特集/障害者と文化活動 美と触

特集/障害者と文化活動

美と触覚

草山こずえ *

はじめに

 1枚の絵を見、一つの演奏を聞いて心を動かされた経験をもつ人は多いと思う。文化を楽しみ、創造に参加することは人間に深い喜びと慰めを与える。それは、人間がこの宇宙の中で点のように小さな存在であり、生きることが容易ではないと感じているときほど大きいように思われる。障害をもつ人たちは、現実が困難であるだけ“文化”を求めてきたと思う。

 しかし実際、車いすの障害者が映画館に行くことを考えてみると、長い階段やトイレの不備など多くの困難が予想できる。視覚障害者である私が公共の美術館を訪れて、レリーフや彫刻に触れることができ、点字のパンフレットが用意されていることも、ほとんどない。

 では、どのような試みが可能なのだろうか?私のアメリカの美術館での研修経験などに触れながら考えてみたい。

1.“手で見る”とは

“手で見る”展覧会

 1988年9月、東京で開催された「第16回リハビリテーション世界会議」の会期中に、会場となったホテルの上階で一つの美術展が開かれていた。『瞑想のための球体』と題したこの展覧会は、フランスの「国立ポンピドー芸術文化センター」(1)と東京・渋谷にある「手で見るギャラリー・TOM」(2)の共催で開かれたもので、フランス・日本・インドから11名の現代作家が作品を寄せていた。どれも“球体”であるのだが、一つ一つの作品がまったく別なものを連想させるのがおもしろかった。この展覧会を訪れた人たちは、だれでも作品に触れ、自分のイメージを膨らませて“瞑想”することが許されていた。

 私は、「ギャラリー・TOM」のご厚意で、「ポンピドーセンター」のカトリーヌ・ルイドー氏の通訳を兼ねて、会場にいる機会を得た。この経験から、彫刻を“手で見る”とはどういうことであるのかを考えてみた。

“晴眼者”にとって“手で見る”とは

 私は1歳半のとき、病気のため失明した。私にとって、手は「使い慣れた道具」のようなものである。これまで、そっと触れることによって、物の形や材質を理解してきた。しかし、目の見える人たちにとってはそうではないようである。

 目をつむってある彫刻に触ってみるとする。最初に感じる印象は、作品の素材がもっている冷たさや軟らかさなどであろう。次にその形を知ろうとするのだが、それが難しいようである。視覚が一瞬にして全体の形を把握できるのに対し、触覚は触れている部分しかわからないからである。手を動かすにつれて変わってくる形を頭の中で組み立て、全体の形を理解しなければならない。この再構成の過程が、触覚を使い慣れない人たちにとって、難しいのであろう。

 彼らにとって大きな意味があったのは、“目をつむる”ことであったようだ。目を閉じることによって、視覚がもたらすたくさんの情報から解放され、彫刻を触ることに集中することができる。そうしているうちに、だんだん心が落ち着いてくる、という感想を何人もの人から聞いた。

 視覚は便利な感覚である。全体を把握することの速さと正確さにおいて、他の感覚には及ばない利点をもっている。しかし、それがかえってそこに存在している人や物を静かに心に受けとめ、味わったり考えたりする余裕を奪ってしまったとも言えるのではないだろうか。忙しい会議の時間をぬって展覧会を訪れ、何分もかけて一つの彫刻に触る。一見、無駄に思える行為を通して取り戻すことのできるものは、想像以上に大きいように思われた。

“ものを見るとは”

 “ものを見る”とは選択的な行為である。目に入ってくるものをすべて見ているわけではないし、耳に聞こえる音のうち、聞いているのはごく一部であろう。触覚の場合も、ものに触れて何を感じとるかは、経験や触り方によっても違ってくるのではないかと思う。

 ものを“手で見る”とき、私はできるだけ軽くそっと触る。花に触るように彫刻に触るのである。作品を傷めたり、傷つけたりしない触り方があると思う。一方的に触るのではなく、対話しながら触り、心に写して“見る”のである。

 美術館には必ず「作品には手を触れないでください」という注意書きがある。これは大切な作品を守るための配慮である。乱暴に触れば作品を傷めることになりかねない。しかし、“手で見る”以外鑑賞する方法のない視覚障害者に対しては、何らかの配慮をすることはできないだろうか。作品を傷めない触り方を教育したうえで美術館の職員がついて触れるなら、視覚障害者が美術を楽しむことが可能であると思う。

 事実、大英博物館やルーブル美術館などでは、一部の作品ではあるが、視覚障害者も観賞を楽しめるよう配慮されていたし、アメリカの美術館でも障害者のためのさまざまなプログラムが企画されていた。

2.フィラデルフィア美術館の試み

教育部での研修

 1987年から88年まで、私はアメリカ・ペンシルバニア州のフィラデルフィアにある“フィラデルフィア美術館”に研修生として滞在した。研修の目的はアメリカの美術館における障害者サービスの実情を見ることであった。美術館が全盲の私に勉強の機会を与えてくれたことは驚きであったが、私を迎えてくれた教育部の部長・ダニエル・ライス氏の言葉は、さらに私を驚かせた。

 「あなたには、できないことがあることはわかります。けれど、目の見えないあなたにしかできない発想や仕事がきっとあると思います。私たちから学ぶだけでなく、積極的にあなたのできることを探してください。それが、私たちのためにも良い結果をもたらすと信じています。」と、彼女は言ったのである。

 日本では、障害者である私は大切にされてはきたが、お客様扱いであった。一人前の大人として自分を育てることは、そのような社会では非常に難しい。ライス氏の言葉は、私にとって何より大きな励みとなった。

 教育部は美術館と来館者を結ぶ仕事をしており、主に三つの柱が置かれていた。

 School Program:学校の教師と連係を取り、生徒たちを美術館に招いて授業を行う。“Museum Teacher”と呼ばれる人たちが生徒の年齢やそのときのテーマなどに合わせてゲームを交えたり、物語を聞かせたり、絵やタペストリーを見せたりしながら授業を進めていく。知識として美術を教えようというのでなく、子どもたちと対話をしながら彼らが自分の目で作品を見、考えることができるように導いていくのである。美術館の生徒専用の入口は毎日、小学生から高校生までの生徒たちでたいへんな賑わいだった。

 Public Program:休日や夏休みに催される家族向けのプログラムや成人向けの公開講座、ギャラリー・トークなどを行っている。

 Programs for the People with Special Needs:直訳すると「特別なニーズをもつ人たちのためのプログラム」であるが、障害者や高齢者など美術館を訪れたとき特別な配慮を必要とする人たちのための仕事をしている。主な仕事は、障害者用設備の点検と補修、美術館の職員やボランティアの研修、障害者の団体や病院のソーシャルワーカーと協力しながら障害者や高齢者が参加しやすいプログラムを実施することなどである。専任のコーディネーター1名、非常勤講師2名、そのほか多くのボランティアが活動を支えていた。

障害者用設備

 フィラデルフィア美術館の正面に、映画『ロッキー』のラストシーンで主人公がかけのぼる長い階段がある。そこでは、車いすで出入りするための段差のない入口が用意されている。出入口に最も近い場所が障害者専用の駐車場になっていて、どんなに混んでいてもこの場所は確保されていた。

 また、講堂には、専用のレシーバーを通してマイクロフォンの音が大きく聞こえるといった聴覚障害者のための設備も完備されていた。さらに、すべてではないが、講演会や公開講座には手話通訳がつけられていた。

障害者のためのプログラム

 障害者のために特別なプログラムを組むというより、すべてのプログラムに障害者が参加できるようにすることを原則としていた。美術館では、2年間の研修を終えたボランティアのガイドが館内を案内する“ツアー”を1日数回行っていた。障害者から申し出があると、その人たちの希望や障害を考慮したツアーが組まれる。視覚障害者のためにはTouch tour と呼ばれるものがあった。これは、ガイドが手引きをして館内を回り、彫刻や家具などの工芸品を触って鑑賞できるツアーである。手を触れてもよい作品は、予め学芸員の了解を取ってリストになっている。膨大な修蔵品に比べれば僅かであるが、アステカの遺跡から現代彫刻まで百数十点が選ばれていた。

 このほか、視覚障害者のための造形教室が毎週1回開かれており、1989年には日本で展覧会が開かれた。

高齢者のためのプログラム

 病院や施設にいるお年寄りが外に出て、美術館で楽しい一時を過ごすことを目的としたものや、思い出の写真をもち寄ってそれを版画にするワークショップなど、さまざまな試みがなされていた。

障害者・高齢者プログラムの歴史

 美術館のこのような取り組みは、いつ、どのようなきっかけで始まったのだろうか。フィラデルフィア美術館で最初のこのプログラムのコーディネーターであった、シェリル・バーガー氏に伺ってみた。

 美術館が障害者のアクセスを考えはじめた大きなきっかけは、1973年に施行された「リハビリテーション法」であったという。この法律は、公共の施設に対して障害者が利用できるよう設備を整えることを義務付けたばかりでなく、その施設が運営する活動に障害者が参加できるよう配慮することを定めたものであった。とはいっても、実際はなかなか効果が上がらず、障害者の根強い運動が続いたという。フィラデルフィア美術館では館長の諮問委員会をつくり、障害者を交えて話し合いがもたれた。その席で、障害者の委員から美術館の設備やサービスを充実させることに力を入れ、入場料の割引は行わない、という意見が出され、上記のような活動の指針が決められたということであった。

 日本とアメリカを単純に比較することには意味がないと思うが、日本の障害者運動は総じて物質的な補償を求めることに目を奪われて、“人権”を求めることを忘れていたのではないだろうか。文化を楽しむことは人権の一つであるともいえる。障害を理由に人権が侵されることのない社会の仕組みをつくっていくことに、力を注ぐときがきているように思われる。

おわりに

 美術館での仕事は、私にとって楽しくもあり、難しくもあった。目で確認することができないところをほかの人に補ってもらう必要があったからだ。私は、私にしかできない仕事を見つけようと考え続けた。その一つとして、目の見える人たちに“手で見る”ことのすばらしさを理解してもらうことを考え、ギャラリー・トークを担当させてもらうことにした。“ギャラリー・トーク”とは、実際に作品を見ながらその背景や見るときのポイントを話す時間で、たまたま通りがかった人などだれでもが参加できる。私は、ヘンリー・ムーアという現代彫刻家の作品を選んで話をした。彫刻に触ることができるのは残念ながら視覚障害者に限られているので、私は手で見ながら、参加してくれた人たちは目で見ながら感想を交換した。触ることにより、目では見落としがちな作品の表面の細かな凹凸やノミの使い方の違いにまで気づくこともあり、目で見ることによって光と彫刻の関係を考えることもできた。視覚にも触覚にもそれぞれ特徴があるが、共通しているのは、ていねいにものを見、心を自由にして受けとめることによって、作品が語ろうとしているものを見ることができる点ではないかという気がする。

 私がアメリカでの研修で学んだことは、「物を見る心を育てることの大切さ」であった。

(原文 点字)

 注

(1) 「フランス国立ポンピドー芸術文化センター」はパリにあり、美術館、図書館、ホール、アトリエなどを備えている。ここは現代美術を研究する機関であるとともに、人々が現代美術に親しむ場ともなっている。主にこの展覧会の企画に携わったのは、「子どものアトリエ触覚研究室」であった。ここでは、子どもにとっての触覚の役割、美術の鑑賞や創造と触覚の関わりなどを研究し、独創的な教材の制作やワークショップの開催などの活動を行っている。

(2) 「手で見るギャラリー・TOM」は1984年に村山亜土・治江夫妻が開館したギャラリーである。入口に『僕たち盲人にもロダンを見る権利がある』という、ご子息錬氏の言葉が刻まれている。視覚障害者をはじめ、数多くの人たちに彫刻や工芸作品を“手で見る”機会を提供するとともに、盲学校の生徒たちの作品を紹介する展覧会を国内外で開いている。

著者略歴

 1981年、国際基督教大学教養学部語学科卒業後、お茶の水女子大学研究生(心理学専攻)となる。
 その後、地方公務員を経て1987年、フィラデルフィア美術館へ1年間の研修留学。帰国後、専門学校等で福祉関係の講師などを務め、1990年より現職。

*翻訳家


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1992年7月(第72号)15頁~18頁

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