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「ディスレクシア」と「図書館」

岐阜県立関特別支援学校
神山忠 こうやま・ただし

はじめに

 ディスレクシアという言葉はどのくらいの知名度があるでしょうか。この機関誌でも目にするようになりましたが、一般的な知名度はまだまだだと思います。ましてや図書館で働かれている方たちが、ディスレクシアの特性を持つ人たちの気持ちを察することはなかなか難しいのではないでしょうか。小さい頃から文字が読めなくて恥ずかしい思いをしたり、読みたくても読めなかったりするもどかしさは実感として持てないかもしれません。

 よく「当事者」という言葉を耳にしたり、私自身も使ったりします。私自身ディスレクシアの特性があり、文字からの情報を得るのにはかなりの困難があります。ですからディスレクシアの当事者と言えます。しかし、私が困難を感じているのは私自身の問題なのでしょうか。極端な発想ですが、墨字にされた文字が存在することで困難が発生しているわけで、こうした環境でなければディスレクシアの特性があっても困難さは感じないと思います。

 ですから、考える視点としては当事者と非当事者という考え方ではなく、誰もが当事者であるという気持ちになることが必要なのだと思っています。

 例えば、図書館に勤めている読書好きなあなた自身が、ディスレクシアの当事者だと思うだけでディスレクシアの特性を持つ人たちの違和感も変わってくるのではないでしょうか。つまり、「誰もが違和感がある人の当事者」「誰もが違和感がある人を取り巻く当事者」だと思うことでいろいろな配慮ができるだけでなく、心のバリアフリー化がなされていきます。いくら物理的な支援が進んでも最後に心のバリアが残っては何もなりません。物理的な支援には経費がかかります。しかし、心の支援には経費がかかりません。誰もが当事者であるという意識を持ち、問題意識や課題意識を共有していくことが重要なのだと冒頭に伝えておきます。

文字の見え方

 私を含めディスレクシアの人たちは、文字を文字として認識できなかったり、「文字と意味」「文字と音」を結び付けられなかったりします。左の文章を読んでみてください。どれも同じ文章です。【掲載者注:原本では文章は左に置かれていますが、ここでは下に置いています。】

にじんでみえる文章

《文章①=にじんでみえる文章》

鏡文字にみえる文章

《文章②=鏡文字にみえる文章》

かすんでみえる文章

《文章③=かすんでみえる文章》

点描画のようにみえる文章

《文章④=点描画のようにみえる文章》

ゆらいでみえる文章

《文章⑤=ゆらいでみえる文章》

 すらすらと読んで内容を理解できた方はどのくらいありますか。文字の情報処理に長けている方ならばどれもすらすらと読めたかもしれません。しかし、ディスレクシアの特性を持つ人には文字ではなく図としてしか認識できません。

 文字(文章)だと言われても私には、最後に示した文章⑤「ゆらいだ」もののように見えたり文章③の「かすんだ」もののように見えたりします。また、人前で読むことを強いられたときには、文章①のようになってしまいます。

 そうした私が文字からの情報を得ようとしたらかなりの集中力が必要になってきます。まず図ではなく文字と認識するのにくたくたに疲れ果てます。そして、文字を意味につなげたり、文字を音につなげたりするとなるともう頭が痛くなってきます。

 あなたが文章⑥の文字を読んで意味を理解しなさいと言われている感覚に似ているかもしれません。それがディスレクシアの特性を持つ人の文字の見え方の一つなのです。

アラビア文字の原型文

《文章⑥=アラビア文字の原型文》

図書館のイメージ

 私が図書館と聞くと思い浮かべるのはマイナスのイメージです。小学校3年生の夏休み、市立図書館で行われたイベントに子ども会で出かけました。確か紙芝居を見せてもらいました。それ自体は面白かった記憶があります。しかし、その後みんなで本を借りて帰るはずだったのですが、読めない私は借りる本が最後まで決まらず泣き出してしまいました。それから図書館に行こうと友達に誘われてもなかなか行けませんでした。

 ようやく行けたのは2年後の夏休み、その夏はとても暑くて友達が「県立図書館はクーラーが効いているから行こう」と誘ってくれて行けました。しかし、読みたい本があっても読めるはずもなく、読めそうな本をひたすら探していました。次第にそれもいやになり、友達と「かくれんぼ」的な鬼ごっこを自然発生的にはじめました。するとすごい勢いで図書館の方に叱られ退館させられました。それ以来全く図書館には行きませんでした。成人してから仕事の関係で行ったときには、もう独特の本のにおいで昔のいやなことを思い出してしまいました。

 自分で本が読めない私は、小さいころ児童館などでの読み聞かせには喜んで行っていました。しかし、図書館で読み聞かせがあると聞いても、静かにしていないと叱られる場所というイメージが強く、行くことはなかったのです。

 何年か前、「三国志」に興味がありその録音図書が点字図書館にあることを知り、思い切って行ったこともあります。しかし、「ここにある録音図書は視覚障害者の手帳がないと貸せない」と言われて帰ってきたこともありました。一分の望みを持って勇気を出して行った点字図書館でさえ、利用できなくて悲しい思いになって帰ってきました。

図書館に望むこと

 ここで冒頭に書いた当事者意識になってみませんか。違和感がある人だけが当事者でなく、そこに存在する人みんなが当事者だと思ってください。ディスレクシアという特性の人がいることを知り、様々な見え方をして図書館にもいやな印象を持ってしまっている現実を知ったら何かしなければと思いますよね。それが大切なことだと思います。上から目線でも下から目線でもなく、同じ当事者意識で考えると何かしたくなりますよね。そうした視点で考え出されたことこそ違和感がある人たちに有効なサポートやサービスだと思います。

 昨年、自分の子どもを連れて久しぶりに市立図書館に行きました。すると雰囲気は昔と変わっていました。まず驚いたのは、図書館の職員の方がほがらかな顔で目を合わせてくれたことです。言葉ではないですが「困ったことがありましたら、いつでも声をかけてください。」と言わんばかりの雰囲気を出して仕事をしているようにみえました。

 次に驚いたのは、ビデオが置いてあったことです。本ばかりかと思っていましたが、ビデオを借りることができたのでこれなら自分も利用できると思うとともに、そのタイトルはレンタルビデオ店に置かれるものとは異なる種類のものだったので嬉しかったです。

 やはり図書館にはベストセラー的な本などを置くのではなく、アカデミックなものなどを貯蔵する役割があるように思いました。

 あと、久しぶりに行った図書館で驚いたのは、話せる場と雰囲気があったことです。子どもが「この本は借りていき、この本は読んでいく。」と言い、すぐそばに読むスペースがあり良かったのです。それ以上にコミュニケーションを図れる場(話していても注意を受けない場)があったことで、気兼ねなく子どもと読んだ本の感想を話したり、どんな本を借りていくのかを話したりできました。図書館には親子だけでなく、多くの人とつながる場としての役割を果たせる可能性があると感じました。そんな、久しぶりの図書館での体験は、私のマイナスイメージをかなり払拭してくれました。

 しかし、ディスレクシアの特性を持つ人には敷居が高い部分があります。著作物自体を探すのが困難な現実。内容を知りたくても知ることができない現実。ここの部分は拭い去れません。その部分は物理的に対応できる面もあれば、人の支援で可能になる部分もあると思います。

 読みたい本を一緒に探してくれる人、知りたい内容を読んでくれる人、そうした人がいてくれさえすれば解決していきます。そうしたコンセルジュ的な役割を果たしてくれる職員またはボランティアがいてくれると嬉しいです。そうした存在は、ディスレクシアの特性を持った人だけでなく、誰にでも親しんでもらえる図書館、誰にでも優しい図書館につながると思います。

アメリカの図書館

 昨年の夏、シアトルとモンタナに行ってきました。そこで図書館に立ち寄りました。まず驚いたのは、分かりやすさです。本を探すにはどうしたらよいのかが英語が苦手な私でも分かるように構造化され、パソコンで簡単に検索できるようになっていました。検索用のパソコンの数も半端な数ではありませんでした。そのパソコンの何割かはハンディキャップ仕様のものが用意されていたり、英語以外にも対応しているパソコンもあったりしました。そして、それらのパソコンの近くには、気さくに声をかけてくれるスタッフがいました。

検索用のパソコン

《検索用のパソコン》

ハンディキャップ仕様のパソコン

《ハンディキャップ仕様のパソコン》

 検索をかけてみると、同じタイトルでも単行本、大活字本、録音図書、DVD、ビデオなどいろいろな媒体で検索結果が出てきました。それぞれが何階のどこにあるのか、貸出中なのか、貸出可能なのか、館内閲覧専用なのかなどの情報が示され探しやすいシステムになっていました。

 その他に、パソコンで本の中身も閲覧できるもの(Googleブックのようなもの)、テキストデータとなっていて読み上げソフトで読ませたり、他の言語に翻訳させたり、拡大表示させたり、色を見やすいように反転表示させたり、点字ディスプレー等アクセスしやすい媒体になっているかなど検索結果は一目でわかるようになっていました。また、そうしたアクセスしやすいデータになっていないものは、スタッフに声をかけるとその人がアクセスできる媒体にその場で変換してくれるブースもありました。

 そして、キッズコーナー、コミュニティコーナーなどいろいろなコーナーが設けられていました。どのコーナーにも配慮されていたのは情報へのアクセシビリティーだけでなく、移動等も含めたアクセシビリティーです。

床に書かれた見やすい表示

《床に書かれた見やすい表示》

目線に書かれた表示

《目線に書かれた表示》

 色やマークでの構造化で迷わず目的の場所に行けるシステム。パソコンやスタッフのかかわりで簡単に目的の著作物を見つけられるシステム。本の内容も媒体や機器の工夫で理解できるシステム。そうしたシステムにより障害を障害と感じさせない、障害により何の不利益も被らないようになっていました。

媒体変換できるブース

《媒体変換できるブース》

媒体変換・様々な出力に応じる端末

《媒体変換・様々な出力に応じる端末》

アクセシビリティのための構造化

《アクセシビリティのための構造化》

 その他に感心したのは、図書館どうしのネットワークです。その図書館になくても、どの図書館に収められているかも分かり、それを取り寄せられるようにもなっていました。

 こうしたシステムは私が知らないだけで日本にもすでにあるのかも知れません。しかし、アメリカにはディスレクシアを含め、いろいろな特性の人がいるという認識の深さを感じました。どんな特性があろうと、どんな障害があろうと生き続けなければならない現実、今生きている現実を誰もが共有しているように感じました。

私の実践

 私は現在、特別支援学校に勤めています。その他にディスレクシア等の理解啓発活動を行っています。その中で行っているのがマルチメディアDAISYを活用しての図書へのアクセスです。

 知的障害がある子どもたち、ディスレクシアの子どもたち、肢体不自由でページがめくれない子どもたちでもマルチメディアDAISYの形にすることで図書を楽しむことができます。(マルチメディアDAISYに関しては、財団法人日本障害者リハビリテーション協会のWebページを参照してください。http://www.dinf.ne.jp/doc/daisy/

 学校現場には保守的な部分があります。しかし、教師が柔軟に対応することで誰もが学びやすい環境に近づけます。マルチメディアDAISYによって学ぶ喜びを感じている子どもがいます。また、無くしていた自信や意欲を取り戻している子どももいます。身体が不自由な子が、自分で本が読める喜びを感じてもっと自由に読みたいと思い、リハビリを頑張っている場合もあります。マルチメディアDAISYが最善の図書媒体とは断言できませんが、特別支援学校に勤務している私、ディスレクシアの特性がある私、その私が関わっている子どもたちにはとてもアクセスしやすい図書媒体になっています。いろいろな図書館にマルチメディアDAISYになった図書が置かれるとうれしいです。

 誰もが生まれながらに知りたいという欲求を持っています。それを図書は満たしてくれます。しかし、その重要な役割を果たしてくれる図書にアクセスできない人達がいることを一緒に考えてみませんか。

 すべての人が当事者意識を持って……。


この記事は、神山忠.特集,みんなに本を―読書に障害のある子どもたちへ:「ディスレクシア」と「図書館」.みんなの図書館.No.383,2009.3,p.2-9.より転載させていただきました。