音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

第7回DPI世界会議韓国大会報告
障害者差別禁止法に関する日韓セッション

尾上浩二
DPI日本会議事務局長
2007年9月25日

2007年9月6日、「障害者差別禁止法に関する日韓セッション」が、韓国のKINTEX(高陽=コヤン市)にて開催された。同会場では、9月4日から8日まで「私たちの権利、私たちの条約、そして全ての人のために」をテーマに、第7回DPI世界会議韓国大会が開催されていたが、その関連企画として準備された。  韓国の「障害者差別禁止法制定推進連帯(以下、障推連と略)」と、「日本障害者フォーラム(以下、JDFと略)」が共催したもので、日韓から100名を超える参加のもと熱心な討論が繰り広げられた。

世界の障害者が力をあわせて実現した障害者権利条約-差別禁止法制定が課題に

 昨年12月に国連で障害者権利条約が採択された。2002年から2006年まで8回に及ぶ特別委員会での議論を経て策定されたが、その間、世界の障害者は「私たちのこと抜きに私たちのことを決めないで!」を合言葉に働きかけを続けてきた。JDFの推薦で東俊裕弁護士が日本政府代表団の顧問に入るとともに、JDF傘下の団体に呼びかけて多数の傍聴団を派遣する等、全力を傾けて取り組んできた。また、同様に韓国政府の代表団には、DPI韓国会長のイ・イクソプ氏が参加してきた。
 日韓をはじめ世界の障害者が力を合せた取り組みの末、権利条約は採択された。そして、権利条約が採択された今、各国での国内法整備と批准が課題となってきている。
 権利条約では、社会モデルに基づく障害概念や合理的配慮等の新しい概念が提起されるとともに、各国政府に対して、「障害に基づくあらゆる差別を禁止する」「平等を促進し及び差別を撤廃するため、合理的配慮が行われることを確保するためのすべての適切な行動をとる」ことを求めている。
 障害者権利条約の批准に向けた国内履行の重点課題の一つに、障害者差別禁止法の制定があることは間違いない。

 韓国では、21世紀に入ってから、重度障害者を中心とした自立生活運動や交通バリアフリーを求める移動推進連帯運動が盛んに取り組まれてきた。そうした取り組みと連動して、障害者差別禁止法制定運動も、ここ数年、精力的に取り組まれ、韓国では2005年から3度国会に上程されたが、今年3月6日定期国会(通常国会)にて、「障害者の差別禁止及び権利救済等に関する法律」(以下、韓国障害者差別禁止法と略)が制定された。
 この制定運動の中心となったのが、このセッションの韓国側主催者である障推連である。障推連は障害者差別禁止法制定を求める障害当事者団体や市民団体等が集まって2003年に結成され、以降、差別禁止法の制定を求めて取り組みを進めてきた。
 一方、日本では、アメリカでのADA制定以降、同様の障害者差別禁止を希求する声はあったが、それが具体的な取り組みになってきたのは2000年前後からである。DPI日本会議等で構成する障害者政策研究集会実行委員会や、日弁連によって障害者差別禁止法の要綱案づくりが進められ、また、JDA制定を求めるネットワーク等も結成された。そして、JDFでは権利条約に対する働きかけとともに、障害者権利・差別禁止に関する法制度についての検討が続けられてきた。ただ、そうした活動がありながらも、日本では障害者基本法の2004年改正時に「障害を理由にした差別の禁止」が付け加えられた程度であり、とても裁判の根拠法になるものとは言えず、権利条約が求める「平等・非差別」とは未だほど遠い状況にある。

日韓から100名余りが集った差別禁止法セッション

 こうした中、日韓の障害者・関係者が集い、障害者差別禁止法に関するセッションを開催したことはとても意義深く、また、その内容についても、今後の日本国内での取り組みに大きな示唆を与えるものとなった。以下に、そのセッション内容のあらましを紹介したい。

 司会は、韓国側は障推連の常任執行委員のチャン・ミョンスクさん、キム・ドンボムさん、そして、日本側はJDFの山本真理さんの手によって進められた。
 開会式では、日本側を代表して、小川栄一・JDF代表が挨拶をし、「こうして一同に会して差別禁止法に関する日韓セッションを開催できることをうれしく思います。日本でも特別委員会への派遣団、政府代表団への障害者参加を進めました。これらの活動を通じJDFが誕生し発展。権利条約が成立した今、これまで目標であった条約は今や一つの手段に。私たちの日々の生活レベルにまで、この条約の理念が実現されるよう法制度の整備が求められます。今年の3月、身近な国の一つである韓国で絶え間ない努力と闘いの末に障害者差別禁止方が制定されたことに大きな刺激を受けています。韓日両国をはじめ全ての国々との連携を深めていきたいと思います。」と述べた。
 韓国側代表挨拶は、視覚障害者団体の会長もされているクオン・インヒさん(障推連常任共同代表)が、次のような力強い挨拶を行った。
 「日本の障害者の仲間のみなさんを歓迎します。生命をかけた闘争の結果として、3月に障害者差別禁止法制定が実現した。韓国での障害者差別禁止法制定は、簡単なことではなく、道のりは大変なことで、歴史の厳しい一ページで刻まれること。  このような歴史は、障害者民衆の熱い結集、活発な闘争がなければ実現しなかったということを確認したいと思います。障害者差別禁止法の制定は、制定で終わりではなく、差別なき社会を目指す厳しい山登りの第一歩です。実施に向けて、是正委員会を障害当事者で構成する等の課題に取り組んでいるところです。私たちはもっと強く連帯し、闘争の旗を掲げていきたいと思います」

 障害女性議員として、障害者運動との連携において大きな役割を果たしたチャン・ヒャンスク(韓国国会議員)さんも駆けつけて頂き、「誰か特定の個人だけではなく、色々な団体が力を合せて獲得したのが、韓国障害者差別禁止法である。韓国では早く進めようとする国柄があり、日本は緻密に進めていこうとするところがある。その両方が合わされば素晴らしいものになるでしょう」との祝辞を述べられた。

粘り強い取り組みによって実現した韓国障害者差別禁止法

 続いて、日韓3人の発題者によるセッションに移った。
 一人目の発題者は、ペ・ユンホさん(障推連執行委員)。ペさんは、骨形成不全の障害があり、車いすを利用されている立場から韓国での交通バリアフリー運動の中心的メンバーでもある。ペさんから、「障害者差別禁止法制定過程」について、次のような提起があった。

●韓国障害者差別禁止法制定に至った闘争を語ろうと思えば、夜が明けても終わらない。 2001年から障害者差別禁止法制定の運動が始まった。2001年障害者差別禁止法の旅で全国を回った。その後、厳然としてある障害者差別をなくさないといけないという思いをこめて、2003年推進連帯を結成した。
 その当時、私たちの制定運動が取り組んだことには、二つあった。
 一つは、障害当事者の力で法律案をつくること。全国を回って、集会を開いたり、国会議員と話したりした。2003年の10、11月に50人以上の障害者、専門家が集まり法案をつくった。
 もう一つは、法律を制定させる運動でした。自分たちの法案を受け止めてくれる国会議員を探した。福祉法ではなく、人権法としての法案である点が重要。2005年には、障害保健福祉部が省主体で法案をつくると言い出した。その法案は、私たちの意見を反映したものではなく、実効力のない法律なので強く反対した。その時に、私たちの法案を提起したが、残念ながら当時は全然国会議員は私たちの法案に注目はしてくれなかった。
 それで、私たちの法案を広げるために、広報活動と、国会の前で60日間の籠城に入った。障害者差別禁止法制定がどんなに切実かを訴えるために、人権委員会の前でも集会をした。また、反対している経済界に対しても、一人集会やデモなどを行った。  その努力の結果、昨年、大統領の諮問委員会が立ち上がり、法案の検討に入った。政府の代表と、推進連帯の代表が集まり、法案をつくりだすために努力をした。その共同の法案に私たちは必ずしも全面的に賛成ではなかったが、様々な努力の結果、私たちの意見が反映されるようになった。
 野党のハンナラ党からも差別禁止法が出され、私たちが元々提起していた案も含めて三つの案が出ることになった。そうした様々な取り組みの結果、3月6日に法律が通過した

韓国障害者差別禁止法制定の特徴-差別定義、自己決定権、多様な差別禁止規定、差別是正の実効性確保

 続いて、パク・チョンウンさん(障推連法制委員長/弁護士)から、「韓国障害者差別禁止法の紹介」についてお話を頂いた。パクさんは語り口は穏やかだが、内容的にはとても鋭い提起をされた。

●韓国障害者差別禁止法は、正式名称を「障害者の差別禁止及び権利救済等に関する法律」と言い、内容的には、差別禁止だけでなく、権利救済、合理的配慮等を含んだものとなっており、6章50条からなっている。
 私たちの求めてきたものすべてが入ったわけではないが、意義深い内容となっている。
 その一つは、直接差別、間接差別等、これまで諸外国では見られたが、韓国では初めてそれらの具体的な概念規定ができたこと。  そして、最近の障害者運動のパラダイムにあわせて、自己決定権も盛り込んでいる。
 実質的な差別の禁止、法の履行のためには、民間と国・地方自治体が連携していくために、連携や合理的配慮に関する支援の規定も設けた。
 教育、雇用、サービス、参政権、父性権・母性権、性、家庭権等、他の差別禁止法には見られないくらい、多様な分野での差別禁止規定が入っている。また、障害児、女性、精神障害者には特別な条項を設けている。

 これまで国家人権委員会が是正勧告で差別をなくそうとしたが、是正勧告では強制力がないので勧告で終わってしまうことが多かった。それで、司法へ持っていって救済を求めても損害賠償ということで終わってしまった。勧告では、200、300万ウォンで終わってしまう。障害者は、差別是正を望んでいるのであって、お金をもらうことを望んでいるわけではない。
 そのために、強力な差別是正機構を設けることを望んだ。国家人権委員会の中に、障害者差別禁止小委員会を設けることになった。勧告では、是正勧告権しかない。私たちの要求を多少取り入れて、国家人権委員会に陳情して、法務大臣からの是正命令を得るという仕組みになっている。
 いくつかの条件があるが、是正勧告を受けた人が、条件を満たさない場合は、是正命令を受けるというようになっている。もし、履行しない場合は、強制で履行させるということになる。
 また、重要なこととして、訴訟の前でも、係争中でも、差別行為をいったん停止させることができるようになったことがあげられる。勧告で、裁判を起こしたら、長い時間とお金が必要になる。もし、訴訟前でも、係争中でも、中止してほしいといえば、中止命令が出せるようになった。一応、差別行為、権利侵害的な状況を中断させて、裁判に望むことができるようになった。  差別の訴えに当たって挙証責任が重要になるが、障害者に有利なポイントが2つある。推定額を明記しなくてもできるようになった。さらに、立証責任を分配する形をとった。
 被害を受けた人が、被害を受けたということを証明するのと同時に、訴えられた人が差別はなかったということを証明しなければならなくなった。
 そして、悪質な場合は、刑法の対象となり、懲罰や罰金等の刑事罰の対象となるようになった。

 障推連として政府に対しては、強力な権利救済機構を求めてきたことからすると、残念な点もあるが、差別禁止という面で大きな一歩となった。
 他分野の被差別者たちも、韓国障害者差別禁止法の内容を知って、他のマイノリティも差別禁止・権利救済の法律が必要だと思うようになってきた。他の分野の方々にも希望を与える法律になった。
 今後、どのように履行するかを私たちは注視している。施行令がつくられなければならず、国家人権委員会法が改正されなければならない。これからも監視を続けて、より障害者に有利な法律をつくっていきたい。

求められる日本での「保護・慈善から人権へ」の枠組み転換-重要になる国会への働きかけ

 最後は、東俊裕さん(DPI日本会議/弁護士)から、「日本の現状と課題」についての提起があった。東さんは、JDFの障害者権利条約の小委員会委員長も務め、また、先述のように日本政府代表団の顧問として活躍されてきた。そして、日弁連の差別禁止法案の策定等にも取り組んでこられた。そうした経験をふまえて、次のような提起をされた。

●先程、お話しされたパクさんとは、2003年にはじめてあった。その時は日韓どちらも差別禁止法がなく、ともに頑張りましょうといっていた。歴史的な闘いで、韓国で先に制定された。韓国で出来たことの意味は大きい。アジア太平洋の他の国にも差別禁止法はできているが、大陸系の法律の国でできたのははじめてではないか。そうした点からすると、アジアだけでなく、全世界的な意義をもつ。
 日本政府の代表団顧問として、権利条約の特別委員会に参加していた。その時に、韓国の障害者の仲間たちからの提起があり、女性条項や自立生活等が入るようになった。条約の内容の前進に大きな貢献した。世界の障害者を代表してお礼をいいたい気持ちで一杯だ。 日本の状況は、ある意味では憲法25条の社会権をめぐって発展してきた結果が、現状とも言える。日本の福祉政策は施設を中心にした施策から、国際障害者年以降、在宅サービスにも力を入れるようになってきた。また、障害当事者の取り組みかあって施策も一定展開されてきた。現状としては、障害基礎年金、「自立支援法」の介護保障、分離教育中心ではあるが障害児教育、バリアフリー化の施策等、制度・施策に基づいてそれなりの生活が送れるようになってきた。
 しかし、こういう福祉政策は、人権に根ざすというよりは、慈善的で、権利条約にはあっていない部分がある。日本では、憲法の権利以外には、差別禁止法といえるものはない。色々な制度を根拠づける法律は、権利というよりは、保護するという枠をこえてはいない。
 ここ数年、日本で問題になったのは、「自立支援法」。これまでの介助サービスについて運動で勝ち取ってきたものを、お金がないということで、切り下げる形で法律がつくられた。サービスを提供する対価として1割負担、認定基準が医学モデルに偏ったもので利用抑制をもたらした。
 日本の障害者運動は、高度経済成長を前提に行政から勝ち取っていくというのが基本だった。障害種別ごとに自分たちのニーズに基づいて行政と交渉をしていくというスタイルで、横の連帯を欠きがちだった。
 日本は政権交代が長期に渡ってない中で、なかなか意見の統一が見られなかった。
 「自立支援法」の問題は、行政交渉ではとてもすまない。国会を舞台にした闘争をくまないと負けてしまう。ということで、施行後も与党も予算措置を行い緊急対策を行う等、切り下げを許さない闘いが続いてきた。
 「自立支援法」は、障害者にとっては明日どう生きるかという切羽詰まった問題だった。だから、権利法まで目がいかない状況だった。
 だが、そうした経験を通して、障害種別を超えた連帯が必要と学んだと思う。権利条約が採択されて、国会を舞台にした国内問題に移ってきた。
 日本では権利条約の批准とそのための国内法整備が、焦眉の問題としてある。日本では、批准の問題とからませて、差別禁止法の制定を求めていく戦略を考えている。
 日本でもJDFができた。少しうれしい知らせで、この前の参議院選挙で日本の政治状況に少し変化が見られた。参議院は、差別禁止法を出していくことが可能になってきた。差別禁止法のキャンペーンとともに、国会へのロビーが重要になってくる。  今日のセッションは、そうした次の闘いの第一歩。

日本での差別禁止法制定を念頭に相次いだ質問

 その後の休憩では、韓国側が用意してくれた食事や飲み物を頂きながら、懇親の時間をもった。そして、休憩後の議論では日本側から質問が相次ぎ、時間不足になる程だった。いずれも、日本での差別禁止法制定を念頭において少しでもヒントを得たいということからの質問だった。その中から、主立ったものを、紹介したい。

Q 政府と法案を詰めていく段階で、障推連として絶対ここだけは譲れないと思ったポイントは?

●パクさん
 大統領の諮問委員のみなさんを説得することから始めた。委員が差別禁止法が必要だと納得するまで説得した。各政府の機関との交渉があった。そうした検討の中で、次の4点を重視した。
 一つは、差別是正、罰金などができる是正機関がないと意味がないと強く言った。この点に関して、政府や野党案よりも前に、私たちがもっている法案が先にあったことから、私たちの方に主導権を確保できた。私たちの法案に対する対応を求める形での議論を展開できた。
二つ目は、障害の概念。政府は、特に障害保健福祉部を中心にして福祉法の概念の障害と、差別禁止法の定義を一緒にしたいという思惑があった。
 しかし、私たちが提起してきたのは、福祉サービスの対象をめぐる概念と、人権を請求する概念は違うということで。どんな状況であっても、いくら、短期的、一時的であっても障害であると概念を整理した。政府は長期的に障害をもっているという概念にしないと混乱がおきるという反応だった。しかし、過去・将来に渡って障害者と見なされること等も含めた概念を入れさせた。
 三つ目は、裁判を受ける時に、立証責任を転換しなければならないという主張を展開した。差別を受けたと訴えたら、それをなかったと証明できなければならないと、立証責任の転換を求めた。
 四つ目は、裁判所の民事救済だった。
 その結果、裁判所の民事救済措置は受け入れた。立証責任の転換まではいかなかったが、ある程度は受け入れた。

Q 経済界が差別禁止法に反対したということだったが、説得や反対の意志をくじくためにどのような活動をされたか?

●ペさん
 韓国はこの間経済的に厳しい状況におかれてきた。それで、経済界では差別禁止法に対して反対の意見が強かった。韓国では法定雇用制度がある。企業が2%以上雇わない場合は、雇用負担金を雇わないといけない。差別禁止法が施行されれば多くの障害者が合理的配慮を求めることになる。それで企業はもっと大きな負担を追うことになるという意見を経済界は言った。障害者を一人雇えば、全ての設備を整えて、バリアフリーにしなければならなくなると主張しました。障害者一人を雇用することで、経済的な負担が大きいという立場だった。
 最初は経済界を説得しようとした。私たちの法案を話し合う時間をもち、経済界を招き話し合あった。経済界の皆さんの心配の話を充分聴いた上で、誤解があるということを説得した。「合理的配慮がそれほど大きな負担ではない」ということを話した。しかし、経済界は耳を傾けてくれなかった。経済界の代表とも面談を求めた。引き続き経済界との話を求めたが、話の場はもうけられず、反対を続けました。
 それで、もっと強力な行動に出なければと思うようになった。経済界の代表や団体の建物の前で集会を開いた。12時から1時まで一人でデモをするということにした。それでも、経済界は反対を続けるので、さらに圧力をかけ続ける必要があった。
 新聞やメディアでアピールしました、市民団体に対しては、私たちの仲間になることを求めた。市民団体も私たちを支持してくれて、合理的配慮は企業の社会的責任だと共に提起してくれるようになった。
 結果的には大統領の諮問委員会で韓国障害者差別禁止法を提案することになった。
 最後には、経済界が入っている建物の前で集会をしたりもしました。

●パクさん
 その闘いの中で、多くの仲間が連行されて、罰金を払ったことも大きな犠牲の一つ。障害者はお金がないので、罰金を課せられるのは不当だといっているが、今も督促状がきて苦しんでいる。

Q 韓国でそれだけ闘いが続けられてきた、その権利意識はどのようにしてつくられてきたか?

●ペさん
 権利意識が最初からあったわけではなく、これ以上の権利侵害は認められないというギリギリのところまで追い詰められてきた状況がある。それで、正当な話し合いだけでは必ずしも受け入れられない場合には、権利のために立ち上がらなければならないと思うようになった。

Q合理的配慮について、それ程大きな負担にはならないということで説得されようとしたということだが、一方で、障害者関連の国家予算の増額等も視野に入れた取り組みは?

●パクさん
残念ながら、これまでの韓国政府の状況を見た時に、差別禁止法が出来たから、それですぐに障害者予算が増えるという見通しはもちにくい。
 「正当な便宜供与」ということには、当然の権利であるという意味がある。
 企業が言う「困難」への対応は、別の方法を考えている。合理的配慮が一日にしてなされると思わない。企業の規模を考えながら段階的に適用するということを考えている。
 今、施行令の検討で相当な困難にぶち当たっている。経済界はできるだけ遅く施行するように働きかけているし、障害者は早く拡大されるように願っている。
 企業がギリギリ耐えられるくらいの水準で合理的配慮をつくっていきたいと考え、また、国や地方自治体が支援を行うことも求めていきたい。

 以上のように、韓国の仲間の力強い闘いの一端をかいま見ることが出来るとともに、日本から参加した仲間にインパクトを与える内容となった。特に、これまでの施策の枠組みが、日本と韓国は似通っている部分があることもあり、障害の定義をめぐる議論や経済界の反応等は、今後の日本における差別禁止法制定にとって示唆や教訓を与える部分がある。
 いよいよ日本での障害者差別禁止法制定に向けて、障害当事者はもちろん、各界・各層の人たちが知恵と力をあわせて活発な取り組みが進んでいくことを期待したい。

スピーカー
スピーカーの写真
スピーカーの写真
会場の様子
会場の写真