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釜石市 野田武則市長会見記録

日時:2011年4月15日(金)13:00~13:20
場所:釜石市災害対策本部(シープラザ釜石2階)

※釜石市役所は津波で被災した。市長を含め市職員は市役所の中で孤立し3日間を過ごしたと言う。市の職員は400人中4人が亡くなり、100人以上が家や家族を失った。商店街は形こそ残ったが、全体が津波に飲み込まれた状態で使用不可とのこと。災害対策本部として使用しているシープラザ2階の奥に市長がいた。穏やかな感じの野田市長であったが、言葉の一つ一つは重かった。

会見の様子

藤井:3.11、その時、野田市長はどうしていましたか。

野田:市役所で議会中でした。議員や市役所幹部と一緒にいました。地震の後、一度建物の外に出ましたが、津波避難指示が出たので建物の中に戻りました。そして津波がやってきて、役所の周りは木やがれきで埋まり3日間孤立しました。地域の住民も一部市役所に避難してきましたが、地震当日から孤立した3日間はカップラーメンでしのぎました。4日目にようやく場所をここに移して災害対策本部を設置し、安否確認を始めました。全国からの救援物資は4日目頃から届くようになりました。他の避難所も同じ状況だったという事を後で聞きました。

藤井:高齢者や障害者も大変な目にあったと思います。避難所暮らしを含め障害者の状況は何かつかんでいますか。

高田地域福祉課長:地震後一週間は、まったくと言っていいほど動けませんでした。道路はがれきでふさがり、車も流されてしまったものですから。徒歩で避難所をめぐり障害者の安否を確認しました。ストマを使っている人なども困っているようでした。たまたま市の福祉部門が入っている建物の3階から7階が病院で、形があうかわからないが何種類か持って訪問しました。他にわかっている範囲では身体障害者センターが福祉避難所になっていて、視覚障害者の方が2名避難しています。そこには高齢の方や車いすの方等全部で5人が避難しています。他にはヘルパーが必要な方が、ここから7~8kmはなれた元特養に頼んで20名ほど避難しています。でも今なお、障害者の全体の状況はわかりません。

藤井:国に対しての要望や意見はありますか。

4月の釜石市の様子

野田:避難者は当初の9000人から3000人に減りました。親戚や知人を頼ったりアパートを探して移動しました。温泉や保養所にも約500人が一時避難しました。少しずつ日常の生活リズムを取り戻しつつあるようです。仮設住宅ができればプライバシーが守られるので、早くつくってほしい、これが避難所にいる方の多くの声だと思います。国には早く仮設住宅を作ってほしいです。それがスタート台です。そこから1年、2年をかけて本格的な住宅に移っていくのだと思います。この住宅問題と重なって、自立できる環境として、雇用の確保、働く場をどうするかです。ただし、この通り集落はほぼ全滅です。こうした厳しい状況の中で残っている市街地に仮設住宅をつくったとしても、雇用の環境をどう整備するかとなると、非常に困難な状況にあると思います。自治体独自の力だけでは何ともしがたいものがあります。本格的な立て直しとなると、国や県のしっかりとした支援体制が必要になります。縦割り行政の弊害をなくし、窓口を一元化しスピーディーであらゆることが展開できるような国レベルでの行政組織が必要です。財源や仕組みが省によってバラバラでは期待できません。財政についても大事なのは柔軟性です。がれきの撤去については比較的うまくいきましたが、自治体の裁量で使えるようにしてほしいと思います。

藤井:障害者から見ても働く場の問題は深刻です。昨日も大槌町の施設職員と話をしましたが、健常者の仕事が無くなって、これまで障害者にあてられていた仕事が引き上げられ健常者に回ってしまったそうです。働くことの支援に関して提言をいただけますか。

野田:国の方から、市町村の権限でやっていいと言われている仕事、例えばがれき撤去などの仕事ですが、緊急雇用という形で行っています。すでに市の臨時職員として1000人規模の雇用対策を行おうとしています。ただし、いつまでもがれきの撤去があるわけではなく、中長期的には企業の展開が必要になると思います。幸いにも釜石には新日鉄があり、つい先日から操業を開始しました。また大手企業もここにきて操業を再開しています。今日も、ある企業から60人を雇用したいという話がありました。とてもうれしく思います。 その一方で、たくさんの工場や商店が流されたり、事実上使えなくなってしまいました。社長さんや企業のリーダーもたくさん犠牲になったり行方不明になっています。そうした企業が再開できるような現実的な支援策が必要です。企業というのは、大体負債を抱えているものです。そうした中で、ある日突然災害に見舞われ、すべてが消えてしまったのです。工場も商店も、そして人も。残ったのは借金だけです。せめて、このマイナス部分を何とか応援してもらえないか、ゼロからのスタートにしてもらえれば随分と違うはずです。特別な政策を講じてほしいのです。超特区などというのも考えてほしいと思います。そんな中で、まずは地場産業が展開できるような仕組みを作ること、次に外部の強力な企業誘致策と合わせて町を復興させていく、そのためにも是非とも借金への支援策を具体化してほしいと思います。そうでなければますます人口は減少し、本格的な復興はあり得ないと思います。

藤井:苦しい中にありながら、一方で復旧から復興へと、新しい釜石づくりが始まると思います。復興と言いますが、新生とか創生と言った方がいいかもしれませんが、この点での基本的な考え方を聞かせてください。

野田:基本的には国からの強力な支援が必要です。しかし、待っているだけではダメだと思います。自分たちのまちをどう創ってくか、この点で英知を出し合い、主体的に取り組んでいくことが大事です。この取り組みの過程で、自分たちの手に負えないこととして何があるのか、これについては国や県に支援を求めることになります。 ここで考えておかなければならないのは、市町村の規模や財力も、被災の度合いもそれぞれ違うということです。被災地帯の地形や有効面積もまちまちです。中には自主性と言われても、それ自体が弱まっている自治体もあるのです。一方で、国によるお仕着せで一律の支援も困ります。市町村の実情を踏まえて、市町村の声を踏まえて、国や県による丁寧な支援を求めていきたいと思います。この点を理解してもらったうえで、国としての支援に関するビジョンを早急に示してほしいのです。

藤井:障害者の復興への参画も重要だと思いますが、その辺はいかがでしょうか。

野田:釜石は障害者へのボランティア活動がとても積極的なところです。こうした絆を大切にしながら復興にあたっていかなければならないと考えます。当然、障害者の声も聞いていきます。

4月の釜石市の様子2

藤井:復興は長期になりそうですね。

野田:相当な覚悟が必要だと思います。復興の前の復旧ですが、これについては何を持って復旧とするか、考え方によって違うと思われます。例えば釜石には防波堤や防潮堤、鉄道と言ったインフラがありますが、壊れてしまったこれらのインフラを元に戻すというのであればそれは可能かと思います。しかし、人が他へ流出してしまっては本当の復旧とは言えないのではないでしょうか。上辺だけを基に戻すという復旧ではなく、人がきちんと残りながらの復旧、これによって復興への足がかりができるのだと思います。繰り返しになりますが、復旧に際しては、住宅問題に加えて、雇用、教育、医療などを重視していきたいと思います。とにかく、考えられなかった大災害であり、復旧や復興にあたっても、これまでの枠を超えた発想や視点が必要です。

藤井:市長の胸に秘めたるキーワードはいかがですか。

野田:月並みですが「絆」と言いたいです。個人の単位ではなくて、人と人との繋がりの中でそれぞれの人を大切にしていきたいと思います。こうした状況にあっても、多くの市民は内陸に行こうとはしません。それよりも自分の近所の人を気にしています。自分だけがよければいいというのではなく、人との繋がりを大事にしているように感じます。単体としての人ではなく、繋がりの中での人、人と人との関係をこれまで以上に大切にしているのではないでしょうか。このことの表れの一つとして、避難所のパーテーションについて、「そんなのいらない、かえって邪魔」といった声も出るくらいです。境を作ることより、今は繋がりの方をうんと大事にしたい、そんな気持ちの表れだと思います。先の見えにくい状況が続きますが、「絆」があれば乗り切れるような気がします。

藤井:頑張ってください。ありがとうございました。

4月の釜石市の様子3