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発達臨床-人間関係の領野から-

NO.5

第4章 「経験」の世界

~子どもの活動における経験の読みとり~

1.発達における経験の役割

 私たちが、子どもの臨床や保育の理論・実践について学ぼうとするとき、「経験」という言葉ほど多く語られる用語はないであろう。それほど子どもの世界を理解しようとするときの核となるような概念であるにもかかわらず、その用いられ方はさまざまであり、また、子どもの経験世界はいかなるものか、所与の経験がその子どもの発達にどのような意味をもつかなどということについては、いまだ模索中といってさしつかえないだろう。
本章は、保育研究において、子どもの自ら生きる主体性を尊重し、それを育てていくために、「経験や活動の読みとり」の視点をどのように定めるかという問題意識のもとに企画された特集に寄稿を依頼された論文に加筆したものである(武藤、1990)。
まず、経験の概念を整理するところから始めて、経験が子どもの発達にどのように位置づけられているのかについて考えてみたいと考える。

(1)子どもの経験世界

 発達研究の分野で、経験という言葉がまず用いられるのは、発達は生得的か、経験的かという命題においてである。しかし、そのような二者択一的な論議はすでに意味をもたない。発達という変化は、無差別な変動でもランダムな変化でもなく、ある方向性や秩序をもつ変化ではあるが、その過程は、個々の子どもにあらかじめ存在しているものが自生的に展開するといったようなものではなく、子どもが生を受け育まれた社会、遭遇する経験と深く結びついたものだとみなす発達観はすでに定着してきているからである。したがって、近年は、いかなる経験が、発達のどのような側面に、どのような影響・効果をもつかという、経験が発達において果たす機能的役割についての実験的、操作的な検討が活発になされてきているようである。
しかし、経験とはきわめて暖味で、機能別に分けることの困難な総合的な概念である。ひとつの活動は、情緒的経験や、運動感覚的経験も、知的経験も含み得る場合が多い。ましてや、一人ひとりの経験世界の複合的な集積の場である集団などの関係状況においては、そこでの経験がどのような連続性をもって各々の発達に関与していくかなどというテーマはあまりにも大きい。
あるとき、5歳の子どもたちがお弁当を食べながら好き勝手なおしゃべりをしていた。ある子どもが-その子どもは東京の環状線であるY線に乗ってそこまで通って来ていたのだが-得意気に言った。「ぼく、今日もY線で来たんだよ。Y線ってぐるっとまわるんだ」。するとそれを聞いたD男がややあって尋ねた。「ぐるっとまわってこわくない?」D男は空間認知の発達にやや混乱がみられ、自分の後ろにある椅子に座ろうとして床に誤ってしりもちをついてしまうような体験をたえずもつような子どもであった。D男にとっては、毎日ぐるりと回転する電車に乗ってくる友達は英雄であり、自分はY線には決して乗らないようにしようと心に決めた一日であった。子どもとともにいると、このような思いがけない経験の表出の連続である。言葉や行動などにあらわれてくるのはそのほんの一部にすぎない。このように暖味で複雑な子どもの経験世界にともに身を置くことにより、実験的、操作的手続きからは得られないある目的への新しい知見を見い出すことも可能であるかもしれないととりあえず考えたい。理論化とは、関係ある現象を包括的にまとめ、ひとつのまとまったイメージを与えるようなシステムの付与であると言われる。そのような考え方に従い、子どもの発達における経験の役割について具体的な活動の中から考えていきたいと思う。

(2)二種類の経験の意味

 一般に経験とは‘環境との接触’を意味すると受け取られがちである。しかし、経験とは、単にある環境が与えられ、その中に子どもがおかれるということと同義ではない。それではどのようなときに、それが発達における経験として意味をもつのであろうか。子どもの経験が明らかにするものは何であろうか。ピアジェの研究は、さまざまな角度から子どもの理解に大きな影響を与えてきたが、彼自身、経験については、認知構造の発達の基礎的な要因のひとつとして重視し、‘心理的に非常に異なる二種類の経験’を区別することを強調している(1979)。
つまり、二種類のうちの第一は、対象物自体の経験(物理的経験)であり、それは対象そのものがもたらす知覚的情報に基づく経験を指す。たとえば、ものの重さの違いを見つけるために手にとって重さを計ってみるような場合であり、普通使われている意味での経験である。それに対して、第二は、主体の行為の経験(論理-数学的経験)であり、対象に働きかける自身の活動からもたらされる経験をいう。これについて、本論のテーマにきわめて示唆に富んだ例が挙げられているので、やや長いが引用したい。
“少年が4~5歳の頃-正確には何歳だったか私は知らないが、とにかく小さな頃-彼は、庭の地面にすわって、小石を数えていた。そこで、これら小石を数えるために、彼はそれらを一列にならべ、1、2、3、と10まで数えた。そして数えるのをやめ、逆方向に数えだした。彼は終わりから始め、やはり10個あるのがわかった。彼にとって、ひとつの方向でも逆の方向でも10あるのは、不思議であった。そこで、円形にならべて数えてみると、やはり10個あるのがわかった。これを逆方向に数えても、やはり10個あるのがわかった。そこで、さらにならべかたを変えて数えてみると、やはり10個であった。そこで彼はひとつの発見をしたのであった。さて、彼はいったい何を発見したのであろう? 彼は小石の特性を発見したのではない。順序づけるという活動の特性を発見したのである。小石は、順序をもっていなかった。直線的な順序、循環的な順序、あるいは他のどんな順序でも、それらを導入したのは、彼の行為であった”
ピアジェは、この二種類の経験の違いを認識することは、教育的見地からするとたいへん重要なことであると指摘している。つまり、子どもの知識は環境に接して引き出されるのではなく、環境に働きかける子どもの活動自身から引き出されるのであること、それゆえに、外的条件を繰り返し提示するたぐいの教育的働きかけは、発達の要因となる経験とはなりにくいことを示唆した。このことは、私たちが経験の役割について考えていくときの共通の前提となるであろう。

2.子どもの活動における経験の連続性

 さて、実際に、子どもの発達の過程で経験が明らかにしたものは何かということについて考えようとするとき、私たちは何らかの基本的な観点を成立させる必要があるだろう。よく口にされる「経験の連続性」ということもそのひとつになるかもしれないと考える。この経験が他の経験にどのような影響を及ぼすことになるのか、この経験は以前のどのような経験に支えられて達せられたものであるのかなど、私たちは、いつも、子どもの経験における連続性を重視して子どもとの活動を発展させていこうとしているのではないか。そこで、本項では次の三つの視点にしぼって「経験の連続性」について考え、子どもたちの経験をどのように読みとっていったらいいのかということに関しての考察をすすめていきたい。まず第一に、経験が子どもの心理的状況にもたらす変容性について、次に、経験における主題の時間的、空間的連続性について、最後に、経験の永続性、一般性につながる表出の確認について順次すすめる。

(1)心理的状況における変容性

 もちろんここでいう連続性とは、時計が刻む時の連なりそのものを意味しないが、経験の成立にとって時間軸は不可欠である。
心身に障害をもった子どもの発達過程は、よく「おくれ」という時間軸を用いた言葉でいいあらわされることがある。しかし、その子どもたちの発達経験は、先行するようにみえる一般児の経験をただ後づけるだけと解釈するのは間違いである。たしかに障害に由来するものの存在が、その子どもの経験を制限したり、また経験のしかたを特徴づけるという傾向もみられなくはないが、そのことがかえって、一般の発達過程では見落とされたり、無視されたりしている発達における経験の役割について、新鮮な視点を私たちに提供している場合も少なくないのである。
障害をもつ子どもたちのグルーブにおける次のような具体的な活動の経過から、経験の連続性について考えてみよう。
ある初秋のことであるが、通ってくる子どもたちのグルーブの活動のテーマとして‘色水遊び’をしたことがあった。都内にしてはめずらしく自然味あふれる園庭で、咲き残りの紫色のアサガオの花や、早くも色付いた草の実などを集めてきて、それをバケツの中でギュッと絞ると、水は一瞬にして鮮やかなピンクに変わり、その遊びはどの子どもたちをも楽しませていた。色水をまき散らしたり、小さな穴のたくさん開いたビニール袋に水を入れて‘噴水ごっこ’に興じている子どもたちの中にあって、座り込んで動かない5歳のE子-彼女はまだ歩くことも、話すこともできないのだが-を見つけて近寄ってみると、E子は不自由な自分の手を水の中に入れてはそっと開き、ピンク色に染まった手をじっと眺め、そして、水から出しては手を目の前にかざすようにしてまた眺め、という動作を何十回となく繰り返しており、その日はそのことに熱中して終わった。
E子は2時間以上もかかって母に背負われて通わなければならない事情にあったので、通園は週に1度が限度であった。そのため母親は、園で楽しんだことはできるだけ家でも経験できるように生活を工夫されていたのだが、次回来園したとき、「さっそく家でも色水遊びをしました」と、次のような内容が連絡帳に書かれてあった。
家でもやはり色水で長く遊んでいたが、ふとテーブルの上のコッブに気づき、それを指さした。母はE子の意を察してコップにピンクの色水を入てやると、E子はうれしそうにそれを眺めていたが、やがて冷蔵庫を指さし、中にそのコッブを入れさせた。そしてさらに戸棚の中に並んだコップを指さした。母は、ジュースと違うよ、飲めないものは冷蔵庫へは入れないんだよと、よほど教えようかと思ったが、まだ言葉をもたず、日頃めったに気持ちをあらわさないおとなしい子の、珍しい人への要求なので、うれしくて観念し、次々にコップにピンクの水を満たし、E子の要求に応じて冷蔵庫にしまってやった。最後に、E子は、自分で冷蔵庫まで這っていって、満足そうにドアをバタンと閉めてから他のことを始めたという。
このエピソードは私たちスタッフをひどく感動させたが、その感じ方はそれぞれであった。たとえば、園と家庭の連携がいかに大切かを実証したと感じた者もいれば、園と家庭の生活の時間と空間における自由度の違いが子どもの経験の内容をいかに変えるかという点について反省を含めながらも、だからこそ、両者の生活経験の違いが生かされることによって子どもの望ましい発達が促されるいい例だという意見もあった。そのときは、私もほとんど同様の感慨しかもたなかったが、その一連の経験がE子の発達においてどのような意味をもつものかということについて、E子の心的内容という点に注目して私がある考えをもつに至るまでには、さらに彼女と過ごす半年あまりの時間が必要であった。
E子はそのうち、他の子どもたちが何をしていようと、たいていの時間をクレヨンで紙に何か描いて過ごすようになった。それは、細い糸くずかと見まがうばかりの弱々しいタッチで描かれており、白い紙の上にただ無意図的に色が印されているだけのようにもみえた。
あるとき、他の子どもたちが、保育者に横抱きに抱きかかえられた姿勢で両手を広げ、高い台の上からブーンと飛び降りてもらう‘ひこうきごっこ’に興じている傍らで、E子はいつものようにクレヨンと紙で過ごしていたが、保育者が誘うと、珍しく両手を横に伸ばし自分もしたいという意恩表示をした。2~3回横抱きにしてもらい精いっぱい両手を伸ばして飛びおりてもらった後、這ってさっきいた場所に戻り、紙にクレヨンで横に1本の線を引いた。「ひこうき?」と問うと満足そうにうなずいた。
何度か繰り返しては、飛行機の場所から紙とクレヨンの自分の場所へと行きつ戻りつする彼女の行動から、それまでの経験の積み重ねの意味についてある示唆を受けた。つまり、E子が1本の線で‘ひこうき’を表そうとするまでの過程に、あの色水遊びの一連の経験がもつ意味を次のように推測できないであろうか。
再びピアジェ(1979)の発達論から考察すると、彼は、“人間の精神は、この世界で自らの方向を定めるために、変化する現象の流れの中に恒常的なものを設置する必要がある”という考え方を論の支持点とし、子どもが“次第に対象、量、数、時間、空間に関する原初的不変性原理を発見し、それが子どもの世界像に客観的構造を与える”みちすじが、とりもなおさず知的発達ということなのだという考えをあきらかにしている。そして、空間的不変性も時間的持続性ももっていない“現れたり消えたりする映像”から成り立っているであろう乳児期の頃から、自らの活動をとおしてまわりの世界にはたらきかけ、そこで成立する感覚運動的知覚の恒常性(形、大きさ、色彩など)こそ、その上に構成されるすべての不変性原理の基礎となるのであるという見解のもとに、乳幼児期の経験の様式がいかに大切かということを示唆している。
E子は視力にも問題があり、運動の不自由さもあって、まわりの世界とのかかわり方における空間的、時間的経験の制限のきわめて大きい中で育ってきた。その過程で、‘きれいな色’にふと出会う。手に染まるその色が消えたり現われたりする様子を心的映像としてしっかり留めるべく、まさに開閉するドアの機能に象徴される冷蔵庫にそれを保存することで、見えなくなった対象の不変と持続を確保しようとしていたのではないか。後に、自分の世界に刻まれた確かなものを再構成し表象化-描画で表現する力を獲得することができるまでのみちすじをたどってみてはじめて、即時的な読みとりでは理解することの難しかった経験のひとこまひとこまが連続して見えてくるような気がしたのである。‘色水遊び’は、E子にとって、色水への物理的経験が一義的なのではなく、さきの例にあげた小石を‘順序づける’という子どもの活動の特性を引き出した経験に対応させて考えると、世界のありようを心に‘保存する’活動を引き出した経験として意味があったということも、時間的経過、空間的広がりを共有してはじめて理解されてきたのである。
E子の、経験によりもたらされた心理的状況の変化は、ピアジェの知的発達における発達段階では、感覚運動的知覚の恒常性の獲得として、一般の発達過程では1歳台で観察される活動と対応するものかもしれない。しかし、何かを獲得していくプロセスを広い意味で学習というならば、それは、環境に働きかけて行われる活動が、孤立した、しかも受動的に行われれる活動からではなく、主体的に相互に関連づけられた全体としての活動になることによってはじめてその子どもの発達に意味あるものとなるのであり、そのような経験が子どもの学習にとっていかに重要なものであるかということを、E子は何倍にも拡大して私たちに示してくれたのである。
発達に障害や遅れをもつ子どもたち一人ひとりの、そこにおける一つひとつの具体的活動はかけがえのない個別性に富んでおり、しかし、それは一般の発達過程と異なるわけではない。視力や手足に不自由さをもつなど、それゆえにという意味ではなく、その条件を生かしたある典型をみせながら展開するさまざまな活動から、直接的ではなくとも内容的に、発達への一般化、普遍化に通じる意義深い視点が提供されることは多い。

(2)主題の連続性

 私たちが子どもの経験について考えるとき、ある一定期間、主題とかテーマといわれるものが、継続するとともに印象的な変化を示したかどうかという主題の連続性というものにまず着目することが多い。たとえば、それを、‘遊びの種類’のような、子どもの活動の種類に対応する具体的な主題の時間的・空間的連続性として解釈すると、比較的容易に読みとることができるように思われる。
さきの‘色水遊び’は、グループの活動としては数回続いたが、内容も方法も、そしてそこで子どもにおいて育つものもきわめて多様性に富み、集団の凝集性も高まって、シンプルな素材にしてはさまざまな角度から分析することの可能な主題として私の印象に長く残っているものである。
経験における主題という場合、そこにはもうひとつの側面がある。子どもたちの経験は、平面の上で一種の連続的増大という形をとって発展していくのではなく、質の違ったいろいろな経験、たとえば、時間的・空間剛こは非連続のようにみえる‘色水遊び’や‘ひこうき遊び’なとが複合して一連の意味をもった経験として関連づけられ、ひとつの構造をもったいわば系として浮かび上がってくるような主題がある。
系という言い方をすると、たとえば、発達における運動、認知、情緒などの機能が連想されるが必ずしもそれらと一致しない。前項では、E子の経験において‘保存する’と言い表した活動からは、知的発達ないしは認知機能の発達という系における経験の連続性という側面から考えてきたが、もう少し視点を転じるとまた異なる主題も浮かび上がってくる。身体や視力の不自由なE子が、千変万化といっていいような時間と空間に身を置いて-事実、彼女は、見知らぬ場所や予測し難い出来事に直面するとその場所に居続けることを泣いて強く拒み、家に戻るまで安心しないということがよくあった-生きていくうえでよりどころになるような何か自分にぴったりした原理を心の内面にもとうとしていたことを意味していないだろうか。彼女は、成長して行くにつれて、色のきれいなもの、美しい模様の描かれている玩具や洋服などに強く引かれ、それを価値の選択にしている様子がうかがわれ、また絵を描くことが最も気に入っている活動となっていった。
さて、子どもの経験の中には、まわりから見ていると、その主題が子どもの発達にとって進展をもたらす契機になるとはとても思えないという場合もある。たとえば、子どもはよく何かに興味をもって長時間熱中することがある。それはクルマであったり怪獣だったり、他の人には無意味に思われるただ丸いものに向けてであったりすることもある。このような場合、私たちは、一体この経験が子どもの成長にどんな意味をもつのか、これがこのように長く続いていていいものだろうか、これをどのように発展させたらものかと悩むことが一度や二度はあるものだ。
次の事例は、通常は固執癖といわれている行動だが、この子どもが生きていくよりどころとしている主題を、まわりをも巻き込みながらどのような活動に代えて熱中していたかという視点から、その経過をなぞってみることもできる(武藤、1984)。
4歳のF夫は、店の自動ドアやエレベーターの扉の開閉に熱中することがここ1~2年ずっと続いていた。扉が開くと顔を紅潮させ、緊張した面持ちで敷居をサッとまたぎ、そして後ろを振り返ってさも満足そうに笑うのである。母親は、F夫がそれをとても止められないほど強く求めるということもあったが、遊びの少ない子どもであるがゆえにその楽しみを満たすため、都心のデパートをいくつも回ってエレベーター乗りに半日過ごすのが日課であった。その後1年あまり、相談活動におけるF夫とのつきあいのなかで、それとなく、あれこれ経験の広がりへと方向づけようとする私のささやかな努力もむなしく、「開閉」にまつわる主題は依然として彼の活動の中核として続いていたが、相談所内のエレベーターで1時間遊んで終わるということも減り、いろいろなものに「開閉」の機能を自ら与えて、その間を自在に行き来したり、視線を移ろわせたりして変化をつくりだす遊びを、さまざまに考案して楽しむようになった。
たとえぱ、相談室の両開きの引き戸を両手で押し開き、再び閉じて入ったり出たりしてみるとか、細長い積木を両手で左右に同時に動かしたり、それが2本の棒でもよかった。ある時期からは、「センセイ、アッチ」と私や母を自分と対置して戸の向こう側に立たせ、その存在の境界を自在に確かめようとしているかのように、インターバルを変えながら息を詰めて一気に押し開けたり閉じたりをくりかえしたりもしていた。そのようなとき、うっかり足をふみだそうものなら、ひっかかんばかりに飛びかかってきて抗議された。
こうした主題の頑固な継続は、F夫のように「自閉症」的と診断される子どもによくある、ものごとに固執する傾向だといってしまうこともできる。しかし、この「開閉」という主題のなかに、幼少から人と交わることにおいてきわめて強い緊張を見せるF夫が、自分の内部空間に、自ら操作しうる境界扉を設置して、それを開閉しつつ他者空間と必死にかかわろうとしている生き方の凝集した彼独自の心理的メカニズムを読みとることはできないだろうか。
子どもの活動に出会うとき、遊びの種類のような具体的な主題が継続しているような場合でも、反対にしていないようにみえる場合でも、ただ従来似たような事実に適用されてきた理論や考え方、そして障害などの類型にそれを従わせるだけではなく、子どもが何を手がかりに自分の生き方を方向づけようとしているのかを読みとることが必要であろう。それが、すべての子どもの人格における個性というものを培う基盤であると考える。

(3)経験の表出

 子どもは、自分の経験した印象をさまざまなやり方-遊び、描画、言語などによって表出する。それは、自分の経験の再生であったり、ある場合には、具体的な模倣をしているだけのようにも見えるが、子どもは無選択に経験を表出しているわけではなく、きわめて選択的に、しかも感情の経緯を伴った経験が好んで表出されていることに気づくことが多い。精神分析家などのように、経験の表出の背景には、現実の経験では満たされない願望や、消失されない感情的葛藤の表出があり、一種のカタルシスの作用をして感情的均衡の回復を助けるという指摘も、子どもの理解の一助にはなるが、それだけでは説明しきれない側面もある。きわだって選択的で、しかも感情の経緯が読みとれる子どもの経験の表出に出会ったとき、それはまぎれもなく子ども自らが外界に働きかけることによって引き出された経験であり、しかもその経験が精神生活の中で孤立したものではなく、経験的事実として内面化し、いわゆる持続した構造として登録された、つまり永続性の認められる経験であったと解釈したい場合がよくある。
このことで、ある子どもについての忘れられない出来事がある。
彼女、G子が外国のとある町に移り住んだ3歳頃のことである。住宅の密集した市街地であったが、わずかな牧草地を残して、そこに数十頭の乳牛が放たれていて、搾乳施設が窓越しに見学できたり、新鮮なミルクが飲める喫茶コーナーがあったりで、親子連れで好んで訪れる場所が近くにあった。乳をいっばいに孕んでそこここに群れて草を食んでいる牛たちを生まれて初めて見たとき、それは彼女にとって相当にショッキングな体験であったらしい。家に帰ると、画用紙いっぱいに大きな牛らしき絵を描き、下に「オッバイ」とまるを8つも10もくっつけた。そのような絵は毎日描き続けられ、ついに‘お日さま’にも‘いちご’にも‘街灯’にも彼女が描く絵すべてに「オッパイ」は描き加えられ、それは数週間は続いたと母親に記憶されている。
あるとき、オートマティックなプロセスで次々に搾乳される牛をガラス越しに目を凝らしてみていたG子が、突然母親をふり返り、両手で指を2本ずつ、4本だして大発見したように叫んだ。「ママ! オッバイってこれだけね。Gちゃん、いくつかなっておもっちゃった」。それを境に、彼女の絵は、牛の絵は事実をふまえたものとして、その他の絵には付加物はなく描かれるようになっていった。
これは、多様な視点からの解釈を引き出すかもしれないという意味でしばしば興味深く思い起こされる活動例である。G子の大発見を、安易に対象への直接的接触による数学習の経験として片付けないで、それ以前の、あるいはそれ以後の心理的状況におけるどのような変化として説明が可能であろうかということもある。ウェルナー、H.が発達の方向性として指摘した混清的なものから離切的なものへ、融合的なものから分節化したものへという図式を、部分と全体、属するものとそうでないもの、あるいは要素の空間的配置という基本的観念の発達の過程において裏付けることのできる活動であるということもできるであろう。また、この発達の時期にたいていの子どもが通過しなければならない自立していくことへの主題を見つけだすことも可能であろう。
ここで強調したいのは、経験の表出は、現実をそのまま表現しているわけではないということである。描画や言葉その他遊戯などによる経験の表出は、自分の経験のあらゆる側面を過不足なく表そうとしているわけではなく、むしろ自分が見ようとしているもの、要るものだけを選択し、それに意味を与えよう、そこから意味を見いだそうという、いわば、自己の、自己における経験の読みとりのプロセスであるということができるのではないか。経験の表出は、いたずらにまわりのものが意味づけようとするのではなく、そのブロセス自体に意味があるのかもしれない。子どもが、自分と向き合うことのできる経験の表出のプロセスを大切にしたいと思う。


主題(副題):発達臨床-人間関係の領野から-
第2部 第4章 67頁~79頁