特集 第38回総合リハビリテーション研究大会 総合リハビリテーションの深化を求めて ―明日から一歩を踏みだそう― シンポジウム 当事者が主役となって働くための支援のあり方-総合リハビリテーションの視点から<

シンポジウム
当事者が主役となって働くための支援のあり方
-総合リハビリテーションの視点から

【座長】
原  和子(岐阜保健短期大学教授)
酒井 英夫(なごや障害者就業・生活支援センターセンター長)

【シンポジスト】
稲葉 政徳(岐阜保健短期大学講師,理学療法士)
松野 俊次(豊田市こども発達センター副センター長)
山田 昭義((社福)AJU自立の家専務理事)
伊藤 圭太(NPO法人ドリーム代表)および利用当事者(脳卒中後遺症)
港  美雪(愛知医療学院短期大学教授)

要旨

 働けない人はいない,ただ,働ける場あるいは環境がない。1980年以降の「ノーマライゼーション」やIL運動の高まりで,ADLが困難でも「例えば更衣に時間をかけるよりも,それを手伝ってもらって,仕事にエネルギーと時間を費やす」との理念から,当事者主体としての社会のあり方が問われている。ソーシャルインクルーシブのために,当事者の思いの尊重からつなげていくと一つの形にまとまるのではないか。

はじめに

1960年代,米国の研究では,就労とADL能力との相関が強く,ADL評価が職能評価の80%くらい重要視された。理由は公共の建物,交通機関などのバリアである。職業前評価内容はADL,一般職適,米国脳性まひ協会の資料の中のワークサンプルなどが使われた。1970年代,TOWER法やMODAPTS等,職能分析による技能評価が開発された。現在,Client centered「なることにおいてあること(being in becoming.クルクホルン)」,つまり存在(being)そのものに価値があるという立場(砂原茂一「リハビリテーション」,フランクル「死と愛―実存分析入門」)のように創造や体験価値のある作業(doing)を通して自己実現(becoming)に至る好循環,その中の実存(being)としての就労に向けたシンポジストの発言を概述する。

1. 「自分取扱説明書」作りで前進

稲葉 ここでは発達障害と言わず,未診断の人も含めていわゆるグレーゾーンの人たちのことを「発達凸凹(デコボコ)」と表現する。
生きづらさ:発達凸凹は見た目では分かりにくいが,生まれつき脳機能の偏りによる混乱がある。私は高卒後に就職,ミスを連発し転職の繰り返し,27歳のときリハビリ助手,31歳で養成校に入り,35歳でPT。40歳を過ぎて大学院へ進学。しかし,うつ病などで修士課程を4年かけて卒業した。45歳で発達障害と診断された。
解決のための取扱説明書,略して「取説」:私が45歳のときに受けたWAISでは言語性IQ 103,動作性IQ 84。「注意を焦点化すべきポイントの明確化が有効」とか,「素早く処理することの困難さが予想されるため,業務の明確化・単純化を図り,時に量の調節も必要」と,処理速度が遅く作業能率も非常に低い。そのため,メモは分かりやすく,ペンと色紙を使って図解して描く。電話対応では,途中,日本語が日本語に聞こえなくなることがあり,代わってもらう。聞いて話してメモをとるといった二重課題やマルチタスクはできない。書字では,速く書くとか板書を書くというのは苦手。
 この取説を作ることが自分自身を客観視する練習にもなるし,「私はサポートが必要です」というメッセージにもなる。仕事の依頼はメモなどで視覚化してほしい,これをやって矢印,次にこれをやって,と構造化してもらうと分かりやすい,といったメッセージになる。
 短大の研究室ではスケジュールなどメモをして,ホワイトボードに貼る。今日できなかったことを書き写してまた移動してみたいな感じで物忘れがなくなった。処理速度をチェックする大きな時計。重要な書類は,マグネットの板に貼り付け,整理整頓に心がけている。
支援のヒント,スローライフプラン:目標達成に時間がかかるが人間は発達している。周りの人達から見れば,発達の凸凹がある人の面倒を見るのは大変という意識があるが,サポートする方もされる方もお互いさま。不思議なことに助っ人を頼み,周りに迷惑をかけた人の方が仲間の人気もあり仕事の出来もよかったりする。こういう人は周りの誰かが困っているときには手伝おうかと手を貸す。ADHDの人ってこういうところによく気がつくと言われる。そして自然にあうんの呼吸の人間関係ができる。それが大局的には組織の大きな力になる。サポートされることで二次障害,特にうつ病などが予防され,自分の個性を生かすことができる。
質問 「発達障害に気づかない大人たち(星野)」という本に,米国などでは小学生の段階から薬物治療を行なっていて劇的な改善効果がある,第一選択肢だというような議論を展開されていますけれど,現状は?
稲葉 医学的な治療として,ストラテラ,コンサータ,リタリンだとかが使われてきているよう。私の主治医の先生は,服薬は二次障害に対してだけ。できれば発達障害の医療的な治療というものにあまり頼らなくてもいいのではないか。最近はPTもOTとはまたちょっと違った視点で発達性協調運動障害=DCDに対して介入している。薬物治療よりも私は,セロトニンを増やすために極力気持ちいいウォーキングを早朝にするなどで調整している。
松野 豊田のこども発達センターも薬はリタリンを使っていたけれども,今,コンサータのみ。対応でいい場合も,よくない場合もあり,その辺は慎重に対応。

2.就労に向けた地域で育つ児への支援

松野 センターの対象地域は豊田市と三好市の2市で,圏域人口が48万人。年間出生児数が大体5,000人弱。これに対して発達に心配がある,あるいは障害の子どもたちは大体1割,10%。センター組織に,診療所があり,毎年大体600人くらいずつ新しい患者さんが来所。ということは12%の約9割が発達障害の子どもたち。旧来の地域支援システムは,早期発見,診断,治療に結びつけ,療育をし,就労や社会参加に結びつけていった。発見する場所は,まず医療機関,それから保健所,1歳半検診で,さらに保育園・幼稚園・学校等。そこから専門医療機関につながり,医療センター,統合で当センターの方につないでいくという形だったが,発達障害系の子どもたちというのは特性が分かりにくいので,先に療育からスタートし,それから診断にと流れが変わっている。逆に言うと,診断をする前にきちっとした支援からというのが良い。
具体例:Y君,昭和52年生まれ,現在38歳の脳性麻痺,両松葉杖で歩行。3人兄弟の長男。5歳までコロニーで定期的に診察やリハビリ,地域での通所など。次に,リハビリ目的で入院。その後,つかまり立ち,伝い歩きと進み,独歩不可。知的には特に問題はなく,杖歩行は可。5歳の子どもが1人で入所ですから「寂しい,家に帰りたい」と言っていたこともあり,母親は,Y君だけ家から離れて家族がバラバラになるのはよくないと,小学校2年から5年まで家から養護学校に,さらに,地域の会話教室に参加してインテグレートを狙ったのですが,本人は嫌だと。もう一回手術が必要でしたので,小6から中1まで再度入院。養護学校高等部を出てから印刷会社に就職。脳性麻痺では知的に問題がなくても,目の動き等で問題が生じてくることがある。漢字がうまく追えないとか,漢字をきちんと変換したり書くことができないということで退職。その後,特例子会社に就職,車の免許を取得して通勤,結婚もして,今は地域の中で自由に生活している。
 今の悩みは,1型糖尿病になってしまったが,脳性麻痺のため治療としての運動ができないこと。ある程度の年齢になってくると,成人病やいつまで歩くことができるかが問題となる。
 次にK君,平成8年生まれ,19歳。脳性麻痺,電動車いす。市内で家族と生活,2人兄弟の弟。2歳11か月でリハビリ通園,3歳10か月で施設入園。5歳10か月で普通の私立保育園に入園。支援は事前の情報提供,入ってからの何回かの訪問,先生方との協議など。小学校も地域の学校を希望,入学前から学校教育委員会とコンタクトをとって学校訪問した。学校生活は最初,母,ボランティア,ヘルパーが必要だったが,その後,学級補助員制度ができた。普通中学校ではスキー合宿も体験,修学旅行もボランティアと参加。周りの人たちの連携の中で支援の輪が広がり,楽しい学校生活を送った。高校は自らの選択で豊田特別支援学校。通学はバスを利用し,今は就労移行事業所に電動車いすで通勤。通勤手段が難しく,最後の1~2年はそれを一生懸命トレーニングした。この後,サマリアハウスでいろいろ体験し自信をつけ,現在は就労移行事業所の方に通勤している。
ライフステージに沿った障害特性の理解と地域連携支援:関係各機関の親密な連携,総合リハビリテーションの視点で生活を支える。それぞれの機関が役割分担をし,相互理解と信頼関係,顔の見える関係作りが大切。
質問 学級でいじめ,勉強困難な問題など,かなり無理をして普通学級で頑張っている。支援の受け方,情報のアクセス,システムは?
松野 発達障害は,外から見て障害特性が見えにくく,同じような失敗を何回も繰り返すことによって自己評価も下がる。だから一つは,稲葉さんの言われる取説のように,特性を理解してうまく周りの人がフォローできるような体制づくりが必要。次に,凸凹の部分をどう埋めていくかという対応,そして支援者としては絶対に見捨てず,常に声かけができる関係性作りが欠かせない。

3.経済活動とリハビリテーション支援の共栄

山田 AJU自立の家の軌跡:1973年,福祉の街づくり運動の手始めに,バリアに対し持ち運びができる簡易トイレを作った。車いすの仲間たち30人ぐらいでキャンプ。台風が近づいてきて大雨の中だったけれども,無事に乗り切った。車いすで街に出ると「お前何しに来た」「バス?電車?あの階段をどう上がるのだ」等。その中で,勉強会がスタート。やはり仲間が集まると,働きたい,働く場所を作ろうという声。でも,通う手段がない。足も悪い。僕なんかは頸損ですので手も悪い。その我々に何ができるんだというと,そんなことよりも自分の城は自分でつくろう,施設はやめようという流れになった。
 1981年,国際障害者年,自立や働くことがテーマになった。そんな折,重い脳性麻痺者が仕事にありついたけれど3か月で挫折。手作業であることと1か月に得られる工賃は3,000円。これで働きがいを満たすことは不可能,辞めたいという言葉を伝えたら,両親も専門家も「それはわがままだ,みんな我慢して働いているのだから,お前だけそういう考え方は間違っている」と。名古屋の小規模作業所や授産所はどこも手作業しかなかった。これでは我々がこの社会の中で生きていく場がない。何かないかという議論の中で,コンピュータなら何とかなると。あちこちコンピュータ会社を回り,行き着いたところは,当時,(プログラミング)言語で,「COBOL(コボル)」。そのためには計算ができないといけない,簿記ができないといけないということで講座を開いた。20人の定員のところに60人を超える応募。抽選で30人に絞って,そこから簿記講座で毎週宿題を出し,落伍した人たちを10人くらいは落としていこうという段取りで準備をしたけれども,全員が毎週必ず宿題をやってきた。当時,まだNECの88という,プリンタとケーブルとコンピュータで1セット50万円。そういうのをある機関の援助で3セット入れ,工学部の学生にボランティアで教えてもらって,「わだち作業所」というのを作った。場所は,五反城教会の神父さんが貸してくれた。
 1990年,社会福祉法人AJU自立の家わだちコンピュータハウスを正式に立ち上げ。障害者の適性は管理職が理念。手作業で入力する仕事はもらってくるけど,アルバイトを使って我々はデータの管理,入力の依頼,そして入力のチェック,納品というような仕掛けを作った。実態調査の集計と分析というような仕事を見つけてきた。脳性麻痺で食事介助やトイレ介助が必要,移動の介助も必要で,左足の親指1本使える仲間が,コンピュータを使ってソフトを全部作り上げた。システム開発を全部彼が担ってやってくれた。
 次に取り組んだのはコンサルタント。愛知県には経済や労働のシンクタンクは山ほどあるけれども,福祉のシンクタンクがない。老人保健福祉計画が全国市町村で一斉スタート時,高齢福祉課に来てもらって大学の先生を招いて,各自治体に案内状を出して仕事した。平成7年に愛知県に,すべての人にやさしいまちづくり条例ができ,モデル地区の計画を作成した。その経験から,中部国際空港をつくるときには最初から計画に入り,業者としてユニバーサルデザインを手がけた。
 そして知的障害の人たち。家族がAJUに連れてきて何とか面倒を見てほしいと。当時は身体障害者福祉法,精神障害者福祉法,知的障害者福祉法と3つに分かれていて,我々は「関わることはできません」と言ったら,何でもいいからとにかく預かってほしいと,朝来て夕方帰って行く。でも,彼らと接することで,彼らの能力がとてもすばらしいものがある,何とかしなければいけないと思うようになった。そのとき,「多治見にあるカトリック教会の修道院のぶどう畑とワイナリーを世話する人がいなくなったからAJUで面倒を見てくれないか」との話。これぞ知的障害者の仕事になると確信し「無償で提供してください,そうしたら我々が世話をしてあげましょう」。教会は,今のままだと年間1,000万円近い赤字を抱えなければいけないのが,なくなるだけでも1,000万円得する。ところが,1.2ヘクタールの畑と小さな地下のワイナリーで,しかも機械化がほとんどできない狭いところでは限界がある。そこで新しく小牧ワイナリーを作った。これから10年後には,知的障害者でも15万円の工賃を目指そうという目標を持ってスタートした。さらに名古屋のソムリエ島さんの「ワインは教会で,修道院で進化してきた,だからあなた方は世界の修道院からワインを分けてもらってらっしゃい」との助言から,今,7か国8か所の修道院から直接分けてもらい,販売もしている。
障害者の就労の問題を作っているのは専門家:働くことについて,僕は障害があってもなくても区別がない,同じだろうと思うが,専門家の皆さんは「お前は身体障害だ」と分類したがる。あるいは,社会通念とか社会常識。皆と同じことができない,これからずれたものが障害者。はじき出される。それを一番端的に表しているのが知的障害者の世界。昔は知的の人は障害者ではなくて社会人として立派に生きることができた。農業は隣の人の,あるいは庄屋さんの田植えをやりなさいと言われれば田植えをすればいいし,稲刈りやるぞと言われれば稲刈りすればいいから,障害者という立場ではなかったはず。文化が進化することによって障害者になった。僕は今,知的の仲間と一緒に働いているけれども,一番重度の障害者は僕で,何もできないから。彼らは自分のことは自分でできるし,言われたことはそのようにする。ただ,応用,類推,判断せよと言われると大変厳しい。だからそれを一つずつ丁寧に細かく依頼をしていけば,間違いなくできる。一生懸命ということにおいては確実に懸命に手を抜かずに働く。ただ,残念ながら今年入った人に月に5,000円くらいしか工賃を出せないでいる。
 AJUは,130人ちょっとの職員のうちの34人は障害者。もっと増やしたいが,介護職など資格がなければダメと国から厳しい条件がつけられる。専門性,社会,常識が大きな壁。僕は何の資格も持っていません。持っているとしたら,57年間障害者をやってきた専門家であるという自負。
インクルーシブというのは,分け隔てのない社会:福祉的就労,特別雇用で国は2%の職員を雇いなさいということになるけど,僕らで言えば車いすに乗った健常者を雇おうとしている。それから,専門家は,僕が雇用されると2人分にカウントする。僕は1人。つまり,専門家が障害者を分類していく。懐の深い社会を作っていくには分類することをやめればいい。失敗してもいい,能力がなくてもいい,1人の人間として働くということが普通という社会であってほしい。
 わだちコンピュータハウスは,平成2年にスタートして平成8年に平均工賃は10万円を確保し,維持している。でも,維持している裏にはトリックがある。就労移行,継続支援A型,B型,生活介護…,障害をさらに分類したから。何でこんなことをしなければいけないのか。就労移行なんて悲惨。補助金消えたらクビ。最初からクビになることが分かっていて雇われる。事業所が儲かるだけ。今の日本の福祉はそういう仕組みになっている。
 国は豊かになり相談支援センターがいっぱいできた。でも,社会常識,障害の概念つまり社会が変わらなければ障害者の生活はまったく変わらない。僕は,その先頭に立って我々を区別してきたのは専門家であるというふうに認識している。

4.脳卒中障害者の生きがいづくり

伊藤 NPO法人ドリームでは,小規模作業所ドリーム伏見を運営するが,小規模作業所A型でもB型でもなく,喫茶店の運営,情報誌の発行,フェアトレード商品の販売,障害者自身が講師となって講演などを行う。障害体験を話し,もしくはリハビリ・看護の学校では,実際に麻痺足に生徒さんたちが触る模擬測定,検査測定のような授業そして教室。絵手紙,ビーズ教室,パソコン教室を開くなど全部で11種類の事業を展開している。
目標1 障害者が主体:例えば喫茶店。障害者がマスター,ママとして働く。できない部分,利き腕ではない片手1本で瓶やペットボトルのふたを開ける,ランチの準備をする際には片手1本でコロコロ転がるタマネギの処理など,これをボランティアや職員がやってしまえばすごく簡単だが,障害者自身でできるような工夫をする。
 この喫茶店では月に1回,全体会議で新メニューを考え,記憶障害のために注文を受けた商品をどのテーブルに運んでいいか分からなくなるなどの問題解決策を話し合って,運営に反映させる。喫茶店の過去3か月分の営業日数,売り上げ,何が何杯売れたのか,全部数字を公表している。
 私どもが行なっている教室の講師は脳卒中の障害者。障害者だからこそ,当事者の気持ちをくんだ指導ができ,先生としての仕事が生まれる。
目標2 社会貢献:喫茶店で使うコーヒー豆や紅茶はフェアトレード商品。さらに情報誌の発行。脳卒中で困っている家族,障害者に向けて,障害者自身で企画をし,取材をし,記事を書いてデザインもしている。
 自分の人生,生活を豊かにする支援として,街に出る恐怖や引きこもりなどの問題を同じ当事者同士,共有しながら解決していく。
北野:私は47歳のとき発症。病気になった途端,右半身麻痺で失語症。懸命にリハビリをし,車いすから自分の足で歩けるようになるまで3か月。しかし,失語症がひどく,初めのうちは全然しゃべれなかった。12年経った今でも,頭の中では分かっていても,言葉として出ないことがある。
 自宅に戻ってからも怖くて外に出られない。また,言葉がしゃべれないので,社会復帰ができるのかと常に不安。会社の仲間たちは1回お見舞いには来てくれたが,それ以降は一度もなし。ただ,大学生になってから始めたヨットの仲間は何回も来てくれ,今でも遊びに行く。そんな生活を送っていた2005年,ドリームで活動し,脳卒中の仲間ができて,少しずつしゃべれるようになった。ゆっくりでもいいから自分の力でやっていこうと思えるようになった。
 その後,会社に戻ろうと思って社長に相談に行った。すると,君の働ける場所はない,辞めてくれないかと言われてしまい目の前が真っ暗に。会社や仕事一筋で頑張ってきただけにショック。すると,ドリームから誘われて,障害者雇用として約6年働き,新たな人生の第一歩となった。
 老後の生活も家族との関係も変わり,今では妻と一緒に過ごせる。毎日のんびり散歩をする時間や,ゆっくりお風呂に入る時間を持つことができる。油絵や絵手紙にも取り組み,以前の私とはまったく違う趣味をし,充実した生活を送っている。辛いこともあったが,今の生き方が自分そのものだと思う。

5.「自分に合う働き方」を支援するーすべての「働きたい」を地域につなぐプロジェクト

 自分に合う働き方に焦点を当てることで,誰もが働くことができるという,その考え方と具体的実践を報告する。働くためには働く前に訓練する必要があるとする見方があるが,準備を優先することで,結果的に実際の仕事からご本人を遠のかせてしまうという側面がある。障害のある人は働けないのではと思わせてしまい,一般と分けて訓練するという発想につながった。その結果,多くの働きたい当事者をメインストリームから外の選択肢である,A型,B型,就労移行支援などの施設へ行くように仕向けてしまった。一般の市民とは別の物理的,社会的場所での練習や準備のため,一般の市民へは影響力が届かない支援方法である。
 この悪循環を断ち切るために,社会へ影響力を十分に届ける支援方法として,当事者が自分に合う働き方を選び,早く働きはじめる方法が岡山県の地域活動支援センターで実践された。対象者は精神障害があり,社会復帰に対して自信や目標の喪失や絶望感のある,体調不良を自覚する当事者らであった。このような状況の中,当事者と支援者が共に考え,仕事の選択肢を地域の中に増やしながら,自分の働きたい場所や仕事,時間を当事者は選び,働くようになった。働く前の準備よりも,現場で働きながら,困ることや必要なことを解決しながら働くことを実現した。働く経験を健康促進やご本人の変化につなげた。バスに乗れず,家から自分一人では通うことができないと考えられていた当事者が,まず自己選択に基づき働くことで,逆にバスに乗ってみようという気持ちになり,乗れるようになった。近隣の大学,企業,市立病院,社会福祉協議会などで働く選択肢をつくり,病院では入院高齢者のレクリエーションの手伝いや,車いすの掃除など,いろいろな仕事の選択肢が提供された。
 支援方法については,どのように生活時間の枠組みを決めるのか,自分の生活の身体的・精神的エネルギーのバランスについてを話題に,考える機会がつくられた。また,「もっとうまくできるようになりたい」,「自分に何ができるのかを知りたい」など,個々の目的意識や意味が重視された。さらに,課題達成のために課題分析表を使い,当事者が実際に困ったことを取り上げ解決した。ホワイトボードの時間枠に,磁石で自分の仕事を入れていくという方法によって自己選択できるよう支援された。
 本取り組みの結果,支援者の考えは「働くことは無理」から「みんな働ける」へと変化した。仕事の選択肢が増え,交通費への助成がなされるようになった。岡山では,就業・生活支援センターなどと連携して雇用支援につなぐことが課題として残ったが,愛知県では,プロジェクトの開始時より,就業・生活支援センターとの連携により,一般の働く場所での雇用支援が計画され,まもなく開始される。合理的配慮の義務化がはじまるが,ご本人が働きながら必要とする配慮を具体化し,その情報を地域で共有し,選択肢の創造とともに雇用支援につなげていくことが愛知県でのプロジェクトの目標である。

(文責:原 和子)


主題・副題:リハビリテーション研究 第166号

掲載雑誌名:ノーマライゼーション・障害者の福祉増刊「リハビリテーション研究 第166号」

発行者・出版社:公益財団法人 日本障害者リハビリテーション協会

巻数・頁数:第45巻第4号(通巻166号) 48頁

発行月日:2016年3月1日

文献に関する問い合わせ:
公益財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
〒162-0052 東京都新宿区戸山1-22-1
電話:03-5273-0601 FAX:03-5273-1523

menu