音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「著作権の現況」

河村宏 (財)日本障害者リハビリテーション協会 情報センター長

項目 内容
会議名 私の夢を創るスター・ヒルズ 「聴くシネマ館」テープ読者交流会
発表年月日 2002年7月22日

 まず、著作権という権利なんですけれども、これは著者が持っている権利でありまして、日本では著作権法で規定されている権利です。著作権法違反の最高の罰金は1億円です。これは2年前に一挙に30倍になりました。なんでそんなことになるかということなんですね。この著作権法違反の最高の罰金が適用されるのは恐らく立法の議論のときには、会社が例えば売っているパソコンのソフトウェアを1本しか買わないで、大量に何百本もコピーしてばらまくという、そいうことが起こるのを防止するという論理でこの罰金が定められています。つまり、例えばソフトウェア会社が被害に遭ったときには、そのコピーした本数に応じて賠償金を請求できるんですね。2万円のソフトを100本作ったとしたら、証拠があれば200万円の賠償を請求できます。更に、罰金を支払わせることができるんです。そうやって組織的な違法のコピーを取り締まるんだと。それはみんな納得できるんですよね。全国に支店のある会社が、1本だけソフトを買って、全国にばらまいて、それで使ったら、これはどう見てもおかしい。これは違法だとするのは当たり前だとみんな思うわけです。

そのことと、例えば井上さんがなさっている、カセットの中にちょっと音楽が入ってきたり、スクリーンのバックグラウンドの音もちょっと入ったりもします。これが入ったから罰金、最高1億円だよと言って脅かされると、物事はけじめをつけるべきだと思うんですね。いわゆる海賊行為ですね、海賊版を出して元の出版社の著作が全然収入が上がらない、そういうものを取り締まるというのは私は必要だと思います。それから、今言った、会社がソフトを違法コピーして大量に配るというのに罰金をつけて防止するというのも必要だと思います。でも、それと同列に置かれて、これは著作権法違反だとしてとりざたされるというのは、私はちょっと間違っているのではないがというふうに思います。具体的に言いますと、形式的な著作権違反というのは無数にあります。みなさんが例えば今度どこかへハイキングに行きたいと思う。図書館にいろんなハイキングのガイドブックがありますね。それの中に地図が大抵載っているんですよね。行く所の地図をちょっとコピーして迷わずに行きたいと、公共図書館に行ってコピーを撮ります。これが調査研究に行くのなら著作権法違反になりません。でも、遊びに行くのだと著作権法違反なんです。だれもそんなことは考えないですね。著作権法31条というのが、図書館で部分的にコピーをしていいということを決めています。それは調査研究のためというふうに目的を限定しています。ところが、日常的にみなさんはそんなことはだれも意識しないでコピーを撮っています。それを、あなたは著作権法違反だから、遊びに行くんだったらコピーを撮っちゃいけませんと言われたら、だれでもちょっと変じゃないって文句をつけると思うんですね。

 それから最近、私なんかもそうなんですが、老眼鏡をかけないと新聞が読めないわけですね。どうしても何度も繰り返し読みたい長いものだったら、ちょっと拡大コピーして読みたいわけですね。新聞の中には署名入りの記事というのがあります。それだけで完結している一つの著作物なんですね。署名入りの記事を拡大コピーして私が持っていたとします。それを自分が自宅で持っている自分専用のコピー機でコピーしていれば著作権法違反にはなりません。でも、図書館で図書館にある新聞の署名入りの記事を、普通にコピーすればみんな入っちゃうんですけど、丸々コピーするとこれは著作権法違反と言われる恐れがあります。一つの完全な著作物を全部コピーしたことになります。それは自分が読みにくいから大きくしたいということなんですね。そのときに持って行くものが自分で買った新聞であっても、著作権法違反だと形式的に言おうを思えば言えるようです。それは丸々一つの完全な著作物全体をコピーしたからなんです。一部ならいいということになっています。どのくらいが一部なのかというのは、文化庁があちこちで講習をやるたびに言うことが違っています。最近は半分以下が一部であると言っているようです。法律上は一部となっています。ほどんど全部はだめというふうに言われると思います。つまり、身近に著作権との関わりを考えると、実は私たちは無数に著作権法違反をしています。著作権というのは、元々は民事なんです。つまり著者が得られるはずの利益をだれかが侵害した、その損害を立証すると損害を賠償しなければならない。これが民事の普通の訴訟のあり方ですね。だれだれさんが私の財産を侵害して、どこか傷つけたとか、どこか勝手に占有している。それに対して幾ら幾ら支払えというふうに言って、更に慰謝料を取ったり賠償金を取ったりできる。これは民事訴訟ですね。つまり、訴えて被害を立証できれば、裁判費用を含めてその被害額を取り返すことができる。

著作権法も実は同じなんです。著作権者は、もし、自分の権利が侵害されたと思ったら、侵害された利益を立証しなければなりません。立証したときに、更に慰謝料を取ることもできるでしょう。そしたら、井上さんが映画のスクリーンミュージックの一部をカセットへ入れたとします。幾ら被害があったというふうに立証するんですかね。例えばの話です。その被害というのが、得べかりし利益という言い方をしますけど、それがなければ得られたはずの金額、それが被害額です。被害額が1円でもあったというふうに特定できると、裁判では勝てるそうです。更に慰謝料も取れます。そういう裁判を想定したときに、まず昔の録音図書を制作して視覚障害者に奉仕するということが著作権法違反だと言ったケースですね、これは被害額が幾らなのか。もし、その著者が自らカセット出版をしていたんだったらば、それば売れるはずのもんが、同じものを作られて売れなくなったと。最初に投資した金額が全部回収できなかった場合、これは分かりますね。でも、もともと視覚障害者の人が読書をするということに無関心であって、自分は全然、録音図書の出版をやろうともしていないそいういう人、それからそんなものをやったってもうからないと思っていたからやらなかった出版社、その人たちに幾ら被害にあったということを立証できるのかというふうに私は疑問を持ちます。もともと無視していたマーケットですよね。そこに無償でその人たちの読む権利を保証するために奉仕しているというものについて、被害額をどうやって特定できるのか。

私は前から言っているんですけど、そういうことで被害の立証をしたいという著者がいたら、ボランティアグループや図書館で是非そういう裁判を受けてほしいと思います。もちろん応援をするつもりですけどね。一体幾ら損をしたのか。そのときにそんなにもうかりそうなら、なんで録音図書で自分たちで出版しなかったのですか。もうかると分かっていたんだったら、出版すれば良かったじゃないですか。それはもうかりそうもないからやらなかったんでしょう。それを更にただで配っている人たちは、一体何がもうけになるのか。もうけの一部をよこせって言うんだったら、逆にコストの一部を負担してもらってもいいんじゃないか。極端な場合ですよね。私はそういう裁判は受けて立って、どっちに道理があるかやはり明らかにするべきだと思いますね。ところが、残念ながら図書館の多くは自治体です。違法であるというだけで、みんなしりごみします。

 それから朗読奉仕、奉仕という言い方は余り好きじゃないんですけれども、これはみなさんの善意で成り立っているという言い方でですね。その読み手の権利という考え方がないんですよね。権利を保証するためにやっているんですということであれば、ほかの権利と衝突したときに、どいういうふうに調整するかという問題があるはずです。権利と権利であれば、それは調整をしましょう。どっちも譲れない権利だとしたら、どこかに妥協点を見つけて調整をしましょう。これが普通の立法のあり方ですね。だけど、権利に対して善意だと、一方的に引っ込んじゃうわけですね。著者のお情けによってやっているんだと思えば、著者がだめだって言ったら引っ込んじゃいます。そうじゃなくて、それが読めない人の読む権利を保証するための行為だとしたら、著者が文句を言ったって引っ込めないはずなんですね。それがまして自治体はそれを保証する。そのために図書館があるんだと思えば引っ込められないわけです。残念ながら訴訟になってないんですね。私は大いにそれは受けて立って決着をつけるべきだというふうに思います。

そう言うと非常に過激な議論だということになるのですが、私は国家公務員だったときから同じことを言っていますから、べつに民間人になってこういうことを言いだしているわけではありません。やはり今の世の中というのは、権利と権利をきちんと議論をして、どこで調整をするのかということをしなければ、そのどっちかの権利は失われていくだけだと思いますね。だからそういう意味での原則的な立場に立って、やはり権利は権利として主張しなきゃいけないと思います。朗読奉仕をする方たちも、そういう権利をささえているんだという位置づけをやはり持ってもらいたいというふうに私はずっと思っているわけです。

そういう考え方の根拠というのは、世界人権宣言までさかのぼれば一杯あります。例えば世界人権宣言27条というもので、科学や文化の所産というものをだれも人は平等に受けることができるし、そこに参加することができるということをうたっています。世界人権宣言というのは、国連に加入している全ての国が認めている原則ですね。日本国憲法もそれに相当するようなことを言っていますし、それから著作権法自体も第1条にいろいろ書いてあって、「もって文化の発展に寄与する」というふうになっています。つまり著者の権利を守るために著作権法を決めると言ってないんですよ。文化の発展を確保するために著者の権利を守ると言っているんです。

したがって、一番大きな目的は、文化を発展させて、人が皆その発展した文化や科学的な所産の成果を分かち持つ。それが本来の著作権法の目指すものです。それがいつのまにかちょっとずつねじ曲げられて、第1条って、弁護士さんはみんな忘れているんですね。弁護士さんのほとんどは著者と出版社に雇われている人たちです。障害を持つ人たちの読む権利を守るためにお金をもらって活動している弁護士さんて、いないんじゃないでしょうか。恐らく手弁当でやる方だけだと思います。それに引き替え、著者の権利を守るための弁護士さんは無数にいます。世界中に。その人たちは、やはり第1条というのは忘れやすいんだと思いますね。そこから先のどういう権利があるということだけを見るから。それだとやはり権利と権利が衝突したときに著者の権利しか見ないという一方的は議論になってくるんだと思います。

2年前に私たちは、障害にかかわる様々な19の団体が、こぞって、国会である集会を開きました。国会の議員会館という所で、著作権法にかかわる要求を当時の文部大臣にあてて決議をしました。そこには国会議員の、特に著作権にかかわる文教委員会という委員会がありますが、その文教委員会に超党派で、国会議員の方たち、あるいは秘書の方たちが参加してくれました。そこで私たちは、著作権の現状がさまざまな障害を持つ人たちの情報アクセスをいかに妨げているかという問題を話し合いました。そして著作権法をこのように改正すべきであるという要求をまとめたわけです。

幾つかありますが、その中から主なものを拾ってみますと、まず、録音ですね。録音図書をもっと自由に障害をもつ人たちに提供できるようにすべきだと。それは先ほど申し上げましたように、最初から出版社が録音をして出してくれれば何も問題はないんです。図書館はそれを買って、普通に貸し出せばいいわけですから。でも、今の状況は、例えば視覚に障害のある人、あるいはベッドで本を持って読めない入院をしている人とか、一杯いますよね。本を持って読むというのは結構大変ですよね。入院をしているときなんかには。あとは、お年寄りの方で、視力は瞬間的にはそれほど落ちていないけれども、長く読みつづけることができない方って一杯います。瞬間的な視力と別なんですね、長く集中して読み続けることは。集中して読み続けることがけきない病気の方、あるいはいろんな障害の中で精神障害の方の中には多くいます。録音図書であれば集中して読める。ヘッドホンで集中して読めるちおう例がスウェーデンなどでは非常にたくさん報告されていまして、スウェーデンには国立の録音点字図書館というのがありますが、そこは法律上貸出しできる対象者のほかに、精神障害の人たちが含まれています。

それから最近話題になっていますLD、学習障害というふうに呼ばれていますが、LDの方たち、あるいはディスレクシアという読み書き障害の方たち。読み書き障害の人口比は、大体1%の人がデンマークの統計では読み書き障害だというふうに言われています。スウェーデンでは大学生の中で200人の視覚障害者の大学生がいますが、読み書き障害で、録音図書、DAISYの録音図書という新しいデジタルの録音図書ですが、それの提供を受けている大学生は600人います。視覚障害者の3倍はいるんですね、大学生で。つまり、読み書き障害の人たちもスウェーデンでは大学に進学できるというのがまず大きな事実ですね。更に、国が録音図書を提供している。法律上もきちんと認知されている。そういうふうに、なんで国によって録音図書をこんなに提供できる範囲が違うのかと思うほど、日本の今の著作権で許されている録音図書の抵抗の範囲というのは狭いです。狭すぎるということなんですね。例えば両手のないサリドマイド障害の方たちというのは、本を持って読めません。それでも今の著作権法では録音図書を提供できるというふうになっていないんですね。録音図書が提供できるアメリカや北欧の諸国では、みんな録音図書を使って学習しています。つまり、そういった問題の法律を変えてくださいということが一つありました。

もう一つは、昔はCDやビデオというのは、ビデオ屋さんの店先にダビングマシンがあって、特にビデオがすぐそこでコピーが撮れた時代がありますね。レンタルビデオ、ビデオを1本買ったらレンタルで営業できるという権利を取り上げた著作権法の改正というのが昔ありました。そのときに同時に、図書館の本も、もしレンタルビデオと同じように図書館が貸し出すことによって売り上げが落ちたら図書館に課金する、図書館に著作権者は金の支払いを申しですことができるというふうに。買ったものを自由に貸し出していいというものではないと。今では、買ったものであれば、あと自分がどうしようと勝手だという、物として扱ってたんですね。唯一の例外は映画だったんです。映画は配給権というのが別にありまして、フィルムを買ったらあとどいやってもいいんだというふうにはならなかったんですね。複製する以外は、買ったものは煮ようと焼こうと貸そうとこっちの勝手だとうのがそれまでのビデオだったのが、レンタル権という新しい権利が設定される改正がありました。そのときに私も関わっていたのですが、障害者団体及び図書館の団体で一つの運動をしまして、衆参両院で決議をしてもらいました。

こうやって技術が発展するたびに著者の権利を強めるという動きがあるけれども、そのとき同時に、障害を持つ人たちも同じように、技術が進歩したときにその進歩した技術を使って自分たちの情報のアクセスを更に発展させたいんだ。そのことを全然支援しないで、著者の権利ばかりを法律が支援していくというのはやはりおかしい。したがって、国に、特に行政に対して、障害を持つ人たちの著作物の利用が円滑に進むように努力をするという義務をこの際負わせて下さいという陳情をして、衆参両院で決議されました。その中に、著作権法改正に当たっては障害を持つ当事者の意見をよく聞くというものが入っていますし、それからどうやってより円滑に著作物を鑑賞したりできるようにするか、そのことについて政府は努力するという内容が入っていました。それが付帯決議で、その付帯決議を条件に先ほどのレンタル権というのは全会一致で可決したのです。つまり、すべての政党がより円滑に障害を持つ人の著作物利用を進めなさいと政府に言って、それでレンタル権を認めたんですね。

それから10年ほどたちました。それで私たちが目にしたのは、何の制限も付けずに、それから障害を持つ人たちの意見を十分聞かずに、新しい権利が設定されたということを見つけたのです。それはインターネットを使って情報を配信する権利、これが何の留保も付けないで著者の独占物になってしまいました。そのときに既に点字のデータについては、今はナイーブネットになっていますけれども、その前からパソコン通信で点字はもともと完全に著作権フリーでしたから、みんなパソコン通信でダウンロードして交換する仕組みを使っていたんですね。一方でそういうものがありながら、実際に使っている人たちの意見を聞かないで、勝手に国会で、すべてそういうネットワークを使って情報を送信する権利は著者のものとするというようにしてしまったのです。法律上パソコン通信でファイルをやり取りしているのを違法にされちゃったんです。どう考えても前の国会の付帯決議とこれは合わないんですね。付帯決議の趣旨に反するじゃないか、一体政府は何をやっているんだと。そういう付帯決議の精神をちゃんとくまないで勝手に作られた権利というのは、いわゆる正当なプロセスを経てないのでそんなものは認められない。だから正当なプロセスを経ていない条文に我々は拘束される必要はないから、だから幾ら違法と言われようとも、パソコン通信、あるいはインターネットによる点字ファイルのやり取りというのは当然やっていいんだという主張をしました。それで、政府に、違法状態のまま、現実としては我々は絶対譲りませんよと。で、そのことを更に問題にするのなら、法律の制定経過そのものを問題にしようと。それから昔の国会の付帯決議というのを一体何だと思っているのかということで議論をしました。

最初は私たちの要求を、また何か言ってるな、ぐらいに受け流していた政府側、文化庁の著作権課ですけれども、それが途中から血相が変わりました。それはやはり付帯決議と、その後十分な意見聴取をしないで先ほどの全く制約のない公衆送信権を認めて著者に与えてしまったということと、それから既にある点字は自由に無許諾で制作していいということとは合わなくなっちゃうんですね。矛盾しているわけです。点字に関しては、点字化するのはいいけれども、インターネットで配信するのはいけないという話になってくるわけですね。じゃあ、いちいち紙に打ち出して、あるいはフロッピーでやらなきゃいけないのか。このインターネットですぐにダウンロードできる便利なものをなんで使っちゃいけないのか。それは全く、法律上の手続きを踏むときに関係者に十分意見を聞かないで勝手に取り決めをした政府の責任なんですね。それを著作権法違反だと言うならば、逆に受けて立って、すべて今までの経過を開いてみてですね、どっちに非があるのかを明らかにしようと、そういうふうに障害者団体側でもたんかを切ったわけですね。それからがぜん顔色が変わって、やはりみんなで合意できるところは法律を早く変えようと文化庁が言いだしたわけです。それで法律が変わるまで6ヶ月でした。

普通、そんなことはないんですよね。全くの民間の団体が、障害者団体だけで集まって、それで法律のここがおかしいから変えろというふうに要求をして、政府側がみるまに改正案を用意して、それでこれでいいかと言ってきた。こんな例はまず殆どないですね。まして著作権法というのは一般の法律です。障害にかかわる法律じゃないんですよ。一般の法律ですよ。やはりそれは、余りにも大きなプロセスの過失というのが向こう側にあった。権利者側もちょっといい気になり過ぎていた。これをそのまんまにしておいたら、やはり今の著作権法の権威そのものがなくなっていくというところに気がついたのではないかと思います。私たちの要求の中の、言ってみれば100分の1ぐらいなんですけどね、実現したのは。それでも大きいのは、障害者団体が要求をして法律が動いたということなんですね。一般法が動いたということです。しかも動く根拠となる著作権審議会の答申というのが、私たちの意見を聴取した上で出されたのですけれども、こういうふうに言っています。「著作権法は、著者の権利とともに、障害を持つ人たちの福祉との調和を図る必要がある。」これは初めてなんです。今まではほかの権利との調和なんて言ったことがないんですよね。著作権法は著者の権利を守るためだけにあると言わんばかりの著作権審議会だったんですけれども、調和を図る必要があると、原則が変わりました。つまり、どこかに調和点があるはずだと、権利と権利の間の問題になったんです。それが一番大きな成果だと思います。

その過程でこういう成果もありました。耳が聞こえない人の場合、手話通訳は非常に重要ですよね。今まで講演会なんかがあるときに、手話をやめろっていう講師が何人かいるんですよ。本当に有名な講師に結構いるんです。そんな人はネットにでも公開して、2度と呼ばなきゃいいと私は思うのですけれども。一番残念だったのは、千葉県のある公立図書館で、そこには聴覚障害の職員がおりまして、図書館主催の講演会で手話通訳を呼んでいたんですね。講師が手話をやめてくれと、自分の言っていることが正確に伝わらない。まるで手話がないほうが耳の聞こえない人にも自分の言っていることが正確に伝わるというようなことを言ったわけですね。図書館側はそれに対して毅然とした対応をしなかったんですね。手話通訳者なしでそのままやっちゃったんです。私はそれをあとで聞いて、びっくりして、ろうあ連盟に問い合わせたんですね。そこだけの話ですか、ほかにもたくさんあるんですかと言ったら、残念ながらあちこちであります、とろうあ連盟が言うんですね。なんでそんな変な人を公開して、公開討論の場にでも引きずり出さないんですかと言ったら、やはりみなさんの善意でやっていかないといけないからみたいな話だったですね、当時。10年以上も前ですけど。今は違うと思います。それで、その文化庁との議論のときにこの問題も出しました。

もうちょっと一般の話にすると、自分は英語がよく分からない。よく分からない人たちが、英語でしかやらない講演のときに、周りに邪魔にならないようひそひそと日本語に訳してくれる人を連れて行って講演を聞きたい。周りの人に邪魔にならないようにやったときに、だれが文句をつけるんですか。手話通訳が付いているのは、やはり手話通訳がいなければ何も分からないからそこに手話通訳がいて、内容の正確さが足りなかろうが何だろうが、そこでそれでしか情報のチャンネルがないからそれを使わざるを得ないわけですよね。そういうときに、その弁士が著作権法を楯にして手話通訳をやめさせる権利が著作権法のどこにありますかというふうに聞いたんですね。最終的な答えは、著作権法上、講師には手話通訳を拒否する権限はないというのが文化庁の公式の見解でした。著者は誤解しています。自分にはそんな差し止める権利があるんだと思っていますね。しかも自分が著者として、あるいは講演者としての当然の権利だと思っているわけです。そこらへんも非常に大きな誤解ですね。ですからそういう誤解を一つ一つ崩していく。

もう一つは、やはり情報を得るチャンネルがそれしかないという場合には、その人の情報を得る権利、知る権利と著者の権利とは調和点を求める必要があるんだと。そのことを著者も認めるべきなんです。著者は絶対的な権利者として君臨するべきでない。著作権というのは、あくまでも文化と科学技術の成果をみんなが分かち合うためのものでしかなくて、著者のためだけにその法律があって、自分はその法律にかしずかれて君臨できるんだというような誤った文化観を早く払拭するべきで、著者自身の中でもっと自覚を深めてもらいたいというふうに思います。

これは残念ながら日本だけじゃなくて、世界中で著者は大きな誤解をしています。これをやはり著作権を管理しているユネスコとかワイポ(WIPO)という世界知的所有権機構というのがありますが、それから最近ではアメリカが中心になって、ワールド・トレード・オーガナイゼーション(世界貿易機構)、ここに経済の倫理だけで著作権を持ち込もうとするとんでもない動きがあります。つまり、著作者の権利を守るためだけに著作権を使おうとする。そういうのはWTOという貿易の関係では非常に多いです。これはアメリカの国際戦略ですね。それに対して、やはり人権であるとか、文化であるとか、そういったあり方というものを正面から対峙させて、知る権利、情報を得る権利というのを守っていく活動の中に、「聴くシネマ館」、これを位置づけられれば、より大きな連帯の輪の中で運動ができるのではないかなというふうに思います。

そういう方向に向けて、今、国際的にも運動の輪が幾つかあります。まず一番初めに来るのは、今年の10月に大阪で、アジア太平洋障害者の10年の今年が最終年ですから、それの締めくくりの総括会議というのがあります。それにすぐ引き続いて、琵琶湖畔でアジア太平洋地域の政府が集まって、この10年の総括と、次にまたアジア太平洋障害者の10年をもう一回アジア太平洋地域で国連のESCAPが主催してやることになっていますので、その行動計画を練ることになっています。その行動計画の中に、これは私が先月10日間ほどバンコックのESCAP本部で缶詰になって議論してきたんですけれども、一つ著作権に関する新しい項目が入る予定です。それは障害を持つ人の情報アクセスの保証について、著者も責任を分かち合うべきであるという1項目が行動計画の中に入る予定です。これは今まで顧みられなかったことです。中国政府が非常に強くそれはいいということで支援しましたから、絶対入ると思います。当面入るのは、そんな抽象的な文言でしかありません。行動計画ですから、それぞれの国がそれに沿って、あと何を実現するかということが課題になります。それにしても一つの原則が各国政府が集まる所で確認されるというのは、次の一歩になると思います。

それからもう一つ、世界的なサミットで、国連が世界情報社会サミットというのを来年の12月にジュネーブで開くことになっています。これは情報社会が持つ様々な社会的な問題を、世界の首脳、国連のサミットですから各国の元首、首相が集まります。そこで何が問題なのかということを話し合って、行動計画を決めて、グローバルに解決を図ろうとしています。著作権条約の見直しをする最大の好機です。その中で、やはりアジア太平洋地域では著作権者もそういう責任を分かち合うべきだと。著作権法、著作権条約もそれを反映したものにするべきだるということを強く打ち出していくべく、準備会議等の取り組みを進めようというふうに思っています。国連の情報サミットの準備会議は、来年の1月にアジア太平洋地域は東京で開催されます。そこにもっと明確な著作権の問題点、著作権法の考え方の問題点というものを出していってサミットにつなげていくつもりです。

全体として今まで取り組みが一番遅れているのは翻案権と呼ばれる権利です。翻案権というのはどういうものかと言いますと、原作を一部作り変えると言う権利です。これは障害を持つ人の情報アクセスとどうかかわるかと申しますと、まず、知的障害の人たちが漢字ばっかりの文章、漢字が多い文章で、例えば教科書にしても、あらゆるものを見せられても、分かりにくい。でも、それが録音してあって、特に自分が知っている人の声、自分が信頼している人の声で録音してあったときには、それをゆっくり繰り返して読めば分かるというケースが非常に多いというふうに言われています。それから、そのときに図解してあればもっとよく分かると思います。つまり、これはみんな翻案なんですね。元の文章を分かりやすく作り替える、これが翻案です。漢字だったものを仮名にする、これも翻案とされることがあります。そこに挿絵を挟む、これも翻案になります。みんな翻案になっちゃうんですね。でも、そういうことをしないと分からない人たちもいるわけですね。特に契約書類とか社会的な制度について書かれているものというのは、原文では分からないという人が非常に多いと思います。契約書類なんかも、読みたくもないような文章がいっぱいありますよね。それを分かりやすく書き直すというのは、誰にとっても分かりやすいことなんですけれども。ただ、残念ながら翻案権というのは全体不可侵という迷信がはびこっていまして、それが著者の絶対的な人格権なんだと、これが著者の命だということがよく言われています。

命はいいけれども、それじゃ分からないという人が分かりたいというものを妨げるというのは、やはりどこかおかしいのではないかと私には思われます。 もう一つは、先天性の聴覚障害の方にとって、書き言葉というのは非常に難しいというふうに言われています。話し言葉はもちろん難しいんですけれども、書き言葉も非常に難しい。見えるから読めるじゃないかというのは、うそです。手話というものは、基本的に動作を用いて視覚的に表現しているわけですね。それを直線的に文字を並べてロジックでもって書いていくもので、これを理解するのはつなげるというのは、非常に難しい。文法が全く違うほかの言語を覚えるのとほとんど同じというふうに言っておかしくありません。だから日本手話ができるから日本語が読めると思ったら、そうじゃないんですよね。日本手話は分かってても、日本語が読めるということにはならないのです。日本語の読み書きができるようになるには、日本人が英語を習うのと同じような努力が必要だと思ったほうが早いというふうに言われています。つまり、第二言語なんですね。途中から失聴された方は別なんですけれども、先天的あるいは読み書きを覚える前に聴覚障害になった人には、語彙を少なく、分かりやすく書いてあるものというのが必要なのです。そういう意味で、語彙の数というのが非常に問題なんですね。

大体小学生が使う辞書というのは、例えば語彙の数は限られていますよね。小学生で広辞苑を使う人もいるかもしれないけど、もうちょっと言葉の少ない辞書を使い始めると思いますね。その辞書に出てくるくらいの言葉で全部が書いてあったら、なんて分かりやすいことだろうというような問題です。そういうものを必要としている人たちが、知的障害の人、あるいは認知障害の人の中にもいるようですし、言語の獲得、初期言語に障害のある先天性のろうの人たちも必要です。そこに挿絵があったほうが非常に分かりやすいということもあります。

著作権者たちをマスとして見たときに、もちろん想像力豊かな人もいると思うのですけど、権利者団体とか、その権利者の集まりとかいったときに出てくる大きな声というのは、いかに自分たちの権利を守るか、それだけなんですね、今の日本では。残念なことに。そういったあり方に、やはり情報サミットで、世界中で経験や進んだ事例を集めて、権利者もやはり成熟した文化を担う本当の意味での文化人になっていってもらうという必要があるだろうと思います。自分の権利だけを主張するというのは、文化を担う担い手としては何とも寂しいというふうに思いますね。そういう意味で、私どもは著作権法を敵だと思っているわけではないし、著作権法による著作権の保護は絶対必要だというふうに思っています。

それは同時に、調和するべき調和点をいつも見つけながら、新しい技術が可能になったときには、その技術を障害を持つ人たちがどういうふうに使えるのか、そのことによって情報アクセスはどう向上できるのかというメリット、それとそれを最大限に生かしながら海賊行為によって著者が受ける打撃をいかに減らしていくのかというその制限、それを調和させるということが著作権法に対する私たちの基本スタンスです。ですから著作権法をつぶせとは一度も言ったことはないです。著作権法のあり方を本当に文化的なものにしていってほしい。そのために協力できるところは協力したいし、やはり強く要求すべきところは要求していこうというふうに考えて、今も著作権法改正のための取り組みを、障害者放送協議会というのを19団体で作っていまして、また改めて文部科学省に著作権法改正の要求を近々出していく予定です。その中に、今、「聴くシネマ館」で進めているような活動をより進めやすくなるような方策を要求していきたいというふうに考えています。