音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

特集「きょうだい」(雑誌『Das Band』2009年4月発行第2号)より

このコンテンツは、ドイツの全国身体障害者連合会(Bundesverband für körper- und mehrfachbehinderte Menschen e.V.)が発行している雑誌『Das Band』(ドイツ語で「つながり」という意味)の2009年4月発行第2号に掲載されていた記事の一部を翻訳したものである。第2号の特集は障害のある人のきょうだいについてで、きょうだいや親がそれぞれの立場で記事を書いている。掲載記事は、ダウン症のヨハンナの、母・ウルスラ、妹・シャルロッテ、兄・フリードリッヒが執筆している部分である。ひとりの障害のある本人の家族がそれぞれの立場を語っているという点で興味深い。

雑誌『Das Band』編集者のコメント

どのようにしたら、4人の子どもたち、それもそのうちのひとりは障害をもっている場合――それぞれの子どもたちが権利を等しく与えられるように手助けしてあげられるでしょうか。そして、子どもたちそれぞれに対して平等に接する時間を取ることができるのでしょうか。

筆者はそのためにされてきた努力について、つまりこの大変だけれどもやりがいのあることを、どのように手間をかけてきたのかをわたしたちに伝えてくれます。ひとつのやりがいがあること――彼女はふりかえってそう感じているのですが――それがむしろ家族全員に、報いと果実を運んできたのです。

どの子どもたちにも、権利を得られるように援助するということ

ウルスラ・フォン・ショーンフェルド(Ursula von Schönfeld)

ヨハンナがちょうどおよそ18年前に、ダウン症をもって2人目の子として生まれたとき、わたしたちの幸福な世界は崩れ落ちました。しかし、それでもわたしにとっては何よりの喜びでした。わたしの夫にとってもほんの少し。でも3歳年長のヨハンナの兄、フリードリッヒにとっては違いました。彼は初めからヨハンナをごく普通の妹としてみていました。

そして、その後まもなく生まれてきた妹のシャルロッテとコーネリアもまた、それぞれ同じようにみていました。一体そのころにどこから彼女たちは、自分たちにひとりの姉がいるということを覚えたのでしょうか。また姉妹であるというのはどのようなことなのでしょうか。

振り返ってみると、わたしたち家族はみんな、そのことでより大きな人間に、なんというか「違った」家族になることを得られたと思います。――わたしたちは家族はもしもヨハンナがいなければ、全く違ったかたちに成長していたでしょう。そしてわたしが今、つくづく確信しているのは、これ以上のよい成長はないだろうということです。

わたしたち夫婦は、最初のころからヨハンナをごく普通に家族の一員として接することを心がけました。普通の家族の一員として、ヨハンナはほかの子どもたちと協力し合わなければいけませんでした。彼女にすりすりするのと同じくらいたくさん、彼女のきょうだいたちともすりすりしました。――でも、わたしはヨハンナにも、きょうだいたちと同じように激しく叱りました。(というのも、彼女はときどき自分のきょうだいたちと同じようにそのためのきっかけを与えてくれたからです。)

このように平等に扱うことは、ヨハンナが障害のない子どもと共に歩く道(integrativen Weg)を勝ち取っていくための動機と原動力になっていました。なぜ、彼女は午前中に1日幼稚園で過ごしたり、あるいはその後に終日小学校に通わなければならないのでしょう。その間じゅうみんなが同じように机に向かって座り、そこでわたしたちとの毎日の経験の代わりに、長い間をみんなといっしょに過ごすのでしょう。

14年間、ヨハンナは障害のない子どもといっしょの進路を歩みました。まずはじめに、彼女は――唯一の障害者として――幼稚園に入りました。彼女のきょうだいたちも通った園です。そして、その後ほかに4人の障害のある子どもたちと一緒に、彼女は統合教育の小学校(integrative Grundschule)に通いました。(残念ながらきょうだいたちは通いませんでした――だから彼女は行きたがりませんでした!)そして、その後の実科学校(Realschule)でも障害のない子どもといっしょの科に通いました。そのようにして、ヨハンナは自らきょうだいたちと同じ子どもたちと親しくなり、休暇には一緒に会って遊びました。町をぶらぶらと散歩したり、教会に通ったり、泳ぎに行ったり。

また、彼女はとてもしっかりとした共同体の中の一員になっていました。それをわたしが最近またはっきりと感じたのは、彼女の帰り道、2人の小学生時代の同級生たちと自動車教習所の前で偶然に出逢ったときに、彼女たちの短いやりとりが親しげで完全に自然な対話になっていったときのことです。

ヨハンナはしばしば、ほかの子どもたちよりも時間がかかる

わたしたちが今いる場所に至るまでは、もちろんいつでも簡単にいくわけではなく、時にはわたしの力を相当に使いました。というのも、ヨハンナはほかの子どもたちよりも、よけいにわたしの時間を必要としたのです。彼女は長い間リハビリに、そして話すための教室に、また言語障害矯正に、そのほかにもたくさんの活動に通わねばなりませんでした。そしてまたそこで学んだことを毎日練習しなければなりませんでした。彼女はいろんな方法で――もっともすべてではなく、いまだに全部ではありませんが――今ではほとんど自分で公共交通を使って出かけることができます。わたしはいつでも、どの子どもたちにも同じようにその権利を得る手助けができるように摸索してきました。

わたしが読んだあまりにもたくさんの本に、障害をもつ子どものきょうだいたちは、よく自分が冷たく扱われていると感じて、それがのちのち重大な問題に発展しうると書いてありました。わたしはもし自分が否定されていたなら、そんなことは信じなかったでしょう。わたしはしばしば自分の能力限界まで使っていましたから。ヨハンナのセラピーでのきょうだいたちの様子を見ていると、いつも楽しそうでしたし、いつでもどこかスポーツクラブや音楽学校にどこか似ていました。そこの参加メンバーのようにヨハンナのきょうだいたちも連れていかなくてはいけないような。

わたしたち夫婦はそのためにある決心をしました。というのは、わたしたちの確実にできることがらをまず手放して、思い切ってベビーシッターやほかの助けを借りることにしたのです。そうしてわたしにはやっと時間ができましたから、わたしがひとりでどの子どもたちにも等しく何かをしてあげられるようになりました。

そうやってわたしと夫は、それぞれに例えばどの子どもたちとも1週間の旅行を計画できるようになりました。その際には、ヨハンナが同行を許されなかっただけでなく、そのほかのきょうだいたちも同じように許されませんでした!わたし自身6人きょうだいのなかで育って、もし自分ひとりで両親を独占できたらどんなにいいだろうと思っていましたから、子どもたちもそう思うだろうことを知っていました。――そして障害のある者のきょうだい役をしなくてすんだなら、ということも。

だれもがそれぞれの才能に応じた道を与えられている

ヨハンナのきょうだいたちは、いつでもヨハンナのために責任があるように感じてきました。彼らは一度たりとも強制されたり懇願されたりしていないのですが、まったく自分たちの意思によってその課題を引き受けていたのです。その一方で、わたしはそれが過度にきょうだいたちの負担にならないように、彼らがほんのすこしでもためらったら、ほかの手段を探すにようにしていました。

わたしがとても嬉しく感じているのは、わたしたちの21歳になる息子が自分から次のように話してくれたことでした。それは彼がヨハンナの世話を喜んで引き受けていたこと、また当時18歳だった彼の誕生日についてわたしが考えあぐねていたときもだからこそ喜んでヨハンナを仲間に入れたのだということです。

「障害」というテーマについては、それでもわたしたち家族の中では長いこと話されることはありませんでした。わたしたち夫婦は、子どもたちがなにか質問をするたびに、それに1つずつ答えようと努めました。――ただ、それは決してあらかじめ(用意されたもの)ではありませんでした。

その関連で、わたしはとても「タレント」についての福音がとても好きでしたので、いつでもそれを引用していました。誰もがそれぞれに才能(タレント)に応じた道を与えられている。誰もがその与えられた天分の範囲で、できることをなすべきである。――ただし、誰もがその範囲よりももう少しだけがんばって努力すべきである。これはすべての人にとって等しく大切なことなのです! その場合、「才能にあふれている」ということと、「才能に乏しい」ということについて、わたしたちがどれほど知らないかということについてわたしたちは今でもよく話し合います。――いったいどのようにして、それを測ることができるのでしょう。確かなのは、それらがいずれにしても銀行口座の残高や、株券の保管金庫によるものではないことです。

そしてわたしたちはさらに、ヨハンナ自身が「障害」をテーマに研究を始めて以来、よく話し合うようになりました。――わたしは、わたしたちが決してその話し合いが障害というものを軽くみたがっているからではないと信じています。わたしたち家族は、みんなどこかしら障害をもっています。わたしの夫は視力に障害があります。(彼は眼鏡をかけています。)わたしは音楽音痴です。(わたしは家族でひとりだけ何も楽器を演奏できませんし、間違った音程に気づくことができません。)などなど……。違っているということは、全くふつうのことなのです!

▼ウルスラ・フォン・ショーンフェルド氏は、家族とともにNeuss(ノイス)に暮らしている。

彼らとのかかわりは、わたしたちが障害のない人たちと接するときと全く同じです。

シャルロッテ・フォン・ショーンフェルド(Charlotte von Schönfeld)(16歳)

わたしには、3人のきょうだいがいます。ひとりの兄フリードリッヒ(21歳)と、姉(18歳)と、妹(14歳)です。――それがヨハンナとコーネリアです。わたしの姉ヨハンナはダウン症です。わたしがそのことを誰かに話すと、たいていの人はわたしを少し同情が混じったまなざしか、少なくともかなりびっくりした様子でじーっと見つめます。

なぜでしょう? わたしには分かりません。彼女はまったくあなたやわたしのように、普通の人間なのです。おそらく彼女の染色体は、細胞ごとに多すぎるんでしょう。でも、それが何? わたしはこれまで「何てこと! なんでよりによってこのわたしが、"障害者の"きょうだいなんだろう。」なんて考えた記憶はまるでありません。

わたしは、このような体験をとても誇らしく思っていますし、それに"障害者"にあたる人たちと暮らすことはごく普通だということを、ほかの人たちに示すことができて嬉しいです。

ヨハンナとの共同生活は、ほかのきょうだいたちとの生活とまったく変わりません。彼女とはわたしも、ほかのきょうだいたちと同じように可愛がってもらいますし、同じようにけんかもします。そして彼女はどのきょうだいたちとも、ごくふつうの家族の一員として側にいました。――ほんとうに彼女はそうでした。

彼女はわたしのオーケストラの大ファンで、必ずどのコンサートにも聴きに来てくれました。みんなが彼女を知っていました。なぜなら、たいてい彼女が最初にお祝いを言う客だからで、それは彼女の見方によれば、もちろんいつでも素晴らしいコンサートだからなのです。パーティーでは、それが公のものでも、あるいは"障害のない"友人たちや家族たちによる内々の小さなお祝いであっても、彼女はその楽しげなダンスと、ひょうきんな会話で有名でした。

とくにわたしの記憶に残っているのは、わたしたちがまだ幼かったころの、毎日のおやすみなさいの挨拶です。毎晩わたしはおやすみなさいを言うためにヨハンナの部屋に出かけていきました。この手続きはいつでも少なくとも20分はかかりました。というのも、わたしたちはその間ずっとばかなことをしたり、しゃべったりしていたからです。

両親や、兄がときどきやってきては、わたしたちにそんなに笑いすぎてはいけないと諭しました。そうでなければまた目がさめてしまって、眠れなくなってしまうからです。でもそんなことを言われても、どっちにしてもわたしたち2人にはなんの妨げにもなりませんでした。わたしたちの笑い声は毎晩、道路のほうまで響き渡っていました。

小さな子どもの頃のわたしは、自分に障害者の姉がいるということが理解できませんでした。もちろんわたしは彼女とたった2つしか違わない妹でしたが、ヨハンナはいつでも側にいましたし、わたしたちきょうだいのひとりでした。わたしたちの両親は、――少なくとも誰かがわたしに尋ねたとしたら――わたしたちを平等に、そして十分に世話をしてくれました。

わたしは医学を学びたいと思っています。人の体がどのように機能し、働いているのかということに、わたしは長いこと魅了されてきました。ダウン症の姉がいるということを通じて、とくに医学に治療と配慮の内容が含まれているのは、きっといいことなのでしょう。本来の意味における治療については、わたしは一度もきちんと行ったことはありませんが、それでも彼女に配慮はしていました。

その意味について具体的に細かくお話することは、わたしにはうまくできません。というのも、わたしは一度も彼女にたいして厄介に感じたり、普通と違っていると思ったりしたことはないからです。もしかしたらわたしは、わたしたちが込み入った話題について話し合ったときか、あるいは長い散歩をともにしたときか、あるいはそのほか似たようなことをする間に、配慮していたに違いありません。

わたしの人生は、確かにわたしの友だちとは違っています。早いうちから、わたしにとっては、弱い人たちと生活を共にしていくことや、彼女が足りないところを尊重することや、彼女を笑い物にしないことはごく普通のことでした。そして、多くの若者がよくそうするように、"障害者"を蔑視の言葉として使うことを、絶対にしないこともです。

わたしが「自分はどのように弱い人とつきあっていくかを分かっています」と語る場合、それは決して何か大きな能力を意味しているわけではありません。彼らとのかかわりは、わたしたちが障害のない人たちと接するときと全く同じです。このことが、わたしの考えるところでは、ほかの人に一番教えにくいことだと思います。

わたしの母がしばしば病院に依頼されて、ダウン症の新生児をもつご両親に話をするために通うとき、わたしはいつでもこう言います。わたしの両親はきっと、ダウン症の人たちのことを、初めて「かっこいい」と伝えているのよと。

雑誌『Das Band』編集者のコメント

この著者は、あるダウン症の若い女性の兄である。その文章で、彼はなぜ妹のヨハンナがそれほど彼にとって大事な存在なのかを語った。

なぜなら彼女がいるということが、すばらしいからだ。

フリードリッヒ・フォン・ショーンフェルド(Friedrich von Schönfeld)

僕たちは西暦2020年について書いている。僕は33歳で、ひょっとしたら結婚していて、もしかしたらもうひとりの子どもがいるかもしれない。その電話が鳴ったとき、僕たちは夕食の席についているところだ。僕は受話器を取る。「やあ、フリードリッヒ。」僕はその声が、僕の大親友のものと分かる。後ろですすり泣きが聞こえる……。「一体、どうしたんだい?」「出生前検査の結果が出たんだ……。」「それで?」「ああ、君、ちょっとこっちに寄ってくれるかい。」もちろん、僕はもう何が起こったのかうすうす気がついていた。

僕はもう長いこと、こうした場面について思いを巡らせてきた。それどころか、一度はもう数年前のことだが、学生のころにそのことについて1本の論文を書いたこともある。こうした電話については、僕が子どもの頃に、実際に知っている。その当時はだいたいそうした電話はたいてい母用だった。何を望んでのことだろう?

ああ、僕は説明するのを忘れていた。僕の妹のひとりはダウン症だ。健診のときや、小さなベビーが生まれたときに、足の指が足りなかったりといった場合、人はすぐに電話をかけてくる。僕は上着をひっかけて、自転車に弾みをつけて飛び乗る。

あの出生前検査というやつ。まず人は一般的にその検査をやるかどうかを、じっくりと考える。それで簡単に安心できる。まあ、いいだろう。けれど、もしもその平穏が訪れなかったら? それだってだれも分からない。となると、最初の熟慮よりももっと決断は難しくなる。

僕はベルをならし、友人がドアを開けた。彼は青ざめてみえる。僕は微笑んだ。5分後に僕は椅子に座って、2人と向かい合っている。僕は2人を見つめる。「女の子だった。」と親友が言う。彼の奥さんはすすり泣きはじめる。「それで?」と僕。「21番染色体。」彼女はただそれだけ言った。

僕はそういう妹がいることを、ほんとうに感謝している。

僕は微笑むしかなかった。それも次第に幸せいっぱいの微笑みになった。そしてその次の言葉を、思い切って言った――いや、なぜなら彼らに対してふまじめだからではなくて、それがあんまりにもべたっと聞こえるからだ。「心からおめでとう。」と僕は言った。当たり前だろう、そうしたことがおこり得るってことは。――僕の両親はまじめな人たちから、当時まったく違う言葉を聞いた。でも僕はほんとうに心の底から喜んでいた。「ばかげて聞こえるだろうってことは分かっている。でも、僕は本当に心から君たちのために喜んでいるんだ。」

なんで僕がそんなに喜んでいるかって? それは妹のおかげだからに決まっているだろう。なぜなら、彼女と一緒に成長して、彼女がいることがすばらしいからだ。彼女は3年僕よりあとに生まれた。すばらしかったのは、そんなに小さな妹ができて僕がお兄ちゃんになれるってことだ。彼女が特別だったかって? そんなの当たり前じゃないか。彼女はいつだって朝の6時に起きてお人形遊びをしていた。それはその頃は本当にいらいらさせられたけれど、その数年後にはニコニコと機嫌よく寝るようになった。

僕はみんなの面倒をみていた。

2人の妹が続いて、僕はさらに大きなお兄ちゃんになった。もちろん僕はみんなの面倒をみていた。――ほかのお兄ちゃんが誰でもそうするように。不思議だったのは、すぐ下の妹が7歳のとき、それより幼い妹たちのほうが大きくたくましくなっていたことだ。そのころは、そもそも妹たちがいつでもどんどん年と共に大きくたくましくなっていくことに慣れなかった。そしてその後の数年、違いはもっとはっきりしてきた。いつの頃からか一番小さい妹もひとり目の妹よりも大きくなった。

それでも妹のひとりがそれほど早く成長せず、それほど早くしゃべらず、よりたくさんの時間を必要としたことは、実際僕にとってはすごく便利だった。それで僕は大きいお兄ちゃんをより長い間、演じることができたからだ。

僕はとくにお気に入りの妹がいるわけではない。でも一番上の妹を抱きしめるとき、いつだって彼女は一番すてきに笑う。彼女は僕が18歳のときから僕の携帯の待受画面の中にいる。というのもひとり目の妹はいつでも特別にすてきだから。彼女と一緒にいると、みんな内面からきらきらと輝く。例外なく。というのも、彼女は恥ずかしがらずにたくさんの喜びと善をめいっぱい表現するので、周りも魅了されずにいられないのだ。

彼女と一緒に過ごす時間は、僕にとってまったく特別の時間だ。それはまるでストレスのかかる大通りから、ちいさな袋小路に入り込んだときのようだ。おこり得るありとあらゆる感情が溢れると、人は本質を思い出す。そして、そうした時間を過ごすなかで、僕は人とは何かということを理解した。

彼女は本質に気づかせる機械だ

もちろん、僕は彼女と話をするときには自分の仕事についての細かい話はしない。その代わりに最近観に行った舞台のことや、新しい政治的なできごとについて話す。でも知的なことこそが価値のあることだなんて、いったい誰が言ったのだろう。そこではまったく違うことが行われる。つまり彼女を見て一緒に笑って、毎日のできごとについておしゃべりをする。そのとき彼女はほんとうにまじめだ。わざとらしいふまじめな言葉は一言もない、作為的な行動も1つもない。彼女は、本質に気づかせる機械(Wesentlichkeitsmaschine)だ。彼女はふやけたお粥みたいな僕らの日常をくまなく踏み固める。そしてそこに残されるのは凝縮された本質だ。僕はそこからたくさんのことを学んだ。どの人間もそれ自体すばらしいということを。でも実際はそうではなくて、いつでも相対的なものになってしまう。特にまたそれ自体"価値のある"というのは、知性でもって測られるものではない。

もちろん、兄としてそのように彼女のことを語るのは簡単だ。僕はいつでもそう言っている。むしろそう言わなくちゃいけない。そうでなければ僕は、まるで誰かにべとべとしたママレード・パンを目の前に置いてもらって、それだけを食べる人になってしまう。

僕は、両親にとって一時的に彼女はとても大きな苦労だっただろうと思う。でも、最後にはいつでも満たされてもいた。両親は、これは僕が確信をもって言えることだけれども、一番上の妹がいなかったらまったく違う人たちになっていただろう。彼女は両親を本質的なことに立ち返らせたのだ。ほかの妹たちも、家族みんなにとっても、きっと(ヨハンナがいなければ)今とは違っていただろう。僕の妹の喜びや善というものは人が育てられるものではない。そして僕たちの共有する喜びは、確かにまた僕たち家族がそれぞれに個性的であることができた重要な理由なのだ。

いつの日か僕は上着を引っかけて自転車に飛び乗るだろう。解くことのできない問い「それからどうなる?」を友だちに問われても、もちろん僕は答えられないだろう。僕にはただ、あるひとつの家族が経験してきたことが最もよいことだということしか言えない。

▼フリードリッヒ・フォン・ショーンフェルド(21歳)は、ハンブルグで学び、居住している。


原本情報

Schönfeld, Ursula von. "Allen Kindern zu Ihrem Recht verhelfen". Das Band. 2/09 (April): Geschwister. 2009.4, p.20-22.

Schönfeld, Charlotte. "Der Umgang mit ihinen ist Genau wie mit Menschn ihne behinderung". Das Band. 2/09 (April): Geschwister. 2009.4, p.21.

Schönfeld, Friedrich. "Weil es toll ist, sie zu haben". Das Band. 2/09 (April): Geschwister. 2009.4, p.22-23.

http://www.bvkm.de/0-10/zeitschriften,dasband.html