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平成20年度 DAISYを中心としたディスレクシアキャンペーン事業
~DAISY教科書提供体制の確立を目指して~

セッション1 「ディスレクシア当事者のニーズと求められる支援」

講演を行う品川裕香氏の写真

品川裕香(ジャーナリスト)

皆さん、こんにちは。ただ今ご紹介にあずかりました品川です。よろしくお願いいたします。お時間も短いですので、私のほうからはディスレクシアの現状というよりは、特別支援教育全体の実態についてお話をしていきたいと思います。

各自治体には、ご存じのように拠点校というところがございますが、「うちは特別支援教育力を入れています」と言ってらっしゃるような学校を拝見すると、例えば非常に字のバランスも悪いし、やっとの思いで書いている掲示物がございます。ところが、その学校のコーディネーターの先生とか校長先生にお話をお伺いしますと「あの子はね、字、書くのが嫌いなんですよ」というようなコメントがいまだに出てくるんですね。

でも私は少年院も取材しておりますけれども、勉強ができなくていいと思っている子どもとか、字を書くのが嫌いと思っている子どもは本当はいないんです。いくら頑張ってもできないから結果的に嫌いになる。一生懸命やっても成果が現れないから嫌いになる。ですが、実態としては特別支援教育に力を入れておられたり、一生懸命勉強されて研修会もおやりになっているというような学校ですら、LDやディスレクシア的な傾向を持つ子どもたちのことは見過ごしていっているといえましょう。要はその子どもたちが出している状態像から、SOSを見抜けるかどうかが、問われていると私は考えております。

実際に取材の現場で耳にするのは、実は2パターンだと考えております。1つは「配慮型」と私は呼んでいるのですが、要するに「障害は個性だから」という発想が強いパターンです。「書けない読めないのはLDのユカちゃんの個性」という説明をされる。だから「LDは個性なんだから無理に字を書かなくてもいいのよ。パソコンを覚えましょう」と。あるいは「みんな、ユカちゃんは頑張っているから分かってあげよう」と言って、分かってあげるだけで、そこから先の具体的な指導にはなかなかつながっていきません。

それから、いまだに多いのは「従来型」で「診断があれば支援の対象です。診断があれば特別支援学級へ行ってください。診断がなければ家庭の問題?本人のやる気の問題?」と捉えるパターンです。

また、特にLDの子どもたちは、この2年間で随分と指導の対象から置いていかれてしまったという気が、残念ながらしています。いろんな特別支援学校や特別支援学級を拝見しますけれども、圧倒的に社会性や注意集中の指導が中心なんですね。書字がしんどい、読みがしんどいというようなお子さんへの対応は本当に遅れていると言わざるを得ません。そこを特化してやっている現場はもちろんございますが、でもすごく少ない、と言うか、ほとんどないというのが現状です。

この点につきましては、いろんな学校等でお話しさせていただきますけれども、いまだにLDは「勉強ができない子」「怠けとLDの区別は難しい」と捉えておられる方が少なくないと痛感しております。あの子は本当は勉強ができるのにテストで点が取れないのはやる気がないから、という従来通りの子ども理解が先生方の中では変わっていかない。そんな思いが私にはございます。

ほかにもよく見聞きしますのは、自分は特別支援教育の専門ではないから分かりませんと言って放棄してしまったり、人も金も足りないから特別支援と言われてもできるはずはない、とおっしゃるようなケースですね。

さらに、私がよく言われますのは「できない子に合わせると他の子が犠牲になる」ということです。今、新聞で連載しているのですが、そういうことをお読みいただいた行政の方、教育関係者、政治家の方々から言われます。もちろん保護者からも言われます。その都度、私は次のように説明しております。

特にLDの子どもたちは、最初は本人たちは頑張るんです。でも小学校5年生ぐらいから、だんだんとしんどくなってきて徐々に登校渋りが始まってくる。それでも本人は頑張るんです。本人が最終的に「もうだめだ」と、どこで思うかと言いますと、だいたい中学2年くらいのようなんですね。中学2年で、たいていのLD傾向の子どもたちは将来への希望を非常に持ちにくくなるんです。これが、なぜだかお分かりになりますか。

LD的な認知や学習スタイルに応じた指導が受けられず、評価もみんなと一斉だとすると、結局、その子はテストで点が取れません。これがどういうことかと言いますと、内申書で点が取れないということなんですね。内申で点が取れないということは、自分が行きたい高校には行けないということであり、そのことについて中学2年くらいで子ども本人に見えてくるんですね。これは子どもにとっては非常に過酷なことです。ですからこの時期を境に、子どもたちの学校不適応行動も増えていくという現実があるのだと私は取材を通して考えております。

なぜこうなってしまうのだろう、と常々考え続けておりますが、一つ指摘できますのは特別支援教育は発達障害児のための教育、つまり障害児教育だから個別指導が大事、障害児教育だから自分は専門外、障害児だから無理をさせたらかわいそう、と思っておられる方がまだまだ多い点です。個別指導は、ものすごく大事です。特にLDの子どもほど個別指導が必要です。ですが個別だけでは不十分なのです。集団の中でも同様な視点で指導していかなければならないのです。自治体や学校によっては、いかに集団指導で分かりやすい授業づくりをしていき、その子も分かるし、みんなも分かるよというようなアプローチに変えて、学校全体の底上げをして学力も上げて、クラスの仲間作りもすごく良くなって、というところもございます。

ですが、そのしんどい思いをしている子どもの個別指導をどうするか。そこで問われるのが教師としてのプロの力と申しますか、私からいたしますと腕の見せ所と申しますか。放課後に勉強クラブをつくったところもあれば、特別支援学級では、ひたすら読み書きの部分に特化して教えているという自治体もあります。昼休みに取り出したり、少しでも遅れ気味な子は取り出して個別で指導したりしている学校もございます。でもやっぱり、LDを視野にいれた指導は少ないなあというのが私の印象です。

一番の課題は何か、と申しますと、日本はすべての子どもの自立を視野に入れて、徹底指導ということをあまりしていない点にあると考えます。だいたいできればいいやと。無理をさせたら心に傷が付くとおっしゃる先生にもよくお会いします。

ですが、子どもの立場で考えていただきたいのですが、たとえば補助員が付いたからと言って、その子の徹底指導になるかと言うと、そうではありませんよね。学級経営上はその子がおとなしくしてくれればいいやとか、その子どもが怪我をしないようにとかほかのお子さんを怪我させないように、というようなメリットがあるのかもしれません。ですが、この子どもの立場で考えたら?どうなのでしょうか?さきほど神山さんがさんざん苦労されたというお話をされていましたけれども、子どもたちは自分が何ができないかはよく分かっているんですよね。どうも読むのがしんどいらしい、書くのがしんどいらしいと。でもどうしたらいいかが分からない。そこが教育の出番なのです。ところが、「あなたが大変なのは分かっているわ。無理をすることはないのよ」と言って終わっているというのが、残念ながら現状の多数なのです。

一方、私は先ほど「ユカちゃんは頑張っているから、みんな分かってあげて」と言う傾向がよくみられると申しましたけれども、私はこの言葉には反対なんですね。なぜかと申しますと、それは結果的にクラスの子どもたちの中に上下関係を生みやすくなるからなんです。つまり「分かってあげる子」と「分かってもらう子」が生まれる。いじめという視点に立ったときに、「分かってあげる子」と「分かってもらう子」、この差異が生まれたときにいじめは発生しやすいと思っています。ということは、いくら個別に丁寧に指導しても、結果的にその子がいじめにあったり不登校になってしまったりしたら、その子の教育権や、将来自立して社会に参加する権利なども保障されません。今日のテーマでもありますDAISYは、特別支援教育の中では必須です。ですが、「みんな、ユカちゃんは困っているからDAISYが必要なの。分かってあげてね」と言ったらどうなるかということを考えなければならないというわけです。

だからこそ、個別指導と集団指導は必ず両輪で考えなければならないのです。いかに集団を指導するか。どういう集団づくりをするかということとともに、いかにその子の権利を守っていくか。こういった視点を持とうとしている自治体や学校と、「障害があるからこういう指導をする」という、新たなるラベリングが進みそうな自治体や学校に分かれます。なぜこういう話をするか。今日はDAISYの話だと思って来られている方が多いと思いますが、もう少しお付き合いくださいませ。

こういった話をする理由は、今若者たちが置かれている現状を見たからです。今、若年の非正規雇用の人たちがどれくらいいるかご存知ですか?厚生労働省の発表ですと68万人と言われています。これが昨年の11月以降は急激にもっと増えているわけですね。そのときに、そういった就労不安定者の方々の苦手意識を見てみますと、字を書くのが苦手、計算するのが苦手、手先が不器用。人に話すのが苦手、人の話を聞くのが苦手。あるいは面接で質問に答えるのが苦手。電話で面接の申し込みをするのが苦手などといった課題があることがわかっています。こういった苦手意識があれば、社会的に排除されやすいことが、厚生労働省のデータですでに分かっているんです。

問題はこういった調査にあがってくるのは、何も発達的な課題を持っている人たち、ではなくて、あくまでも就労が不安定な人たち、という点です。だから教育がどこにターゲットを置くべきか、と言ったら、最低限でもこういった苦手意識はしっかりクリアできるようにしなければならないことが言えるわけです。字が書けないから無理しなくてもいい。人とうまく話せないのはあなたの個性だから無理をする必要はない。そんな子ども時代を過ごしてしまった時、いざ社会に出て自立しようとして困るのは誰よりも本人だということが、こういった調査から浮かび上がってくると私は考えております。

これは子どもたちの状況ですけれども、小中学校の不登校の子どもたちの数は12万9千人です。これは最新の数字です。12万9千人と聞いて、皆さんどう思われますか?13万人の子どもたちが学校に行かない、行けない、ということはすごく大変なことです。ですが、数字を聞いても「ふーん、そうなんだ」で素通りしてしまっていませんか?でもこの数字にはひとつひとつ顔があるんです。13万人の子どもたちののちの人生がかかっているのです。なぜ私がこの数字を紹介したかと申しますと、それはフリーター、ニートになる人たちの2人に1人はいじめの経験者ですし、2人に1人以上は学校不適応者だという調査結果が、これまた厚生労働省のほうから発表されているからです。

何が言いたいかと申しますと、いくらコーディネーターの先生や担任の先生が一生懸命指導され、あるいはこれからDAISYを世間に広めていくとしても、こういった基礎学力の部分、最低でもできなければいけない部分ができなかったり、あるいは個別個別で指導されていった結果、クラスの中で排除されていったり、特別な子どもだとラベリングをされてしまったら、社会的に排除されやすくなるリスクがあがり、結果的に不利益を被るのは当該児童生徒たちだということ。ですからDAISYを広めていくうえでは、ディスレクシアはこうだ、LDはこうだとそこばかりを集中して言いつのってしまうと、結果的には排除されやすくなるというアンビバレントな状況になる可能性があることを踏まえておく必要があるのです。

では、DAISYもLDもディスレクシアも、広めず、こっそりやればいいのか?もちろんそれも違います。こっそりやればやるほど、子どもの自尊感情は下がりますし、やはり「あいつは特別」的な視点がクラスで広まってしまう。

そこで登場するのが、ICFモデルなのです。WHOが2001年に出したICFモデルの話、私は講演等で必ずご紹介しますけれども、なぜかと申しますと、ICFはしっかり「大事なことは環境因子」と言っているからです。環境はとても大事なのです。もちろん本人も頑張らなければいけません。ですが、個人の因子があろうとも、環境を整えるということは大事だと明言しているのです。

これを教育現場に置き換えて考えてみてください。どうでしょうか?

子どもがDAISYを使うなり特別支援学級に通うなりするとします。そのとき、最大の効果をあげるためには、そういったことが特別扱いでも障害があるからしょうがないでもない環境作りをしている必要があるということなのです。WHOは2001年に、そういったことを発表しているんですね。でもこれが全然教育現場には広まりません。広まらないから、どうしても「あくまでも個別に指導していく」というところに陥りやすいのではないか、と私は考えています。

改正された教育基本法や学校教育法は何と言っているか?「診断があるから支援しろ」とは言っていません。障害を含む教育的ニーズのあるすべての子どもに対応しろと書いてあります。これは法律としては非常に素晴らしいと思います。要はそれがその理念に基づいて運用されているかどうか、なのです。

ここで教育的ニーズといったら、例えば九九が分からない、これは教育的ニーズになりますよね。あるいは書字がしんどい、これも教育的ニーズです。読むのが苦手、お友達とうまく関われない。これらは全部教育的ニーズなんですよ。

だからこそ、診断がすべて、というわけではないのです。診断はもちろん大事です。なぜならばどういうデコボコがあるかということを見ていくきっかけや根拠になるからです。ですが診断がないからといって指導や支援の対象でないというわけなんですね。

その視点に立ったときに問われていることは何か、そこを今一度考える必要があります。科学は、人間にはものの見方とか考え方とか学習スタイル、情報のインプットの仕方、先ほど神山さんは視覚的に覚えたほうが分かりやすいとおっしゃいましたが、私が取材したディスレクシアの子どもの中には聴覚優位の子どももたくさんいます。それから視覚も聴覚も苦手だけれど、体を動かしたほうが入るという子もいるんですね。いろんなパターンがあるのです。だからこそ、この原理原則を知っておく必要があるのです。1人のディスレクシアの人がディスレクシア全体を代表することはできないんです。ADHDもそう、アスペルガーもそうです。

だからこそ原理原則はどこにあるかと言ったら、ものの見方とか考え方とか学習スタイルが違う。例えば先ほど神山さんや藤堂さんのお話にもございましたけれども、見え方が違うとか、同じように聞こえ方が違う。それから情報の処理の仕方も違う。つまりいっぺんにバンと入ってくる人もいれば、1個1個スモールステップでコツコツ言うほうがいい人もいると。あるいは記憶も作業記憶ですね、見て覚えて書くほうが得意の人もいれば、見て覚えて書くのは苦手だけど聞いたら覚えられる。このようなところに違いがあるということを前提に学校経営や学級経営、授業づくりを進める。

これが原理原則なんですね。障害名に応じた指導ではないんです。そうすることが法が求める「教育的ニーズのあるすべての子ども」を指導することになるのです。

では、どうすればいいのか?

まず学校側は1人1人の教育的ニーズを知らなければいけない。さっきも申し上げたように、書字がしんどくていいと思っている子どもはいないんですね。「勉強ができない」とか「怠けている」とか、「あれは問題の行動よね」ではないんです。そういう行動や状態像を見たときには、それはもうSOSだと思っていただきたいのです。ただ本人は自分から、なぜキレイに書けないのか、なぜスラスラ読めないのか。なぜみんながじっとしているときにじっとできないのか、分からないんです。わからないからできない。だからこそ、教育はそこを指導するのです。

「えじそんくらぶ」の高山さんが、すごくうまいことをおっしゃっていて、私は講演で必ず紹介するんですけど、大きなチェックポイントは、まずちゃんと見えているか聞こえているか。次はうっかり間違えたか、分からないで間違えたかです。ADHD傾向だとうっかり失敗するし、自閉傾向があると分からないで失敗しがちです。もう1つ、わざとやっているか。つまり虐待とか、過去に何か家庭にストレスがあったりするとわざとやったりする。たとえば、そういうふうな視点で子どもの行動を見ていけば、それは問題行動ではなくてSOSなんだということがお分かりいただけると思います。

これを理論とともに導入したのが、私がずっと取材しておりました宇治少年院だったり、広島少年院でした。そこにおられた主席専門官の向井義先生がずっとやっておられたんですね。徹底した個別指導と徹底した集団指導。その際、向井先生は、20年かけて世界中からエビデンスを集め、効果があるという報告がされている指導方法や理論だけを取り入れた。その結果、広島少年院は1年間の再入院率が0%だったんです。正しい方法でこちらが指導さえすれば子どもたちは伸びるしできるようになる。それを20年以上かけて証明したのが向井先生の実践なんですね。もちろんそれが簡単なことではないことは重々承知しておりますが、それでもあえて言うのは向井先生の実践がなによりもニーズに応じた指導を個別と集団で目的を明確にしながら行えば最大限の効果がえられるという事実を雄弁に物語っているからです。

そのときに大事なのは、先ほどから繰り返しておりますけれども、最初から多様性をふまえた授業づくりをしていくかどうかということなんですね。要するに見て分かる子もいれば聞いて分かる子もいるわけですから。評価も含めて、日ごろの授業中からいろんな見え方聞こえ方、あるいは理解の仕方、作業記憶や同時処理、継時処理が得意な人がいるという前提でやれるかどうか。木を見ながら森をも見るような学級経営ができたときに、初めてDAISYはクラスの中でも効果を発揮すると考えます。

ここをやらずして、ただDAISYだけを入れていっても、家庭では使えるけど学校ではいじめられたりバカにされたりするから使えないという悲しい状況になる可能性があるのです。そうならないために、やっぱり最初がすごく肝心で、せっかく今日、これだけの方がいらしているわけですから、行政の方もいらしているわけですから、ぜひ4月の1日目から、いろんな見え方、聞こえ方をする子がいるからDAISYを使う子もいるし、使わない子もいるし、録音したほうがいい子もいるし、黒板は全部デジカメで撮ったほうがいい子もいるというような学級経営をしていただきたいとお願いいたします。そうすることでDAISYの効果はすごく上がり、助かる子どもたちがたくさん生まれると思っています。

そのためには先ほどから言っているように、子ども同士に公平で公正な人間関係ができていないと、つまり「分かってあげる人」と「分かってもらう人」がいるような関係、あるいはできる子ができない子を教えるというような関係など、何らかの上下関係があるような学級づくりになっていると、結果的にはいじめ、不登校になっていく可能性が高い。そのことを念頭に置いていただきたいのです。

いじめについては、今日は時間がないのでお話ししませんけれども、集団の病理ですから、ひとついじめが起こると必ず次のターゲットが出てくるんですね。昔のいじめと違って今のいじめというのは、非常に加害者が特定しにくい。リアル社会での被害者がネット社会の加害者になったりもする。ですから、いじめが起こりにくい環境を最初からつくっていかなければならないのです。そういうときに、いろんな子がいるよという前提での学級づくりが、実はいじめ予防にも直結するんですね。だからこそDAISYを広めていくときには、その視点がものすごく問われてくるだろうなというふうに感じています。

それからLDの子どもたちについて言うと、PCとかデジカメとかICレコーダーを使うとか電子辞書を使っていいとか、というような外部脳を1学期の1日目から使えるかどうか、なんです。これがOKになると、「いろんな学び方をする人がいる」と多様性が子どもたちのベースに入っていきます。だから当然、これがOKでしたらDAISYも普及しやすい環境が整うわけですね。だからこそ、「品川さんだけDAISY使っていいのよ」ではダメなのです。品川さんは先生から見たら分かりやすいディスレクシアかもしれない。でも私の隣にいる子は、先生には気づかれにくいディスレクシア傾向があるかもしれないわけです。そのときに、「こちらが便利なら誰でも使っていい」というふうにクラス内で決まっていれば、品川さんもその隣の子も助かる、というわけです。

ただし、やはり本人の自己理解も求められるでしょう。このとき、自己理解が必要なのは、別に発達障害のある子どもたちだけではなく、すべての子どもに必要なことなのですね。だから、すべての子どもに自分への理解を進める、それも悪いところできないところばかりではなく、得意なところ上手なところも含めたバランスのいい自己理解を進める。そういう指導をしっかり入れていただきたいのです。

そして講演で私はいつもお願いすることがあるのですが、それは何かと申しますと情報保障ということなんですね。特に図書館と学校図書室では必須です。小学校の高学年くらいから、どんどん教科書が難しくなっていきますよね。アカデミックな知識というのは圧倒的に目から入ってくる情報が中心になります。そのときに読むのが苦手、書くのが苦手となると、ものすごく不利益を被ります。先ほどもお見せしたように、非正規雇用者、就労不安定者になっていく人たちの多くが、実は読んだり書いたり苦手だということが分かっているわけですから、いかにそこの部分を保障するかということが問われていると思います。だから図書館とか図書室ほど、本の音声化とか視覚化とかをやるべきなのです。

もう時間がありませんので、さらっと要点だけお話しますけれども、諸外国は高等教育での支援のほうが具体的で進んでいると思います。これは障害のある人たちの機会均等を保障する法律があるからなのです。厳しいことを申すようですが、この点は、日本はまだまだ課題だらけといえるでしょう。取り組み始めた大学もありますけれども、ほとんどは「入試を合格してきた子どもたちになぜ特別扱いを?」とか「障害者ばかりが増える」というような視点に陥りがちのように痛感しています。

と同時に、やはり義務教育で徹底指導する必要があります。義務教育で落ちこぼされてしまいますと、高等教育にも手が届かなくなってしまいます。自分なんてダメ人間、どうせ頑張ってもしょうがないと思っている子どもに、いくら「将来何になりたい?」とか「キャリア教育」と言っても何も入らないでしょう。そうなる前に、子どもたちが自分の将来の可能性を探るチャンスを、そのベースになるアカデミックスキルを学ぶ機会を奪わないでいただきたいのです。子どもにはいろんな可能性がたくさんございます。

しかも日本はこれだけIT機器があり、日本から発信している機器もたくさんあるわけです。だからこそ、できることはたくさんある。そのときに、木ばかり見て森を見ないようなことをすると、いじめや不登校につながってしまう、というわけです。IT機器を効果的に使用できるために何が必要なのか。ICF的視点にさえ立てば、おのずと答えは見つかると私は確信しております。

こうやって考えてまいりますと、教科書のDAISY化は、子どもの教育権の保障として当然の国の責務であること、ですけれどもそれだけを単体でいれるのではなくいかにすべての子どもに取って有用な環境が作れるか、それがなければDAISYも絵に描いた餅になりやすいことがおわかりいただけるかと思います。時間になりました。これで私の発表は終わりにしたいと思います。御清聴ありがとうございました。