特集/障害者と文化活動 知的障害のある人たちの青年期における音楽活動

特集/障害者と文化活動

知的障害のある人たちの青年期における音楽活動

東野洋子 *

はじめに

 ダウン症や自閉症などの知的障害をもつ友人たちと私自身も一緒になって音楽活動を続けて11年になります。この実践を通し、知的障害をもちつつ青年となり、大人となっている30歳代に入った彼らの音楽活動や、つつがない社会人としての姿を後に続く若い人たちの参考になることを願って書かせていただきます。

 さらに、知的障害をもつ人たちが社会との接点をもちながら、その友人たちと音楽活動を続けていくために、私たち指導的な仲間が果たしている役割や工夫、練習の場面における方法、活動の中から生まれてきている人間的な成長と人生の充実などについても書き及びたく思います。

青年期を迎える頃

 知的障害をもつ子供たちの療育や教育については、医学や教育学の分野から多くの出版物が出され、また、多くの実践報告も目にいたします。それらの目指すところは、一つに集約されていきます。それは、「知的障害をもつ子供たちがやがて大人となった時、自分のもてる力を発揮して、それぞれの社会参加を果たし、喜びや楽しみを味わい、あるいは分かち合い、怒りや悲しみを和らげる努力ができ、意欲的な日常生活が送れるように…」ということになるだろうと考えます。言い換えれば、「人間として自他を愛し、生活の諸場面で目的をもち、喜んで心身ともに立ち働くこと」ではないでしょうか。

 さて、大人の入り口である青年期を迎える頃、ちょうどそれは、養護学校高等部を卒業する時期とほぼ重なっています。この時期は、障害のある人もない人も同様に、それぞれの若者の内に、これまでの子供時代に家庭や学校、地域で育てられた諸々がつぼみとなって息づいています。もちろん、すべての人は皆、その育ち具合が違うのは当たり前ですし、そのうえ、一口に知的障害といいましても、その障害の特徴や程度も様々なら、受けた療育、教育も様々で、例えば、家庭教育、学校教育の中での集合、統合教育、さらに教育内容としての一律的教育に平行して、個々人にそった教育現場での諸条件の中で行われる可能な限りの個性教育など、これもまた容易にとらえきれません。教育の成果が十分に出て、よく伸びている人、今一つ伸び切れていない人など様々ありましょうが、これまた、どのような査定や判断を試みても、完全に分かりえるとは思えません。それほどに、今、育ての現場では微々再々に渡って充実に向けた努力がなされているのだとも思います。そして、その結果としての青年期以降の人生が始まるわけです。

 障害をもつ若い人たちもまた、未知のこれから出合うであろう歓びに向けて走り出すエネルギーを内に蓄え、その表現はまちまちですが、同じ世代の友達を求め(障害があるが故に周囲の援助者も必要な側面もありますが)楽しみに向けて、自らの意志で歩き始めようとします。そして、広い社会の中で大人として暮らしていくことになります。

 ところが、大人でありながらも知的障害のあることで周囲の人たちから誤解されることがしばしばあります。例えば、長年、福祉を手がけてこられた先生が、知的障害のある青年たちが音楽に乗って楽しく歌い踊る姿に接した時に次のように言われました。「知恵遅れの人は何を考えて何をしているのか分からないけど、純心で可愛いからいい。子供のまま大人になって楽しいからいい」と。可愛いく思われる気持ちからの言葉でしたが、この言葉に代表される知的障害に対する悪意なき誤解がその一つです。

 3歳のままの大人は存在しえません。もしそんな大人がいたなら、その人には育ててくれる人が与えられなかったか、もしくは育てた人が、その子供が将来、社会と接する必要が予想されず、その能力も無いものと考えて一つも(しつけも含めて)人らしいことを教えなかったことになります。しかし、おそらくそんなことは考えられません。ただ、知的障害をもつ人は、知的な理解力を使って人や物事を理解することがうまく身につかないので、知的な能力以外の能力、例えば体験を通して(本来人間に備っているらしい)心や魂などの力によって理解を重ねていきます。子供の頃の「心の判断力」とも言うべき力・・・笑む人を受け入れ、信じ、怒っている人には、ついていき難さを感じ、嘆く人に呆然として、泣く人には心寄せるように立ち去り難く見つめている。あの原初的な人間らしい心の様子。知的障害のある人たちは知的理解力をほとんど使わずに、この心の力(仮に心察力とします)を長い年月をかけて伸ばしていると思います。

 こうした心察力を使い磨きながら、自他共々社会や物ごと、人間への理解を深めてきている彼らを、一方で知的理解力に頼って理解し、成長してきた人たちが、しばしば理解し損なったり誤解してしまうのは、生きる中で主に心察力を使うのか、知的理解力を使うのかという違いのためだと思います。

 後で詳しく述べますが、ダウン症や自閉症の友人たちと音楽をあたためるべく「楽団あぶあぶあ」を結成して6年を経た頃のことです。父が急逝し、クリスマスコンサートと野辺送りの式が重なり、私は初めて「あぶあぶあ」を休みました。その次のけいこの時です。団員たちは私を見つけるとたちまち取り囲み、ダウン症のK君やY子さんは、「心配したよ」と私の体をさすりながらくり返し優しい仕草で語りかけてくれました。ふと視線を感じて目を上げると、自閉症のT君が私の目の奥を覗き込んで「大丈夫か?」と大声で。「うん」と私。それでもなお、彼は「大丈夫か?」と念を押し、目と目は合ったままです。自閉症の人たちは、決して人が嫌いなのではありませんが、視線を合わせることを極力避けている人がほとんどです。視線を合わせると、脳内のトラブルのせいでストレスが急に高くなるからでしょう。T君も日常はそうです。そのT君が自分自身の障害からくるストレスを省みず、私の目を覗き込み、うんとそばに近づいて離れようとしないその真剣な目、心。

 その日の練習が始まり、私は父を亡くしたことを話しました。泣き泣き話す私の肩をダウン症のK君が抱きながら、「み・みんな、お・お・音楽弾いて弾いて」その声に演奏が始まりました。曲は “南回帰線”、一番元気の出るレパートリーです。K君は大粒の涙を拭おうともせず私を抱いたまま、「よ・ようこさんお父さん、天国行きました。ダ・ダ大丈夫!さあ踊って踊って ね、人生は笑っていこうよ」私たちは泣いて泣いてやがて笑いました。「私の家に泊りにおいで」と言ってなぐさめてくれるY子さん。ただ黙々とドラムをたたきながら私を見つめてくれているS君。演奏を終えたT君が私の肩に人さし指を1本軽くのせて「うん」私も「うん、うん」(自閉症の人は障害故のストレスから、自分から人の体に触れようとは、あえてしません。)

 一般に社会では、慰めたい気持ちを伝えるのに、知的理解や記憶力をもってする忌やみの言葉や行動が慣習や文化となっていますが、彼らは障害故に通常のやり方は覚えにくいのです。しかし、心察力をもって、愛情というべき心からの知恵と適切な行動力を生ませています。私にとって、彼らからの深い理解と受けている友情はかけがえのないものです。この親友たちのいない人生は考えられない程です。そして、この知的障害をもつ友人たちの繰り広げる音楽活動は、友情をはぐくみながら、一方で、これまでに育ててもらったものを生かし駆使しながらの活動であるとも言えます。次にその具体的な事例を紹介します。

事例としての「楽団あぶあぶあ」

●構成

 1982年春、神戸市で結成。当時養護学校高等部在校生と卒業生あわせて6名(男3女3)。ダウン症4名、自閉症1名、知能遅滞1名。

 年齢=16歳~19歳。

 1992年春現在、結成当時の団員の内、病気などの理由で2名退団。結成時より演奏会や練習にしばしば参加していた2名が入団。計6名(男4女2)。ダウン症3名、自閉症1名、知能遅滞2名。

 年齢=26歳~31歳(高校当時のIQ推定値30~60)。

 障害をもたない団員、結成当時2名(大学生と私)現在は6名。いずれも、演奏会に観客、ボランティアとして参加するうちに、自らも楽器や音響技術等をひきさげて一員に。)

 年齢=20歳~39歳。

楽器編成

 マリンバ(ダウン症)、キーボード(ダウン症)、ピアノ・アコーディオン(自閉症)、ドラムス(知能遅滞)、パーカッション(ダウン症)、ウクレレ(ダウン症)、他にギター・ベース。

教育歴・職歴(1992年現在の団員について)

・一般保育所出身者2名、障害児専門保育園4名。地域の小学校(普通・養護学級兼席)6名。養護学校中等部2名、地域の中学校(兼席)4名。養護学校高等部6名。

・卒業後、民間の生産企業に就職(流れ作業内での簡易な手作業)。2名は継続。他4名は病気や会社経営不振などで退職、解雇を余儀なくされたのち、授産施設を経て再就職を果たす(菓子製造業、公共施設の清掃、クリーニング工場など)。現在全員就労。

家庭の様子

 平均的サラリーマン家庭。父母(祖父母同居1)、兄弟姉妹1~2名、障害はなく、就職、結婚、独立している。母親は専業主婦で育児・家事に従事す。父親たちは定年後の再就職。全員在宅。

成育背景を総じて

 障害というものにほとんど接したことのなかった団員たちの父母が、障害をもつ子を与えられ、驚きと哀しみ、不安の中から顔をあげようとした昭和30年~40年代、社会は終戦からの立ち直りの中、障害児教育の手さぐりの開拓から充実に向けての過渡的な時期でした。現場の熱心な先生方や関係者、そして我が子を想う一心の親たちの働きかけが行政との協調を生み出し、障害児教育の環境がどんどん整備されていく中、「あぶあぶあ」の団員たちは、戦後の障害児教育のファーストランナーとして始まったばかりの障害児保育から養護・普通学級兼席で小・中学校に学び、養護高校へと進学していきました。つまり、彼らは戦後の教育の申し子であり、進歩的、積極的な障害児教育、福祉の実践の始まりと充実の成果を任って活躍していると言えます。言い換えますと「あぶあぶあ」の音楽活動は、この30年間の多くの方々の尽力と、それに応えて努力しつつ成長した団員たちの結実ともいえます。

活動のねらい

 養護学校卒業後の長い人生を思って、まず次のような点に活動のねらいを求めています。

 1.友人としての心の行き来を優先する。

 2.喜び楽しみを分かち合う媒体としての音楽。

 3.自然に感じる音(楽)から演奏へ、それぞれにあった努力をともなって達成感のあること。

 4.周囲の人たちに活動の楽しさ嬉しさを知らせるよう心がけること。

 5.ライフワークとしての継続。

 これまでに育てられてきたもの、例えば、それぞれに見合った身辺の自立や集団での在り方など諸技量、そして心。思春期から青年期以降の人生に向けて考える時、障害をもつ人ももたない人も誰もが、自他共に感じ認める「自己の存在の嬉しさ」は、大切なものとなります。そんな時期に、友人があって友情が育ち、お互いがかけがえのない存在であることを、音楽をあたためることで、感じ育てあいたいと考えています。そして、自分の練習目標とグループ全体の目標とがつながっていることを感じあえるように、練習全体に一体感をもてるよう、特に配慮しています。また、仲間以外の周囲の人たちへも、演奏会の観客だけに終わらず、音楽活動を通して、日常的な行き来をもつことで嬉しさを分かちあう地域的な活動へと広がることも目指しています。具体的には、食事会や旅行なども活動の一部となっています。もちろん、これら人生の嬉びを生み出すのは団員自身に他なりません。

練習

 楽器選びや選曲、そして全体練習と個人練習などについての詳細は、次の機会に譲り、ここでは特徴ある場面をつないで書かせていただきます。

 まず、11年前の初顔合わせの話から始めます。親の会や学校で顔見知り程度の彼らは10代の後半に入っていました。団員の家で日曜日、私を囲んで円座に(こんなふうに集合できるのも学校教育の成果です)そこで、私は「海が好き。山も風も好き。歌も踊りも好きで…。」と話し出しました。ダウン症のK君が「ボ・ボクも好きです!」「何が好きなの」と私。首をかしげて目を丸くして「ワ・ワカリマセン」ニコニコ顔と真剣な表情が入り混じって、トンチンカンなところがあるにもかかわらず伝わって、話の海にみんなで乗り出していきました。そんな時、自閉症のT君がダッと風をおこして輪を立ち離れました。みんなは口を開けて見送り、「大丈夫よ」と私。みんなは「うん」という表情。ここで「どうしたの、みんなで話をしているのに…」とT君を咎めたり輪に引き戻す必要があるかどうか思案するところです。そこで大切なことは今後の長い人生を付き合っていく、「あいつはあんなところがあるけどいい奴だよ」という友人というものの許容範囲を考え、私も自然ななりゆきにまかせ彼の席は空いたまま話は進んで、私が「ねえ、楽器は何にしよう?」と切り出した時です。ドッドッドッ、ドスン。180cmの長身のT君が輪に戻ってきて「ボクは、アコーディオン弾きます!」みんなアーンと口開けて見とれ、それから何事もなかったかのようにうれし気にコクリコクリ。この時、私は楽しいハーモニーがやがてここから生まれてくると直感しました。

 楽器の選択もそうですが、練習の対象となる選曲についても、ある程度まで努力して、やっぱり無理だったというのは必要外の厳しい挫折感となります。ある程度の挫折は自己を知り次へつなげていけますが、ダメだから他にすりかえようというのでは意欲すら打ち消しかねません。選択の場面では、指導的役割にある私(たち)は、細心の注意を払っています。この点の詳しい記録等は省略しますが、知的障害のある人は、挫折感や焦燥感に対し決して鈍感ではありません。障害のない人との差はなく、ただその場で知的に表現したり他の機会にそれが影響していることが、私たちに分かりにくいだけなのです。

 そんな理由で、こちらの査定的判断と本人の希望の接点を見つける方向で、新しく手がける曲を選び出していきます。実際の場面ではみんなで聴き歌い踊りながら選んでいき、この“みんなで”という一体感の中に「一年かかっても仕上げよう」と思いたくなる程の楽しさに支えられた意欲が生まれてきます。

 選んだ曲を2ヵ月から6ヵ月位かけて、聴いて楽しんでいると、誰かが「楽器は?」と踊るのをやめて言ったり、そんな素振りを見せます。その時が個人練習の始まりです。一音一音拾うようにして数ヵ月をかけて、体に心に響く音を楽器に映していきます。

 個人練習は指導的仲間と1対1ですが、その合間に他のメンバーの進み具合を伝えます。メンバー同志が「ボクもはりきってる。みんなは頑張ってるかな。」と相互に気にかけあっているその気持ちを代弁するべく伝えていきます。

 「T君がね、K君の(練習が)進んでるかって言ってたよ。」と私。K君「ガンバルゾ…。」T君には「ガンバッテルって伝えといてって。」といった具合です。

 直接的会話の場面でも仲介や代弁はしばしば必要となります。言語ばかりでなくコミュニケーション全体に障害があるために、どういう気持ちでその言葉や言動をおこしたのか、その個々人の心理や物理的背景が分かりにくいものとなっていることがしばしばあります。それだけに、適切な代弁と説明は活動を深めるためには不可欠です。

 例えば、ある時、K君(ダウン症)がビジターに「洋子さんはちっともきれいにしません(化粧をしないという意)。なんとか言って下さい。」これを横で聞いていたY子さん(ダウン症)が怒り出し、K君に「ワルイ(洋子さんに)謝りなさい。」Y子さんはK君が私のことをきれいじゃないよと悪口を言ったと勘ちがいしたのでした。私は「ちがうのよK君は私をきれいにさせたくて言ったのよ。おこらないで誤解よ。」Y子さん「ゴカイ?ナニ?」私「悪くないのに悪いって勘ちがいすること。本当は悪くないの。」「あらっまっ、ご免なさい。(ウフフ)」めでたく仲直りです。誤解解きを重ねながら11年、現在はこの代弁はほとんど必要ないまでになり、代弁の効もさることながら、この意思の疎通の深さは、長い年月の音を重ねる日々がはぐくんだものと言えます。

 さて、個人練習がある程度進み、次に全体練習に取り組み始めますが、しばしば団員の誰かがうまく弾けず、私と悪戦苦闘するときがあります。他のメンバーは何十分もじーっと待って私とのやり取りに耳を傾け、「あっ、できたっ」と思ったとたんにピアノがドラムが鳴り出し音が重なっていきます。自分が上手になることを他のメンバーが本人よりも期待し、待ち、喜んでいくことの楽しさ。それはお互いがなくてはならないと実感させてくれます。音を重ねる日々は心を重ねる日々となっていきました。

演奏会と姉妹グループの誕生

 「あぶあぶあ」は、これまでに全国各地で80回近い演奏会を行っています。前述のような過程を経て団員たちの真に人生の楽しさを込めた演奏を受けとめ、聴いて下さる人々は歓びを倍にして返して下さいます。聴き手の中から飛び入りで踊り出す人、歌う人、ハーモニカをもってジョイントする人、肩を組んで笑む人、いよいよ音楽は弾むのです。まさに白熱したライブコンサートになっていく様子を文章ではお聴かせできないのが残念です。

 そんな彼らのコンサートがヒントになって、いくつかの姉妹グループが誕生しています。若いダウン症や自閉症の中・高生の人たちはオリジナルのミュージカルを創り始めました。扇舞やハンドベルのグループもあります。昨秋の「楽団あぶあぶあ10周年記念コンサート」には、それらのグループが一堂に再会してジョイントしました。つつがない青春に音楽は自己を表現し、人と人とをつなぐ大きな媒体として介在しています。

 さらに、「あぶあぶあ」の場合、活動資金を自分達の給金でまかなっていることは、一層働く意欲につながっていることを付け加えておきます。ただし、彼らはお金の高安の値打ちを定かにはつかめず、執着は全くありませんが。

 今後、彼らにも著しい老化が忍び寄ってくることになります。将来施設生活者になる人もあるかもしれませんが、状況は変わろうとも、音楽を軸にはぐくんだ友情を楽しみ、集って、お茶をいただき、話を弾ませながら、ずっと取り続けた杵づかで、音楽を楽しめていけたらと思います。

もうひとつの音楽活動

 障害をもつ人たちの音楽活動にも、障害をもたない人と同様に大きく2つの方向があります。「あぶあぶあ」のように“音楽のある暮らし”といった趣味的視点のもの。もうひとつが純粋な才能に恵まれた芸術志向の中での音楽です。

 今、私がかかわっている人の中には知的障害をもちつつも、その障害そのものが個性的芸術表現につながっている人たちがあります。例えば、ベートーベンが嵐の中にあって作った曲をあたかも嵐の中にあって演奏している自閉症の人のピアノを聴いているとそう思います。誤解を恐れずに申しますと、自閉症であることがピアノを弾く才能の一部になっていることが推察されます。また、既述の「創作ミュージカル」に取り組む30人のダウン症や自閉症の人たちの表現力にも表現者としての大いなる可能性を予感させます。

 今後、障害と才能の両方をとらえた芸術や文化の専門学校が障害をもつ人たちにも開かれていくことを望んでやみません。

終わりに

 人としての自立を考える時、いくつかの目安や要素がありますが、大切な要因のひとつとして「自分のしあわせを自らの意志と努力で生み出せるか」そして自分がしあわせだと感じ考える方法のひとつに、「自分のもっている力を人のしあわせのために使えるかどうか」ということがあるように思います。そういった意味で私の知る知的障害のある青年たちの音楽活動は、彼らの「人としての自立」につながっているものと確信できます。彼らの音楽活動全体は、自他を愛することから生まれている生きるあたたかさそのものといえます。そのあたたかさは何人の心の内にもあり、障害のあるなしにかかわらず、すべての人々が各々の人生を通して表現し続けているものに通じているのだと感じます。

 私自身は臨床心理学という立場から知的障害のある人たちの活動に専門的視野を有効に取り入れて、グループ育成に参加している側面をもっていますが、そういった方法でのかかわり方の意味の浅さを痛感いたします。人が人と出会う真実の前に知力はあまりに極貧なもののように思われます。

 「あぶあぶあ」の11年の活動を振り返れば、そこにはお互いの消えることも壊れることもない信頼があります。音楽好きの私にとって、たまたまその音楽仲間に知的障害があったにすぎないという味わい深い内なる実感を与えられていることは、感謝です。

*聖母被昇天学院女子短期大学


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1992年7月(第72号)19頁~24頁

menu