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障害学生へのリーズナブル・アコモデーション(合理的配慮)

●河村
ありがとうございました。 今自己紹介を兼ねて非常に簡潔に、どんなことをやっているかをお話しいただきましたが、ウェブに既に日本障害者リハビリテーション協会で掲載しています渡部さんの論文注釈55、全体として非常によくまとまっていますが、骨格はもうそこにありますので、それを前提にして、それでは引き続き、もう少しリーズナブル・アコモデーションということについて具体的にどういうことなのか、日本ではあまりリーズナブル・アコモデーションという概念がはっきりしていません。それで、今度の権利条約注釈66を通じて、あるいはADA注釈77の紹介を通じていろいろみんな想像はしているのですが、何がリーズナブル・アコモデーションで何がリーズナブル・アコモデーションではなくて、何がパーソナル・アシスタンスで、というあたりがあまり整理できていないので、そのリーズナブル・アコモデーション、今渡部さんが学生に対してコーディネーターとして、その学生さんのリーズナブル・アコモデーションはキャンパスではこういうもの、というふうに一人一人の状況に応じて考えて、それを実現していく、そういうコーディネートをされているわけですね。その際に考えているリーズナブル・アコモデーションというのは何ですか、ということを、全然知らない日本の我々に分かりやすく、ちょっと具体的な例を挙げながら説明していただけますか。

●渡部
ウェブサイトに私の文献が載っているので、おそらく皆さん、たとえば障害を持つアメリカ人法またはADA法、リハビリテーション法注釈88のことはご存じだとは思いますが、まずそのことを少しだけお話しさせていただきます。これが本当に元になっているんですよ。もちろん私の勤めている障害学生サービス部でもそうですが、アメリカ全体の高等教育機関で、ADA法とリハビリテーション法というのはとても大切なことなんですね。
なぜADA法とリハビリテーション法が大切なのかというと、アメリカではその二つの法律が、障害者とは何かという定義をしっかりしているからです。

3つありまして、1つは、個人の主たる生活活動、英語で言うとmajor life activityと言うのですが、その1つあるいは複数について著しく制限する身体的または精神的な障害がある、そのような歴史があった。または、そのような障害を持っていると見なされている人達のことを障害者と言います。 合理的配慮、先ほど河村さんがおっしゃったように、リーズナブル・アコモデーションというものもちゃんと法律で定義されており、それを高等教育機関として考えると、大学で提供される履修内容、授業、基準、評価、生活などの本質のものを変えないで、障害学生が障害のない学生と同等に教育を受けるための配慮または措置という意味なんですよ。具体的にこれから、その配慮というのはどういうものかというのをこれからお話ししますけれども、それだけというものでもないというのは強調しておきます。
合理的配慮というのは合理的であれば、「これでないとだめ」と制限されていない。でも、ある程度制限しないと合理的でないものも出てくる。では合理的とは思われない配慮というのはどのようなものか。それは3つあるんですよ。
合理的配慮と考慮されないものは何かというと3つありまして、その1つは、ファンダメンタル・オルタレーション(Fundamental Alteration)。これは履修内容、授業、活動の本質のものを変えてしまうもの。
たとえば試験で障害を持っていまして、てんかんを持っているとします。てんかんの後って、なかなか記憶力が戻らないので、たとえば忘れがちだとかそういうのがあります。そのために、たとえば配慮として、自分のテストを受けるのに、一人だけカンニングペーパーが欲しいという場合です。ということは、カンニングペーパーを持って試験を受けるということは、その学生だけが履修内容とか授業の基準というのを変えてその学生だけの基準にしてしまっているので、ファンダメンタル・オルタレーションとして、そのような配慮は合理的ではないと判断されます。

2つ目はアンデュー・ハードシップ(Undue Hardship)とありますが、甚だしい困難や出費を必要とするもの。具体的に言うと、とても極端なのですが、たとえば私が腰を痛めて、明日までにエレベーターを作ってくれと言うじゃないですか。甚だしい困難ですよね、出費も一千万とかしますから、ということはそれは合理的ではないですよ、というふうに決められるんです。

もう1つはパーソナル・サービスと言いまして、個人的なサービスと考えられるもの。たとえば、大学側がその個人の学生のために車いすを提供する。そういうのは個人的なものというので、パーソナル・サービスとして判断されるんですよ。たとえば、鬱病のある学生を例とします。鬱病で心理的なセラピーが欲しいとか、それもやはり個人的なサービスとして扱われます。もちろん大学でセラピーとか、車いすの貸出をする部署はあるのですが、かと言ってそれは合理的配慮としては認められません。

●河村
そうすると、こういうふうに考えたらいいのでしょうか。
大学で提供しているサービスというのは、少なくとも2階建てになっていて、1階の部分は合理的配慮で、その上さらにパーソナルなサービス、最後の心理的セラピーが欲しいという場合にはさらに、そこの上にキャンパス内にあるセラピーのサービスを利用できる場合がある、ということですね。

●渡部
そうです。もちろん合理的配慮としてですね。
たとえば、大学側がセラピーを、その学生全体に提供します。そうしたら、障害を持っているということでその学生が使えないようなセラピーは、提供することは違法なんですよ。具体的に言いますと、たとえばセラピーを提供するのは2階で、エレベーターのないところ。そうすると、車いすを使っている学生さんは階段なんか上れないじゃないですか。ということは、そういう学生だけを差別するということで違法になるんです。
ですから大学としては、要は、学生全体に提供できるサービスは全て、障害を持っていても障害を持っていなくても同等に提供するようにと法律で決められています。

●河村
この点について、お二人から何か、ご質問やコメントはありませんか。

●萩原
その判断する人というのは、決まっているわけですね。合理的なのか不合理なのかというのを判断するのはそのセンターの中で判断していくのですか。

●渡部
アメリカの大学でそれぞれ違うと思います。たまたま私が勤めているDSSでは、DSSだけで全部判断してしまうと、DSSがたとえばなくなったとするじゃないですか。ということは、モンタナ大学は困ってしまうでしょう。ということで、もちろん私達のオフィスが合理的ですよ、合理的でないですよ、というふうにアドバイスはします。でも、教授もそういう決断力もあります。

たとえば、教員が、学生の配慮のリクエストを「合理的ではない」と判断し拒否するとしましょう。そのときは、DSSのオフィスとしてはその教員に、教員だけの個人的な決断はよくない、と提案するんですね。そのような判断は学部とか学校自体で決めるようにと提案しています。もちろんそのために学部とか教員がコーディネーターに連絡をよく取ります。学生からこういうリクエストが来たんですけど、と。たとえば、一般教養の英語の授業というのは、毎日授業に行っていないとものすごく遅れをとるんです。だから、要は参加することをとても重視するという授業なんです。たとえばそれを、学生が、3回くらい休むのは評価に影響しないと教員が決めるとします。そうすると、障害を持つ学生がたとえば10回休むとします。10回休んで、なんとか後で遅れを取り戻すように努力しますというふうに交渉するとします。それでもし教員がそれでもいいのならば合理的配慮になるんです。でも、いやいや、もう100ページもあなたは授業を遅れているでしょう。これから取り戻すという努力はわかるけど、でも取り戻すまでにたとえば、この日までにはちゃんと提出、遅れたレポートを提出することはできますか、と教員が質問するとします。それでもし、あと学期が1週間しか残っていない場合、そういうときにはそれは、合理的ではないということで、たぶんおそらく教員は「それはできません」ということになると思います。要は、英語で言うとケースバイケースと言うのですが、それが頻繁に行われます。

●萩原
では、どこかが判定するというのではなくて、ケースによって先生だったり、DSSのほうでアドバイスしたり、いろいろなケースがあるということですか。

●渡部
そうですね。でも、もちろん先生方は、障害をよく知っている先生ならいいですけど、知らない人がたくさんいるじゃないですか。ですから、DSSのオフィスとしては、何かあったらDSSに連絡をとるとか、あるいは障害を持つ学生とお互いに面談とかミーティングをして決めるように、もし何かあったらDSSがバックアップをします、仲介に入りますので、というような対処をとっています。

●萩原
はい、わかりました。ありがとうございました。

●河村
よく、試験の方法を変えて、たとえばカンニングペーパーが欲しい、暗記していなければならない試験のときに、記憶力にダメージのある学生さんの場合には難しいわけですよね。私が聞いたことがあるのは、何月何日までにレポート、回答を書け、どこで書いてもいい、何を見てもいいけれども、その時刻までにメールで提出しなさいというふうな試験がときどきあるそうですね。大学院が多いのでしょうか。そういうやり方をした場合には何を見てもいいから、カンニングペーパーの問題はなくなりますよね。たとえば、教員の側が工夫して、そういうふうに試験のやり方を変えているという傾向はあるのでしょうか。障害を持つ学生を含めた評価の方法をとるという意味で、そういう動きというのはありますか?

●渡部
モンタナ大学だけで言いますと、ありますよ。四年制大学、アンダー・グラジュエート(undergraduate)と英語で言いますが、教員が400人の学生を持っているときは、なかなか変えることは難しいんですね、やはり学生数が多いものですから。でも、たとえば50人の授業を持っているとかになると、先生も試験の仕方とかを変えやすいと思います。
具体的に実は去年、学習障害を持っているネイティブアメリカンの学生が、選択肢の試験にとても大変な思いをしたんですよ。選択肢もAという答えをとろうとしてもついついBに丸を書いてしまったりして、とても点を損していたのですね。その学生はその教員に直接話をして、自分はこれだけ勉強して、言葉ではいっぱい言えるんだ。そうしたらその先生、もう20年も働いている方なのですが、選択肢の試験をやめ、エッセイの試験に変えました。そうしたらその彼、前まではたとえばDとかFとか、本当にぎりぎりのところまで試験で点をとっていたのが、突然Aになりましたね。そういうふうに変わってきています。
やはり、教授でも、そういう話を聞くと他の教授もやはり関心を持つんですね。ですから、そういう動きがモンタナ大学でも起こっています。

●河村
同じような例で、TOEIC(Test of English for International Communication)ってありますね。標準英語の試験。あのグループが、今年のAHEAD(高等教育と障害のための会議)注釈99の大会で、TOEICをどうアクセシブルにするのかという議論をしていましたけれども、アメリカには大学に入るときにSAT(Scholastic Assessment Test;大学進学適性試験)と言うのですか? そういう標準試験が、日本のセンター試験に似たものがありますが、SATのアクセシビリティ、あるいはリーズナブル・アコモデーションというのは、結構あの成績で大学が入れたり入れなかったりということがあるとすれば、そこにどういうリーズナブル・アコモデーションというものが実際には機能しているのか、というあたりをもしわかればお話しいただきたいと思います。

●渡部
先ほど河村さんがおっしゃったように、共通試験としてSATとACT (American College Test)と2つあります。その2つなのですが、試験を受けるときにリーズナブル・アコモデーションとして合理的配慮をリクエストすることができます。でもリクエストしたからといって必ず得るとは限らないんですね。ということは、いくら障害の診断を持っていて、長い間その障害と付き合っている学生が合理的配慮をリクエストしても、SATとかACTとかから許可が貰えなかったということがあるらしいです。しかし、それらの試験の点を大学に提出しないと、大学へはなかなか入学させてもらえない。いくら合理的配慮を使ってSATとかACTとかの試験を受けても、試験の苦手な学生とかっていますから、点のよくない学生がいます。たとえばそういうときに、障害学生はどういうことをするか。大学によっていろいろ違うと思いますが、モンタナ大学でしたら、もちろんSATの点を提出する、それにたとえば自分の「こういう勉強をしたい」というエッセイも提出する。自分のエッセイにSATの試験を合理的配慮なしで受けてしまったが、この点だけで自分の入学試験の基準というのを考えないで、ほかのところも見てほしいというふうな、配慮をリクエストするんです。もし、それが合理的であれば、そして大学側もこの学生は資質があるなと思ったら、入学することができます。でもそれは大学によっていろいろだと思いますけれど、先ほど申し上げたのはモンタナ大学の一例です。

●井上
私からは、二点お聞きしたいと思います。
一つ目はいわゆる必修科目というのがアメリカの大学でもあると思いますが、特に卒業のために必要な科目であるとか、卒業と同時に取得できる資格に必要な科目についての代替科目についてです。たとえば計算障害のあるような方が、いわゆる理系などの数学を使う科目の代わりに、別な科目をとって卒業することがあると聞きました。このようなことは、いわゆるリーズナブル・アコモデーションということになるのでしょうか。

●渡部
ケースバイケースなんです。 先ほど言ったような必修科目、四年制の大学を卒業するときには、ジェネラル・エデュケーションと英語で言うのですが、ある科目を必ずこれだけは取らなくてはならない、その上に専攻する科目を取らなくてはならない、というふうに決められています。そのジェネラル・エデュケーションに数学は入っています。やはり、数学に関する学習障害を持っている学生はとても苦労しているんですよ。その必修科目をパスして実は、専門の科目もとれるというふうに、リンクになっていることが多いんですね。
たとえば、必修科目で、科目を変換してほかの授業をとりたいというのは難しいことだと思います。でも、その分、合理的配慮を使う上に、数学とかは、チューターというものが大学全体に提供されています、障害の有るなしに関わらず。それと、障害学生のために特別に無料で提供されているチューター・サービスというのも別の部署からあるんですよ。そういうものを利用して、学生は必修科目を取ろうとしています。もちろん、1回試してみて、2回、3回受ける学生も多いですけど。学部によっては、3つ数学をとらなければならない。数学100レベル、次、117番、そのあともう1つとらなければならないのですが、その117だけをとればいいというふうに、最近モンタナ大学は変えていますね。だから3つとるのではなくて、2つ、1つというふうに変わっています。

●井上
今の話でとてもよくわかりました。次に二点目ですが、いわゆる適性ということがよく言われます。実は私は高校の教員をやっておりまして、数学が苦手な生徒がいたとして、例えば大学の工学部に進学したいと考えるのは本人の自由なのですが、その適性がはたしてあるのかどうか、教員の立場から「数学が苦手だと厳しいよ」などとアドバイスすることはよくあることなのです。
ご存知かもしれませんが、日本ではある一部の大学に関しては全入に近づいてきているのです。だから、数学が多少苦手でも入学できてしまうことがあるのです。つまりLDの高校生で数学が苦手でも、入学できてしまう。このような場合、それは適性がないのに大学に入ってしまったのだから、「実は数学はできません、代替の科目で卒業させてほしい」などと言われても、問題外であるとされてしまいます。
日本ではリーズナブル・アコモデーションという考えそのものがないので、直接比べようもないとは思いますが、アメリカでも適性の問題ということで似たようなことがあるのかどうか、ご存知だったら教えてください。

●渡部
大学に入学した障害を持つ学生は、 Otherwise qualified individual with a disabilityと言いまして、大学で提供される教育を受けるチャンスが同等にあるという市民権が、ADAとかリハビリテーション法で守られるんですよ。しかし、特殊教育を受けて高校を卒業した学生で、なかなか大学に行くための準備がちゃんとできない学生がたくさんいるんですね。でも、障害を持たない学生も一緒だと思うんですがチャンスというのは必要だと思うんですよね。例として、数学でかなりの学習障害を持っている学生が一人いたんです。その学生はビジネスを専攻し始めたんです。そうしたら、ビジネスといったら統計学を1回受けて、おまけに、カリキュラスと言うんですか、いわゆる計算のほうの授業も受けなくて、とても困ったんですよ。そうしたらその学生、数学を全部、英語で言うとウェイブ(waive)と言うのですが、数学を全て免除して欲しいとリクエストした。大学側は、数学という根本的な科目を免除することは基準を大きく変えることになると判断し、それは合理的でないということになったんです。そしてどうなったかというと、その学生、自分はビジネスに向いていないなと思ったらしくて、コミュニケーション・スタディという別の専攻に変えました。そこがアメリカの大学のいいところなのですが、専攻がとても変えやすい、紙切れ1枚なんですよ、試験を受けなくていいんです。高校を卒業するまでに自分はこういう専攻をしたいと言って大学に入ってくるじゃないですか、でも授業を受けていて自分はこの専攻には向かないなと思ったときに、専攻を容易に変えることができます。 はっきりした答えになったかどうかわかりませんが。

●井上
大変よくわかりました。ちょっと余計なことを付け足しますと、日本では大学での専攻の変更は、非常にできにくい不自由なシステムになっています。大学に限らず、日本の社会ではやり直しがききにくいと思います。このような乗換が、ある程度柔軟にできるシステムというのは、是非日本でも見倣ってほしいなと思います。

●渡部
私もそう思います。

●井上
リーズナブル・アコモデーションについては、わかったと考えていいですか。

●河村
日本で適用するとどこでどういうふうになるかというのは、だいたいもうこれでおわかりになりましたか。 次に、リーズナブル・アコモデーションだけでは足りないという場合が当然、キャンパスライフでありますね。そういうときに、今一つは専攻を変えたという事例が出ましたけれども、他に、さっきパーソナルなサービス、もし大学が全部の学生に心理的セラピーを保証していれば、当然心理的セラピーも、このリーズナブル・アコモデーションとは別のベースで受けられるということになるわけですね。現実には、心理的セラピーを必要とする障害のある学生は、そういうサービスを使っているということなのでしょうか。

●渡部
はい。

●河村
それはDSSとは無関係のところ、無関係というと変ですけど、別のセクションが担当するサービスということですね。

●渡部
そうです。

●河村
その場合、DSSはどこでどういうサービスをその学生さんが受けているかというのは、学生さんから聞かないとわからないということなのですか? それとも、オフィス同士に何か連絡網があって、自動的にそういうのはわかる。これはプライバシーの問題も絡んでくるので、「なんだ、言ってくれればよかったのに」というようなことがよくあると思うのですが、そういうのは実際にはどういうふうにしているのですか? 全部学生さんが言ってきた場合だけわかるという仕組みなのでしょうか。

●渡部
本当に学生それぞれだと思うんです。
たとえば心理障害を持っていて、鬱病が、たとえば秋の終わりくらい、とくに中間試験が終わった頃に症状がでてきて、そのあと授業をサボってしまうというパターンがあるという学生がいるとするじゃないですか。そのときは合理的配慮をリクエストし、たとえば3日後にあるレポートの締め切りを延期させてもらったりすることがあります。そのときに、学生それぞれなのですが、「私実は、学生相談所のセラピーを使っているのよ」、とかって言うんです。そのときに、プライバシーのこともありますから、じゃあこれからそのセラピーとコーディネーターとあなたと、3人でコミュニケーションしたほうがいいんじゃないかという話をして、それに障害を持つ学生が同意すれば、サインをして、必要なときに連絡を取り合うというふうにしています。
セラピーだけじゃなくて、皆さん聞いたことあるかもしれませんが、ヴォケーショナル・リハビリテーション・サービス(vocational rehabilitation service)というサービスを使っている学生がかなり多いんですね。おそらく200人ちょっとの学生が今学期使っています。そのボケーショナル・リハビリテーション・サービスを使っている学生は、ボケーショナル・リハビリテーション・カウンセラーという人が必ず一人つくんです。そのカウンセラーが、その障害を持つ学生と一緒になって、就学のサポートを、大学の外でしています。やはり外でしているということは連携もDSSとして必要ですので、そのボケーショナル・リハビリテーション・サービスと何回か連絡を取り合うように、学生からの許可を持ってコミュニケーションをとる場合はあります。

●河村
そうすると、大学に入学する以前からボケーショナル・リハビリテーション・サービスのサービスを利用している学生さんが入学してきて、あらためてDSSに登録してくるというのが一般的なんですか?

●渡部
そうですね、私の個人的な経験ですけど、半分半分だと思います。高校でどのような教育とかサポートを受けたかによって、たとえばボケーショナル・リハビリテーション・サービスと会う機会がなかったという学生もたくさんいるんですね。
また、高校まではなんとか行けた、でも大学に入って「自分は障害を持っているんじゃないかな」という学生もたくさんいます。でも、診断は受けたいんですけど、診断料ってものすごいお金がかかるんですね。日本もそうでしょうけど、たとえば、ミズーラというところにモンタナ大学はあるのですが、そこでたとえば学習障害の診断を受けようとするときに、一番高いので1,600ドルですから、20万円するんですよ。もちろんちゃんとした的確な保険を持っていれば、保険はきくんですけど、やはりお金に不自由している学生にとってそれは大きな問題なんですね。そういうときに、コーディネーターとして、じゃあボケーショナル・リハビリテーションに行けば、自分が今までこういうふうな苦労をして、障害があるんじゃないかなというような歴史を伝えると、もしかしたらボケーショナル・リハビリテーション・サービスで査定(Assessment) といいますか、検査を受けさせてもらえるだろうから、行ったらどうだというふうに紹介はしています。ですからそれで、大学1年まではなんとかなった。2、3年になって、DSSに来て、友だちから自分はADHDがあるんじゃないかと思われている。確かに、読みができない、ノートもとれない。そういう学生が来て、いろいろ話を聞いたらやっぱり、検査を受けたほうがどうもいいときに、お金がない。そうしたらボケーショナル・リハビリテーション・サービスに行って検査を受けたらどうかということで、紹介をよくしますね。

●河村
DSSがコーディネートして、キャンパス内でリーズナブル・アコモデーションを利用する、活用するためには、診断が絶対に必要ということなのですか。

●渡部
ケースバイケースなんです。モンタナ大学は、他のアメリカの大学は診断書は必ず必要だというような厳しいところもあると思うのですが、モンタナ大学は、診断は診断。でも、一番自分のことをよく知っているのは障害者自身だと私は思うんですよ。その障害を持つ学生と1対1で1時間、面接をします。それで面接をして、ああ、自分は高校のときはこうだった、高校のときも特別教育は受けなかったけれども、英語で言うと高校にリソース・ライブラリーというところがあって、たとえば学校の授業についていけないときはそこに行って、お手伝いをしてもらうところがあるんです。そこによく行っていたという話を聞いたりとか、学校が終わった後、日本で言うと塾みたいなところがアメリカにもありまして、一番よく言われているのはサリバン・ラーニング・センター注釈1010とかって言うのですが、そこに親に通わされているとか。それで数学をとって、たとえば1年間の遅れを取り戻したとかっていう話は聞くんですよ。そうしたらね、診断書がないからサポートできませんということにはなりませんよね。もちろん、診断を持っているということは障害を持っている学生にとってもいいことだと私は思うんですね。というのが、診断をされているから、自分のいいこととか悪いこととか、得意なこととか不得意なこととかもわかるようになるから、そういう意味でいいですよと言うんですけど、かといって診断をするのを待っていて1か月とか2か月とか過ぎちゃうでしょう? そうしたら学生は遅れをとりますから、ケースバイケースとして、診断がなくてもそういう歴史を持っている、もちろん実はADA法で先ほど、歴史があるとかそういうふうに見なされたとか、それに適合したら、サポートをし始めます。

●河村
そうすると、ADA法で言っているヒストリー(診断、症状等の履歴)というのは、必ずしもいついつ診断を受けたというヒストリーではなくて、その人のライフ・ヒストリーとして客観的に見て、そういう障害を持った困難を抱えた歴史がある、と見なせば、そのヒストリーの中に入りますか?

●渡部
すいません、言い方に誤りがありました。ヒストリーを持っているというのは、昔こういうことがあったということで、そういうふうに見なされたということですね。

●河村
では必ずしも医学的な診断書というものは必須ではないし、先ほど1,600ドルの診断と言うのですけれども、これをもう少し、どういう診断なのか、日本でやっている診断と同じようなものなのか、知るためにもう少し詳しく教えていただけますか。

●渡部
たとえば学習障害の診断として、IQテストがまずありますね。ウェイス(WISC)というのですか、それがよく使われています。そのあと、アチーブメント・テスト、ウッドコック・ジョンソンをたぶんたくさん使っている、サイコロジストですか、心理学者ですかそういう査定をして、そのレポートを書いて、9時間が1,600ドルということになっていると思います。 ADHDは、似たようなものなのですが、その中にプラス、他の試験がいろいろありまして、たとえば私が受けたものはですね、ちなみに私もADHDの試験を3年前に受けたのですが、ミズーラで。そのときは、IQテストとアチーブメント以外に、たとえば画面を見て、記号みたいなものが出ていて、それをコンピュータでクリックしてちゃんとそれを認知しているかというような試験、言語とは全く関係ないもの。

●河村
視覚的な認知ですか。

●渡部
ええ。そういうのをいくつか試験を受けて、検査していると思います。そういう査定といいますか、審査する人によってそれぞれだと思うのですが。

●河村
そうすると、9時間以上かかる。LD、ラーニング・ディスアビリティで9時間、ADHDの場合で9時間以上ですね。

●渡部
ええ。査定をする人によってそれぞれです。
先ほど言いました1,600ドルというのは一番高いお金をとっているミズーラ市のサイコロジストで、一つのDSSのサービスとして、いわゆる紹介状というのですか、私達のオフィスにリストがあるんですよ。たとえばこのサイコロジストだったら料金はこれくらいとります、住所はこれ。そういうリストを障害を持っているのではないかという学生に渡します。そうしたら選択ができるじゃないですか。1,600ドルなんてとんでもないという学生もいれば、中には一番安いので3時間~4時間くらいで受けられる、たしか150ドルで受けられるのがあります。そのリストを渡して、学生が自分で選択して連絡をとるというふうにしています。

●河村
ここで言うサイコロジストというのは、日本で言うと臨床心理士にあたるのですか。

●萩原
そうですね。アメリカと違い、日本ではサイコロジストとカウンセラーという明確な区分があるわけではありません。臨床心理士が検査を取ることが多いと思います。

●河村
日本ではそうすると、そういう診断、日本で学生さんが診断を受けたいというときは、どこへ行ったら一番いいのですか? 先ほどの大学生で、ここまでなんとかやってきたけど、大学に入ってみてちょっと困難があって、診断を受けたいと思った場合、ミズーラの場合はうかがいましたが、日本だとどういうふうになるのでしょう。

●萩原
臨床心理士は診断はできないので医師にオファーしないといけないのですが、発達障害の診断を専門としている病院が非常に少ないです。特に子どもを対象とした病院であればまだ数があるのですが、青年期、大学生になると本当に数が限られてしまいます。紹介して診断していただくことはあるのですが、9時間かけて丁寧に診ることはまずないと思います。 あとは、IQ、知能検査くらいはやってくれますけれど、診断が出るまでにかなり時間がかかるところもあったり、青年期はお断りですと言われることもありますし、なかなか診断を得るまでが大変です。

●河村
そのあたり、実際に高校生を指導しておられて、診断を受けたほうがいいんじゃないか、というようなことをおっしゃることはないんですか?

●井上
日本では、この4月から特別支援教育が本格的にスタートしました。メインは義務教育、小・中学校ですが、文部科学省では高校も対象だと言っております。しかし実態としては、やはり小・中がメインなのですね。それから発達障害者支援法注釈1111では、大学及び高等専門学校でも、発達障害者への適切な教育上の配慮をすることとしています。
日本の場合は、LD等は教育的な診断名で、正式には「診断」という言い方はせずに「判断」という言い方をするのですね。たぶんこれは日本語の「診断」という言葉が、医学用語であると狭く取られることを避けているのかと思います。
つまり日本では、教育的な特別な支援が必要かどうかを「判断」するということなのですね。しかし学校の先生が直接判断することはしません。校内委員会といって学校の中で委員会を作り、管理職、担任、養護教諭などで構成される会議を開きます。保護者は会議には直接関与しませんが、保護者からの意見も聞きます。そこから校外の専門家からなる委員会にかけるのです。そこには心理士や医師、その他専門的な知識を持った方が参加しています。もちろん心理テスト等の結果も参考にします。それで、たとえばこの人は学習障害、LDでしょうというような判断をそこでします。その後に特別支援教育の対象となり、各学校で選任されている特別支援教育コーディネーターが関係者と協議しながら、個別の教育プログラムを作成していきます。

ただ、なにぶんこの4月にスタートしたばかりなので、先進的な地域もありますが、地域格差や学校格差もあり、むしろそういう判断を受けたことによって不利益を受けている、というようなことも実は残念ですがあるようです。もちろんそれは教員や周囲の無理解が原因だと思うのですけれども。
一般論で言いますと、高校ではまだまだ意識が低いのです。むしろ低いというよりも、たぶん、高校レベルの年齢では、本来の発達障害よりもそこから派生した二次的な問題のほうがクローズアップされるからかも知れません。たとえば低学力とか非行とか、引きこもりとか、そちらのほうがクローズアップされることが多いのかなと思います。あとはいじめ問題ですね。いじめ問題もよくよく見ると、根っこに発達障害があるようなケースもあるな、という感じですね。
少しずつですが、発達障害に関する関心が高校でも広まってはいます。養護の先生を中心にして関心が広がっているようです。教員の中でも、「あの子は普通の教え方とは違う方法でやったほうが良いのでは?」というようなことなど話題になってきています。 ただ、16~18歳の年齢のご本人に対して、「君はもしかしたら障害が」と伝えるのは日本の場合は勇気がいります。親の方がきちんと理解してくれればいいですけれども、これはちょっと極端な例ですが、「うちの子を障害者扱いするのか」と抗議されてしまったということも起きていますね。

付け加えますと、明確な判断基準というのは、文部科学省では試案の形でしか出していません。アメリカのDSM(精神障害の診断と統計の手引き)を下敷きにして、日本流にアレンジし、あとは実際に教育現場で携わっている先生方の見立て、専門家の見立て、それから保護者の意見ですね。そういうことを含めて総合的に判断しなさいということです。要するにできるだけ、気になるお子さんはすくい上げましょうという考え方。そこでもし、本当はLDではないのにすくい上げることは、それは取りあえず良しとしましょう。むしろ手からこぼしてしまうのが問題でしょう、という考え方のようですね。
このようなことで多くのお子さんは助かっているのですが、逆に「僕を特別扱いしないでくれ」ということで、あるいは親が「特別扱いしないでくれ」ということで、ちょっとトラブルになっているケースもあると聞いています。 とにかくまだ始まったばかりなので、多少の混乱はあると思います。

●河村
結局今の日本の学校の環境だと、ちょっと特別扱いされると、いじめの危険が出てきたりとか、そういう本人のためにならない要素がたくさん出てくる可能性があるということですね。

●井上
そのような可能性はもちろんありますが、否定的な部分だけを強調するつもりはありません。

●河村
診断のことをもうちょっと。すると、大学生の場合は、どうしているんですか?

●萩原
実際には、確かに相談に来た大学生で、障害かなと思われる学生で、診断を勧めない学生もいるんです。本人にまるでそういう意識がないとか、ご家族がそういう理解がまるでされていないとか、そういうことを言うととても本人が不安定になりそうであるとかいう場合に、はっきり言わない場合は確かにあると思いますね。もちろん伝えたほうがいいなと思いつついろいろ工夫しているのですが。診断がついていないそういう学生というのはかなりの数いらっしゃると思います。あとは、いわゆる医師の診断というのとは別に、知能検査とか、その学生の得意なところ、苦手なところというのを見てあげるというのはとても大事だとは思っていますが、あまり大学の学生相談室に知能検査が置いてないんですね。せめてそれくらいはやってあげられるといいなと思っています。

●河村
すると潜在的にはかなりいるのではないか、大学にも。なんとか入ったけれどもすごく苦労しているという学生が、たくさん、目に見えない障害でいるのではないかと思われるわけですか。

●萩原
そうですね。
もう一つ言うと、診断がなくても、そういうふうに見なされれば大丈夫というアメリカのお話がありましたが、今大学のほうで支援をどうするかと考えるときに、先生方に交渉するとしばしば言われるのが、「診断はあるのか」ということです。そこでひっかかるのが一つと、では診断を持っていればそういう支援を受けられるのか、その子だけ受けられるのかという話になるんですね。どこで線引きをするかというのがとても難しいところなのですけれども、基本的には、先ほどの言葉で言うとパーソナル・サービスで現在大学では対応しているので、この学生はたまたま学生相談室に行って、たまたまこの担当者に当たったからそういうサービスが受けられるのか、という話になってくるんですよ。それでしかも、支援をお願いした先生が理解があるかどうかというのも非常に大きな個人差があり、いろいろな試験のやり方を配慮してくれたりということもあるのですが、対応した人により状況が左右されることが多いです。
また、全部の学生にできないでしょうと言われて、それが一般的になってしまったら対応しきれないではないか、大学として、組織としてそれは認められないのではないか、という議論になることがあります。そのような状況の中で、診断というのが、日本の大学でどう扱われるかというのが本当に大きな問題かなと思っています。

●河村
何か、かなり道は遠い感じで。日本の場合は特に。
もう少しアメリカの話に戻して、今、診断ということが出ましたが、日本で先ほど、ちょっと回りと違うといじめられるといういじめの問題が深刻にあるのですが、アメリカの場合はそこはどうなのか。診断を受けて、開示する、回りの友達に開示する場合もあるし、しない場合もあるでしょうけれども、そういうとき、一般にはカウンセラーなりDSSのコーディネーターとしては、何か助言をすることはありますか?

●渡部
いじめというのは、アメリカでは高校でよくあるらしいんですよ。日本だと中学校でよくあると言われるんですね。小、中と。高校になると落ち着くんですよね、確か。
アメリカは、中学校でもあるのですが、高校が多くて、大学になるといじめというよりも、もう勉強で忙しいからそれどころではない。
やっぱり、診断されている学生が多いもので、逆に先ほどもお話ししましたように、友達に「お前はADHDじゃないか」って言われたからDSSに来たという学生が多くいます。そういう意味では、大学でいじめというのはないと思いますね、と私は願っていますけれど。

●井上
日本でも、大学生になればさすがに露骨ないじめはないのかなとは思いますが。
さっきの診断の話に戻ります。古い話で恐縮ですが、私が10年ほど前、アメリカ在住の日本人の方から聞いた話です。アメリカでは二十歳近くになってから診断数が増えるとのことでした。10年前ですから今とは多少違うと思いますが、日本では、学齢期のそれもだいたい9歳から10歳ころに診断数のピークがある。学校での勉強につまずき始めた、友達とうまく係われないなどが主訴で専門機関等を訪れることが多いのです。ところがアメリカでは二十歳に近づくころに増えているのだそうです。それはなぜですかと聞いたら、それは有利になるからという答えでした。有利という言い方が適切かどうかわかりませんが、診断を受けることでサービスが具体的にあるし、特に就職していくときに有利だから、と聞いたのです。

日本の場合ですと、診断されレッテルを貼られても、そのレッテルに見合ったサービスなり配慮があればいいのですが、貼られただけで終わりになってしまうことがある。また貼られたことで不利益を受けたという実例もあるようです。もちろんこれは周囲の無理解 が原因ですが、それは法律や制度がどうこう言う以前に、障害に対する考え方や見方という根本が、アメリカと日本では違っていることが原因だともと思います。さすがに最近は少しはよくなってきてはいますが・・・。
現在でもアメリカでは、二十歳近くで診断数が増えるような傾向はあるのでしょうか。

●渡部
有利という言葉にちょっと私は戸惑っていますが。言っていることはわかるんです。私が個人的に思うことには、日本もそうですが、アメリカって本当に競争社会だと私は思うんです。基準に合っていないともうすぱっと落とされるんですよ。そういう競争のある大学で、ついていこうと思ったら、大学の1年のときは、そのままでパーティーとかいっぱいして、個人的なプライベートな生活を楽しんで、それでもいいのですが、でもやはり2、3年生、4年生になったら、そのぶんいままでちゃんとやっていなかったことがもろに出てくるという意味で、それではやっていけない。
友達からもいろいろ言われた、集中していないとか聞いていないとか、私はADHDのことを今話しているのですが、そうしたら就職もなかなかできない、卒業もできない、単位を本当にしっかりとっていないと、アメリカの大学は、日本もそうでしょうけれど卒業できないんですよ。そうしたら本当に切羽詰まった状態になるので、逆に診断を受けたいという学生が、私は多いと思うんですね。有利というのですか、確かにADA法とかリハビリテーション法で市民権が保護されるというのは確かに素晴らしいことだと思うんです。でもそれは、ベネフィットというのですか、得点ではないのですよ。なぜかというと、合理的配慮をリクエストするのに時間もかかりますし、自分のことも言わなければならない。障害を持たない人はそんなことをしなくていいですよね。だから、変な意味では、大変なことなんですね。ですから私にとっては、有利とは思わないんですね、ということは一応強調しておきます。

●河村
たぶん、本来配慮すべきことを配慮しないで済ませていることに対する是正の措置なんですよね、合理的配慮というのは。配慮が足りなかったということを是正すべきである、という基準を明らかにしたというふうにして、それでやっと同じレベルに。つまり、建物なんか一番極端にはっきりしていますよね。車いすの学生が入ってくるというのがわかっているのに段差がいっぱいあったら、これは配慮に欠けている。だからスロープをつけろという。それに相当するものがいろいろなところに合理的配慮という概念で今展開されている。困難は一人一人みんな違うので、結局それを一つ一つ診断とかこれまでのライフ・ヒストリーとかに照らして、どうすればその困難が減るかということを一緒に考えて、ここまではできるね、というのを積み重ねていったんですね。
そういう意味では、これはパートナーシップになって初めて、最後に合意できることであって、実は権利を設定することによって初めて対等の立場で合意点を見つけられる。そのための基礎であって、学生は結局合意点を見つけるために担任の先生と担当教授と話し合わなければいけないわけですよね。合意しなければいけないわけですね。そうしないと、段差解消ができない。そのぶん余分な負担であることだってあるわけで、不利を是正するという意味で、傍から見るとそのほうが有利だというふうに見る人もいるかもしれないけれど、あくまでも不利の是正なんだろうというふうに整理できると思いますね。
先ほどのアメリカの情報、もう一回戻しまして、日本ではいじめは中学時代、高校で落ち着いてきて大学はないだろうというお話があったのですが、実は昨晩、大学でも実はいじめがあるということを聞いたばかりなので、実際のいじめの被害者からですね。それで、どうもあるらしいんですね。すごく面白いなと思ったのは、ものすごく忙しくなっちゃったらいじめどころじゃない。レポート、レポートでたくさん読まなければならないというときに、いじめている暇なんか確かにないでしょうね。

日本の場合は、中学から高校で受験戦争がありますよね、まず一つ。それから大学に入るときも受験戦争がありますね。高校にいる間というのはその受験戦争と受験戦争のちょうど中学、高校受験、そして最後の大学受験までの、経過措置みたいなもので、けっこう忙しい。大学受験をしなければならないとなったら、けっこう忙しい時期なのだろうと思います。大学に入っちゃうと今度はまた暇になっちゃっているというのが今の日本の大学生なので、そういう意味ではまたいじめる暇ができちゃうのかもしれないのですが。もう少しまじめな話にしますと、アメリカの場合、有名な方々が発達障害をお持ちで、そういうことを自ら開示して、それからかなりドネーションとして自分と同じ困難を抱える人達を支援するんだという人達が、すごくいいイメージで、何人もいますよね。そういう人物像を見ると、「ああ、あの人と同じなんだ」というような、自分の困難の理解の仕方というのができるのかな、と思うのですが、残念ながら日本にはあまりいないんですよね。たぶんあちこちにいるのだろうと思うのですが、あまりいないんですよ。そのへんが、傍から見るとアメリカではそういうふうにけっこういわゆるカミングアウトというのか、自分で開示して、堂々と同じような困難の若い人を助けるんだという人達がいるというのは、イメージをよくすることにつながっているのかな、と思うのだけれど、実際にはどうなんですか? アメリカの国内での、自分も診断を受けようというような、抵抗を減らす、あるいはいじめが特にそれだからといってあまりいじめられる危険がないことに、繋がっているのか繋がっていないのか。障害に対する社会的なイメージ、概念というのはどういうものなのでしょうか。

●渡部
障害を持っているということで、もちろん偏見もまだたくさんあります。よく日本語で言うハンディとかハンディキャップとか言いますよね。実はアメリカではそれはよくない言葉だと受け取られます。なぜかというと、皆さんご存知かもしれませんけれど、要は手にキャップを持ってお金をもらっているという、お慈悲をもらうという意味があるらしくてですね、そういうふうにハンディキャップを持っているという意味で、確かにそれを恐れて診断をしないという学生も確かにいることはいるんですよ。そういう恐れとか偏見というのは、アメリカも日本も国境を越えてユニバーサルなものだな、と思います。確かにアメリカの市民権はしっかりしていて、私は本当に感謝しているのですが、でもやはり完璧ではないということを私は言っておきたいと思います。
モンタナ大学で一番私がとても誇りに思っていることは、障害を持っている学生が、ちゃんと自分の意見を言えるように、ということは別の意味でカミングアウトをするように、たとえば自分が大学の中で物質的・情報的・心理的なバリアに接したときに、それをレポートできるシステムを作っているんですよ。そのシステムというのは、DSSのウェブサイトから、バリア・レポートというところに行きまして、そこで障害を持っていようが持っていなかろうが、そういうバリアに接した、そういう体験をした、そういうものを見たということをレポートできるようになっています。そのレポートが、DSSのディレクターに届きまして、それで審議をして、それでバリアがあるということがはっきりしたら、それを適切なところに大学に持って行って、それを解消しようとする努力をしています。

もう一つ大切なことは、DSSだけが大学のキャンパスを、障害を持とうが持たなかろうが同等に教育に参加できるということを努力しているだけではいけないんですね。だから障害学生も一緒になってできるという意味で、障害学生が運営するクラブみたいなものがありまして、そのクラブが、政治的というか、ポリティカルにものすごくアクティブに活躍しているんですよ。そのグループの障害を持つ学生達が、たとえば大学の学長のミーティングに参加したり、大学で建物の、キャンパスも広いですから、その中に建物とか建つじゃないですか。建てるために計画とかを立てるでしょう、それにそのグループが参加して、自分の意見を言って、最初からプランのところから言うようにしているんです。

●萩原
うらやましいですね。

●井上
日本でも、確か四国の大学で、障害を持つ学生さんがこのようなことをやっていると聞いたのですが、確か四国大学だったでしょうか?

●渡部
あります、徳島に。

●井上
ただ、発達障害の方ではなかったようです。聴覚、視覚の障害だったと思います。日本でも皆無というわけではないようです。

●河村
身体障害のほうは、わりとコンサルティングに参加することがありますね。それも、聞かれて答えるというのがわりと多くて、主体的にというのはなかなか難しいですね。今の学生も、障害学生のクラブというのは、900人、障害のある学生がいるなかで、半分くらいは見えない障害の学生さんですよね。そうすると、身体障害の学生さんも、その他の障害の学生さんも一緒にこのクラブを作っているということですか。

●渡部
そうです。だから、身体もあれば発達障害もある。
今のところは、わかりやすい障害というのですか。とっつきやすい問題というのはやはり見えるバリアが一番なので、今のところそのグループは、スロープが足りないだとか、スロープに自転車がいっぱい並んでいて、車いすを利用することができないとか、そういうことに集中していますけれど、学習障害を持っている大学生も参加していました。学習障害を持っていてもたとえば図書館の利用がちゃんとできないから、それに対しての問題を大学側に提出したりとか、そういうこともしています。