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平成19年度 DAISYを中心としたディスレクシアキャンペーン事業
シンポジウム DAISYを中心としたディスレクシアへの教育的支援 報告書

講演1「ディスレクシアについて」

講演を行う神山忠氏の写真

神山忠(岐阜県立関特別支援学校 教諭)

皆さん、おはようございます。講演1を仰せつかった神山と申します。よろしくお願いします。先ほど、ゆっくりという 話もありましたが、早口な点もありますし、多動な点もあります。そういうのもディスレクシアの特性なのかなと思って見 てもらえばいいかなと思いますが。50分ほどお付き合いの方、よろしくお願いします。

私が文字を見たとき、まずどんなふうに見えるかということをお伝えしたいと思います。白いキャンバスに黒ごまや黒大 豆が、こんなふうにばらまかれているように見えます。

「LIFE」という文字

「何かな?何かな?うーん、文字だ」。読んでと言われてもなかなか読めなくて、授業中なんかすごいドキドキしている んですが。

これ、読めた方はどれくらいいますかね?・・・・・・かなりいますね。今手を挙げた方は安心感で座っていられると思 いますが、手を挙げられていない方は、「なんであれが読めるの?」ってなりますよね。そういう心理状態で子どもたちと いうのは45分も50分もずっと座っているわけなんです。そこに先生から「早く読んで、早く読んで、こんなものも読めなか ったら」という言葉が来て、よけい焦っちゃって読めなくなってしまうということが学校現場ではあるのかなと思います。 どこでどうつながっているかをわかってもらって、適切な支援を得られると「あ、そうか」ということになるんですが。

これも要らない行があるので、上下左右を隠してあげると「あ、なんだ」となるわけなんです。

上下の行を隠した「LIFE」

私の目というのは黒に目がいったらいいのか、白に目がいったらいいのか判断しにくいという特性があったり、文字ではな く図形としてとらえやすいところがあるんです。

これ、パッと見て読めた方はどれくらいいますか?

黒地に白で「ココロ」

では言ってもらおうかな?・・・・・・正解、「心」です。

先ほどの「LIFE」で、どこでどうつまずいて、どんなふうに困っているかをわかってもらえれば、「上下左右を隠せばこの子 は見える可能性がある」ということになってくるんです。

適切な支援さえあれば、何とか読めるんです。それがなかなか学校現場では得られなくて、困って自分でいろいろ作戦を練っ ていたわけなんです。

この図、皆さん、大丈夫ですかね? 皆さんで言ってみてください。

黒地に白で「ヨロコビ」

・・・・・・ありがとうございます。

この子はどんな支援が必要なのかというのを見つけてもらえたらありがたいと思います。

この図なども、ちょっとした支援があれば、ダルメシアンが下を向いて歩いているなというのがわかる。このように、素材と 素地の見分けがなかなかつきにくいという特性があります。

何かの動物がいるようだけどよく見えない。

線を入れたらダルメシアンだとわかる。

実際に文章を見ると、このような感じです。

水墨画なのか、文字かと目を凝らしていて、これだけゴチャゴチャだとよくわからない。

たくさんの字が横書きで薄く書いてある。

けれど上下左右を隠すと、注目すべきところが見えてきて、何とか拾い読みで読めるという状況です。

上下左右を隠したので「このような流れの中で、」という文字があるとわかる。

そんな私がこういうものを見たときに、「何かな?DNAの配列かな?」と思わずに、ちょっと隠すと「人の頭かな?」と思うわけです。

記号を使って描いた女性の絵

文字として認識しやすいというよりも、図形として認識しやすいタイプの人間かなと思ってもらったらいいかなと思います。 だからこれを見て、数学記号とは思わずに、「あ、魚が3匹いるな」と思うわけです。

数字記号を並べて描いた魚の絵

そんな私が小学校2年生のときに時計の勉強でもすごくつまずきました。この絵を見て何時何分だとわかった方は?わからない ですよね?

針がなく枠だけの時計板

逆にこれなら「あ、5時だな」とわかるわけですが、

5時の方向を向いている時計の針

文字盤と針が一緒に示されていても、私の場合は「縦横に大きな八角形がきれいに並んでいてきれいだな、はさみでチョキ チョキ切ってビューンと飛ばすとどのくらい飛ぶかな」と考えてしまって、なかなか針に見えない。まして針と文字盤の位置関係を 読み取って何時何分かを言い当てるなんてすごくハードルが高いことです。

枠と5時の方向の針が合わさった状態

色を変えたり1本ずつ針を示したり、周りを覆って見るべきものだけ見えるようにしてやれば見えるという、そういう特性があります。

長針は赤、短針は青にして、5の方向に向いている短針以外を隠した状態

時計がこうだから文字だともっと困るわけです。この図だととても苦手です。まず縦横の線の太さが違いますね。地図を見るのは好きなんです、 運転するのは好きで。こちらが優先道路でここから来たら停まらないといけないなと、線の太さから地図と同じようにとらえてしまって、文字と とらえにくい。よく見ると三角形があって3つに大きく分けられるかな、この中だとこれが一番かっこいいな、好きだなと思ってしまって、文字 ではなくて図形として自分の好きなところに目がいってしまったりします。

明朝体の「支援」

だから丸ゴシックとかゴシックが比較的読みやすいということがあります。

丸ゴシック体の「支援」

これは小学校2年生のときにあった話なんですが、2時間目と3時間目の間に長めの休みがあって、2時間目が終わったときに先生が黒板に縦書きで 「今日は天気がいいので外で体育をします」と書かれたんです。私は拾い読みをしたんですが、3時間目に外に出ずに叱られたんです。目で追って 拾い読みをするわけなんですが、それだけで自分のキャパがいっぱいで、耳で聞いて理解するというところまでなかなかいかないんです。意味を理解 しイメージするというところまで余力がないという状況です。

どうしたら理解できるかというと、何度も何度も読んで暗記状態になったら、やっと意味を考える余裕が出てきて、そこでやっと理解できる。 だからすごく負担がかかるわけで、無駄な時間をもっと他のところで使えたらなという思いをずっと抱いていました。

ではどうしていたかというと、ギュウギュウ詰めじゃなくて、意味のまとまりで分かち書きにして示されれば、「今日は 天気が いいので」と なっていれば、まだイメージしやすい、理解しやすいという感じです。

実際に教科書などは分かち書きにはできないので、どうしたかというと、赤ペンで斜線を入れていました。それで何とかやっていたわけですが、 初めから正しいところに印を入れられなくて、失敗、失敗で、教科書が真っ赤っかになってしまう。それを見た先生は、「何を教科書を粗末に扱って いるんや、こんなことをやってるから勉強できへんのやぞ」と、教科書を取り上げて頭をカツーンとたたく。どっちが教科書を大事にしてないのかな と疑問を抱いていたわけですが。一生懸命やっている、その努力もなかなか努力とはとらえられず、「こいつは遊んどる」というとらえ方をされてい ました。

上は「てにをは」が入っていなくて分かれています。下は「てにをは」が一緒になっていますよね。

上は「きょう/は/てんきが/いい/ので/そと/で/たいいく/を/します/。」と書いてある。下は「きょうは/てんきが/いいので/そとで/たいいくを/します。」と書いてある。

下のように読めるようになったのは、こんなことがあったからです。英語で「アイ・マイ・ミー」と丸暗記しませんでしたかね。そのとき、「I」 一文字で「私は」なんだと。今まで「わたし」と「は」を別々に考えて頭で合わせて理解していたけど、「I」一文字で「私は」ならば、「私は」で 1つの意味のまとまりとして自分の中に蓄えてしまえばいいんだと気づいて、さっきの区切り方でも理解できるようになっていったんです。 そんな子どもでした。

これは小学校3年生のときのエピソードなんですが。先生がメモで「たいことばちをもってきてね」と渡してくださったんですが、私はそのメモを もらって一生懸命、意味のあるところで区切ろう区切ろうと頑張ったわけです。

メモで「たいことばちをもってきて」と書いてあり、「たい ことば ち を もって きて」と読んだが、「たいこ と ばち を もって きて」だった。

そうしたら、「鯛・言葉・血を・持ってきて」と。えっ、今日の給食は鯛なの? 言葉は図書室かな?血は理科室かな、いや多分保健室かな?と思って、 校舎の1階に行って3階に行って、どうやって回ると一番早く帰ってこれるかな・・・と考えていたら、授業の始まるチャイムが鳴ってしまって、「何をや らせてもグズだな」と怒られてしまうということがありました。なかなか一度で正しいところで区切ることも苦手です。

自分が教師になってからかかわった子の中に、いろいろやっても自分と同じように読みに障害を抱えている子がいて。自分が今まで使ってきた作戦を いろいろやったんですけれど、なかなか改善に至らなくて。あるとき、その子の話し方を聞いていたら「ねえねえ、先生、昨日ね、晩御飯のときにね、 おならをね、したのよ」と話してくれるんですよ。その子の話し方は「ね・ね・よ」で区切って出してくれるので、それかなと思って、色を変えて 「ね・ね・よ」で文章を書き換えて示していったら、その子は読んで理解していけたんです。その子の困難さとか見え方、理解の仕方に合わせた支援を、 こちらから提供していく必要がある。これが万能の支援だというものはないんだなということを、すごく感じたことがありました。

かかわった子は「きょうは/てんきが/いいので/そとで/たいいくを/します/。」よりも「きょうはね、てんきがね、いいのでね、そとでね、たいいくをね、しますよ。」の方がわかった。

あと、私の苦手なもので、縦書きの字がどうしても苦手です。新聞を見てもテレビ欄をまず見てしまうんです。子どもと同じように早く見てしまうんで すが。横書きのほうが理解しやすいということもあって、テレビ欄に目がいってしまいます。

小学校の高学年から中学生にかけてどんなことを思っていたかというと、よく寝る前に、「明日の朝起きたときに目が縦に並んでてほしいな」と願って いました。街中をこんな状態で歩いていたら指を差されるというのは容易に想像できるんですけど、授業中、詰まり詰まりでしか読めなくてみんなからバカ にされる、恥をかく、そのことを考えれば、目が縦でもすらすら読めるのなら、街中で笑われてもいいと。そこまで追い詰められていたので。そんなところ にまで追い詰めてしまう学校教育というのはどうかなと思っています。

皆さん、拾い読みをして理解できないというのを経験してもらおうと思います。ちょっと拾い読みで読んでみてください。T・H・I・S・I・S・A・ P・E・N。意味わかる方、います?今、拾い読みしましたが。T・H・I・S・・・と拾い読みをするとよくわからないですよね。縦書きのギュウギュウ 詰めだとわからない。

縦書きで"Thisisapen"

でも横書きにしてなおかつ分かち書きにしたら、あ、なんだということになりませんか?

横書きで"Thisisapen"

だから日本語というのはそういうわかりづらさというのを持った言語だということを知った上で教育に当たられるといいのではないかなと思います。

私の理解の仕方をどうなのかと考えてみたところ、こうかなと思うんです。

目で文字と認識したものは、脳でほとんどがマッチングして拾い読みという形で口で音声化できる。これは何とかゆっくりでもできる。でも、自分が 理解するには、図とのマッチングもしないといけないので、ほとんどのマッチングでは理解にはならず、なおかつ耳で聞いてそれを理解するまでのキャパが なくて、なかなか文字からの情報が理解できないのかなと。

目で文字を認知して、脳で文字と音をマッチングするが、理解できない。口で音声化をしても耳で認知できないので理解できない

目で文字として見るとそうなんだけど、目で字面として見てしまうことができれば、頭の中で、「この字面はこういう意味だったな」ということで、 図とのマッチングがしやすくて理解できる。でも図とのマッチングなので、音声化にはならず、なかなか音読ができないのかなと思っています。

目で字面を認知して、脳で字面と図をマッチングすると、理解できる。口で音声化することはできない。

そんな理解の仕方をする私が小学校4年生のときにつらかったことがあります。4年生になったときに、班ノートというのが始まりました。班でノー トを1冊回すという、交換ノートのようなものが始まったのです。先生がノートの説明をし終わって、思い出したかのように「あ、神山君の班の人だけ、 みんなひらがなで書いてあげてね」と言ったのです。それを聞いた私は、僕に対する配慮をしてもらえたなといううれしい気持ちにはならなくて、もう 教室から逃げ出したい、そこにはいられない気持ちになりました。新学期になって新しい友達ができて、4年生になったら友達もいっぱい作りたいな、勉強 も頑張りたいと思って、ノートも全部新しいものに代えて気持ちも新たにしていたところに、その言葉というのはすごくきつくて、逃げ出したかったです。

皆さん、ひらがなばかりでこれを見たとき、「あるみかんのうえにあるみかんをもっていって」って、意味、わかりづらいですよね?ひらがな表記ばかり だと私はすごくわかりにくいんです。

「アルミ缶の上に在る蜜柑を持って行って」なのか、

アルミ缶の上に蜜柑がある。

「アルミ缶の上にアルミ缶を持って行って」なのか。

アルミ缶の上にアルミ缶がある。

どっちにもとれますよね。

字面として見る私にとっては、カタカナ、漢字、ひらがなが使ってあると分かち書きじゃなくても意味が通りやすいので。実際、音読できるかといったら また別の問題になっちゃうんだけど、意味がわかる、話についていけるには、カタカナ、漢字、ひらがなが混在している文章がいいんです。そういうところが なかなかわかってもらえず、「勉強ができない子=ひらがなで」というのが学校でもらえる支援で、それがまたハードルを高くしていたんじゃないかなと思います。

つまり、これを「下駄」と読めなくても、「こういう字面はこういうイメージだったな」と頭で引っ張ってくるという感じで理解しています。

下駄を「げた」と読めなくても、下駄のイメージはできる。

皆さんも「しかいいん」というひらがなを見たとき、歯医者さんをイメージできるでしょうか。たぶん漢字の方がイメージを持ちやすいと思うのですが。 そういう特性が誰にでもあるのではないでしょうか。ひらがな表記というのは、ハードルを高くすることもあるというのを、訴えたいなと思います。

小学校の教科書に、習った漢字と習っていない漢字が混在していて、すごく困っていました。「えんあし」かなと思ったら「遠足」。さっき「そく」と読んだので 「かけそく」かなと思ったら「駆け足」だったり。そのように習った漢字と習っていない漢字が混在していると、ここで区切っていいのかいけないのかというのもわかり づらいので、ちょっと大変でした。

どうしたらよかったというと、色を変えてフリガナを振ってもらえるとよかったかなと。もし同じ色だと、例えばここにひらがなで書いてしまうと、これはフリガナ なのかな、竹かんむりの新種かなと思ってしまう。フリガナも、文字の切れ目がわからなくなって字面のまとまりとしてもとらえにくくなってしまうので、色を変えた フリガナがあると私にはありがたいなと思います。

小学校の教科書では習った字を漢字で、習っていない字をひらがなで書いているので、却って困る例

あと、「うこん」と「うんこ」を間違えるとか、「がんばろう」と「バンガロー」を間違えるとか、そういうのはいまだにあります。

資料28:テキストデータ
よく間違える例

テレビに「病気にむしばまれた6歳の少年」というテロップが出ているのを見て、ある子が、「あの男の子、虫歯で腫れてるの?」と言ったんです。あ、こいつは僕と 同じ特性があるなと思ったんですが。「むしばまれている」が「虫歯、腫れている」に見えたんです。そういう間違いというのは、ディスレクシアの特性というよりも、 小さいときには誰にでもよくあると考えてもいいのかなと思いました。

これを見て私、「1日西ドイツ、1日東ドイツ」と読んで家族に笑われました。わからない部分を前後で補って理解するので、この話の前に「古舘伊知郎のワールドカッ プ応援弾丸ツアー」、弾丸ツアーというのは行ってすぐ帰ってくるツアーのことだなという思いがあったので、「1日」と読んでしまった。こういう失敗をいまだにしている。

古舘伊知郎のW杯応援弾丸ツアー 旧西ドイツレポート、旧東ドイツレポート

「あ、コンソメついに結婚?」と言ったら、娘に「お父さん、大丈夫?」と言われて・・・。「コンソメ」じゃなくて「ユンソナ」だった。こういうちょっと似ている ものはいまだによく間違えます。

だからこういう厚紙をいろんな幅で切ったものを準備して合わせて、

厚紙をいろいろな幅で切ったもの

左右は指で隠して注目すべきところを見えるようにして読むようにしています。

本の上に厚紙を置き、スリットを行に合わせて、左右を隠す。

いまだに苦手なのは、駅の柱のひらがなの縦書き。お寿司屋さんのお品書きとか、本屋さんは背表紙が全部縦ですよね。レンタルショップも背表紙は縦ですよね。 本屋さんで積んであるものとかは横書きなので、まだ拾い読みでどういう本なのか探すことはできるのですが。そういうところでも生活の中で困ってしまいます。

学習障害のことをLDといって"Learning Disabilities"という、学びの障害というのですが、私自身のは、"Learning Difference"かな。 大多数の子とちょっと違うアプローチをすれば読めたりするので、学びのアプローチの道筋が違う、"Difference"の"D"と考えるといいのかなと。

資料32:テキストデータ
LD(学習障害)

「この子は障害だから」というのではなく、「この子には違ったアプローチがあればできる」というとらえ方で接していけるといいのかなと。逆に、LD、学習障害の子たちは、 別の強みを持っていたりします。「あの子は障害」と見てしまうと、強みを持っている部分もつぶしてしまうのかなと。強みを前に出すことができなくなってしまうのではと 思います。

私は情報を取り入れるときにハードルがあるんですけれど、それだけで情報難民になってしまっています。今、学校に勤務していて、来校者があると職員の駐車場が変わるん ですよ。ギュウギュウ詰めにして来校者のために空けるんですが、それが紙に書かれて職員玄関に貼られるんですが、なかなか気がつけないというか読めなくて、いつも失敗を するんですが。そういう掲示板なんかの情報から自分の行動をするということがなかなかうまくできなかったりします。

いろんなインプットのスタイルに対応できる社会になっていけば、僕も過ごしやすいし、他の方もきっと、歳をとって目や耳が不自由になってきたとき今だと困ることも、 いろんなものに対応できる社会になっていけば、困ることもなくなっていくのかなと思っています。

資料33:テキストデータ
IN PUTの違いだけで

小学校のときのことを思い出してみると、小学校2年生のときに、読み物をもらって、その時間は読んで、次の時間で感想文を書くというのがあったんですが、40分近くかけて 一生懸命読んでいましたら、私は前から4行目の上から3分の1くらいのところを指で押さえていました。授業の終わりがけに先生が回ってきて、後ろから「神山君、まだこんなとこ ろ?」とボソッと言われて。周囲の子は、「わ、嘘やろ?俺なんかもう2回目いっとるのに」と言われて、すごくバカにされて。自分なりに一生懸命意味のまとまりを見つけて一生 懸命読みを進めて、この指は絶対に離さんぞ、離したらどこまで読んだかわからなくなってしまうからと決めていたのに、すごくやるせない気持ちになって机の下に手をもっていっ て、ずっと握って震えていました。目でどこまでいったかというのを見失わないように、にらむように一生懸命やっていたんですが、だんだん目に映っていた文字も、プールの底に 書いたような文字のように揺れて、最後には大粒の涙がポロッと落ちてしまった。その瞬間に、「もう絶対本なんか読まへん!」と決めて、努力することをしばらくしなくなってし まったので。「まだこんなところ」という言葉は非常にきつかったなと、今でも思います。

あと、目を見て話を聞きなさいということをよく強いられて。頭の中でイメージを引っ張りだして理解している私にとって、目から違うものが映っている、なおかつ人の目という のは、すごくいろんな表情があるので怖いんです。ですから頭では言われていることをイメージしなきゃいけないし、目からは怖い目が見えているしということで、なかなか理解で きなくて。でも目をそらすと怒られるので目を見る。で、結局理解できない。すると、「お前、さっき言ったばかりなのに何をやっとるんや」と叱られて。で、叱られるときにまた 「目を見んか!」言って叱られて。だから悪いスパイラルにどんどんハマっていって、「こいつはダメな奴だ」とレッテルを貼られてしまったということがあります。

あと、「廊下に立ってなさい」というのもしょっちゅう言われました。自分なりに何とかわかりたいとキョロキョロして、雰囲気で察しようとしたり、トントンとやって「教えて」 とやったりしていたのが、みんなもだんだん勉強に一生懸命になってきて教えてくれなくなったりして。それがどんどん進んでいくと、トントンで教えてもらえないのなら、ドンドン になってしまう。「こいつは授業妨害する奴だ」と廊下に出されることにつながっていきました。だんだんクラスの癌という言葉も出てきてしまったんですが。

あと、日記の宿題なんかもすごく苦手でした。日記を書こうと思うと一日のことを振り返らなきゃいけないですよね。振り返ると、失敗したこと、恥かいたこと、叱られたこと、 そんなことばっかりなので、一日が終わったら今日のことは早く忘れようと思っているのに、その一日のつらかったことを思い出して、なおかつ文字に起こすなんていうのは、すごく 自分は意味のない人間なんだということを痛感する作業にしかならなくて、なかなか書けませんでした。

いまだに思うんですが、まだ3行か4行しか読めてない私だったんだけど、「まだこんなところ」という言葉ではなく、「ここまでだけど、主人公の気持ちを大事にしながら一生懸命 読んだよね」と言ってもらえたら、また違った人生だったのかなと思います。

資料34:テキストデータ
小学校時代に言われてつらかったこと

廊下に立ってなさいと言われて、ずっと立っているような子じゃなくて、よくいろんなところに行きました。よく行っていたのが用務員さんというか、校務員さんというのでしょうか、 岐阜では校務員さんというんですが。いろいろ修理をしたりする方が見えて。私が行くと、「またお前来たか、あそこのトイレがワシ1人ではよう直さんから困っとったんや、一緒に行っ て直してくれ」と簡単な修理をさせてもらって。終わった後、校務員室に行って、お茶をいれてもらいながら、「ありがとうな、お前のおかげで直せたわ」と言ってもらえたので、「自分 も学校に来ていいんやな、自分も生きてていいんやな」ということを、教えてもらえた。だから小学校に行けたのかなと思っています。

中学校時代、すごい努力をしているにもかかわらず、「努力が足りん」で済まされてしまう。明日本読みがあると、中学校の読み物なんていうのは何ページもありますよね。私はどう するかというと、赤ペンを持って分かち書き作業をするんです。正しいところでなかなか区切れない私が、その読み物を区切り終わるのにだいたい1時間半くらいかかって、それからやっと 読みの練習。トータル3時間かけても、なかなかすらすら読めない。でも自分の中でもう限界で、それ以上努力してもなかなかうまくならない。うまくなればやるんだろうけど、やってもや っても全然変わらない。そういう状況だと、自分の中で限界で、3時間くらいがせいぜいのところです。次の日、授業中当てられる。やっぱり詰まり詰まりにしか読めない。みんなの前で立 って詰まり詰まり読んでいる、そのこと自体がすごく恥ずかしい思いをしているのに、やっと終わって座れると思った瞬間に、「神山、ちょっと前へ来い、こんな文章も読めん奴は小学生以 下やぞ」と言われて、先生の前で頭を下げてチョークで×と書かれて、「一日それを消すな」と言われて過ごしたこともあるんですが。裏ですごくやっていることもわかってもらえずに、「 努力が足りん」のひと言で済まされてしまって、つらかった。みんなの前で叱られて、友達や先生のいろんな言葉もあって、「いつ死のう、どうやって死のう、意味のない人間やで」という ことを考えていました。一応、クラスの中に気になる女の子もいたりして、でもその子の前でも叱られる。「意味のない人間」ということをみんなの前でやられてしまう。自分なんか恋愛な んかしちゃいかんのやな、結婚とか家庭を持つなんていう夢を持っちゃいかんのやなということを、中3のときに思ってしまいました。

でも、思うんですけど、本読みの宿題が出たら、こっそり先生に呼んでもらって、「ここで当てるからこの3行だけでいいから一生懸命やってこいよ」と言われたら、まだあんな恥をかく こともなく授業に参加できたのかなと。先生としてはどの子にもすべて学ばせたいという思いはあるんだろうけど、やっぱりその子に応じた課題を示してもらった方が、変に劣等感のような ものを植えつけずにやっていけるので。その子に応じた課題を出してもらえたらよかったかなと思います。

資料35:テキストデータ
中学校時代に言われてつらかったこと

でも中学校のときは、部活の顧問の先生が「お前はいろいろやっとるみたいやけど、うちの部には絶対必要やで絶対来いよ」と言ってくれて、何とか行けたかなと思います。

だんだん行きづらい学校から、生きていくのがつらい学校になっていって、生きていくのがつらい毎日でした。私は非行に走ったんですけど、一度、学校であまりにもバカにされるんで、 キレて大暴れしたら、それからバカにされなくなったんで、「これはしめた」というのではないんですけど。それから非行に走っちゃってということがあったんですが。なかなかそういう ことでしか自分の存在感を表現できませんでした。

家でも、「お兄ちゃん、えらい目にあったわ」とか、「あんたなんか生まなきゃよかった」とか、「あんたのせいで近所も歩けんようになったわ」と言われて、休まるときがなかったん ですけど。親がこういう言葉を私に言ったのはどういうときかなと考えると、学校に親が呼ばれて注意されているときなんです。だから学校というのは、よっぽど気をつけて親に伝えていか ないと、本人を苦しめ追い込むことになっちゃうので。そこまで配慮する必要があるかなと思っています。

ここでは非行にどっぷり入っちゃって、高3のときに大きな事件をしてしまって、保護観察になりました。いろいろ調べてたら、自衛隊に入ると保護観察が消えるぞというのを見つけたん で、自衛隊に入りました。

自分でもこんな生活、こんな自分、叩き直さなきゃいかんと思っていたので、いいところを見つけたなと自分でも思ったんですけれども。

自衛隊に入ると文章は非常に少なくて。秘密保持という観点からも文字は非常に少なくて、言葉で教えられる、プラス実物を操作しながら学ぶという、そのスタイルが自分にはピタッと きていて。なおかつ必ず上官がお手本を見せてくれる。見て盗めということをしきりに言われて。でもそのやり方というのは、自分は獲得しやすいやり方で。自分は何もできない人間だと思 ってたけど、こんなこともできるようになったと、自信回復の4年間になりました。自分はあまり能力がない、何をやってもダメだと思っていたのが、この自衛隊に入ったことで、やればで きる、自分はこういう学習の仕方をすればできるという実績になったので。

それまでは、自分がこうなったのは親のせいだ、先生のせいだとか、うじうじ思っていたんですが。この頃になって、じゃいつまでも人のせいにしてうじうじと生きていくのかと。だった ら自分が、勉強ができない子の気持ちがわかる教師になったり親になっていけばいいんじゃないかなと思って、自衛隊に行きながら夜間の短大に通わせてもらいました。

短大というのはまた文章が山のように出てきて苦しんだんですけど、この学習スタイルじゃないとダメというふうに限定されなかったので、カセットレコーダーとかカメラとかいろいろ 駆使して、友達のノートも借りたりして、何とか教員免許をとることができました。教員採用試験も4年かかったんですけど、何とか合格することができました。

4月1日の初めて学校に行った日に、職員会の終わりくらいにある先生がパッと手を挙げて、「今度来た先生の中に、人殺しの訓練を受けてきた人がいます、みんなで何とかしましょう」と 勝手な発言をされて。それから職員間のいじめが始まってしまって。なんだかな、自分は子どものときも学校というのは排除される場所だったけど、教員になっても排除される、自分というの はこういう星のもとに生まれてきたんだなと思ったんですが。

でも、自分を必要としてくれる子どもが絶対いるはずだと思って、頑張りました。

給料も、同期で入った先生に比べるとすごく安いんですよ。聞いてみると、夜間でなおかつ短大で二種免しか持っていないからだと。そうか、社会というのは、社会のシステムを作る側の 人が住みやすい、そういう社会になっちゃってるんじゃないかなと。それだとどうなのかなと思って。

でも、だからといって学校で、社会のシステムを作る側の人間ばかりを目指す教育というのは、それは正論じゃないだろう。やはりどの子もいていいんだよ、どの子も大事な存在なんだよ 、誰もが過ごしやすい社会、そういうものを目指していかなければならないんじゃないかなと、先生の給料をもらったときにすごく痛感して。少しでもそういう社会になるような教育をしたい と思っていました。

そのためにはどうしたらいいかというと、異質を受け入れられる社会。異質という言葉を使いましたが、人間、いろんな物差しで見れば、誰もがどこかで引っかかって異質な存在になっち ゃうのかなと思うんですよ。だから、誰もがいろんな場面でストレスを抱えちゃったりしているのかなと思うんです。

みんないていいという気持ちでやっていける、そんな社会が来ればいいのかな。つまり、今は少数派、異質を切り捨てるという方向にあるので、誰もがストレスを抱えているのかなと。 だから、障害というのは、連続的なタイプととらえていくといいのかな。健常、障害、そこに人為的に境をつけてしまって、障害者とレッテルを貼ってしまうという面があるので。心のスト ライクゾーンを広げることで、ひょっとしたらその人為的に作った境も変えられるかもしれない。もっとすれば境自体もなくしていけるかもしれない。そうしていけば、みんな過ごしやすい 社会になっていくのかなと思います。

DAISYなんかも、学校現場ではなかなか入れようという動きはありません、今のところ。それはやっぱり自分たちの過ごしやすい社会というところから抜けられていないのかなという思いが あります。

私ども、4年ほど前に一生懸命発起して息子と一緒に家を建てたんですが。駐車場を息子と一緒に建てました。文字とかでは苦手なんだけど、こういうことができる特性があるので。

私が今、願っているのは、自分が死ぬときに、もう一度LDとして生まれてきてもいいかなと思って死ねる、そういう社会を築いていきたいと思っているんです。何かいい強み、何かいいと ころを持っていると思うので、そういうもので社会に貢献してやっていければ、幸せと思えるので。そういう社会を作っていけたらなと思っています。

学齢期にはバカだバカだと言われて、人の二倍、三倍やっていても努力が足りないと言われて、自分は生まれてきてはあかんかった、生きていく意味ってどこにあるのかな、そんなことば かり考えて、いつ死のうか、そんなことばかり考えてきました。

資料36:テキストデータ
今までの人生でつらかったこと

ディスレクシアの方は、こんなふうににじんで見えたり、揺らいで見えたり、鏡文字に見えたり、かすんで見えたり、点描画のように見えたりします。皆さんもひょっとして、 例えば国会に証人喚問で呼ばれて、文書を読めと言われたら、緊張して読めないかもしれないですよね。だから、ディスレクシアだからということではなくて、誰でも状態によっては こうなってしまうということもあると思ってもらえるといいと思います。

上は文字が二重になっている。下は文字がにじんでいる。

揺らいで見える

鏡文字に見える

かすんで見える

この点々を2色のペンで塗ってと言われると、

点で表された図

多くの方はこうやって塗られるんですけど、

色の違うペンで2つの図を重ねて線を引く。

僕なんかはこんなふうに塗っちゃいます。だからずっと素材の区別がなかなかつかない。

色の違うペンで2つの図を重ねないで線を引く。

斜線があることでハサミがなかなか見えない。

薄い色で書かれたはさみに濃い斜線

目も、ハイライトの仕方を変えるだけでこれだけ見えるので。マルチメディアDAISYなんかもこういうところも採用しています。

斜線とはさみを白黒反転する

マルチメディアDAISYというのは、読み上げてくれたり、ハイライトをしてくれたり、速度を変えたり、文字の行間を変えたり、サイズ、書体を 変えたり、縦書き・横書きを変えたり、繰り返しも簡単にできたりする。そういうものなんですけど、今まで自分がいろいろ苦労して獲得してきた 方法が、このように凝縮されているのに初めて出会ったときに、自分が小さい頃にこれがあったらなと思ったんですけど。

資料43:テキストデータ
マルチメディアDAISY

実際にハイライトはこのように変わっていくんですけど、

マルチメディアDAISYの再生の様子、文章の一部が黄色く反転している。

黄色の反転が次の部分に移動している。

仮にこんな状態で見えてる子であっても、皆さん、これをすらすら読んでくださいと言われても苦しいと思いますけど、

文字がゆがんでいる。

ハイライトされると見えやすくなりませんかね?

ゆがんだ文字に黄色の反転を加える。

ハイライトされるだけで、こんなふうに揺らいでいたとしても見やすくなるので、すごくいいツールだなと個人的に思っております。

つまずいているところを察知してもらって、適切な支援さえもらえれば、みんなと一緒に学べる喜びとか、知らない情報を知れる喜びとかあるので。 情報から置き去りにされる存在から、適切な支援がもらえて、生きててよかったなと思える、そんな社会にできたらなと思っています。誰もが生きて てよかった、生まれてきてよかったと、そう心から感じて喜びながら人生が送れるようにと願っています。

これで私の話を終わりたいと思います。ありがとうございました。

会場●

今日はどうもありがとうございました。ディスレクシアを持っている者の親なんですけれども、お話しをうかがわせていただいてアレッと思ったんで すけど、先生はお家を建てたりということが得意というお話を聞きましたが。うちの息子は、一応、字は読めることは読めるんですけれど、漢字を書くと いうのがからきしダメで。他にも問題があるのかなと思うんですけど、結局それが学力全般に影響をしていまして。高校に入るときに行ける学校がないと 思っていたんですけれども。定時制なんかだと、定員割れがあったりして、それだと入れるかもしれないという話を聞いて行ったら、うまいこと定員割れ を起こしていまして入れちゃったんですけれども。入って見て気がついたんですけれど、うちみたいな子は他にも何人もいるんですね。工業のほうに行っ たんですが、ものづくりが得意で、体を動かすのが得意だから、体育のときには生き生きしているんですが、座学の勉強になるといまいち元気がないと先 生から聞いたんですけど。

学校のほうで、資格をいろいろ取りましょうというのでやっていて、漢字検定なんかもあったんですけど、うちの子は見栄を張りまして、小学校3年生 レベルの8級にチャレンジしたんですよ。結局、落ちたんですけれども、そうしたら他の子では10級からチャレンジした子がいるんです。小学校1年生レベ ルなんです。学校に見にいった段階で、やってみて体験授業というのがあったんですけど、そのときにメモを書くことがあったんですが、他の子で、「ひ らがなでいいですか?」と聞いた子がいて。何かうちの子と似てるかなという感じがしたんですけれど。

他にもあって。うちは計算がすごい苦手なんですよ。そうしたらやっぱり他にもそういうふうに苦手な子がいるらしくて。共通点は結構あるんですけれ ども、読み書きが苦手ということと、手作業というか、実際に体験してものを覚えていくのは得意というのは、何か相関関係はあるんでしょうか?

読み書きはダメで、何をやっても覚えられないと思っていたんです。高校に入って携帯を持つことになったんですね。携帯のマニュアル1冊、2日間で 読破してしまいまして、すらすら使いこなせているんですね。携帯を実際いじくっていますので。教科書を読んで全然覚えられないのと、携帯を使えると いうのは何だろうなと思いまして。

神山●

やっぱりその子の強みというのがあるので。強みが全般的な中心にあるのと、ちょっとずれていて、こっちはすごい、こっちは苦手という、そういうブレ なのかなと考えるといいのなかと思うんですけれど。やっぱり得意、不得意というのがあるかなと。

僕も、読み物、物語なんかは読んでも全然わからないんだけど、ラジカセの使い方とか、そういうものだと操作をしながらやるので、すごくよかったな と思いました。

だから、学校に行ってるとすべての場面で勝負しなきゃいけないんだけど、社会に出れば自分の強みで勝負していけるので。そういうように社会に出て やっていける、そういうふうに歩めたらいいのかなと思っています。