用語の解説 グループホーム 介護と介助

用語の解説

グループホーム

 語源的には、「数人からなる障害者が一緒に住んでいるホーム(一般の家)」であるが、「障害者が一般社会の中で暮らしながら、社会的自立を促進することが可能な援護システムを備えた住宅形態」(厚生省心身障害研究班)という定義にみられるようにノーマライゼーションの理念を積極的に受け入れて使用する場合が多い。

 グループホームは、精神薄弱者福祉分野では平成元年度より「精神薄弱者地域生活援護事業」という名で国の制度となった。そこでは「地域社会の中にある住宅において数人の精神薄弱者が一定の経済負担を負って共同で生活をする形態であって、同居あるいは近隣に居住している専任の世話人により日常生活援助が行なわれるもの」と定義している。また、国の制度より先にいくつかの自治体においては既に制度を定めているところがあるが、これらの制度にはグループホームの名称ではなく、「生活寮」「生活ホーム」「自立ホーム」などの名称が使用されることも多い。

 制度的に考えた場合の特徴としては、①4、5名で居住(既存の通勤寮、福祉ホームよりも小規模)、②入居者の生活の基本部分に関しての費用負担、③世話人による生活援助、④運営を支えるための支援(バックアップ)施設の存在、の4点があげられる。ただし、④(支援施設の有無)に関しては、自治体によって異なっている。

 現在、精神薄弱者のホームは364ヶ所(89年10月、全日本精神薄弱者育成会調べ)存在し、ここ4、5年急増している。国の制度の施行にともなって今後さらに増加していくことが考えられる。しかし、世話人の資質と待遇の問題、入居者の費用負担と(財産、プライバシーといった)人権保障の問題、などの課題も多く残されている。

(小沢温)

 

介護と介助

歴史的には、かなり古くから、慈善、救済、医療の場で介護、介助、世話活動が混然と展開されていたのだろう。推古天皇(593)元年四天皇四箇院を設立し、傷病に悩む人々の救済、世話活動がなされたといわれる。その後、全国に国分寺や有力大名により、障害者などの収容救済事業が展開されている。小野慈善院、小石川養生所等代表的な所であろう。

 明治以前は、慈善救済活動の中に「介護・介助」も総体的に行われていたのだろう。1862年、長崎に設立された養生所(精得館)に医師、見習い以外に「介添婆」の存在が記載されている。看護と介護のルーツであろうか。その後、明治になり、近代医療の登場により、職業看護婦が出現し、「介助」という用語が、医師の補助行為、医師への介助として、「日常的で療養上の世話」とは別な捉え方をしていたようだ。当時の「介助」という用語は医師の補助行為活動として対利用者(患者)へのサービス行為の用語であったのだろう。

 「世話」という用語についてもふれておきたい。これは、明治20年代に開設された「盲唖学校」に「寮母」が設置され、「障害をうけたこどもたちの日常生活の世話活動」として今日に至っている。

 「介助」や、「世話」という用語に比べると「介護」という用語は、戦前使われたとする記述は見当たらない。戦後、社会福祉行政とりわけ、生活保護行政の加算用語として「介護」が使われたとする記述があり、また、1957年頃から始まった「家庭奉仕員」に世話活動。1963年にできた『老人福祉法』に常時の介護を要する者…という日常生活に支障をきたす部分に公的に保障するものとして「介護」という用語が行政用語として次第に一般化したのではないだろうか。60年代、70年代と親なきあとの介護、在宅介護や施設の介護労働の量と質、専門性、資格問題などが問われてきた。介護に関し、いくつかの見解はだされているが、私は、介護と介助を次のように理解している。

 「介護は介助行為によって、対象者の日常生活を支え、本人の生活力を明日につなげる活動、援助でなければならない。介護とは、相手の人格や生活を分析し、その個人の社会的生活を保障し、自立にむけた援助行為(活動)であり、そのための食事、入浴、移動、就寝、排せつなどの介助を通して、社会的人間として活動する上で必要な部分を補完、代行することであろう。」

(亀山幸吉)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1990年9月(第65号)36頁

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