者会の設立に努めている。福祉局長James Vir氏によると原則として政府は、リハビリテーション活動計画の発展と実施の諮問機関としてひとつの政府/非政府組織団体の設立を期待している。この活動計画は国の経済発展5ヶ年計画に組みこまれることになろう。

 この中央団体を組織するのを援助するためにILOコンサルタントEd Sackstein氏が1985年の初めにフィジーを訪れ、計画を吟味し助言した。

 社会福祉局はこの中央団体が障害問題関係者全員に受け入れられることを願い、長期にわたり協議することにしている。中央団体の基本的構成は4つの地域審議会からなり、代表にはサービス提供者、障害者、政府各局代表者が含まれることになろう。適切な資源、地位、部局の関与を得るためには、国会法のもとに最高審議会を構成する必要があるが、そのプロセスには2年はかかる。その間、暫定的に各局の代表及び非政府組織の代表者たちが非公式な形で定期的に集まっている。

 非政府組織(NGO)

 フィジー社会福祉協議会

 この会は非政府組織、政府の部局、個人たちが一致して自発的な社会福祉発展活動を促進し、フィジー社会福祉及び発展のために尽力するよう働きかけている。この会の39の非政府組織メンバーのうち、6つの会は障害者に直接かかるサービスをする組織であり、又4つの会は障害者の利益になる小規模のプログラムに関与している。1984年次報告の中で次のように提案されている。

 身体障害者のための配慮のある建築設計

 身体障害者にとって、公共の建物へのアクセスが十分でなく協議会はアクセス改善要求を町村計画部局に提出した。町村計画部局長はその必要性を認め、建築的見地から労働省及び地域代表者が検討することになっている。障害者のために特別の配慮がなされるよう規則の改正がなされると思われる。

 協議会のもう一つの活動はそのメンバーたちのために資金確保に当たっていることである。1981年以来、協議会はアメリカ国際援助基金(USAID)を受けている。このUSAIDプログラムのもとで、加盟団体に資金援助をすることが出来る。1985年には協議会が利用できた資金は20万ドルであった。

 特殊教育

 障害児教育は地域学校内の特殊学級と特殊学校が提供する。前オーストリア特殊教育専門家F.Hilton氏の尽力により国内及び太平洋全域に各種の施設が作られている。約20年間F.Hilton氏はフィジー島の障害児のためにいろいろな特別施設を作った。

 F.Hilton氏は他の国々(ソロモン島、バヌアツ、クック島、トンガ王国、南サモア)の人々に訓練を行い自国のセンターで働けるようにするため、特別のコースを設立した。このコースはオーストラリア政府による資金援助があり機関は6ヵ月である。参加者たちはフィジー島の特殊学校で4分野の障害グループ(視覚障害、知能障害、聴覚障害、身体障害)に分けられ、訓練を受ける。

 参加者たちは障害者への対応態度、基本的理学療法、脳性麻痺者への正しい食事の介護や手話を修得する。おのおの自国へ帰ると、障害者のための地域の学校に先生として雇われる。

 精神薄弱者

 精神薄弱者はSuva.Nausori、Sigatoka及びLautokaなど各地の協会の援助を受ける。Lautoka協会では広範囲にわたるプログラムを提供している。フィジー島全域を通じて、これに類する企画が提供されている。

 重複障害者への早期療育プログラム

 1981年に5万4千ドルをかけて早期医療センターを建てた。早期療育プログラムでは重複障害児が臨床テストをうけ、診断を受け、運動療法と感覚運動のプログラムが脳障害児のために企画されている。障害児をもつ両親はカウンセリングをうけ、いろいろと助言をうける。重複障害児のために入学前学級が設けられている。

 センターの設備は十分でプログラムには50以上の特典がある。

 精神薄弱児特別教育プログラム

 このプログラムでは65人の学齢期の精神薄弱児が、3グループにわけられている。このプログラムでは一人一人の子供たちの学習能力に合うように工夫されており、内容は日常必要な数学、国語、生活技能、環境学習、身体運動、スポーツと自立生活技術の修得からなる。

 職業前及び職業プログラム

 このプログラムは16歳以上の男女40名を対象としている。女性たちは基本的な家事、編物や単純な手芸などの面の訓練を受ける。契約にもとずく注文編物などもあるが殆どは、製品は地元で売られる。

 男性分野では指物業があり針金製のコートかけなどが作られる。このワークショップでは木材施盤、家具の作成、玩具の制作、カワカロ(ポリネシア産の灌木)皮なめし、洗車、自動車みがき、大工仕事にも挑戦している。

 指物のセクションでは、障害者のための特製用具が作られ特殊学校や病院内の機能訓練所へ配る。最近、24×12フィートの部屋が訓練生により建てられこの自助プログラムのため何千ドルという費用が浮いた。訓練生たちは、目下構内を改修し、道路や下水を作る仕事にとりかかっている。この他にも、野菜園を作ることに力を注ぎ、その産物は売ってセンター運営資金としている。

 農村のCBR

 農村コミュニティ・ベースド・リハビリテーション・プログラムの受益者20名は2週毎に訪問を受け、それぞれの家庭環境に促した自由と多様な価値観を認めたプログラムが作られる。ほとんどが、重度の障害者で家族がプログラムに参加している。家族のために毎週夜、相談、訓練プログラムが開かれている。

 スタッフ訓練

 スタッフ訓練コースは毎週開かれる。講義と実演が行われ、スタッフが直面する問題の討議が行われ解決法が見いだされる。

 Nadi協会

 毎日25名の子供たちがNadi協会運行のミニバスでNadi地区からLautokaセンターへ来る。当面の計画は自動車道路をアスファルトにし、子供たちの遊び場を整備し、ワークショップのために木製品用工具を購入することである。

 肢体不自由児協会

 国立肢体不自由児協会はフィジーで約20年間にわたり活動している。現在、8つのセンターで地域協会が半ば独立した形で活動している。それぞれのセンターが提供するサービス活動は下記のごとくである。

Suva

・4名の若い女性用の地域レベルの自立生活ハウスがある。フィジー政府と肢体不自由児協会とオーストラリア政府の相互補助のもとに維持されている。

・国立整形外科ワークショップ

・入学前学級

・青少年ホステル

・セラピストから訓練(母親に対する機能訓練の仕方、食べさせ方などを教える)をうける親子のための短期滞在施設

・理学療法ユニット

・障害児のための学校

・聴覚障害児の教育の場

Lautoka

・ホステル

・障害児学校

・理学療法士

・聴覚障害児の教育の場

Sigatoka

・障害児学校

・聴覚障害児の教育の場

Labasa

・各種の障害をもつ児童のための学校

Ba及びNausori

・聴覚障害児の教育の場

Nadi及びTava-Vatukoula

・特別のセンターはないが支部が活発に活動している。

 フィジー視覚障害者協会

 フィジー視覚障害者協会は、1970年に設立され、ロータリークラブの強い支援を受けた。視覚障害者の福祉向上のための教育、リハビリテーション、統合、雇用、法律制定を通じて平等と完全な社会参加を目指し、フィジーの視覚障害を予防するため、政府及び他の機関と協調することを目的としている。

 結成以来、協会は、広範に亘る援助サービスを行ってきた。協会の行うサービスには次のようなものがある。

 教育:小規模の特殊学校、総合教育プログラムと図書館の運営

 ホステル:宿泊と自立訓練

 農村のリハビリテーション:地域のフィールドワーカーは、視覚障害者の生活向上のため政府や家族の協力を得て全国的に活動を行う。

 早期介入:幼児視覚障害者の両親と友人にたいし実際的な助言と援助をする。

 初期保健と失明予防:NGOと政府との共同プログラム

 点字への書き換え:点訳

 雇用:職業訓練と仕事の斡旋

 将来の目標:センター内の車椅子移動を容易にするための改造、音読テープ用スタジオ

 ヘレンケラー・インターナショナルの援助に基づき視覚障害者協会が提供するプログラムの概要は次の通りである。

○農村のリハビリテーション

 ヘレンケラー・インターナショナルは、1980年に、フィジーでの地域に根ざした農村リハビリテーション・プログラムの発展のための活動を開始した。5年計画の設立資金は推定50万ドル必要と思われ、3名のアメリカ人のコンサルタントが関与し、多数の応募者の中から選ばれた10名のフィールドワーカーのために1年間の訓練が必要であつた。

 フィールドワーカーは、男女とも、教養ある若者で同国の主要3ヵ国語(ヒンドゥー語、フィジー語、英語)で意志の疎通をはかれることが必要である。

 フィールドワーカーは、毎月、47~52人の視覚障害者の訓練を担当する。フィールドワーカーは、1984年の末までに、2万4千人の調査を行った。100人以上の盲人が訓練を終え、150名がこれから訓練を受けるべく待期していた。認定を受けた盲人は250人で、多数の成人の盲人がリハビリに成功している。公募による雇用機会により仕事を得た者も多数おり、家で農場経営やその他の仕事に従事している者もいる。

 フィールドワーカーは、政府の省庁と密接な連絡をとり、政府の役人とフィールドワーカーは協力し、視覚障害者ばかりでなく他の障害者にも適切なリハビリ活動を提供している。地域に根ざしたリハビリサービスは、他と競うためではなく、フィジーの障害者のために協力するよう計画されている。医療機関や他のサービス機関もこのサービスに係わっている。

 このプログラムは、視覚障害者のためのものであるが、WHOの「地域内障害者リハビリテーション基準」に基づいて連用されている。

 フィールドワーカーは、プログラムの再検討や問題点の提起、提案について話し合うため、毎月会合をもつ。戸別調査や、それに付随する調査を行った後、視覚障害者のニーズが充分に査定され(しばしば、医療相談をともなう)、プログラムに組みこまれる。個々のプログラムの実施にあたってはあらゆる段階で、視覚障害者、家族、友人が関与する。視覚障害者の自立を最大限に実現することを目的としているからである。

 プログラムの進行に当っての費用は、年間4万5千ドルの予算が組まれている。3万ドルは、フィールドワーカー10人分の給料であり、残りは、運営費、フィールドワーカーの旅費、視覚障害者が都市部にあるセンターに治療に行く交通費、治療費および眼鏡代などである。

○早期介入

 早期介入、すなわち就学前プログラムは、1984年目にヘレンケラーセンター就学前教育コンサルタント、Frances Wiesenfeld女史が担当し創設されたもので、ボランティアとフィールドワーカーのワークショップをそなえている。プログラムの補助金は、Justice and Developement in the South Pacific(南太平洋の公正と発展をはかるための委員会)から出されている。1984年末までに、20名の幼児が当協会を利用した。

 プログラムは、教育的、社会的な早期介入を強調し、適切な学習指導をできるだけ早期に行うというものである、障害者の母親や家族が中心となって視覚障害児の管理を行う。ボランティアに、監督者や関係者の役割を与えるのはフィジーではまだなじみがない概念である。

 1985年3月には、プログラムの第2段階として、ヘレンケラー協会は、相談サービスを開始した。Jeanne Leiper女史は、この分野の豊かな経験をもち、早期プログラムを検討し推進するために2つ目のワークショップを作った。

 このプログラムの設立で、協会は今やフィジーの各年令層の視覚障害者全員にサービスとプログラムを提供することになった。

 プログラムには、保健、社会福祉局、教育局、南太平洋大学から経験豊富な人材が関与している。

○目の治療と失明予防プログラム

 ヘレンケラー・インターナショナルは、保健・社会福祉局と協力して、1984年4月に、目の早期治療と失明予防プログラムを開始した。このプログラムは、簡単な基本的な目の治療や失明予防を既存のフィジーの保健機構に組み入れることを目標としている。

 本来の目的は、現職の保健相談員の専門的知識と技術を向上し、視覚障害の原因をつきとめ、第1、第2、第3段階での予防法を適格に判断できるよう養成し、視覚障害の予防を強化することである。

 1985年4月には、3週間に亘って、コンサルタント眼科医2名が来島し、保健センターのプライマリー・ヘルスケア・ワーカー――ナーシングステーションおよびセンターの看護婦の訓練を行った。訓練セッションは6ヵ所で開かれたが、中央部で3ヵ所、西部3ヵ所で行われた。また、合計90名以上の保健職員が訓練を受け、地域レベルでの適切な目の治療を行うための薬物や器具について学び、目の保健のためのその他のニーズについて地域の医療センターに紹介する訓練を受けた。

○雇用

 フィジー視覚障害者協会は、視覚障害をもつ年長の学生もしくは、成人に雇用の機会を与えようとするものである。このプログラムは、Suvaの本部と、各地域の医療リハビリテーションのフィールドワーカーが行っている。Suvaでは、10名の視覚障害を持つ労働者が、相互に関心のある問題を話し合い、経験を教え合い、視覚障害をもつ他の就職希望者の雇用機会について特別の集まりを持つ。

 注:ヘレンケラー・インターナショナル(HKI)は、ニューヨーク州、ニューヨーク市に本部を置く。西サモア、パプアニューギニア、アジア、アフリカでも、それぞれの国の発展に応じて、同様なプログラムを提供している。フィリッピンには、WHOや他の機関の支援を得た、独自の地域に根ざしたリハビリテーションプログラムがある。HKIプログラムの成功により、フィジー政府は、視覚障害者HKIプログラムを各種障害者の範囲にまでひろげ、地域に根ざした独自のリハビリテーションプログラムを実施できる可能性を調査するための推進プロジェクトを開始した。

 保護雇用

 Suvaにある障害者リハビリテーション作業所は、ILOの地域コンサルタント来訪後1979年に設立された。設立の目的は、障害をもつ求職者が公募に応じられるような職業訓練センターを提供することであった。現在、このワークショップは、大都市Suaveから少し離れた、広大な敷地内の新しいビルの中にある。約80名の障害者が10名のスタッフの指導を受けている。そのうち約30名は、木工細工、シルクスクリーン印刷、製本、オフセット印刷、縫製、洗濯などをしている。あとの50名は、軽作業についている。このセンターは、フィジー・リハビリテーション評議会によって運営され、請負い契約で得た資金が主な収入源になっている。ここの障害者達は、卒業して公募されることはあまりない。

 1984年5月以来、メソジスト教会は、Baに小さな保護作業所を開いており、最高8名まで若者が村の生活様式に関連した技術を教えられ、いくらかの収入を得ることがある。この作業所は、ささやかながら適切な目標を達成し、障害をもつ若者が、地域の価値ある一員になる手助けをしている。

 フィジースポーツ評議会

 フィジースポーツ評議会は、1984年9月初め、障害者関連サービスを提供する団体を集めて会合を開き、コルゲート・パルモリプ(フィジー)社が、障害者スポーツデーを後援することになったことを発表した。2ヵ月後、スポーツデーが、国立競技場で開催された。300名を越える参加者と、それとほぼ同数の観戦者が集った。参加者の多くは、6つの主な障害者団体から指名された人々であった。すなわち、Suva盲学校、精神薄弱児学校、肢体不自由児学校、Tamavuaの医療リハビリテーションユニット、フィジー下肢まひ者協会などである。参加者の中には、上記の団体とは関係がなく、個人として参加した者もいた。競技者の年齢は、学齢前の子供たちから50歳過ぎまでいて、中には参加するために100マイル以上も旅をしてきた人もいた。競技は、できる限り国際障害者スポーツルールに沿って行われ、クラス分けもそれに準じた。

 1985年には、スポーツ評議会がこの初のスポーツディの体験をふまえて、多くの障害者の参加を願ううちに、スポーツディが年に一度の国民の日となった。コルゲート社は、基金を寄付し、備品の購入や地域行事の運営、輸送手段の提供、スポーツセンターやレクリエーション施設の改造などにあてた。

 障害者の乗馬

 障害者の乗馬グループは、Suvaにある国立競技場近くのグラウンドで毎週火曜日の朝定例会を開いている。このグループは、ボランティァたちの助けを受けているが、このボランティアは、(刑務所服役の代わりとして)地域社会労働の命令を与えられた服役者たちである。彼らの配置と管理は、一部救世軍のリカ大佐によって行われている。これら服役労働者たちがする作業は、他に、特殊学校の校庭や遊び場の造成、視覚障害者協会の野菜畑の維持などがある。

 ガールガイドとスカウト

 フィジーガールガイドには、Suva肢体不自由児学校とSuva精神薄弱児学校を基盤とした障害児ガイドグループがある。聴覚障害児グループがVarnua LevuのLabasaに設立され、Viti Levuには視覚障害者ガイドグループもいくつかある。Suva肢体不自由児学校の中にも障害児ボーイスカウトがあり、First Waimanu Scout Groupとして知られている。このボーイスカウトの中から、2名の身体障害児が後援を受けて日本の集会に参加した。Lautoka肢体不自由児学校にも、最近ボーイスカウトができた。

 自助

 フィジー下肢まひ者協会(Suvaと西部支部)は、フィジーの障害者のための主な自助組織である。この協会は、1973年に設立され、初めは対まひ、四肢まひの障害者にスポーツの機会を与えることを目的としていた。

 1984年初め、多くの関係者たちが、それまで休会中であった協会の活動の再会に努力した。偶然にも、DPI(オーストラリア)が1984年8月にRussell Hunt氏とAlisa Coleman氏の2名のメンバーをフィジーに派遣し、障害者の全国代表組織をつくる手助けをした。この2人のオーストラリア人の派遣は大きな関心をひきつけた。その後、下肢まひ者協会は代表を3名選出し、DPI(オーストラリア)の後援を受けて、1984年11月、オーストラリアはアデレードで行われたDPIアジア/太平洋代表者会議に出席させた。そして、オーストラリアの3つの都市で、自助についての広範囲な研究を行った。

 援助があったにもかかわらず、下肢まひ者協会は資金難であった。主な会員たちの病気が長引いたためもあもが、もっと重要なのは、グループを推進し運営するための経済的・物理的資源が欠乏したためである。基本的には、幹部メンバー達の寄付に頼っており、郵便代から電話代まで運営上必要なすべてのコストを負担していた。障害者のニーズを満たす既存の機関は、これまで対応が非常に遅かった。フィジーの障害者たちが発言すれば、国内組織と国際組織の両方から援助が得られるにちがいない。

 

西サモア

 独立国、人口16万人のほとんどは4つある島のうちの2島に住む。全島が活火山の島で土地は肥沃。サモア語はポリネシア原住民の主要言語。

 1962年に白人より独立。

 障害

 障害の発生

 保健局の1979年調査によれば障害者数は人口の1パーセント、1,000人ということだ。1985年の8~9月にLoto Jaumafaiは国勢調査を行ったが、まだ集計中。青年・スポーツ・文化局も1985年のIYY調査で障害に関する調査を含めて行った。

 地域住民の話によればApiaの西10キロのところにある川の周辺に住む住民の間に聴覚障害児が異常に多発しているということだ。現段階ではまだ調査がなされておらず、伝染性のものか原因究明にいたっていない。

 政府サービス

 青年・スポーツ・文化局長のPaul Wallwork氏は個人的見解として青年・スポーツ・文化局が障害者を受け入れ障害者のニーズに合せた関連プログラムを保証した。スペシャルオリンピック実現を援助する職員がすでに配置され、輸送については局に1台しかないがバスが、定期運行され、運動障害をもつ児童や若者がLoto Taumafai学校の授業や美術教室、工芸教室への通学に利用している。

 西サモアは米領サモアと隣合っているという地理的条件にめぐまれ、国内の航空運賃と宿泊費とで、訪問医や訪問相談員のサービスを受けられるはずだが、現段階では、この好条件が利用されるにいたっていない。

 非政府組織

○赤十字

 赤十字は1981年に活動を開始したが、以前からある他団体との競合を避けて、障害者関連の活動をひかえている。1984年に赤十字が後援する全国青年キャンプに若い障害者が招待された。スペシャルオリンピックなどのイベントの際、赤十字は応急処置班を提供している。また主にニュージーランドから寄贈される車イスなどの補装具を配布している。

 障害者援助を目的とする団体は主に3つある。視覚障害者協会と西サモア知能障害者協会とLoto Taumafai協会である。我々が訪問する1年前から、この3団体の間に微妙な行き違いが生じ、客観的評価はむずかしい。

○知能障害者協会

 1979年に設立。特殊学校の運営を行っている。この学校は、障害者の親達が集まり、ある地域医師所有の屋根だけの家から出発した。教会ホールに移転し、その後、2分の1エーカーの土地と2階建ての家を購入し、修繕して、1985年5月に再移転した。

 生徒は20名で、中には知能障害がなく身体障害の者もいる。教師は3名で、フィジーで特殊教育コースや普通初等教育訓練や入学前教育訓練を受けたり、オーストラリアで再訓練を受け経験豊富である。そのうち2名はニュージーランドでIHCスクールにも通った。

 学校は地域の援助で成り立ち、寄付によって人件費と運営費のすべてをまかなっていることを協会は誇りにしている。

 その他の活動として、スペシャルオリンピックに参加するため米領サモアのPago Pagoへ児童17名と教師・親10名を派遣した。また青年キャンプヘ参加したり、農業祭のパレードに参加し32台あるうちの4台目に分乗、各種のニュース記事にとり上げられ、会議を開き、資金調達のためにイベントを行った。

 ニュージーランドの海外支部のAPACが後援した会議ではホストとして指導的立場にたった。会議とは1985年10月に行われた第1回太平洋諸島障害者非政府組織会議で、「現在、障害者のために積極的な活動をしている人々」として行政官、親、教師を出席者として指名した。

○視覚障害者協会

 西サモアで最初の団体、1967年に低視力児のための学校を設立。地域のロータリークラブなどの団体が多額の基金を調達し、Apiaから約5キロのところにある広大な土地に大きな学校が建った。1980年から1981年にかけて休校になり、まだ再開されていない。1983年にヘレンケラー・インターナショナルは、地域に根差したリハビリテーション計画の下で地域住民の訓練プロジェクトを開始した。南太平洋地域で行われたこの種のプロジェクトとしては2つ目のもので、ドイツのCBMグループの援助を受けた。

 1985年1月には、特殊学校の教師をしていた先生1名と他3名が有資格のフィールドワーカーになるため2ヵ月の訓練コースを開始した。また7月から8月にかけて2週間の再教育セッションがApiaで行われた。この間の4ヵ月間、フィールドワーカー達は連絡をとり合い、2歳から85歳まで42名の視覚障害者を対象にプログラムを開始した。

○Loto Taumafai

 設立は1980年9月30日で、「西サモアの各種障害者および関係団体の代表として調整活動をすることを目的とし、既存の団体の権利と財源を侵害しない」こととしている。

 1981年は国際障害者年の調整団体として活動し、国内の活動計画開発を手助けした。

 最優先目標として聴覚障害児のための特殊学級もしくは特殊学校の設立を決議した。1985年3月当時、通学者は4名だけだったが、広報が拡充し、輸送を提供した結果、複合障害をもつ26名が通学できるようになった。学級は3学級で、教師はインドネシアや国内や米領サモア、ハワイで訓練を受けている。

 3学級のうち入学前学級は学習遅滞児と障害児を対象に行なわれ、衛生、算数、読み書き、理科、音楽、指人形などが指導されている。

 上級学級は15歳から34歳まで学生がいて、英語、数学、社会科学、タイプの授業がある。聴覚障害児は全員ほぼ同年代で、個人用プログラムによる指導を受けている。

 教師を支援するために南太平洋大学の地域学校コンサルタントのDick Bishop氏が派遣され、1985年5月から3ヵ月間、通学生のニーズに合わせた教育プログラムの開発を行った。

 1985年12月には障害者教育の教師を養成する職業学校の開校が計画され、サモアにある国連開発プログラム事務所の援助を受けることになった。これとは別に、Loto Taumafaiはスペシャルォリンピックを組織し、1985年9月に開催され、近隣諸国の参加がえられる予定である。これが毎年の国内行事となることが望まれる。赤十字、YMCA、青年・スポーツ・文化局の後援を受けている。

 このスペシャルオリンピックは1986年にインドネシアで開催される極東・南太平洋障害者競技会(ESPIC)に参加する選手の予選大会も兼ねている。

 将来

 Loto Taumafaiは西サモアにおける包括団体であると自らを宣言しているが、残り2つの障害者関連団体から無条件の支持を得ているとはいえない。それぞれが限られた範囲内で活動しており、団体間の連絡は少ない。

 なわ張り争いや個人的争いや目標設定の問題に和解がみられれば、これら3団体はもっと資源にめぐまれ、スタッフの配置も今以上にうまくいくであろう。

 特に視覚障害者協会の特殊学校は土地と建物を提供して、他の2校と統合すれば1つの学校ができる。そうなれば補助金は生徒の輪送バスの購入にあてられる。

 

トンガ

 トンガ王国は独立国でポリネシアの西端に位置する。人口は10万人で169ある島々のうち36の島に住む。主な3群島は緑豊かである。

 障害の発生

 保健官によれば特に目立った障害の発生がなく調査も行われたことはない。

 政府サービス

 太平洋諸国の多くもそうであるように政府は障害児教育に特別の配慮をしていないし、資金も充分でない。教育局長はこの分野に特別な関心をもっているが、今回は不在のため話が聞けなかった。

 高等教育局長代理によれば14才までが義務教育で、特別介護を必要としない者は全員、地域の学校に入学できる。教職志望の学生は訓練の一部として障害児のニーズを学ぶ。地域の教師養成大学は機能の3分の2を1年間の特別コースにあて、正規の訓練を受けずに教職についている教師に学問教育をし資格を与えている。このコースは特殊教育の教師も利用できるので、障害児教育の教師のために特別コースを提供する必要はないということである。

 保健局は理学療法士を2名雇い、そのうちの1人、Soana Foliaki夫人をNuku'alofaのVaiola病院に配置している。彼女はOTA特殊学校を訪問し、地域を訪問し、補装具の製造・修理をする地域の人に訓練をほどこす仕事もしている。

 彼女はフィリピン会議で地域に根差すリハビリテーションで注目を受けたSitaleki Finau博士に興味を示した。この2人の保健官はトンガ国内で同様のプログラムが実施できるか、その可能性を探っているところである。

 非政府組織

 毎年、国内の各教会が同時に「障害者の日曜日」を開催し、各家庭が障害をもつ家族を礼拝に連れ出すよう勧めており、集会では障害者の役割とニーズについて考えるよう求められる。説教は障害関連分野について語られ、寄付金は障害者関連団体に贈られる。島民は信仰が深いので、これが発端となって関係者に長期に亘って恩恵が与えられることになろう。

 Ofa Tui Amanaki(OTA)

 OTAは「無干渉主義」団体といえる。赤十字とトンガ国女王のHalaevalu Mata'aho女王陛下がはじめた団体で、女王陛下は両団体の会長として個人的に深い関心を寄せている。OTA(信仰、希望、愛)センターは首都Nuku'alofaに1979年に開設され、障害児に訓練と教育の機会を提供している。

 OTAには規約がなく、運営委員は自選で行われる。Nuku'alofaの中央センターは成人障害者グループや別の2つのOTAセンターと非公式につながりをもつ。別の2つのOTAセンターは国内の2つの主力グループに半自治の形で影響力をもつ。時間の都合で今回この2センターを訪問することはできなかった。Ha'apai島グループはセンターと学校をもち25名の生徒がいる。国内で訓練を受けた教師4名を迎えて1983年に開設された。

 Vava'u島グループは1982年にOTA学校を設立。国内で訓練を受けた教師4名と平和部隊の訓練を受けたボランティアの教師1名がいる。生徒は約25名で、4名の卒業生は地域学校に入学した。校舎は米国の援助で建ち、オーストラリア高等弁務局は我々との会合の中でそのプロジェクトを推賞していた。このOTA学校は小規模だが成人グループも運営し、工芸品を製造している。

 Nuku'alofaのOTA学校はOTA最初のプロジェクトで、生徒は島の半分ずつに分けられ、交代に週2回ずつバス通学する。30分授業で歌から保健、算数、造園まで広範囲の科目を学習する。授業は9時から午後2時30分まで、金曜日には入学前教育プログラムが行われ、8歳までの重度障害児も含まれる。全体で120名の生徒がいる。

 教師は8名で、大半はフィジーで障害児教育と介護の基本訓練を6ヵ月受けている。正規の訓練を受けた者はいない。教室では親とボランティアが教師を手助けし、センターには他に事務官とタイピストと造園師兼用務員がいる。

 さらには、学校の上級スタッフであった者1名が定期的に家庭訪問したり、2、3のグループを訪問している。これらの子供達は病気や重度の障害、家庭事情、へき地などの理由で通学できない子供達である。平均24名の子供達を毎週訪問し、基本授業や理学療法、親への指導を行う。

 成人障害者グループ

 1981年にOTAは国際障害者年委員会を設置し、新設の成人障害者グループの責任債務を負うことになった。このグループはOTAの半自治の小委員会として運営されている。会長はTimote Solo Tukutukunga氏で、AdelaideとNassauのDPI会議に出席したことがある。

 成人障害者グループが発足したのは女王が個人的に近隣村落の家庭を訪問し、障害者と会いセンターへの入学を勧めたことに端を発する。当初17名がその招待を受けた。グループの目的は工芸品の製作・販売と公式に収益を得ることにある。グループは売上げの10パーセントを材料購入にあてている。食料市場内に常設店をもち、観光船人航日には観光客用市場に特設店を開く。その他の製品もNuku'alofaの大通りにある大規模な婦人工芸センターで販売される。

 1980年後半のグループ発足から1984年までグループはモルモン教会のホールで会合を開いていたが、1984年に王室が約1ヘクタールの土地を寄贈し、永久根拠地とした。OTA委員会委員のFilipe Koloi氏がその地に36×24フィートの建物の建設の調整役をつとめた。建材と労力の大半は地元の寄贈による。1985年後半に開設の際、グループ調整役とその補佐は各種の工芸技術、農業、豚や羊や鶏などの畜産技術など広範囲の技術を教えたいと希望した。

 現在、島内の東部、西部、中央部から週1回ずつ受講者が集まる。建物の新築後は受講者を70名にふやし、毎日受講できるようにしたいとしている。この目標が実現されると、輸送、用具、スタッフ、原材料・食料(受講者の昼食用)にさらに資金が必要となる。

 女王は成人障害者グループセンター用地内にもう1つプロジェクトを建設することに関心を表明している。これは週5日制の宿泊訓練センターで、男女10名ずつの知能障害者を収容し、各人が個室を持ち、週末に帰宅する。センタースタッフとして夫婦を採用し、住環境内での自助を指導する予定。

 将来

 現在、トンガには障害者自らが運営する団体はない。OTA委員会メンバーや成人障害者グループと会合を開くうちに、自ら組織を運営する技量をもつ障害者の数が少ないことが明白となった。Tim Solo氏はそれに沿う若い障害者を1人すでに見つけ出している。彼は成人障害者グループの現会計係である健常者から会計技術を学ぶことに意欲を示している。障害者と健常者がペアを組んで、技術を伝授し、学ぶことが望ましい。数年後には数名の障害者が地域の組織内でリーダーとして、さらに積極的な役割を果たす力をもつようになるであろう。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1986年11月(第53号)18頁~36頁

menu