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*「国際障害者年日本推進協議会編.完全参加と平等をめざして―国際障害者年のあゆみ―.第一部 国際障害者年と国際障害者年日本推進協議会.日本障害者リハビリテーション協会,1983.3,p.3-p.22.」より転載しました。

完全参加と平等をめざして
―国際障害者年のあゆみ―

国際障害者年日本推進協議会編

第一部 国際障害者年と国際障害者年日本推進協議会

第1章/国際障害者年の思想と意義

Ⅰ 全体的立場から

国際障害者年日本推進協議会 代表 太宰博邦

国際障害者年日本推進協議会
代表 太宰 博邦

 国連が国際障害者年(IYDP)を決議・提唱するに当たって、障害者自らの行動をIYDP諸活動の中心に位置づけ、その主体的な役割を期待していることは明らかである。
 第1に、日本では一口に国際障害者年と言っているが、当初「障害者のための国際年」 (International Year for Disabled Person)とあったのを、最終的には「障害者による国際年」(International Year of Disabled Persons)と変更したことである。これは、明らかに障害者自身がIYDPの主役であることを期待しているものと思われる。
 そして、テーマが「完全参加と平等」である。国連によれば、完全参加とは「障害者がそれぞれの住んでいる社会において、社会生活と社会の発展における全面的参加」を意味すると言う。これまた、障害者の積極的行動を促していることは明らかである。
 また、国連のIYDP行動計画の中において「IYDP重要目的の一つは、障害者が彼らの考えを効果的に表明し、また政策形成機関の仕事や社会一般の管理運営に活発に参加する権利を確保しうるように、彼らが自らを組織することを支援することである」とし、さらにまた、「国連は、障害者が、IYDP活動への参加を確実にするため、全世界にわたって自らを組織することを奨励すべきである」としている。
 以上によって、IYDPに際し、国連が何を意図しているかは明瞭だと思う。
 しからば、一体国連は障害者をどう定義しているのであろうか。行動計画において「障害者はその社会の他の者と異なったニーズをもつ特別の集団と考えられるべきではなく、その通常の人間的なニーズを充たすのに、特別の困難をもつ普通の市民と考えられるべきなのである」としている。すなわち、障害者も一個の普通の市民である、そして他の人と同様に、地域において生活したい、街にも出たい、働きたい、映画も見たい等々、そのニーズはなんら他の市民と異なるところがない。ただ、それを健常者のように容易に充たすことが困難なだけなのである。一個の人格者であることにおいては、なんら他の市民と異なるところはない。それをもし、社会が特別な集団と考え、一般市民と差別するようなことがあったならば、その社会は、果たして国連憲章の言うような基本的自由、平和、人間の尊厳、社会的正義に立脚した近代社会と言えるであろうか。「ある社会が、その構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、それは弱くもろい社会なのである」との言葉は高い理念であり、われわれの深く共鳴するところである。
 しかしながら、現実の世の中は、遺憾ながら、障害者にとって住みよい社会ではない。街に出たくとも、いかにして出られようか、働きたくとも、いかにして就労の途を求めえられようか、世の中のできごとを知りたくとも、いかにして情報を手にすることができようか、等々、障害者にとっては、決して生きがいのある生活を送れる社会ではない。国連の掲げる理念とこの現実との差、これを解消するすべをすべての国民が一緒になって考える場が、すなわちIYDPではなかろうか。
 もとより、このような国連の理念が一朝一夕に具体化されることは不可能であろう。そのために長い歳月を必要とするであろうことは当然予想される。さればこそ、国連も1991年までの10か年の長期行動計画を策定し、逐次具体化していくよう、国家計画の準備を求めているのである。
 われわれは、IYDPの趣旨を以上のように受けとめている。そして、IYDPこそ障害者にとって長い間待望していた、実に二度と得難い貴重な機会として、この年を障害者問題解決の契機とすることを決意したのである。すなわち、IYDPに対するわれわれの基本的認識は、およそ次のとおりである。
 第1に、我が国には、今なお障害者の社会参加と平等を阻むいわれなき障壁が幾多もあり、そのために、障害者が社会に参加したくとも参加できないという、不当な現実を認識する必要がある。
 第2に、IYDPは長い間の障害者の願望を実現する機会であるから、この機を無為に過ごすようなことがあっては、将来取り返しのつかないことになることを認識しなければならない。
 第3に、IYDPを実りあるものにするためには、障害者としては、座して政府その他公の施策に任せるような心構えであってはならない。むしろ、われわれこそがその主役でなければならぬとの覚悟が必要である。
 最後に、IYDPは1年限りに終わらせてはならない。この1年間は各種の行事が華々しく行われたが、それはそれなりの意義はあったとしても、本番はこれからの長年月の行動にこそあるのであって、IYDPは、まさにそのスタートにすぎないのである。
 以上が、われわれのIYDPに対する基本認識である。
 この1年間、われわれは徒手空拳ながら各種の行事を実施してきた。国民会議も開催した。長期行動計画も策定した、情報の提供にも努めた、福祉映画祭や子供の集いもやった、国際交流として、アジア・リハビリテーション中堅指導者の研修、障害者のヨーロッパ派遣もやった、等々である。しかし、何と言っても、最大の成果はわれわれ独自のIYDP長期行動計画の策定であり、史上初めての全障害者を網羅した国民会議の開催であったと言えよう。
 まず長期行動計画であるが、これは、これからのわれわれの長期にわたる行動の共通の基盤としてまとめ上げたものであって、昨年のプレ国民会議を発端として、加盟各団体の代表委員等の討議による1年近くもの労苦の成果である。110余団体の、それこそ多種多様の要望を、とにもかくにも一本の行動計画にまとめ上げることができたことは、我が国障害者運動史上まことに画期的なできごとと言ってよかろう。同時に、いかに苦心の作であっても、この行動計画は、それを策定することに意義があるのでは毛頭ない。前述したように、これを共通の基盤として、各団体がその上に独自のものを付け加え多彩な行動に具現化されてこそ、この行動計画が生きてくるのである。
 IYDP記念国民会議は、11月28日・29日の2日間にわたり東京で開催された。この会議は、国際障害者年推進全日本身体障害者団体連合協議会等との共催であって、全日本の障害者および関係専門団体等を網羅して開催されたものであって、これまた、障害者運動史上初めての快挙であった。
 この国民会議は、本来1年間のわれわれの諸活動の総括であるとともに、今後の長期間にわたるわれわれの行動への不退転の決意の確認であり、天下に対する表明でもある。
 われわれは、この機会に政府に対して要求する。政府はIYDPを契機として、今までの障害者施策の見直しを行い、医療・教育・職業・福祉・生活環境等の各分野にわたり、総合的な長期計画を策定して、十分なる財政的裏付けのもとに、その具現化を強力に推し進めてもらいたい。
 次に、社会に対して要望する。障害者に対する正しい理解の普及・徹底である。旧来の非近代的な意識による、あるいはまた、障害というものに対する無知に基づく偏見・差別は、もはや今日においては、その存在を許されないものと断言する。速やかに、かかる古き観念は払拭されなければならない。ただ、問題が人間の心情の問題であるだけに、払拭と口では簡単に言っても、いざ実行となると容易ではない。あらゆる方法、あらゆる機会を利用して、しかも、粘り強く行うことが肝心であろう。この場合、間違いなく言えることは、障害者との交流を盛んにすることである。ふれあいの体験を通して障害者の痛みを分かち合い、お互い対等の人間として、共感し合える関係をつくり出すことは、偏見・差別の払拭に最も有効であり、絶対に必要なことであろうと思う。
 われわれは、障害者に対しても激励したいと思う。確かに、現在の社会が健常者中心につくられていて、障害者にとっては社会参加の途が閉ざされており、処遇も決して平等でないことは事実であろう。
 しかし、これを是正するためには、IYDPの趣旨がそうであるように、障害者自らが積極的に行動を起こす意欲をもたねばなるまい。自らの障害にくじけず、残された機能をフルに発揮して強く生きぬくことによって、社会の一員としての存在を明らかにしなければならない。それでこそ、IYDPが障害者による国際年となりうるのである。国民会議のアピールにも、「IYDPの第一歩とすることができるかどうかは、まさにわれわれ自身の主体的努力いかんにかかっている」としているのである。
 以上、私なりにIYDPの趣旨を述べた。われわれの行く道は遠い。それを覚悟のうえで歩み出した以上、どんなことがあっても歩みを止めてはならない。ひたすら前進するのみである。果たして1991年までにゴールに辿りつけるか否か。辿りつけなければ辿りつくまで、さらに歩み続けるのみである。

Ⅱ 障害者の立場から

国際障害者日本推進協議会 副代表 花田春兆

国際障害者年日本推進協議会
副代表 花田 春兆

 国際障害者年の1年が終わろうとしている。と、特に1年と入れたのは、365日の1年という意味とともに、10年のうちの1年という意味を込めたいからなのだが、そこまで読みとらせるのは無理に違いない。そこまで読みとることを無理にしている情況が、どうやら作られてしまっていると思われるからである。
 障害者のための国際年から、障害者の国際年と国連での表現が変えられたのを知った私たち障害者は、障害者年の思想と意義はそこにこそある、と大きくうなずいたのである。大げさに言うならば、色めきたったのである。
 我が国の障害者施策というか、対策のすべては、医者とか教師を中心とする関係者と一部の親たちによって進められてきた。そうした現状については、近年とみに「当事者不在」を指摘しての不満の声が響きはじめていた。いくら親であっても、成人した子どもの完全な代弁者とはなり得ない。親と子の希望とか思考は、必ずしも一致しない。ときには正反対ともなり、対立せねばならぬことすら生じてくる。関係者との間も同じである。第三者的な学識経験が、現実に生きている本人たちの実際の感情なり生き方なりと、よりよくマッチしているとは限らない。
 障害者対策にはもっと当事者である障害者自身の声が反映されねばならないし、ひいては主導性を持てるまでにならねばならない。こうした声なり運動なりは、なにも日本だけのものではない。80年6月カナダでの国際障害者リハビリテーション協会世界会議から、81年11月シンガポールでのDPI(障害者インターナショナル)結成大会への盛り上がりは、そうした趨勢が世界各国共通のものであることを、さまざまと示しているのだ、と断言してもよかろう。
 だから、のためのからへと変更された表現とか「完全参加」をテーマにした国連の精神に、どうせ政府やマスコミのお祭り騒ぎで頭の上を過ぎていくだけに終わるのさ、とは思いながらも、期待をかけたのも否めないことだった。事実、IYDP(国際障害者年)への取り組みは、政府や推進協の始動よりも、車いす市民集会や障害連その他の有志らによるミーティングの方が早かったのである。
 そして、IYDPの国内委員会に当たる中央心身障害者対策協議会の特別委員会をはじめとして、一応の当事者参加の形態は整えられたのである。国連の手前やむなく、ではあったにしても、これは明らかに一歩前進のきっかけとなったはずのものだった。
 推進協にしても同じである。障害面からみても難病を含めての各種障害別団体、性格的にみてもそれこそ右から左までの障害者団体が、親の会や関係者団体、いわゆる学識経験者たちと、ともかく同じテーブルにつき、国民会議を成功させ、長期行動計画をまとめ上げたのである。このことだけでも、IYDPの意義はあった、とも言えるであろう。
 そして、たとえ表面的であったにしても、マスコミのIYDPに対する協力ぶりはこちらが舌を巻くほどに、見事なものであった。それだけではなく、町づくり運動もあずかって力あった結果だろうが、近ごろ町で接する人びとの動きの中に、何か新しいものが生まれつつある兆候を感じることがある。このままに育ってほしいものなのである。
 しかし、こうした望ましい面ばかりでなく、1年が過ぎようとしている現在、陰に陽に三つの「やっぱり……」ということばが耳に入ってくる。どうにも気の重くなる“やっぱり”なのである。
 その一つは、やっぱりお祭り騒ぎで終わるんじゃないか、という「やっぱり」である。
 IYDPの行事とか話題の華やかさに比べて、障害者一人ひとりの実際の生活はどう変わったのか。何も変わりはしない。障害福祉年金は依然として、国民年金より低額におさえられていて、生活を支える所得保障とはなり得ていない。生活環境にしてもそうである。特に交通機関においては、国鉄・私鉄・都市交通のほとんどすべてが、障害者を事実上オフリミットにしたままではないか。それどころか、福祉よりも軍備を優先させようとする勢力は、いよいよ憶面もなく姿を見せはじめている。新しい障害者を人為的に大量につくる危険のある方向へ進むことが、まず予防 を目標として掲げるIYDPの理念と共存するはずは断じてないのである。その点でも日本のIYDPは単なるお祭りと評価されても仕方ないのだ。
 二つ目は、やっぱり障害者は駄目なんじゃないか、という「やっぱり」である。理想論や自己主張に終始してしまって、実際にやることはやらず、他人の意見を聞き全体をまとめる努めを果たしていない、との批判だ。
 完全参加は当然責任への参加をも意味してくる。今までのように言い放しではすまなくなっているのはわかる。だが、今までそうした場での発言の機会に恵まれていなかったのだ。気負いが出てことばが激しくなっても不思議ではない。それに障害者の中でも運動の先頭にたつ人びとである。現体制を守ろうとする側からみれば、思いもよらぬラジカルととられても仕方ない。これは障害者だから、という評価ではなく、思想の問題なのだ。
 三つ目は、やっぱり結局は当局や関係者に牛耳られているじゃないか、という「やっぱり」である。中央心身障害者対策協議会はもちろん、推進協についてもそうしたささやきが存在していることも知らぬではない。そのことについて書くスペースはもうないが、障害者側にも人材不足、いることはいても出てこないという原因がある。先入観でテーブルにつくことを拒んでしまえば、そこからは何も生まれない。
 ともかく、二つ目と三つ目の「やっぱり」は、そう早く結論を出すことではあるまいと思う。これも長期行動計画でいいではないか。

Ⅲ 親の立場から

国際障害者年日本推進協議会 副代表 仲野好雄

国際障害者年日本推進協議会
副代表 仲野 好雄

 非常な期待をもって迎えた、千載一遇ともいうべき国際障害者年は早くも終わりを迎えた。前年のプレ国民会議のための準備と実施、国際障害者年のための予算の獲得、今年1年間の各種行事、とくに国民会議および国際障害者年特別委員としての長期行動計画の作成、さらに57年度予算の獲得運動等、努力の跡を顧みるとき、感慨無量のものがある。  国際障害者年のテーマである「完全参加と平等」は、心身障害者対策基本法の「尊厳にふさわしい処遇の保障確立」と同思想・同意義のものと考えられる。
 われわれは、この世に生をうけてから死ぬまで、常に障害と隣り合わせて生きているようなものであり、この社会は、障害と隣り合わせている人々の集団であるとも言えよう。どんな人にとっても、障害とは個人限りの事柄ではありえず、社会が深くかかわりあっているのであるのに、社会一般の人々の障害ある人々への関心は決して強いとは言えない。障害者を当然に包み込んでいくのが正常な社会であり、社会福祉のより望ましい姿であり、そのことは、最近はノーマライゼーションという言葉で表現されている。
 対策のあり方においても、単なる社会福祉面だけではなく、医療・保健・教育・住宅・労働・交通・生活環境等社会のあらゆる面において、中央における縦割行政の弊を地域において是正する総合的な施策や体制づくりが行われ、それを具体化する「福祉圏(エーリア)構想」が大きくクローズアップされたことは、大きな収穫であり、障害者福祉への新たなる出発点とも見られ、今後の発想が期待されるものである。
 ひるがえって、親とくに精神薄弱者の親の立場から「完全参加と平等」のテーマを眺めると非常にむずかしく、ことに社会参加以前、実は家庭参加こそが大問題なのである。
 恥ずかしい、隠したい、困ったという子の存在が家庭参加への大きな障害なのである。その主因は障害の原因不明等からくる、大部分が遺伝・不治永患ではないかという偏見・誤解であり、その解明こそが問題解決の鍵なのである。
 世の親たちは、少しでも障害を軽減しようと、八方手をつくして努力するなかで、わが子の幸せを求め合う親たちを中心に親の会をつくり、それに入会し、それとともに、わが子と同様に人の子の幸せをも考えて努力するようになる。そして、そのなかで、いつしか、この子を授かったが故に人間としての幅を広め、深味を増し、人間性を高め、生きがいをもつようになり、さらに、いつしか、この子に感謝し、この子こそわが家の宝であり、光とまで感ずる家庭が増えてくる。
 それに伴って、親の会運動は光彩を放ちはじめ、そこから、温かく、思いやりがあり、明るく協力的な地域社会が発展し、その国全体への拡大は、人としての尊厳にふさわしい処遇が保障される、福祉国家建設という大理想実現の基盤を形成しつつあるのである。
 今一つの問題は、人間の価値観の問題である。人間の価値を能力主義的、とくに知能万能的に見る傾向から、障害者、とくに知能的・精神的障害者を無能力者だと劣等視することである。とくに知恵遅れの人は、知恵こそ遅れているが、情はこまやか、意志は強固で、人間としての総合的価値としてはすばらしい存在なのである。
 完全参加と平等、尊厳にふさわしい処遇の保障という私たちの運動は、実は、封建制度から今日までの、長い長い強者優先の競争社会を、弱者といわれる人々とも手をつないで共に生きる、共存共栄の社会に変えようとするものである。それは、「人間として対等だ」という原理を実現する、社会改造の原動力の役割と使命をもった運動とも言うべきものであり、日本の長い歴史のなかで一番欠けていたものを、私たちの手によって実行しているのだとの誇りと勇気を感ずるのである。そして、同じ悩みのなかで結びついていこうとする、1本のパイプを通ずることによって、連帯は一段と強化されてきたのである。
 私たちの運動の原点は障害者であり、自らの意志を発表できない障害者の親であり、その基盤は地域である。後者の場合、親こそ最良の教師・医師であるべきだということをめざしながら、地域社会の原点である良い家庭づくりに成功することの大切さを自ら教わったものである。
 次に、障害の治療・軽減と健康の維持・増進である。不治永患と考えられていた障害も、医学とくにリハビリテーションの発展により、治療・軽減、さらに予防すらも可能になりつつある。なかんずく、基礎医学研究の発達により、従来不明とされていた原因が究明され、予防と原因治療が可能となる時代も遠くはないと予想されるに至ったのである。
 たとえ障害は残っても、健康で働く意欲があり、訓練に時間をかけさえすれば、立派に社会参加の可能性はあるのである。この意味において、プライマリー・ヘルス・ケアは、障害者にとってこそ重要であることを知ったのである。
 最後に、2年間にわたる、110数団体の障害の異なる方々との運動により、お互いの視野が開かれ、今後の運動の持ち方、進め方について、いろいろ勉強させられたことは大きな収穫であった。それと同時に、各種障害者間にわだかまる偏見・差別観がいかに大きいものであるかということ、施策の面においても障害者間に大きな格差のあることも知ることができた。
 障害者相互の偏見・差別観を除かずして、完全参加と平等など、とうていありえないのである。これの払拭こそが第一義的なものと言えよう。そして、施策間の格差是正については、進んだものの足踏みではなく、遅れたものの短期間での飛躍の努力こそ必要であり、先進者の指導と協力が必要であることを痛感した次第である。
 これからこそが、障害者福祉への新たな出発と言えるのではないかと思う。

Ⅳ 運動体の立場から

国際障害者日本推進協議会 副代表 矢島 せい子

国際障害者年日本推進協議会
副代表 矢島 せい子

(1) 人権を守る運動からの出発
 運動体の立場から国際障害者年について語るとき、その成立以前の歴史的な経過や背景を除外することは不可能である。すなわち、1948年の第3回国連総会は「世界人権宣言」を採択したが、これは第2次世界大戦のあと、世界各国が、戦争が侵略と抑圧によって、人間の権利を奪いとってきた歴史の反省の上に立って、人類が再び過ちを繰り返さないために、戦争を許さないという決意をこめて、この宣言を採択したと言う。
 「世界人権宣言」の第1条には「すべての人間は生まれながらに自由であり、尊厳と権利において平等である。人間は理性と良心とを授けられており、同胞の精神をもって互いに行動し合わなければならない」と書かれている。この世界人権宣言第1条こそ。世界の障害児・者問題に対しての、新しい考えの方向を示すものとされ、その方法は直ちに具体化されなかったものの、国際的に障害児・者の人権保障への道へつながる出発点になったのである。そしてさらに、国際人権規約(1966年採択、1976年発効)も、人権を守る運動の基本的なよりどころとなっていることを忘れてはならないであろう。
(2) 国際障害者年への道程
 人間らしく生きたいと願う全世界の障害児・者のために、生きがいのある社会を築こうという趣旨の国際障害者年を1981年と決定するまでに、国連という国際的な政治の舞台で、障害者問題が共同課題となるには、かなりの時間を経過している。その間に、世界の障害者自身、ならびに父母や、民主団体や、障害者運動を進める諸団体は、たゆまぬ運動を進めていた。
 やがて国連は、1971年には「精神薄弱者の権利宣言」を、1975年には「障害者の権利宣言」を採択することによって、障害者の権利に関しての世界的な合意を、広く社会に示したのである。
 また、民間団体でも、たとえば国際障害者リハビリテーション協会は、1970年に「リハビリテーションの10年」という決議を採択し、世界ろうあ連盟も、1971年の世界ろうあ者大会の評議会で「聴力障害者の権利宣言」を採択している。さらに、国連にはさまざまな委員会があり、また、WHO(世界保健機関)やUNESCO(国際教育科学文化機関)、ILO(国際労働機関)など、付属の専門機関があって、調査・研究を重ねている。その成果が、一方では国際的な理解や合意への道を開拓していて、障害者の権利保障に関する重要な内容となっていることも見逃せない。
 先に述べた、1971年の「精神薄弱者権利宣言」や、1975年に採択された「障害者の権利宣言」は、重要な内容をもつもので、特に全障害者を対象とした「障害者の権利宣言」はIYDPの思想の根幹を形成するものと考えられる。このように、国連や民間団体の努力の積み重ねが背景になって、完全参加と平等をテーマとした、「国際障害者年行動計画」は誕生したのである。
(3) IYDP日本推進協議会設立の意義
 やがて我が国でも国連の決議に従い、1980年3月、国際障害者年推進本部が政府内に設置され、国際障害者年特別委員会の長期行動計画策定の審議も始まった。そして、政府の活動に平行して国際障害者年の運動を進めるには、政府だけでなく、民間団体の活動に期待するという国連の要請に応じて、民間の障害者および親の団体、関係団体、専門団体など、全国レベルの諸団体が結集して「国際障害者年日本推進協議会」が発足した。
 IYDP日本推進協議会は政治的、宗教的には中立を保ち、「IYDPの趣旨にのっとり、完全参加と平等の実現をめざして、国内外の有機的関連のもとに、我が国における民間諸活動を展開する」と会報に示している。
 運動体の立場から言って、日本推進協議会設立の意義は大きい。戦後の障害者運動のなかで、障害者と家族、主だった中央組織の団体が、障害の種類や要求の違いを乗り越えて、一つのテーブルについて協議し行動するのは、我が国では初めてのことである。日本推進協議会は、障害者年を起点として、国連の要請する今後10年を展望する活動として、これまで400項目にわたる各団体の要求をまとめ、国の予算に対する要望書を各省庁に提出し、国内行動計画作成のためのプロジェクトチームを設置・検討し、1981年11月に「国際障害者年長期行動計画」を策定し、これを施策の方向として、政府に提言するなど、IYDPの思想の実現を図るために活動を続けてい る。
(4) 将来に向けて
 人権運動に端を発したIYDPの思想や意義を探り、改めて日本の障害者の現状を考えるとき、完全参加と平等にはほど遠い現実に胸が痛む。近年、世界の諸国に比べて、非常に高い経済発展を遂げた豊かな国と言われながら、我が国の社会福祉、社会保障は、以前に比べて幾分の進展はあるにせよ、欧米先進国に比べて依然低く、障害者福祉関係が立ち遅れていることは事実である。しかも最近、経済再建への政府の方針のなかに、最も弱い立場にある我が国の400万人の障害者と、その家族の生死にかかわる福祉予算の切り捨てが、軍事予算優先の名の下に、実現される危険性をはらんでいると聞く。
 これは、人間の尊厳、人権尊重という国際障害者年の思想とは全く相反するものであり、ぜひとも、政府は、国際障害者年に関する所信表明をよりどころとして、障害者が一人の市民として生活できる条件を整え、同世代の国民と同じように暮らし、社会へ参加できる方向へと、政策を進めてほしいと思う。とくに、戦争および暴力は障害者の敵である。
 私たち運動にかかわる者は、10年後の行動計画を目標とするなかで、幅広い国民の理解と協力を求めながら、障害者運動は平和運動であるという国連の思想を、地域で具体的に生活のなかへとり入れながら、人間らしく生きたいという障害者の願いを実現していきたい。

第2章/国際障害者年日本推進協議会の発足

Ⅰ 国際障害者年の経緯

 国際障害者年に関する諸文献にも述べられているように、国際連合が1981年(昭和56年)を国際障害者年とすることを全会一致で決議したのは1976年(昭和51年)の第31回総会であった。その後、特別の委員会を設けてこの国際年における行動計画の検討を続け、1979年(昭和54年)の第34回総会において「国際障害者年行動計画」(本誌第六部資料編を参照)を採択した。
 国際連合総会の決議では、国際障害者年のテーマを障害をもつ人の社会への「完全参加と平等」とし、同年の目的を下記の五つに決めたのである。
 ①障害者が身体的にも精神的にも社会に適応することができるように援助すること。
 ②障害者に適切な援助、訓練、医療及び指導を行うことによって、適切な仕事につき、社会生活に十分に参加することができるようにすること。
 ③障害者が社会生活に実際に参加できるように、公共建築物や交通機関を利用しやすくするための調査研究計画を推進すること。
 ④障害者が経済的、社会的及び政治的活動に参加する権利を有することについて、一般国民を啓発すること。
 ⑤障害の発生の防止及びリハビリテーションのための対策を推進すること。
 以上のテーマを目的と掲げて、全世界で4億5千万人いると推定されている心身に障害のある人々のためにさまざまな行動をとることになったのである。
 国際連合はその憲章で、人権、基本的自由、平和の原則、人間の尊厳及び価値並びに社会正義の促進を宣言しているが、世界人権宣言、〈1948年(昭和23年)第3回総会〉では、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、人として尊ばれ、諸権利を有し、平等である」と述べている。
 人権に関する基本理念を明らかにしてきた国際連合における障害者に関する検討は、1950年(昭和25年)の第11回経済社会理事会の決議「身体障害者の社会リハビリテーション」に始まっている。同決議及び1953年(昭和28年)の第8回社会委員会の「障害者のリハビリテーションに関する決議」を受けて。1965年(昭和40年)の経済社会理事会では、「障害者のリハビリテーションに関する決議」が採択された。
 その間、1955年(昭和30年)には、国際労働機関(ILO)が「障害者の職業リハビリテーションに関する勧告99号」を、また国際連合教育科学文化機関(UNESCO)が1964年(昭和39年)に「障害者の教育に関する決議」をそれぞれ行っている。さらに、1969年(昭和44年)の第24回総会において採択された、「社会の進歩と開発に関する宣言」は、障害者福祉と権利の擁護を宣言している。この宣言を受けて、社会開発委員会は「精神薄弱者の権利宣言」(本誌第六部資料編参照)を審議し、1971年(昭和46年)の第26回総会において同宣言が採択された。そして、これら長年にわたる審議の結果、1975年(昭和50年)の第30回国際連合総会では、日本を含む34か国の共同提案により「障害者の権利宣言」(本誌第六部資料編を参照)が決議され、障害者の基本的人権と障害者問題に関する指針を世界に示した。「障害者の権利宣言」では、「障害者(disabled person)」を次のように定義している。「『障害者』という言葉は、先天的か否かにかかわらず、身体的または精神的能力の不全のために、普通の個人生活または社会生活に必要なことを、自分自身で完全にまたは部分的に行うことができない人のことを意味する」と。従来さまざまに使われてきた「障害者」をdisabled person(能力不全のある“人”)とし、the handicapped(社会的に不利な“者”)とは明確に区別する国際障害者年の原則を示しているものであり、このことは、「国際障害者年行動計画」の中でも、「個人の特質である『身体的・精神的不全(impairment)』と、それによって引き起こされる機能的な支障である『障害(能力不全)(disability)』と、能力不全の社会的な結果である『不利(handicap)』の間には区別がある……」と明記している。
 この「障害者の権利宣言」後の世界各国における実施に関する報告等において、この宣言の認識が不徹底であること、またそのための国際行動が必要であることが指摘された。また先進国において障害者の社会統合やリハビリテーションの進歩と、それらについて各国間の格差の拡大が顕著化してきたことに加え、国際婦人年1975年(昭和50年)、国際児童年1979年(昭和54年)が実施された経過から1981年(昭和56年)を国際障害者年とする決議に至ったのである。

国際連合のポスター

Ⅱ 我が国の対応―日本推進協議会の発足

1.1978~79(昭和53年~54年)

 国際連合が1981年(昭和56年)を国際障害者年と決議したこと、その目的など詳細な動きを伝えた我が国における最初のリハビリテーション関係刊行物は、「国際リハビリテーションニュース第31号」(昭和53年3月30日、日本障害者リハビリテーション協会発行)であったと思われる。同紙は配布対象がきわめて限定されていたので、広く関係者の間での話題にはのぼらなかったようであるが、同紙上で逐号国際障害者年に関する記事が取り上げられている。
 越えて、1979年(昭和54年)に入って、初めてこの国際年について理解し活動を展開しようという話し合いが、数人の有志の間で、日本障害者リハビリテーション協会内で持たれた。同年8月13日のことであった。
 当時の記録をみると、1981年は国際障害者年であるが、わが国の「障害者リハビリテーション、社会保障政策、福祉対策では先進国に比べ」相当に遅れていると考えられる現状から、この年を「総合的な障害者対策を立案、推進するのにまたとないチャンス」とするべきではないか。しかし「障害者運動、専門家の協力体制、行政の認識には統一性もなくバラバラで」あるので、「リーダーシップないしは調整力が必要」であろうが、「障害者団体、グループ、関係団体、関係者の中には協力する準備はかなりあると考えられるが、言い出す人はいない」ことから、日本障害者リハビリテーション協会への期待は高いということであった。
 では一体だれが、どんな形で、いかに取り組みを進めていくのか、資金はどうするのか、事務局はどこに設置するのか――難問は山積していたが、国際障害者年へのアプローチを進めるために有志の範囲を広げて具体的に話し合いを持とうということになり、8月20日、第1回の「国際障害者年についての有志懇談会(*)」が日本倶楽部(千代田区日比谷)で開かれた。太宰博邦日本障害者リハビリテーション協会長が主宰し、事務処理は同協会が行った。
 懇談会では、1979年(昭和54年)3月の国際連合「国際障害者年諮問委員会による勧告」の要旨が翻訳配布された(「障害者のための国際年」International Year for Disabled Persons」を「障害者による国際年」International Year of Disabled Personsに、またテーマを「完全参加と正常化」から「完全参加と平等」に変更すること。広報活動、地域単位の活動内容、各国の活動内容等々)ほか、同年9月21日~22日の両日東京で開催される「リハビリテーション交流セミナー‘79」に講演者として招待されている国際連合国際障害者年事務局長E・コスーネン(Esko Kosunen)氏によって、国際障害者年のPR、各国の取り組みなどを紹介してもらい、一つのきっかけを持とうということなどが話し合われた。
 さらに、懇談会は国際障害者年日本推進委員会として日本障害者リハビリテーション協会内に設けることとし、9月13日、10月3日、10月23日、11月5日とほとんど息つく間もなく会を重ね、有志の範囲を広げ、活動内容、組織体制等が話し合われたが、11月13日には下記の「国際障害者年推進方策要綱案」を作成して、関係担当者(**)による泊まり込みのディスカッションを行おうということになった。「国際障害者年をめぐるディスカッション」は、1979年11月17日から18日の午後にかけて東京、芝の日赤会館で行われた。
 記録によると、このディスカッションでは次のようなことが話し合われ、合意をみている。
 まず、太宰博邦日本障害者リハビリテーション協会長の司会の下に、同協会内に、「国際障害者年日本推進委員会」を設置するに至った経緯を述べ、「国際障害者年推進方策要網案」について説明したあと、当日参加した各団体代表から、それぞれの団体の概要及び国際障害者年に向けての対応、要望等が述べられた。
 そのあと、「国際障害者年推進方策要網案」に戻り、全出席者により、①民間における国際障害者年を推進するための組織をつくること、その名称は国際障害者年日本推進協議会=Japanese Council for International Year of Disabled Personsとすること、②政治的・宗教的に中立であること、③国際障害者年を起点として少なくとも10年の展望をもって活動すること、などについて合意された。
 国際障害者年日本推進協議会(以下、推進協という)の役割については、①国際障害者年に関する情報の関係者に対する提供、②国民へのPR、③官民活動のパイプ役、④民間各団体の行う事業のうち重複した場合の調整、⑤アジア地域の諸活動への協力、などが提案され、①については全員意義なく賛成したが、④について、例えば各団体が開催する大会の決議・要望事項と国民会議における提言との関連について意見が出され、結論を得ずに至らず、PRについては、IYDPニュースを通じて行うが、ニュースの性格、読者対象等基本的条件について種々の意見が述べられた。
 組織については、関係団体、個人の自由参加という形を現在とっているが、今後の組織づくりについて、推進協への参加を呼びかける団体としては、①当事者団体(障害者・その家族の団体、専門従事者団体〈施設職員、PT、OT、リハビリテーション医などの〉)、②関係団体(全国社会福祉協議会等)、③支援・協力団体(ボランティア、企業、組合等)に大別し、一定の原則を定めて各団体のリストアップ及び組織についての粗案づくりを事務局サイドで作成、検討することになった。
 執行機関には、①問題整理部門、②広報部門、③資金獲得・参加部門、④国連活動・海外協力部門、⑤国民会議推進部門などの機能別部門を置くことが提案され、資金、事務局については具体性のある形まで煮詰まらなかった。
 以上の経緯でわかるように、現在の推進協の原型はこの「ディスカッション」によって大体決定したといって過言ではない。

*国際障害者年についての有志懇談会参加者(五十音順、肩書は当時のもの)
磯部 真教 (前東京青い芝の会会長)
上田 敏  (東京大学医学部講師)
小川 孟  (国立職業リハビリテーションセンター職業指導部長)
黒木 猛俊 (日本身体障害者団体連合会副会長)
小池 文英 (日本障害者リハビリテーション協会常務理事)
小島 蓉子 (日本女子大学教授)
松井新二郎 (日本盲人職能開発センター所長)
松井 亮輔 (身体障害者雇用促進協会調査役)
丸山 一郎 (ゼンコロ事務局長)
三沢 義一 (筑波大学心身障害学系教授)
皆川 正治 (全日本精神薄弱者育成会事務局長)
村田 稔  (弁護士)

**ディスカッション参加者(五十音順・肩書は当時のもの)
飯田  進 (神奈川県児童医療福祉財団理事長)
磯部 真教 (国際障害者年日本推進委員会委員)
伊藤  洋 (全国社会福祉協議会福祉部参事)
大室  皐 (日本身体障害者団体連合会理事)
小池 文英 (日本障害者リハビリテーション協会常務理事)
小島 蓉子 (日本女子大学教授)
今野 文信 (日本肢体不自由児協会業務部長)
調  一興 (東京コロニ‐常務理事)
杉野幸二郎 (全日本断酒連盟事務局長)
田中 徹二 (日本盲人福祉研究会出版委員長)
田辺 子男 (日本精神衛生連盟常務理事)
太宰 博邦 (日本障害者リハビリテーション協会長)
野沢 克也 (全日本ろうあ連盟書記局次長)
橋本  清 (全国特殊教育推進連盟常任理事)
松井 亮輔 (身体障害者雇用促進協会広報室長)
丸山 一郎 (ゼンコロ事務局長)
水上 登行 (東京都聴覚障害連盟事務局長)
皆川 正治 (全日本精神薄弱者育成会事務局長)
村田  稔 (弁護士)
吉本 哲夫 (障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会事務局長)

国際障害者年推進方策要網案    54.11.13

目的

IYDPを効果あらしめたるため、政府の施策に協力し、民間における諸活動を有機的関連のもとに促進する。

組織

  • 関連諸機関団体、マスコミ、評論家、教育関係者、企業、学者(電子工学、建築、環境等)、ボーイスカウト等、広く関係先(含個人)に呼びかけて結成する。
  • 事務局体制……一応、日本障害者リハビリテーション協会内に置く。

役割

  • IYDPに関する情報提供と国民へのPR、官民活動のパイプ役
  • 民間諸行事の調整促進と全国共通行事実施
  • 国際連合活動、特にアジア地域の諸活動への協力

当面の課題

  • 関連実務担当者のフリーディスカッション
  • IYDPニュースの発行
  • 事務局体制の確立
  • 資金の獲得

検討課題

  • 障害者問題国民会議

(以下略)

リハビリテーション交流セミナー‘79で講演するコスーネン氏

リハビリテーション交流セミナー‘79で講演するコスーネン氏

1980年2月25日、国際障害者年日本推進協議会設立準備会で採決をとる

1980年2月25日、国際障害者年日本推進協議会設立準備会で採決をとる

          

2.1980年(昭和55年)

 前年度における討議の成果を踏まえ、推進協の目的、組織、事業計画、予算、事務局体制等についてさらに検討が加えられ、1980年(昭和55年)2月25日、東京三田の東京都障害者福祉会館において「国際障害者年日本推進協議会設立準備会」をもつところまで進捗した。
 準備会には関係団体代表・個人38名が出席、太宰博邦日本障害者リハビリテーション協会長のあいさつのあと、設立準備会を開くに至るまでにの経過報告を行い、会則、予算、事業計画等について全員協議を重ねた。この結果を基に、4月19日の設立総会を迎え、推進協は発足するのであるが、これらの準備段階において明確になったことは、関係団体の中には、それぞれ主義主張の相違があって、理想には賛成するが、必ずしも行動が伴わないという事実があったことであり、それにもかかわらず、一つの旗じるしの下に多数の障害関係団体・個人が立場を超えて終結したことは、わが国の障害者運動の歴史において初めてであったことである。

3.政府関係の動き

 国の段階における具体的な国際障害者年への対応策は1979年(昭和54年)にはなんら採られていなかったが、年が明けた1980年(昭和55年)3月25日の閣議決定により、総理府内に国際障害者年推進本部が設置された。
 同本部は、国際障害者年にかかわる施策について関係行政機関相互間の事務の緊密な連絡を確保し、総合的かつ効果的な推進を図るために置かれたもので、本部長に内閣総理大臣、副本部長に総理府総務長官、厚生大臣を置き、本部員には各省庁の主として次官クラスを、その下に幹事として各省庁の関係局長等を配置したものである。
 このほか、中央心身障害者対策協議会(心身障害者対策基本法に基づく調査審議機関)に国際障害者年特別委員会を設置することが1980年(昭和55年)3月17日に決定され、国際障害者年にかかわる事業について、企画、調査、審議をしている。この委員会が国際連合でいう「行動計画」で示した国内委員会にあたるもので、障害者の代表を含む国民各界各層の代表60名の委員をもって構成された。

4.国際障害者年日本推進協議会の発足

 前節で述べた経緯を経て、いよいよ1980年(昭和55年)4月19日、推進協の設立発起人会を全国心身障害児福祉財団大会議室でひらくことになった。当日の案内状は下記のとおりである。

国際障害者年日本推進協議会の設立発起人会の開催について

 皆様すでにご承知のとおり、来年1981年(昭和56年)は国際障害者年です。国際障害者年(IYDP)は1976年秋の第31回国連総会で、1981年と決定し世界に宣言いたしました。
 わが国では昨年の9月に障害者関係団体・学者の有志が国連のIYDP、Esko Kosunen事務局長を日本に招き、リハビリテーション交流セミナーなどでわが国の政府・民間のリーダーとの懇談会の機会をもち、IYDPの意義、各国の動き等を知ることができました。
 これを契機にわが国でもIYDPに向けての民間活動を起こそうとの意がおこり、数回の懇談の結果、わが国でも国連の動きに呼応してIYDPを実のあるものにするために関係団体、個人の力を結集し、民間サイドの国際障害者年日本推進協議会を早急に発足させ活動を展開することを決定いたしました。
 つきましては本趣旨をご了承くださいまして国際障害者年日本推進協議会の設立にご賛同、ご参加いただきたく、また発起人会を下記の要領により開催いたしますので、ご出席くださいますようお願い申し上げます。

1.日 時  昭和55年4月19日(土) 午後1時

2.会 場  全国心身障害児福祉財団4階大会議室
 新宿区西早稲田2-2-8 TEL(03) 203-1211 地下鉄早稲田駅より徒歩5分

〈呼びかけ人〉 50音順
飯田  進   石坂 直行   磯部 真教   伊東 弘泰   上田  敏    小川  孟   河端 二男   小池 文英   小島 蓉子
近藤 秀夫   下田  巧   調  一興   杉野幸二郎   杉本 武志   太宰 博邦   田中 徹二   中村 健二   中村  裕
中谷内嘉善   橋本  清   松井新二郎   松友  了   皆川 正冶   宮尾  修

76団体及び学識経験者に参加を呼びかけ、発起人に名を連ねた方々は次のとおりであった。

 

発起人名簿
 氏 名   役職名     団 体 名
          横山 秀男  事務局長  全国肢体不自由児者父母の会連合会
下田  巧  理事長   全国特殊教育推進連盟
小野  勲  会  長  日本チャリティ・プレート協会
松村  秩  会  長  日本理学療法士協会
山田 秀雄  会  長  全国特殊学級設置学校長協会
川崎 満治  会  長  全国内部障害者構成施設協議会
笹沼 澄子  会  長  日本聴能言語士協会
田中 昌人  会  長  全国障害者問題研究会
桜内 義雄  会  長  聴覚障害者教育福祉協会
竹下 精紀  理事長   福祉機器開発センター
堀  秀夫  会  長  身体障害者雇用促進協会
佐々木智也  会  長  日本リハビリテーション医学会
小林 亀松  会  長  全国救護施設協議会
畑中 伸三  会  長  東京都身障運転者協会
北浦 雅子  会  長  全国重症心身障害児(者)を守る会
小林 咲子  会  長  全国言語障害児をもつ親の会
伊東 弘泰  事務局長  日本アビリティーズ協会
小池 文英  会  長  全国肢体不自由児施設運営協議会
永井 勝実  会  長  日本てんかん協会
内村 裕之  会  長  日本精神衛生連盟
三木 安正  理事長   全日本特殊教育研究連盟
松林 弥助  理事長   全日本精神薄弱者育成会
矢谷 令子  会  長  日本作業療法士協会
浜本 勝行  会  長  日本車イスバスケットボール連盟
三木 安正  会  長  日本精神薄弱研究会
太宰 博邦  理事長   日本肢体不自由児協会
太宰 博邦  会  長  日本障害者リハビリテーション協会
河端 二男  理事長   日本筋ジストロフィー協会
氏家  馨  常務理事  日本身体障害者スポーツ協会
矢島せい子  会  長  障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会
宮尾  修  会  長  障害者の生活保障を要求する連絡会議
松井新二郎  所  長  日本盲人職能開発センター
岡橋 滋夫  会  長  難聴児を持つ親の会
川手  薫  会  長  全国病院理学療法協会
三木 安正  会  長  日本精神薄弱者福祉連盟
仲野 好雄  会  長  全社協心身障害児福祉協議会
大須賀忠夫  会  長  全社協全国授産施設協議会
岩崎 乾一  会  長  日本精神薄弱者愛護協会
梅崎 栄幸  会  長  全国心臓病の子供を守る会
近藤 秀夫  事務局長  車いす市民全国集会
太宰 博邦  理事長   全国心身障害児福祉財団
川村 伊久  会  長  全国精神障害者家族連合会
中村  卓  会  長  鉄道弘済会
淀野 寿夫  会  長  自閉症児親の会全国協議会
草野 熊吉  理事長   日本重症児福祉協会
西村 悠夫  会  長  全国肢体不自由養護学校P.T.A連合会
田尻 玄竜  会  長  全国盲ろうあ児施設長協議会
太宰 博邦  副会長   全国社会福祉協議会
島田 広子  理事長   日本リウマチ友の会
秋山 和明  副会長   電動車イス使用者連盟
野村  実  会  長  ゼンコロ
池田 憲彰  会  長  全国身体障害者療護施設協議会
阿久沢洋幸  理事長   子供たちの未来をひらく父母の会
※呼びかけに答え発起人として申し入れがあった順に表した

 発起人会は、推進協設立準備会太宰博邦代表のあいさつに始まり、経過報告のあと、設立趣旨に全員賛成なので、協議員総会切り替えの動機が提出され、直ちに総会に移った。
 総会では、会則、事業計画、予算について審議され可決(本誌第六部資料を参照)したあと、役員の選考に移り、協議員の中から選ばれた8名の選考委員により、代表を太宰博邦氏に、副代表に仲野好雄、花田春兆、矢島せい子の3氏を、監事に中谷内嘉善、柳田孝一の2氏を選び、常任理事の人選については代表、副代表、選考委員長に一任することで後日に委ねられた。
 推進協は、この日をもって正式に発足し、国際障害者年に向けて活動を展開することになる。

1980年4月19日、国際障害者年日本推進協議会発足

1980年4月19日、国際障害者年日本推進協議会発足

発足時における協議員名簿 (順不同)
 氏 名   役職名     団 体 名
橋本 勝行  副会長   全国肢体不自由児者父母の会連合会
横山 秀男  事務局長         〃
畑中 伸三  会  長  東京都身障運転者協会
中川  一  副会長   日本身障運転者協会
大伊 茂子  理  事  全国重症心身障害児(者)を守る会
宇賀神国伊  理  事        〃
平岡 利美  事務局長  全国言語障害児をもつ親の会
伊東 弘泰  事務局長  日本アビリティーズ協会
永井 勝美  会  長  日本てんかん協会
松友  了  常務理事      〃
河端 二男  理事長   日本筋ジストロフィー協会
古島 常男  理  事       〃
宮尾  修  事務局長  障害者の生活保障を要求する連絡会議
二日市 安  幹  事           〃
岡橋 裕子  事務局長  難聴児を持つ親の会
梅崎 栄幸  会  長  全国心臓病の子供を守る会
小林  登  副会長          〃
久保田 哲  東京実行委員会  車いす市民全国集会
近藤 秀夫  事務局長      〃
今西 孝雄  専務理事  聴覚障害者教育福祉協会
五十嵐圭三  総務部長  身体障害者雇用促進協会
上田  敏  幹  事  日本リハビリテーション医学会
坂口  亮  幹  事         〃
藤永 数江  理  事  全国肢体不自由児施設運営協議会
杉本 武志  事務局長  日本精神衛生連盟
氏家  馨  常務理事  日本身体障害者スポーツ協会
西岡 恒也  副会長   障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会
吉本 哲夫  事務局長   〃
川手  薫  副会長   全国病院理学療法協会
三木 安正  会  長  日本精神薄弱者福祉連盟
小宮山 倭  常務理事       〃
飯田  進  総合対策委員長  全社協心身障害児福祉協議会
草野 時治  施設委員長      〃
出口 光平  副会長   全社協全国授産施設協議会
飯川  勉  調査研究委員長       〃
岩崎 乾一  会  長  日本精神薄弱者愛護協会
滝沢 武久  事務局長  全国精神障害者家族連合会
三宅 温子  常務理事  自閉症児親の会全国協議会
須田 初枝  常任理事        〃
上田 裕彦        日本車イスバスケットボール連盟
西見 敏子  副理事長  日本リウマチ友の会
川本 昌代  理  事      〃
秋山 和明  副会長   電動車イス使用者連盟
今岡 秀蔵  副会長        〃
阿久沢洋幸  理事長   子供たちの未来をひらく父母の会
梅崎左池子  理  事         〃
柳田 孝一  顧  問  全国特殊教育推進連盟
下田  巧  理事長        〃
関川  博  副会長   日本理学療法士協会
浅野 達雄  副会長        〃
渡辺 義秋  副会長   全国特殊学級設置学校長協会
三枝 美朗  副会長         〃
川崎 満治  会  長  全国内部障害者更生施設協議会
清水  寛  副委員長  全国障害者問題研究会
森  哲夫  事務局長       〃
河野 広明  常務理事  全国心身障害児福祉財団
網野  智  理  事  鉄道弘済会
草野 時治  幹  事  日本重症児福祉協会
木滑 正男  事務局長      〃
山口  薫  副理事長  全日本特殊教育研究連盟
梅沢 雄一  事務局長       〃
仲野 好雄  専務理事  全日本精神薄弱者育成会
皆川 正治  事務局長       〃
寺山久美子  副会長   日本作業療法士協会
上出 弘之  副会長   日本精神薄弱研究協会
小出  進  事務局長       〃
宗石 文男  常務理事  日本肢体不自由児協会
今野 文信  業務部長       〃
太宰 博邦  会  長  日本障害者リハビリテーション協会
小池 文英  常務理事         〃
調  一興  常務理事  ゼンコロ
池田 憲彰  会  長  全国身体障害者療護施設協議会


国際障害者年日本推進協議会編.完全参加と平等をめざして―国際障害者年のあゆみ―.第一部 国際障害者年と国際障害者年日本推進協議会.日本障害者リハビリテーション協会,1983.3,p.3-p.22.