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創立20年史 財団法人日本身体障害者スポーツ協会

No.2

その前夜

 東京大会の準備も,10の部会に分かれ,それぞれの手によって進められていたが,昭和38年6月,グッドマン博士一行の来日はそれに拍車をかけ,技術顧問アトキンソン氏の助言などによって,準備は急速に進歩した。大会の根本となる日程,プログラムの決定をはじめ,外国選手の受入態勢,選手村の改造も,車椅子で出入する選手たちのために特殊なスロープ加工が行なわれ,競技場も,いろいろ検討された結果,選手の搬送に便利な織田フィールドが選ばれ,仮設スタンドが急造された。
 また,当初から心配されていた資金の問題も,昭和38年12月28日に国庫補助2千万円の内示があり,39年1月17日には都の補助1千万円,同3月9日には自転車振興会から4千83万円の補助が決定,さきに寄付されたライオンズクラブの分と合せて,やっとなんとかやれる目算がついて愁眉をひらいた。
 車椅子使用の参加選手を搬送するために考案されたリフト付特殊バスは,朝日新聞東京本社運輸部小俣寿雄氏の指導で,車椅子17台収容のもの4台を日野,12台収容のもの5台をいすずで製作することになった。この製作に要する経費は2千500万円であるが,この中自動車工業会(会長川又克二氏)は昭和38年10月10日の理事会で1千250万円を運営委員会に寄付することを決定,計画どおり9台のリフト付特殊バスが完成することができ,羽田空港の出迎えに勢揃いしたリフトバスの偉容は参加選手の目をみはらせた。
 外国選手の来日は,予定より1日早い11月4日のアルゼンチン第1陣と,5日はグットマン博士が卒いるイギリス選手はじめ5ヵ国123名,6日にはオーストラリアをはじめ15ヵ国が来日し,7日朝には参加選手のほとんどが選手村に入り,広場のポールには大会旗,S・M・G旗,日章旗,東京都旗,参加22ヵ国の国旗が掲げられ,初冬の空をいろどった。
 その広場で,7日午前9時,日本選手団の結団式が行なわれた。中村裕団長ほか53人の選手がそろいのエンジ色のトラックスーツと白練習靴で車椅子に乗って整列,厚生省社会局今野更生課長の開会のことばについで選手ひとりひとりが紹介された。葛西会長のあいさつがあって,常陸宮殿下から「この大会を通じて一般社会への正しい理解と国際親善の実があげられるようがんばってください」と励ましのおことばがあり,大日章旗を授与された。これに対する中村団長の謝辞,グットマン博士のあいさつがあって式を終った。また,午前11時,同所で陸上自衛隊のパラリンピック支援群(支援群長副田忠夫一佐)の編成式が行なわれた。支援群の最高指揮官,東部方面隊第一師団長藤原岩市陸将や葛西会長が参列した。
 つづいて午後2時から東都知事主催の歓迎レセプションが,選手村びらきをかねて行なわれた。村内のフジレストランには22ヵ国の選手,役員,付添い人など約500人と厚生省,都庁など関係者が出席,各国さまざまのブレザーコートやトラックスーツが色どりを添え,明るい笑いが会場に流れた。午後3時,会場においでになった皇太子殿下,同妃殿下は,グットマン博士とあいさつをかわされたのち,各国選手団長とお会いになりなごやかに談笑された。選手たちは,いろいろなみやげ物を貰って大よろこび,午後4時散会した。

到着した外国選手団
到着した外国選手団

大会のための各部会等の活動

 大会の準備は,企画調整,官庁連絡調整,選手村運営,競技,資金対策,広報,通訳,サービス,国内選手強化対策及び研究視察の10部に分けて,それぞれ厚生省,東京都をはじめ各団体に仕事を分担してもらってやったことは既述のとおりであるが,こゝに記録にとどめておきたい数部の主要部分と,とくに協力をいただいた自衛隊の支援活動とを次に述べる。

1 選手村運営部会
 昭和38年8月1日この部会を引受けられた東京都は,選手村運営管理に関し,選手村本部を編成して具体的な準備を開始した。
 先づ,選手村内の宿舎等の改造,自衛隊,警察,消防などとの支援協力要請をはじめ村内売店,理髪店等の開設や村内清掃のための労力奉仕を組織した。
 宿舎関係は,すべて平屋建物で各国別に次のとおり割当てた。
 イギリス 19戸  マルタ(イギリスと同宿)  アイルランド 1戸  イスラエル 5戸  ベルギー 1戸  スウェーデン 1戸  スイス 1戸  フランス 7戸  南アフリカ 1戸  イギリス(役員1戸)  オーストラリア 4戸  セイロン(オーストラリアと同宿)  フィジー(オーストラリアと同宿)  ローデシア 2戸   アメリカ 16戸  アルゼンチン3戸   日本 14戸  イタリア 9戸   ドイツ 6戸  オーストリア 2戸  フィリピン 3戸  アルゼンチン 1戸
 また,第2部関係の選手は2階建物53戸に入った。
 各宿舎には備品類をはじめ暖房のための電気ストーブを1人1個あて配置し,村内案内図,非常連絡先の表をとりつけた。宿舎に配付した消耗品は,洗面用品やコーヒー,紅茶などが自分でのめるようにした。特に注意した点は,宿舎内の事故防止のため,ガス取扱方法,電気ストーブの備付場所など,選手団付ホステスを通じ選手各自に注意をうながした。また,各宿舎に消化器をそなえつけると同時に火災予防,事故防止のため終夜パトロールを実施した。開村中は,都の職員の他,拓殖大学,東洋大学,日本体育大学の学生の協力をえた。
 食堂関係では,調理業務を日本給食指導協会に委託し,配膳などのサービスは大学に委託し,さらに東京都衛生局の支援を得て,食中毒の発生など不祥事が起らぬよう細心の注意を払った。
 その他受付業務,インフォメーションの他勧業銀行の換金,国際電信電話,国内電話,電報,郵便業務まで細部にわたる整備に当った。

2 通訳部会
〈結団式まで〉
 東京パラリンピックの通訳部会は,日本赤十字社の青少年課が担当することになった。昭和38年11月24日の午後,運営委員会の会合に招かれて,東京大会の通訳部門を依頼されたときには,赤十字の青少年課こそ,この大任を果すことができるのだという自負と,責任の重大さを痛感した。これを引きうけるのには,相当の勇気が必要であった。22ヵ国から来る,日本語をしゃべれない人たちを相手に,その要求や意志の疎通をはかり,世界が注目している国際大会をスムースに運営する縁の下の力もちになって,立派に任務を果さなければならないのである。それにはまず,相当の人員を確保しなければならない。そして配置と訓練も必要である。
 最初,語学奉仕のグループは,日赤で青少年赤十字のアルバムをほんやくしていた6人の学生でスタートした。6人はそれぞれ10人ずつの仲間を獲得する使命が与えられ,2カ月もたたない昭和39年1月7日,9つの大学から参加した60名の若人を集めて,「日本赤十字社パラリンピック語学奉仕団」の結成をかねた第1回総会をひらいた。参加校は青山学院,成蹊,明治,早稲田,慶応(医),東京外語,日本女子,共立薬科,日大の学生で,委員長は福田浩顕君(成蹊4年生)副委員長は常見喜一君(明大3年生)がきまり,ここで問題になったのは,団員を訓練する場所をどこに求めるかということと,インストラクターをどうして得るかということであった。さいわい,訓練の場所は池袋,高井戸,荻窪,渋谷A,渋谷B,青山,横浜に住む団員の家庭を開放して貰うことになり,この7つのグループに分かれて,毎週1回2時間の英会話練習が行なわれた。インストラクターには,手あたり次第,そばを通過する英語のしゃべれる人を掴えて,各グループに配置した。はじめの4カ月は,ほんとうに苦労した。このとき救けてくれたインストラクターには心から感謝をささげたい。
 訓練内容は,各グループ発案,工夫することになっていたが,その主流となるものはパラリンピックの対象となる脊椎損傷者リハビリテーションに関する問題を中心に,身障者に対する知識,パラリンピックの競技に関する知識,日本に関する知識などを英語で討議,研究した。そして4月18日には,午後1時30分から日赤本社講堂で,パラリンピック通訳奉仕団結成式を,日本赤十字社名誉副総裁の皇太子妃殿下をお迎えして行なった。会場には通訳奉仕団,赤十字国際委員会,アメリカ赤十字社極東本部,厚生省,国際身体障害者スポーツ大会運営委員会関係者のほか,青少年赤十字団員,青年奉仕団員など約300名が出席した。式は高木社会部長の経過報告ではじまり,島津社長のあいさつにつづいて語学奉仕団章が団員代表に手渡された。そのあと,皇太子妃殿下から次のようなおことばがあった。
 「今年の11月,東京オリンピックに引つづいて,身体障害者のオリンピック,パラリンピックが,日本で開かれることになり,多数の外国の方々をお迎えすることになりました。この方々の通訳のため,日本赤十字社の若い方々が中心となって,今回,通訳奉仕団を結成されることになりましたことは,まことに意義深い,よい企てと喜こんでおります。今日集まられた皆様方が,すでに果された学業に加えて,さらに毎週一回,外国の方々を招いて,勉強をつづけていられますことをうかがい,きたる日にあげられる成果に,私共は大きな期待をかけております。各国から参加される選手は,いずれも身体の不自由な方々でありますので,言葉の上で奉仕とともに,どうぞ終始赤十字の暖かい行きとどいた心で接してあげて下さい。そして,参加される多くの方々が,自分たちのうちにひそむ,新たな可能性に喜びを持たれ,明るい希望を未来に託される上に,この大会が何かの役割を果せますよう,運営に携わるすべての方々が結集されることを望んでおります。まだ開催までに,数カ月が残されております。その期間の皆様の努力が,美しい実を結び,東京パラリンピックが若い工夫と,暖かい心のゆきわたった大会になりますよう祈っております。」
 妃殿下のこのお話しは,橋本祐子日本赤十字社青少年課長の指導もあって,100名を超えた「日本赤十字社パラリンピック語学奉仕団」の諸君によく徹底して,数々のうるわしい奉仕活動をみ各方面から好評を博した。本協会が毎年海外に派遣する選手団には「日本赤十字語学奉仕団」に加わって頂いているが,当初のこの精神は今日もなおよき伝統として伝わり,好評を継続していることは有難いことである。
 ついで厚生大臣,大会運営委員会会長のあいさつがあり,語学奉仕団副委員長の宣誓が行なわれ同50分閉会した。ひきつづき英語によるパネル・ディスカッションに移り,午後4時から妃殿下を囲んでパーティがひらかれた。
 この結成式が報道されると,アメリカ赤十字社から反響があって,多くのインストラクターの申し込みが殺到し,うれしい悲鳴をあげた。これらのインストラクターたちは横田,立川,成増などの基地から長い道のりをガソリン自弁で自動車を運転し,8つの訓練所(あとから1カ所ふえた)を訪問,団員の指導にあたってくれた。また,学生たちを自分の家へ招待して外国的ふんい気の中で,語学の向上をはかってくれた。5月31日には国立箱根療養所を見学して,はじめて身障者と接し,フェンシング,水泳,洋弓などの練習をみた。さらに6月7日と14日には東京視力障害センターの見学によって身障者の厳しい訓練と,それにたえる精神力に感激,自分たちも努力しなければならないと思った。
 7月13日から16日まで,神奈川県相模湖のユース・ホステルを借りきって,60名の学生と20名のアメリカ人を加えた夏期強化訓練の合宿を行なった。この合宿の目的は,ボランティア精神を養うことと,身障者に対する広はんな知識を,英語をとおして学ぶことにあった。主な訓練内容は「話し方」「議事法」「赤十字の一般的知識」「ジュネーブ条約」「身障者の心理とわれわれの態度」「身障者の器具の実際の勉強」「ボランティアとは」など盛りだくさんの研修と医学用語集,スポーツ用語集の作成であった。

日本赤十字社語学奉仕団の結団式
日本赤十字社語学奉仕団の結団式

3 広報部会
 広報部会は,新聞,放送,出版関係などマスコミ関係をはじめ自治体広報紙,各種団体機関紙などに対するパブリシティと写真や映画などの記録作成を担当した。
 とくに大会を通じて,身体障害者問題に対する一般の理解と関心を高めるとともに,社会復帰のための施策の促進について世論喚起をはかることにも主眼をおき,期間中は報道機関の取材協力に努めた。
 準備態勢がすすむにつれて,これらの機関との連絡を一段と緊密化するため,厚生省記者クラブとの定期的な連絡会をひらくとともに取材のためのガイドブックを作成して配布した。
 また,ポスターやリーフレットなどのPRの媒体の製作はすべて二科会所属の高橋春人氏に依頼して作成し,全国の関係方面に配布した。
 競技期間中は,プレスセンターを設置し,発表はそこで行った。取材活動は,深夜におよぶものが多く,そのため要員の大半が徹夜作業をつづけた。

4 競技部会
 競技部会は,大会の第一部,第二部の区別なく担当した。競技の実施,運営については,第一部は,国際ストーク・マンデビル競技委員会が主催者ということであり,運営計画の中心となってあらかじめ暫定プログラムをつくって,これを日本側に示し,所要競技要員,競技場および競技用具の整備について要請をしてきた。第二部は,国内競技であるため,すべて本部会の既定方針に従って計画を進めることができた。
 第一部は,国際ストーク・マンデビル競技委員会の会長グットマン博士が全体を統轄し,名誉主事スクルトン女史が会長を補佐し,技術顧問のアトキンソン氏がコントロールセンター及びスコアーリングセンターで,日本側の斎藤博之氏(W.V.F)がこれをたすけて競技の進行,競技記録の整理を受けもった。
 競技の実施は,各競技種目ごとにそれぞれの競技団体の協力により,東京オリンピック大会の役員を中心に十分なスタッフを得て,審判をはじめ必要な役割をはたした。
 競技場の選定は,競技部として大きな問題であるが,昭和38年4月ごろから体育関係者とも検討して大体内定していた。しかし,開催期日が迫るに従って問題点が指摘され,オリンピックのため建設された駒沢競技場が適当であるとの意見が出され企画委員会に提案されたが,輸送上の大きな隘路があるとの葛西会長の決断で織田フィールドを主競技場として決定された。
 その他,仮設スタンドの設置とか,参加国国旗の掲揚ポールの設置とか8日の選手村開村直前まで努力をした。

 5 サービス部会
 サービス部会の業務の内容は,選手の輸送,羽田空港での出迎及び見送りであった。国外選手団の到着の日時等が不明のため計画を樹立する上で困難があったが,空港における税関,検疫所,入国管理事務所,羽田保安事務所,空港警察,空港ビル会社,各航空会社などとの打合せを行った。
 その主な事項は次のとおりであった。
 イ.選手および介護員は,航空機側からリフトバスに乗車。
 ロ.選手団の荷物は,代理者による代理通関を認める。
 ハ.代理申請手続は,一定箇所を指定する。
 ニ.外国選手の荷物については,内容証明書を提出。
 ホ.荷物は,すべてラベルを添付する。別送品は,別送品の書面申告をする。

 6 自衛隊の支援
 自衛隊の支援は,大会のほとんど全面にわたった。とくに開閉会式の音楽,誘導及び輸送や参加選手の送迎は,規律正しい団体行動による自衛隊の支援によってすばらしい効果をあげた。この支援については,昭和39年10月1日陸上自衛隊東部方面総監野尻徳雄陸将と運営委員会会長葛西嘉資との間に概ね次のような内容の協定が結ばれ,第一師団を中心に支援群を編成して協力態勢をとった。
 (協力事項及び範囲等)  音楽支援 競技支援 警護支援 送迎支援 輸送支援
  協力期間は11月5日~11月20日の間とする。
  (責任区分)  運営委員会は,次のことについて責任をもつ。
  1関係機関,民間団体および地元住民等に対する折衝ならびに苦情処理。
  2前号のほか,明らかに自衛隊の責任に帰すると認め難い事項。
  (細部協定)  細部事項については,第一師団長と運営委員会会長の指定する者との間において協定を締結することができる。

 支援隊を編成した自衛隊は,10月12日から2週間隊内で介添え訓練を行った。また,隊員は介添え,輸送の二隊にわかれ,国立箱根療養所の指導で,乗りもの,階段,座イス等を使って選手の取扱を十分訓練した。

給食明細表                                   日本給食指導協会

月日 食別 第一部関係 第二部,職員従業員関係 合計
食数 金額 食数 金額 総食数 合計金額
11.5 夕食 113
33,900
735
110,250
848
144,150
6 朝食 113 22,600 816 81,600 929 104,200
昼食 214 64,200 1,102 165,300 1,316 229,500
夕食 581 174,300 1,097 164,550 1,678 338,850
その他弁当 - - 200 20,000 200 20,000
7 朝食 560 112,000 850 85,000 1,410 197,000
昼食 560 168,000 1,230 184,500 1,790 352,500
夕食 560 168,000 1,165 174,750 1,725 342,750
その他弁当 - - 200 20,000 200 20,000
8 朝食 560 112,000 944 94,400 1,504 206,400
昼食 560 168,000 2,700 405,000 3,260 573,000
夕食 560 168,000 1,600 240,000 2,160 408,000
9 朝食 575 115,000 900 90,000 1,475 205,000
昼食 575 172,500 1,200 180,000 1,775 352,500
夕食 575 172,500 1,200 180,000 1,775 352,500
10 朝食 575 115,000 850 85,000 1,425 200,000
昼食 575 172,500 1,300 195,000 1,875 367,500
夕食 575 172,500 1,130 169,500 1,705 342,000
11 朝食 580 116,000 800 80,000 1,380 196,000
昼食 580 174,000 1,250 187,500 1,830 361,500
夕食 580 174,000 1,904 285,600 2,484 459,600
12 朝食 580 116,000 1,383 138,300 1,963 254,300
昼食 580 174,000 1,818 272,700 2,398 446,700
夕食 580 174,000 1,818 272,700 2,398 446,700
13 朝食 580 116,000 1,333 133,300 1,913 249,300
昼食 580 174,000 1,773 265,950 2,353 439,950
夕食 580 174,000 1,773 265,950 2,353 439,950
14 朝食 381 76,200 1,285 128,500 1,666 204,700
昼食 276 82,800 1,575 236,250 1,851 319,050
夕食 371 111,300 1,515 227,250 1,886 338,550
15 朝食 470 94,000 1,250 125,000 1,720 219,000
昼食 460 138,000 1,700 255,000 2,160 393,000
夕食 400 120,000 900 135,000 1,300 255,000
16 朝食 398 79,600 680 68,000 1,078 147,600
昼食 350 105,000 970 145,500 1,320 250,500
夕食 350 105,000 860 129,000 1,210 234,000
17 朝食 180 36,000 580 58,000 760 94,000
昼食 170 51,000 920 138,000 1,090 189,000
夕食 160 48,000 880 132,000 1,040 180,000
18 朝食 160 32,000 551 55,100 711 87,100
昼食 150 45,000 876 131,400 1,026 176,400
夕食 140 42,000 790 118,500 930 160,500
19 朝食 - - 530 53,000 530 53,000
昼食 720 108,000 720 108,000
夕食 630 94,500 630 94,500
20 朝食 - - 490 49,000 490 49,000
昼食 330 49,500 330 49,500
夕食 0 0 0 0


朝食 19 3,800 - 0 19 3,800
昼食 20 6,000 181 27,150 201 33,150
夕食 5 1,500 82 12,300 87 13,800
合計 17,511 4,680,200 51,366 7,032,800 68,877 11,703,000


〔第1部の選手,役員給食〕
 1人当1日平均材料費,598円40銭   1人当1日給食栄養量
 洋食 熱量 4393カロリー  蛋白質 150.7g  脂肪 264.6g
 和食 熱量 4639カロリー  蛋白質 259.8g  脂肪 189.0g
〔第2部の選手,役員および従業員給食〕
 1人当1日平均材料,299円10銭   1人当1日平均給食栄養量
  熱量 3214カロリー 蛋白質 99.8g 脂肪 95.2g

第一部関係献立表 11月5日(木曜)夕食

食数 113食
1人当金額 231.63円
熱量 1,528カロリー
蛋白質 59.9グラム
脂肪 94.0グラム
献立名 食品名 総使用量(グラム) 1人当り使用量(グラム) 総金額(円)
バタロール
バター
バタロール 6,780 60 1,084
バタロール 4,000 35 1,968
アスパラスープ 小麦粉 3,000 27 165
バター 700 6 344
グルタミン 100 1 78
牛乳 14,000 124 960
アスパラ 4,000 35 875
グロンキューブ 15個 - 105
ビフテキ 牛ラン肉 16,000 142 15,200
サラダ油 1,000 8 200
メキシカンソース 人参 600 5 60
オニオン 1,000 8 30
セロリ 600 5 150
ピーマン 400 4 52
トマト 1,000 8 180
トマトジュース 2,000 16 -
トマトペースト 1,000 8 -
ガーリック 10 - -
スポロツソテー スポロツ 9,000 80 2,250
バター 600 5 295
150 1 8
コショー 10 - 4
フライポテト ポテト 12,000 106 -
オイル 1,500 13 212
バター 600 5 295
150 1 -
コショー 10 - 4
コンビネーションサラダ レタス 14,000 124 -
トマト 5,000 44 900
ブラックオリーブ 230個 10 -
アスパラ 5,000 44 -
サラダオイル 2,000 16 400
クインビネガー 1,000 8 -
150 1 4
コショー 10 - -
フルーツ リンゴ 113個 180 -
ペットシュガー ペットシュガー - - -


第二部関係献立表 11月5日(木曜)夕食

食数 735食
1人当金額 95.5円
熱量 1,670カロリー
蛋白質 34.0グラム
脂肪 62.5グラム
献立名 食品名 総使用量(キログラム) 1人当り使用量(グラム) 総金額(円)
ポークカツ 豚肉切身 51.5 70 31,598
小麦粉 22.0 30 1,220
パン粉 28.0 38 2,440
9.0 12 1,278
玉子 5.0 7 875
ラード 9.0 12 1,021
サラダ菜 サラダ菜 7.7 11 1,386
コールスロー キャベツ 32.0 43 1,856
レッドキャベツ 3.0 4 300
サラダ マカロニ 16.0 20 2,640
りんご 8.0 10 (寄)
胡瓜 11.0 15 1,760
レーズン - - -
玉葱 5.0 7 150
玉子 8.0 11 1,400
サラダ油 1缶 22 3,250
パセリ パセリ 1.6 2 560
スープ 玉葱 22.0 30 660
人参 11.0 15 1,100
グロンキューブ 400g×3ヶ - 2,100
150.0 - 14,625
果物 りんご 160.0 220 (寄)
- - - 70,219


選手村入村状況
国別 選手 役員,付添 合計
アルゼンチン 17 5 22 5 1 6 28
オーストラリア 11 4 15 8 2 10 25
オーストリア 4 3 7 5 0 5 12
ベルギー 1 1 2 0 0 0 2
セイロン 1 0 1 0 0 0 1
フイジイー 1 0 1 0 0 0 1
フランス 20 1 21 9 1 10 31
ドイツ 21 3 24 8 2 10 34
イギリス 52 18 70 27 8 36 105
イスラエル 17 3 20 6 1 7 27
アイルランド 4 1 5 3 0 3 8
イタリア 24 4 28 19 1 20 48
マルタ 2 0 2 0 0 0 2
メキシコ 0 0 0 3 0 3 3
オランダ 9 3 12 3 2 5 17
フィリッピン 8 0 8 7 4 11 19
ローデシア 4 2 6 3 0 3 9
スイス 2 1 3 0 1 1 4
スエーデン 2 0 2 0 1 1 3
南アフリカ 5 4 9 4 2 6 15
アメリカ 47 20 67 12 10 22 89
日本 51 2 53 27 4 31 84
303 75 378 149 40 189 567


参加人員
区分
選手 303 75 378
付添 149 40 189
452 115 567


メダルの受賞表
国別
アメリカ 37 40 33
イギリス 23 24 24
イタリア 17 13 16
オーストラリア 13 10 7
南ローデシア 11 2 2
南アフリカ 8 8 2
アルゼンチン 7 17 12
イスラエル 7 4 11
オランダ 6 4 4
フランス 5 4 3
ドイツ 5 3 5
オーストリア 5 2 8
日本 2 12 9


第2部競技参加者入村人員
都道府県都市名 選手 付添 合計
北海道 16 2 18 2 0 2 20
青森 6 1 7 2 0 2 9
岩手 5 2 7 1 1 2 9
宮城 6 1 7 2 0 2 9
秋田 6 1 7 2 0 2 9
山形 6 1 7 2 0 2 9
福島 10 1 11 2 0 2 13
茨城 5 2 7 2 0 2 9
栃木 6 2 7 2 0 2 9
群馬 6 2 7 2 0 2 9
埼玉 10 2 11 2 0 2 13
千葉 6 1 7 2 0 2 9
東京 29 8 37 4 2 6 43
神奈川 6 1 7 2 0 2 9
新潟 10 1 11 2 0 2 13
富山 6 1 7 2 0 2 9
石川 6 1 7 2 0 2 9
福井 6 1 7 2 0 2 9
山梨 6 1 7 2 0 2 9
長野 8 3 11 2 0 2 13
岐阜 6 1 7 2 0 2 9
静岡 10 1 11 2 0 2 13
愛知 11 0 11 2 0 2 13
三重 6 1 7 2 0 2 9
滋賀 6 1 7 2 0 2 9
京都 5 0 5 2 0 2 7
大阪 6 1 7 2 0 2 9
兵庫 9 2 11 2 0 2 13
奈良 5 2 7 2 0 2 9
和歌山 6 1 7 1 1 2 9
鳥取 6 1 7 2 0 2 9
島根 6 1 7 2 0 2 9
岡山 10 1 11 2 0 2 13
広島 10 1 11 2 0 2 13
山口 6 1 7 0 2 2 9
徳島 6 1 7 2 0 2 9
香川 6 1 7 2 0 2 9
愛媛 9 1 10 2 0 2 12
高知 6 1 7 2 0 2 9
福岡 13 5 18 2 0 2 20
佐賀 6 1 7 2 0 2 9
長崎 6 1 7 2 0 2 9
熊本 10 1 11 2 0 2 13
大分 10 1 11 2 0 2 13
宮崎 6 1 7 2 0 2 9
鹿児島 10 0 10 2 0 2 12
沖縄 6 1 7 2 0 2 9
横浜市 6 1 7 2 0 2 9
名古屋市 6 1 7 2 0 2 9
京都市 6 1 7 2 0 2 9
大阪市 10 1 11 2 0 2 13
神戸市 6 1 7 1 1 2 9
北九州市 5 2 7 2 0 2 9
406 69 475 103 7 110 585
ドイツ 6 0 6 1 0 1 7
合計 412 69 481 104 7 111 592


式典競技実施本部組織図

競技部会組織(厚生省)図

式典部組織(厚生省)図

送迎本部編成表(鉄道弘済会)図

選手村運営組織本部(東京都)図

研究視察部会組織(厚生団)図

広報部会(全国社会福祉協議会 中央共同募金会)


思い出

朝日新聞東京厚生文化事業団 参与寺田宗義

(当時同事業団事務局長)

 昭和37年7月25日の午さがり,総理官邸のロビー,紺のブレイザーコートの胸に赤い日の丸が一入鮮かに映える,初の海外遠征に奮いたつ二人の車椅子の選手を,閣議を終えて馳けつけた故池田勇人首相は,チラリとみて驚きの眼を見張った,「これはどうしたことなんか…」と不審の面もちである。
 私の懸命な説明に大きくうなずいた池田さんは「身体障害者のオリンピックを催すという話は初耳だ,全くすばらしい,国際親善と,身障者諸君の社会復帰に役立つという企画には政府も協力を惜しまない。“1億”たらずの金で開けるというのなら,君たちの手で民間の資金が集まらないときには,何時でも言ってこいよ,なァに全額国費で賄ってもよいヨ…」
 もう20年も前の古い話ではあるが,その頃,2年後の「東京パラリンピック」開催を期して,立ち上がった私は,この首相のひと声にその瞬間,「しめたっ,これで東京パラは完全にスタートできるぞー」との確信と期待に胸の高鳴りを覚えたのであった。
 然し,政治家の約束をそのまま信じてよいもんかーと一まつの不安が心に浮んだが,とくに私が頼んで立会ってもらった知友の福永健司労相は私の肩をたたいて「池田は約束したことは必らず守る男だよ,若しも破ったら僕が証人になってやる」と励げましてくれた。
 この総理官邸における首相会見の一幕は次のような裏ばなしから始まったのである。
 この年の5月頃,当時国立別府病院整形外科医長の中村裕博士が突然私を訪ねて曰く「2年後の東京オリンピック」のあとに「東京パラリンピック」という脊損者車椅子の国際スポーツ大会を開催しなければならない,主催代表者の英のグットマン博士はかねてわが国に開催方を呼びかけているが,厚生省はじめ関係方面ではいっこうに腰をあげてくれないというのだ,こんな始末ではとうてい開催がむづかしいと思うので,ぜひ朝日新聞あたりが中心になって各方面に呼びかけ実現して欲しい・・」というのである。
 聞けば,脊損者の人たちのスポーツの奨励は身心を鍛えて将来の社会復帰を促進させ,彼らの人生にバラ色の希望をもたらすばかりでなく,やがては就職の上,納税者として国に寄与するというのだ。欧米諸国では既にこのことは実証ずみである。毎年夏ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院では各国の選手多数が大会に参加して立派にリハビリの成果をあげつつあり,この夏で第11回目,また4年ごとの世界オリンピックのあとでは「パラリンピック」の呼び名でその都度開催することも参加各国で決議されており前回のローマオリンピックのあとで「第1回パラリンピック」を開催した。
 中村博士はさらに「今にして東京オリンピックのあとに“東京パラ”を開催できないとすれば「福祉国家ニッポンの看板は国際的にみて偽りになるであろう・・」と強い口調で訴えるのである。
 身障者スポーツの世界的現状を初めて知った私は,別府から夜行で上京し,その日の夜行で勤務地に帰るという中村君の熱情に感激した。「よく判った,東京パラリンピックの口火は僕がつける。広く官民の同志を結集してその実現を期そう・・」と固い握手で別れた。そして当時,朝日の談話室で月々開かれていた「身障者関係団体,施設長懇(こん)話会」に再び中村君を招いて説明してもらったところ,日身連の黒木猛俊さん(故人)以下21名全員が拍手してこれを支援した。
 パラ作戦第1歩はかくして発足した。同志のNHK厚生文化事業団の堀場平八郎事務局長と話し合い,先ず,この夏の第11回ストーク・マンデビル競技に,朝日,NHK両事業団主催で中村博士提案の伊藤,吉田選手を送りこみ,東京パラの踏み台にしようとの作戦である。両選手は別府の施設でピンポンや水泳などの競技種目を中村君の指導で十分に訓練しており,初陣ながら列強のベテランとある程度は渡り合えるであろうーとの期待をもたれていた。
 さて,この新作戦,第1にマスコミ動員のPR,つぎに遠征への資金づくり「お金」の方は前もって予算化してなかったNHKと朝日はチエを絞り“借金の仮払い”支出という妙案で170万円を調達した。次に天下にこの車椅子2選手の初の海外遠征を賑々しく新聞やテレビにとりあげてもらうために,前記のように官邸での池田総理への出発にさきだつ表敬訪問と相成った訳だ。
 中村博士(既に出発)と選手団長,伊藤,吉田2選手,それに紅一点のわが事業団の菊谷看護婦を加えて編成された計5名の「ミニ派遣選手団」ではあったが,忽ち待機した官邸記者団や新聞,テレビのカメラマンの包囲をうけて,目もまばゆいカメラのフラッシュを浴びた,両選手は「堂々と海外遠征の覚悟をのべる」,また池田首相は「勝ち負けにこだわるな,前向きで戦い,日本男子の意気を示し給え!」と手を握ぎる,まことに劇的なシーンであった。
 『車椅子の二人の選手,初めてロンドン大会に征く……』等々と新聞やテレビの報道合戦は極めて活発。“茶の間”の話題をさらいわが広報作戦のワンステップは大当りであった。
 七月末のロンドンのストーク・マンデビルに初参加した伊藤,吉田の2選手は各国の大勢の選手たちから「ようこそ,ニッポンの選手たち」と歓迎の握手攻めにあい,ピンポン,水泳などのゲームではマアマアの戦績をあげて元気で帰国した。そして間もなく皇太子ご夫妻の思召で役員,選手一行は東宮御所に招かれて温かいはげましのお言葉をいただいた上,両選手は御所のロビーで両殿下からピンポンのご相手を仰せつかる又とない光栄に浴し一生の感激の思い出となった。
 翌38年春,葛西さんを会長に氏家君を常務理事とする「国際身体障害者スポーツ大会」は財団法人の認可をうけて発足,同年七月末開催の第12回ストーク・マンデビル競技大会には一挙に10余名の役員,選手団を送りこみ遅(おく)ればせながら日本の参加意欲のたくましさを示したので各国は目をみはり,“東京パラ”開催のわが国への期待を高めたのである。
 東京パラリンピックはこれ以来,厚生省を中心に東京都や各種福祉団体,施設など官民一体,多数の不休の努力でうけ入れ体制を整え,11月8日美しい秋晴れのもと,総裁,皇太子殿下,同妃殿下をお迎えし,世界22ヶ国,500余名の役員,選手および日本の選手団が参加して華々しく開催された,この日私は織田フイルドの入場行進の先頭をゆく中村裕日本選手団長と肩を抱いて感激の涙を流した。
 最後に堀場さんと協力して資金づくりに飛び歩き全国のライオンズクラブの皆さんから1,000万円,日本自動車工業会から1,700万円(リフト付きバス9台の制作代)全国バーテンダー協会の360万円等々の寄付をいただいたが,厚生省の助成金2,000万円,都の助成金1,000万円,日自振から4,000万円などの大口を始め新聞,テレビの呼びかけで目標1億円をはるかに超える国民大衆の尊い浄財が続々と集まり,私も“金づくり”の責任の一端を果たし,ホッとした思い。私は改めて官邸に罷り出で,池田首相閣下にお金の「無心」をもちかけないで済んだ次第である。


思い出

堀場平八郎

(当時NHK厚生文化事業団事務局長)

 昭和59年には日本での身体障害者スポーツ大会も第20回が開催されることになり,始めの頃を思うと感無量の思いです。第1回を開催する迄を思い出しながら少し書いてみたいと思います。
 昭和37年5月10日,大会準備委員会が開かれ日本でのパラリンピック開催が予定されたが,先づ資金のことから始めなくてはと,ラジオ,テレビ,新聞でパラリンピックの意義を伝え,善意の寄付をお願いした。
 ライオンズクラブからパラリンピックを開催するなら松山市でガバナー会議が開かれるので出席しパラリンピックの意義を説明する様申し出があったので寺田氏と二人で出席した。その時は具体的な話がないまゝ辞去しようとしたところ北海道のガバナーからいゝ話だから北海道は全面的に協力するとの話をもらい寺田氏と二人ホッとした気持で帰京したところ,日本バーテンダー協会から記念事業としてパラリンピックに協力するとの申し出があった。そして全国一万軒バーやキャバレーに募金箱を置くことになった。そこ迄はよかったが,時々顔を出してくれとのことで,毎日バー,キャバレーを3,4軒まわったが,お酒の飲めない自分には,苦しい仕事でありました。ホステスさん達にも募金を頼み,時にはお客のテーブルに座ってパラリンピックのセールスです。NHKでも自分の顔を見ると,ようパラリンピックといわれました。昭和38年7月24日-28日まで,ストーク・マンデビルで東京大会打合せ会議が開かれ,葛西会長はじめ7人で出席した。この時,自分に日本にベットがあるか等と聞かれ,日本に対する認識のないことに,びっくりもし,がっかりもした。そのほか,スヌーカー(撞球台)では苦労した。日本にもあるといった以上何としてでも探さなくてはと方々問合せ,やっと交詢社に一台あることがわかり借りられる事がきまった時には,日本にもあると断言した自分としてはホッとした。会長にもご心配をかけました。
 次には車椅子の選手の配送用のバスが必要となり日産自動車,日野ディーゼルに9台のリフト付バスを注文,自動車工業会からの寄付で出来上り,各国選手団を羽田に迎えることが出来ることになった。
 だんだん各方面の理解と協力が着々と大会に向かって準備がすゝんだ。
 39年11月8日各国の国旗にかこまれた織田フィールドで,皇太子殿下,皇太子妃殿下御臨場の下で開会式は開かれた。
 自衛隊音楽隊のマーチにつれ各国選手団入場式を見て,こゝまで来た努力を考え,目頭の熱くなる思いでした。

(堀場平八郎氏は昭和60年1月31日逝去)


選手村の随想

高鍋三千雄

(当時東京都民生局保護部長(選手村村長))

 東京パラリンピック大会から早20年……,選手村の村長として生涯忘れられない思い出多い大会であった。
 選手村は,11月1日から僅か5日の間に仕上げる昼夜兼行の難作業であった。宿舎,食堂等の改修工事,屋外の整備,備品の搬入など,大量の作業の最中に,チャーター機の都合で予定より一日早く,アルゼンチン・イタリアの選手団が入村してきた。続いてイギリス・日本と22ヶ国560余名,第二部の選手590余名を,いろいろの問題に対処しながら無事入村を終えたときには,故グットマン博士も心から喜んで下さった。
 あのときの職員の奮闘,本部,自衛隊,オリンピック準備局等関係機関の御協力は,忘れがたい有難い思い出である。
 選手村は,大会旗,各国旗,都旗の飜える下で,選手が帰国した18日間,明るく,健康な選手達で活気に満ち満ちていた。
 道路で転んでも,高い食堂のスロープの登り下りにも,笑顔で「ご助力ご無用」であった。食事や住まいにも苦情や不平,不満は全くなかった。どの部屋を訪ねても,下半身まひの人々とは思えない,明るさと楽しさで一杯であった。食堂やホールは,国境を超えての交歓で毎夜賑やかに大盛況であった。競技はもとより,村内の素晴らしい選手達に,深い感銘を受けた日々であった。
 東京都知事のレセプションは,選手達も大喜び,東知事は,一人々々握手をなされていた。また,皇太子殿下御夫妻からは,各選手団毎に御懇篤な御言葉を賜わり,感激と喜びで,涙をためて目を潤ませていた。
 選手村は,全国津々浦々からの善意と奉仕が寄せられた。宿舎や食堂をはじめ,屋内,屋外すべて学生,婦人団体,個人,商社等善意と奉仕が寄せられた。選手村で直接奉仕される人々も毎日千人を超えた。選手達も帰国のときは,心から名残りを惜しんでくれた。
 会長,本部のもとに,競技大会が大成功をおさめたと共に,選手村も事故一つなく,無事果し終えたことを,今でも無上の喜びと思うと同時に,感謝の念に堪えない。
 今は亡き,東元知事,グットマン博士の御冥福を衷心よりお祈りし,社会復帰をめざす身障者スポーツ大会の一層のご発展を祈念するものであります。


東京パラリンピック・選手村より

松本 正

(当時東京都民生局保護部厚生課長(選手村運営本部次長))

 昭和39年8月1日東京都民生局厚生課長に発令された私に同時に選手村運営本部次長を兼務し,村の運営にも従事することとなった。既に国際身体障害者スポーツ大会運営委員会は葛西嘉資会長のもとでこの4月から着々と準備に入っていたので,前任者のあとを受けた私は最初大きな戸惑いを感じたが,とに角夢中で毎日をとび回った。そして着任後2ヶ月いよいよ選手到着の時が来た。
○間に合わぬ宿舎準備大慌て
 参加22ヶ国560人日本を含め1,200人その他選手村運営職員(自衛隊含め)約2,000人余りの人口を一度に抱えた選手村の生活は,まさに蜂の巣を突いた様相で華やかな中にも昼夜の別なく多くの問題処理に忙殺された。その一つに車椅子選手の為に考案されたスロープ設置工事がある。選手宿舎103棟,食堂,サービス棟,クラブなど日常生活に必要な箇所を加えれば厖大な数になった。選手入村に合わせ勿論突貫工事を強行したが到底間に合わない。11月4日夜からアルゼンチンを先頭に選手が到着し始め3日間に亘る入村期間中昼夜突貫工事の槌音が響き,関係者の焦躁の中職員が真夜中まで寝具類を担いで走り回ったことを想い出す。
○グットマン博士との出遭い
 受入れ準備に大騒ぎの夜更け職員も疲労困憊のさ中,グットマン博士と葛西会長が各施設を回られ,ねぎらいの言葉をいただいた。
 初めて見る博士は重厚温和な紳士で夜中の視察に一同大いに感激したものである。握手を求められた博士の手の温もりが今も忘れられない。
○偉大な先駆者グットマン博士を偲ぶ
 紙数の関係で大会の事情は割愛するが,特筆したいのはパラリンピックを組織化し,世界的運動にまで発展させたグットマン博士の偉大な功績である。何事によらず最初に考え実際行動に向って組織化することの如何に困難であることか。勇気と努力の博士に最大の敬意を表したい。我国の障害者に「ヤレバ出来る」の気概を植付け,国民の理解と認識が大会を契機として画然と変革を遂げた現状は,まさにパラリンピックを抜きに語れない。
 ○哀歓交々選手村の別れ
 東京で国際身体障害者スポーツ大会が今後果していつ開催されるだろうか。思えば私達は世紀の行事を直接運営に当る好運に恵まれたのである。楽しかった大会中の人との出遭い,選手村出発のバスの中で通訳が付添の人々にいつまでも別れを惜んだ選手,羽田で飛行機に乗込むまでの日本の地に別れを惜しんだ選手達はいまどこでどうしておられるだろう。それぞれの人々に幸多からんことを祈念して20年目の想い出といたしたい。


東京パラリンピックの思い出

当時東京都民生局保護部監理課長 町田 英一

(選手村運営協議会渉外連絡部長)

 東京都が全面的にその管理運営を委せられた,東京パラリンピック大会選手村の開村予定が,昭和39年11月5日だというのに,本家のオリンピック大会の最後の外国選手団の退村が遅れて10月末ぎりぎりになってしまったため,選手村運営本部が入村でき,実際の村造りが始められたのは,実に11月1日になったからであった。
 第一部国際選手団22ヶ国378名,第二部国内大会481名(役員,付添を含めると合計1,150名)の方々が車椅子の居住者を中心にして,心配なく,しかも近代的な快適な生活をエンジョイできる諸設備を完備した村を,果して4日か5日で出来るだろうかなどと考えている暇もないくらい,文字通り不眠不休の数日間の貴重な経験は忘れることはできない。開村の5日午後11時過ぎ,イギリスなど5ヶ国の選手団の第一陣が到着した時,宿舎のベッド・メーキングの作業はまだ終らず,一時指揮命令系統が乱れ大混乱は避けられないのではないかと危ぶまれたものゝ,かろうじて陣容を建て直し,翌6日の午前3時頃ようやく何んとか全体の迎え入れ態勢を完了出来た時は,本当に関係者全員の一致団結の賜と感謝したものであった。
 車椅子利用選手の生活実態は,吾々にとって驚きの連続であった。20年経た今日,ノーマライゼーションなる言葉がようやく語られるようになったが,当時すでに彼らは全くと云ってよい位健常者と変らぬ心の持方を吾々に披瀝してくれたし,事実吾々よりも・かに明るく陽気でさえあった。
 除行している村内遁環バスの後ろにつかまって車椅子のまゝ走っている選手にもびっくりさせられたが,インターナショナルクラブでの楽しそうなダンス・パーティ,夜タクシーをつかまえ,車椅子をつみ込ませて渋谷の盛り場に繰り出してゆくグループを見ているとむしろぼう然とさせられたものであった。
 当時私は民生局保護部の監理課長として選手村運営本部の渉外連絡部長を命ぜられていたが,村内売店の設置について本家のオリンピック村の時のMデパートに引き続き要望したものゝ冷たく断られ,ようやく最後に西武デパートが赤字覚悟の社会的責任で引き受けてくれた結果は黒字になったこと,競技も終って最後のイギリス選手団が離陸後故障で羽田に引き帰してきた時,ホテルよりは快適で親切であった選手村に戻りたいと伝えられ感謝したこと等も思い出はつきない。


日本赤十字社語学奉仕団の創設

創設者 橋本祐子

(当時日本赤十字社青少年課長)

 「国際身体障害者スポーツ大会運営委員会」の設立許可が厚生大臣からおりて,登記が完了したのは,ともに昭和38年4月のこと。西歴では1963年で,東京オリンピックを前に,あと一年と言うところ。私個人としては,日赤に入ってから15年。青少年課長になって3年目,その上,漸く燃え盛る情熱の相手,国際赤十字の創立100周年の年にもあたります。
 その行事に招かれて乗った飛行機で,思いがけなくも恵まれた再会の主は,葛西会長さま。ついその前まで8年間,日赤の名副社長さんでおなじみ深いこの方から,生れて初めてパラリンピックのオリエンテーションを受けたのは誠に幸せでした。それまで私は赤十字のお蔭で,これを充分受け入れる心の準備ができていたと云えましょう。
 「君,頼むよ」と肩をたたかけて別れてから夏は過ぎ,秋も終ろうとするその年の11月24日に運営委員会に初めて招かれました。胸にともったガソリンの火は燃えながら,何を煮ていいのか?!やっと示されたのが,東京に集る外国選手,それも車椅子の方々の口になり,耳になろうという語学奉仕の大仕事でした。早速,募集と訓練の始まりです。
 「さあ,大変!」会議の通訳と訳が違い,その時,その場限りの単発的なお仕事ではなく,来日の出迎えから,空港の地面をその車と身体が離れて機中に消え去るまで,生活そのものを共に生きる同伴者となることなんですもの。例えば乗りものの昇降は自衛隊の方が抱きかかえての力仕事はして下さっても,選手の行先に関する質問となるとこちらの仕事,それこそ朝御飯の苦情から,女子選手の美容院のお世話も,何も彼も臨機応変,一日じゅう「人間が生きる事はしゃべること」の実感を生きて,何人分かの人生経験をした苦しくも,だから楽しい,学びの2週間でした。
 学びの中に国際語の習得も大切と痛感されましたが,もっと大事な学びは,言葉「で」何「を」するかにあり,と悟りました。バスの網棚に置いたカメラの紛失に「誰が盗ったのか?」通訳しろ,といわれて「私はこの国際的な人道の集りに奉仕する者で警察に雇われた者ではありません」と断った若きメンバーの言動に,私は赤十字と語学奉仕の結びつきの必然性を学んだことが,一番の宝でした。

語学奉仕団の活躍
語学奉仕団の活躍


想い出

若井亜紀子

(当時日本赤十字社勤務)

 1964年の東京パラリンピックの思い出を書くように言われた。当時,日本赤十字社に勤務していた私に語学奉仕団の事務局長の仕事がめぐって来た。150余名の無報酬のボランティア(主に大学生)を集め,研修し,英語を中心にした通訳を10ヶ月で養成していた。と,一口で書くといともたやすい。が,10ヶ月の研修期間も,パラリンピックの期間中も全くのタダ働きなのである。
 一体何が若者をひきつけたのか?車椅子への同情か?英語が使えるためか?その両方共がきっかけにはなったであろう。しかし,若者達は,それだけでタダ働きをしなかったと思う。ただ一つ,若者達は有為な人材としてひたすら求められたのだ。そのゆさぶりが若者達をひきつけた。
 その火つけ役は当時日赤青少年課長の橋本祐子先生である。彼女は実行力の火の玉で,誰の背中にも火をつけてしまうのである。でも決して焼死させない。火をつけた以上,その燃え方に責任を負い,その火をくぐって力をつけてしまう魔術師である。この魔術師が,若者をもえたたせたのである。
 パラリンピックは,脊損の人達のありあまる能力を私達にみせてくれた。車椅子の足と,二本の足の差は人として決定的な差ではない。社会的受け入れ方がその差をつくっている。この事実を身を以って体験したことは,20年たった今,障害者のトイレや,傾斜路があちこちにみられたり,車椅子のバスケットチームが全国80ヶ所に組織されていることと無縁ではないと思う。20年の歳月の中での進歩は遅い。まだまだすることは山積みだ。人が人らしく生きていく道普請には人としての限りない成長があり,汲んで尽きない愛が生まれることをパラリンピックに参加した全ての者が共有した。そのエポック・メーキングに参加出来たことは一重に先輩の力に負う。本当にありがたいと思っている。


パラリンピックの思い出

河村定治

 福祉新聞社長(当時全国社会福祉協議会広報部長)

 この大会の主競技場は代々木の織田フイールドだった。いまは代々木公園の中に組み込まれて様子が変っているが,往年の織田幹雄氏を記念して設けられたものである。
 ここで開会式が行われた。この開会式には皇太子ご夫妻がご臨席になり参加全選手を閲見された。と,こう書いてしまえば何の変哲もないが,実はハプニングがあって一時は会場が騒然となったものである。
 広報部長としてこういう場面の責任者だった私にはいま思い出しても冷汗物である。
 このフイールドの構造は覚えている人もいるだろうが簡素なもので,道路側に一面スタンドがあり,その下にフイールドがあるが,両方には何の仕切りもなく往来自由である。
 スタンドの中央にロイヤルボックスを設けその左右が観客席,選手は団旗を先頭に掲げて各国毎に一列従隊に整列する。皇太子ご夫妻は全員総立ちの中をロイヤルボックスを出られてフイールドに降り立ち,悠然と左から右へお通りになりながら選手団を閲見される。華かでかつ整然とした開会式になる,との予定だった。
 この場合写真班の取材が一番問題なので,プレス会議での撮影は一切スタンドで行い決してフイールドには立ち入らない。誰れかフイールドに立ち入れば全員が雪崩込んで滅茶苦茶になるからそれはやるまいという約束になっていた。
 ところがである,始めは予定通り進行していたが,こういう規則のあることを知らなかったのか,スタンドにいた外人が突然フイールドに飛び下りて殿下の真近でカメラを構えたからもうたまらない,各社のカメラマンに取り囲まれてもみくちゃである。スタンドに居た私達はびっくり仰天,東宮御所職員と共に殿下のそば駆け寄ってカメラマンとご夫妻の間隔をとるのに大変な苦労をした。
 大会終了後殿下ご夫妻が葛西嘉資会長以下幹部を東宮御所にお招き下さった。
 私もお招きいただいたので,このときの不手際を殿下にお詫びした。
 ところが殿下は私の胸の名札を見られながら「河村さん,あれでよかったのです。カメラマンが屏風になるのでほかからは見られなくて気が楽でした。気にしないで下さい。」これが帝王学の気配りであろうか,ホットした。


主題:
創立20年史 No.2

発行者:
財団法人日本身体障害者スポーツ協会

発行年月:
昭和60年3月31日

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