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指で読み、体験する本 -さわる本とさわる絵

ニーナ・アスクヴィグ(Nina Askvig)

私が聞くことを-私は忘れてしまう
私が見るものを-私は覚えている
私がすることを-私は理解している

全盲の人や重度の弱視の人のために絵をアクセシブルにしようと、研究者は手と指で読み理解できる、さわる絵の開発と製作を試みてきた。このようなタイプの絵は、教育を目的とした図、地図、表などがほとんどである。しかし1970年代から、作家や芸術家、そして出版社が、子供と若者向けにさわって読むフィクションの本の製作も開始した。

この種の図書がほとんど製作されていない理由はいくつかある。さわる本の製作には、高度な専門的かつ技術的熟練に加え、多額の財源も必要である。異常に高い製作費にもかかわらず、このような図書の販売価格は通常の図書とほぼ同じでなければならない。さらにこのような図書は、一般の絵本と同じ芸術性と文学性を備えていなければならないのだ。

さわる絵は通常、浮き彫り状の隆起した絵で、「スウェルペーパー」あるいはプラスチックに描かれる。また、布の絵やコラージュもあり、さまざまなタイプの素材(布、サンドペーペー、金属、プラスチック、真珠、貝など)がマジックテープや糊でページに貼り付けられている。ボール紙を型抜きした絵もある。さわる絵を理解しやすくし、またある程度の耐久性を確保するためには、高性能の印刷技術が必要である。製作者は、同じ絵の中でも、多様な素材と質感とを使用することが重要である。これは触覚への刺激を増やし、全盲および重度弱視の読者が絵を解釈するのに役立つ。さらに、明るく強い対比の色彩が、視力がいくらか残っている人を喜ばせ、また支援するということも覚えておかなければならない。

絵の主題をどのように構成し、配置するか

野原の、短い、乾いた草のようだ
(日本人の少年による馬の描写)

製作技術と財政面から考えれば、素材の選択が何よりもまず課題であるといえる。作家と芸術家にとって最大の課題は、絵の中で主題をどのように構成し、配置するかである。目の見えない読者が、目が見える人の助けを借りずにすぐに理解できる、さわって見るプレゼンテーションを、どのようにしたら製作できるであろうか?この問いは、生まれたときから目が見えない人、あるいは子供の頃に失明した人に特に関係がある。このような人には、知的概念の基盤としての視覚的経験がない。これは、言語発達途上にあるが、絵をさわって読んだ経験がほとんどない幼い子供たちの場合、特に重要である。

視覚的経験に基づくさわる絵は、通常、追加情報がなければ、目が見えない人には理解しがたい。これにはいくつかの理由がある。 

生まれつき目が見えない子供は、聞くこととさわることを通じて言語を身に付けていく。目が見えない子供の経験と印象では、当然のことながら視覚ではなく触覚が、言葉と概念に意味を与える中心的な要素である。このため、視覚的な印象を基にした絵は複雑すぎる場合がある。目が見えない人は、絵を体験し「読む」ことを、細かい部分から始める。「少しずつ」読むとき、主題の全体像を認識するのは難しい。大きな事物の全体像の把握は特に複雑である。盲目の少年は、頭と体と4本の足を持つ馬全体を「ズームイン」することはできないが、馬をなで、「短い、乾いた草」という印象を受けるのである。このため馬の触覚的表現は、このような断片的な触覚認知に基づいたものとならざるを得ない。そこで、たてがみ、肌、サドル、ハーネスなど、ほとんどの盲目の子供たちが体験する可能性がある馬の「特徴の詳細」を示すのもよいであろう。視覚的形態を提示する代わりに、素材や表面の様子を強調するのもよい。これは数枚のさわる絵を使って行える。少量の毛は、その動物の触覚的表現となるであろう。

私たちは、目が見えない子供が描いた絵から、形ではなく機能が重要であることを確信した。(福来 1974年)スクールバスは「4つの車輪のついた箱」としては描写されず、ドアの取っ手、踏み台、そして床が描かれる。さわる本の『むかしむかし(Det var en gang/Once upon a time)』(ディーゼン 1990年)では、作者はこの結果を受けて、お金を入れる細長い隙間で、風船ガムの自動販売機全体を表現している。

指先で主題全体を「読む」というニーズを満たすために、いくつかのさわる本では、登場人物を型抜きされた小さな幾何学形にしたり、その他さまざまな形や大きさ、質感の抽象的な形にしたりしている。このようにすれば視覚的体験は一切必要なく、すべての子供に共通する想像力だけが求められるからである。

視覚に基づく触覚的表現とその改変

多くのことが、全盲および重度の弱視の人のためのさわる絵は、従来の視覚に基づく「写実的な」絵以外の形にしなければならないと示唆しているとはいえ、シンプルで写実的な表現がうまく機能する場合もある。これは非常に小さな事物の触覚的表現にいえることで、子供たちが現実生活で知っている小さな事物と、程度の差はあるが、同じ形、質感で表現する。硬貨、真珠、貝、ペーパークリップなどがこれに当たる。

しかし、有名な絵本の触覚的表現についてはどうだろうか?そこでは主題を何かしらのレリーフへと変換しつつも、視覚に基づくオリジナルの描写を維持しなければならない。このような触覚的表現は、見える世界のイメージを基にしており、それゆえそのテクニックは、絵と芸術を目が見えない人の立場に立ったものにしたいという希望と一致しなくなる。このような本を理解するには、通常、目が見える人による支援や、印刷された「手がかり」が必要となる。

しかし、このような「翻訳」には使命がある。たとえ主題が理解するには複雑であったとしても、そのような図書は好奇心を目覚めさせ、子供たちに絵の中にある手がかりを探す「狩り」に行くよう促してくれる。また、子供たちはさらに多くの視覚的表現を認識できるようになり、学校や社会で行動しやすくする視覚的な行動規範を学ぶ機会が得られる。

このような改変はまた、他の読者にとっても面白く、刺激的な場合がある。一般の絵を「読む」ことができる弱視の子供たちと、身体障害児、そして知的障害児は皆、視覚と触覚に訴える、色鮮やかな様式化された絵の布の本とさわる本に、大きな喜びを見出すであろう。実際これらの本は、すべての子供たちにとって面白く、目が見える子供たちと視覚障害児の間のコミュニケーションを促進する。

言語が発達しており、読書の経験がある、目が見えない成人の読者は、キャプションを読むことによって情報が得られるので、視覚に基づく絵の理解に優れている。目が見えない人と見える人の「出会いの場」は、ノルウェー人アーチストのチェルスティ・グロスタッド(Kjersti Grostad)が、エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の『叫び(Skirk/The scream)』 と『キス(Kyss/Kiss)』 を、音声と点字および通常の印刷による絵の解説を付けて改作したレリーフであった。アンケート調査の回答から、全盲または弱視の人は、これらの解説のおかげで、絵を一層楽しみ、理解できたことが明らかになった。結論として、絵の優れた解説は、目の見えない人にその絵がどのように見えるかを理解させ、その内的イメージを伝えるといえる。(グロスタッド 1996年)

テキスト

さわる絵が載っている本のテキストは、通常点字で表示されるが、一般の印刷字で示されることも多く、目が見えない人と見える人の両方が読めるようになっている。

目が見えない人と見える人によって同時にテキストが読まれる場合、「手で読むこと」が「目で読むこと」を妨げないよう、通常のテキストの下に点字を配置しなければならない。また、目が見えない読者がテキストと絵を区別する上で何の問題も生じないように、点字のテキストがさわる絵と重ならないようにし、絵とはっきり離して配置することが重要である。さらに、点字を読みやすくし、時間がたっても完全な状態を維持できるようにするために、印刷の質を高くする必要がある。

もっとも幼い子供たち向けの図書では特に、テキスト中の単語と概念の選択を慎重に行わなければならない。『これ、なあに?(What is that)』(ヴァージニア・アレン・イエンセン 1977年)という本の原稿では、作者は2人の登場人物を「のっぽ(tall)」と「ふとっちょ(fat)」と表現していた。彼女はすぐに規制団体から、彼らを「長いザラザラさん(Long Ru)」と「平べったいザラザラさん(Broad Ru)」と呼ぶようにいわれた。レリーフの絵は2次元として読むのが自然なので、登場人物を、「のっぽ(tall)」や「ふとっちょ(fat)」という3次元的な概念では表現できなかったのだ。さわる絵も含め、絵は3次元であると錯覚してしまうことが非常に多い。これは目が見える人ならすぐに理解できるが、目が見えない人にとっては複雑な内容である。目が見えない人は、2次元と3次元の違いがどのように見えるかを学ぶ必要があるからだ。

アレン・イエンセンは別の問題も抱えていた。別のページで、彼女は「バラバラくん(Lille Pjusk/Little Tousle)」を「ツルツルくん(Lille Glatt/Little Smooth)」の後ろに隠れさせた。目が見えない子供たちの多くは、この絵がわかりにくいと感じた。彼らはさわって読むことでは遠近感を認識できず、「後ろ」という概念が理解できなかったからである。子供たちの中には、「バラバラくん」が小さくなってしまったという者もいた。また、「ツルツルくん」が「バラバラくん」の上に寝そべったのだという者もいた。

なぜ、さわる絵とさわる本が必要なのか?

さわる絵やさわる本は、技術的にも経済的にも多大なリソースが必要であり、その上読者に対する要求も多いが、これらは図書製作において当然受け入れられなければならない。さわる絵本は触覚を鋭くし、目が見えない子供に点字を読む準備をさせる。

さまざまなタイプのさわる絵を掲載した図書は、目が見える子供たちの間でも人気になってきた。これらの本はまた、目が見える子供と大人とが、目が見えない人や重度の弱視の人が周りの世界をどのようにとらえているかを理解するための「入場券」となった。

絵本は一般に言語、情報、読書の体験と喜びの源であり、明確な社会機能を備えている。このため、自分1人で、もしくは他者とかかわりあいながら、本の中の絵と芸術を体験する機会を、重度の視覚障害者に提供することは当然であり、かつ義務でもある。

参考文献

ヴァージニア・アレン・イエンセン(Allen Jensen, Virginia)『発見の可能性 読みやすい図書セミナー-原稿、基準と成果(The prospect of discovery. Seminar Easy to Read - papers, criteria and results)』(p.49-63)
ハーグ オランダ公共図書館センター(Dutch Centre for Public libraries)1989年

福来四郎(Fukurai, S.)『見たことないものつくられへん(How can I make what I cannot see?)』
ニューヨーク ヴァン・ノストランド(Van Nostrand)1974年

チェルスティ・グロスタッド(Grøstad, Kjersti)『「触覚で読む人」のための芸術-どのようにしたら絵画芸術を視覚障害者のために改変できるか?(Kunst for kjennere - hvordan kan man tilrettelegge billedkunst for synshemmede?/Art for “feelers”- how can you adapt pictorial art for the visually impaired?)』
オスロ Hogskolen i Oslo, avd. for estetiske fag 1996年

さわる絵本
ヴァージニア・アレン・イエンセン、ドーカス・ウッドベリー・ハラー(Allen Jensen, Virginia and Dorcas Woodbury Haller)『これ、なあに?(What’s that?)』
ニューヨーク コリンズ(Collins)1978年
ISBN 0529055007

アネッテ・ディーゼン(Diesen, Anette)『むかしむかし(Det var en gang/Once upon a time)』
オスロ ソラム(Solum)1990年
ISBN 8256006749