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第1分科会

権利条約の行方
DPI日本会議事務局長 尾上浩二

 

2006年12月に障害者権利条約が国連で採択されて、今年の5月にはすでに20か国以上が批准をして、発効もしています。それで日本ではどんなことが課題になっていくのかを分科会では進めていきたいと思っています。

障害者権利条約にはいくつか重要な概念があります。障害者一人ひとりが体験をしてきたこれまでの経験や歴史観、考え方などの関係で、障害者権利条約はつくられました。第19条には特定の生活様式を義務づけられないことが規定されています。特定の生活様式というのは、社会的入所のことです。

平等な生活

私は1960年に、仮死早産で生まれて、1歳で脳性マヒと診断され、下肢痙直型タイプという、アテトーゼや言語障害があまり出ないタイプの脳性マヒです。私自身の生活体験を振り返ると、当時の脳性マヒ者の生活そのものだったと思います。小学校は養護学校、その後、肢体不自由児施設で過ごしました。障害者権利条約でいうところの特定の生活様式でした。施設入所者待機リストに入っていたと思うのですが、両親と施設との間で話が進んでいたようです。小学校5年の春休みに入所することが勝手に決まりました。

施設での生活でいくつか忘れられない出来事があります。子どもの時から私は本が好きでした。私が施設にいた時代はお盆と正月、春休みぐらいしか外泊ができませんでした。ですから、自分の買いたいものも買えません。それで入所する時に本を50冊ほどダンボール箱に詰めて持っていきました。

すると婦長さんが、「置く場所がないから、お父さん、お母さん、持って帰ってください」と言うのです。部屋は8つのベッドが並べられていて、確かに自分の本を置く場所はありませんでした。ここは自分の宝物の本を置く場所もないというのが第一印象でした。

そして、ベッドサイドに洋服などを入れるロッカーがあって、それを開いてびっくりしました。上着から下着にいたるまでマジックで「51番 尾上浩二」と大きく書いてあるのです。子ども心にも、こんな番号をつけられて外に出るのが恥ずかしいと思いましたが、実際にはお盆と正月しか帰れませんから、そんな心配も必要ありませんでした。でも、この施設にいると私は「51番」という番号で呼ばれる存在なのかと思いました。

障害者権利条約では「他の者との平等」、つまり障害のない人との平等について何回も書かれています。私と同世代の障害のない子どもでこんな体験をした人は聞いたことがありません。私の生活が他の子どもと比べて平等な生活だったのかと、思い返しています。

1960年代後半から1970年代最初には「延長手術」が非常に盛んに行われました。毎週、手術がありました。私は2年間施設にいましたが、3回、合計8か所、腰、膝、アキレス腱を全部切られています。でも手術をすればするほど障害は重くなりました。

さらに、夜寝るときも「ポジショニング」という名前で訓練がありました。寝ていると腰が緊張のために伸びないので、さらしのようなものでぎっちり締められるのです。いわば夜の6時半から朝の6時までがんじがらめに身体拘束されて寝かされる状態です。障害を治すためだったらどんな苦労でもするという感覚でした。

合理的配慮

そして、障害者権利条約で重要な項目に「合理的配慮」があります。私は中学校は普通の中学校に入りました。私のいた施設は一風変わっていて、普通学校に戻すように働きかけていたPTがいました。それで、普通中学に行きなさいとアドバイスされました。

ところが、普通中学にはすんなりとは入れませんでした。頼んだ末、入れたという感じでした。私の親と養護学校の担任の先生とで2回話し合いをもちました。

まず1回目の話し合いでびっくりしたのは、応対された校長先生は、場違いな子どもが来たという感じで、「尾上君、ここは階段もあれば手すりもあります。もし、ひっくり返ったらどうするんですか」と言いました。私は困りました。3年間絶対ひっくり返ったりしませんと約束はできません。一番最初に社会的な差別を感じた体験です。

ただ、養護学校の担任の先生が「この子はひっくり返っても、ケガをしないトレーニングを学校でしていますから大丈夫です」と言ってくれました。そんな訓練をしていたかなと思いましたが、担任の先生が言ってくれたから何とか入学できたのです。私の親だけだったら、ひっくり返ったらどうするんだと言われたら、すごすごと引き下がっていたと思います。

ただ、先生からは「普通学校は養護学校とは違います。普通学校に入った限りは特別扱いはしません」と言われました。今ならば、合理的配慮をして調整するのが「特別扱いしない」ことだと思いますが、当時は「何もしないこと」が「特別扱いしない」ということなのです。

そして念書を書かされました。「階段、手すりなどの設備は求めません」「先生の手は借りません」「まわりの子どもたちの手は借りません」。この3つについて念書を書いてくれるのなら入学させてあげましょう、ということだったのです。それで何とか入れてもらいました。

障害者権利条約ができた今なら、「何もしないのではなく、『合理的配慮』をしてもらわなければ困る」と言えますが、40年近く前には「合理的配慮」という概念はまったくありませんでした。

私が苦労話を話しているように思われるかもしれませんが、いかに「合理的配慮」という概念が有効か、私たち障害者が障害者権利条約にどれだけ大きな期待をかけているかをわかっていただきたくて、お話しました。

障害者権利条約が提起する新しい概念

そして障害者権利条約は障害当事者が参画してつくりました。1980年代ぐらいから障害者権利条約が必要ではないかという議論がありました。具体的な動きは2001年から出てきました。2002年に第1回障害者権利条約の特別委員会がつくられ、第8回の特別委員会が開催で採択されました。満場一致の拍手が起こったり、足が踏み鳴らされたそうです。

そして2006年12月に国連総会で採択されて、2007年3月30日から署名開放をし、日本政府は2007年9月28日に署名しました。この批准に向けた取り組みが重要になっています。

ここで条約が提起する新しい概念を紹介します。

一つは自由権、社会権です。これまではよく人権規約のA規約=社会権、B規約=自由権とよくいわれていましたが、この障害者権利条約では「包括モデル」という考え方をとります。

たとえば、参政権を例に考えます。参政権は自由権です。聴覚障害がある方が国会を聴講しようとした時に、参議院の場合には手話通訳はつきますが、衆議院はつけられません。自由権である参政権を行使しようとした時に、社会権である手話通訳保障が得られなければ、その自由権も行使できない構造になっているのです。

さらに障害者権利条約全体を貫いているのが「非差別、平等」という概念です。差別の中身については、「合理的配慮を行わないことを含むあらゆる形態の差別」と第2条で定義されています。

さらに「障害の概念」についても定義されています。第1条目的で「種々の障壁との相互作用により、他の者との平等…」、つまり障害は、「他の者との平等を基礎とした社会への完全かつ効果的な参加を妨げることのある…障害を含む」ということで、環境との相互作用によって社会への参加を妨げるものを障害とするというとらえ方をしています。

さらに、第2条に、「言語には、音声言語、手話及び他の形態の非音声言語を含む」と規定されています。画期的なことが、これだけでもたくさんあることがわかったと思います。

障害者権利条約の個別のポイント

さらに個別の論点についてポイントを申し上げます。

先ほど、第19条に「特定の生活様式を義務づけられないこと」と書かれていると申し上げました。第19条は「自立(自律)した生活及び社会へのインクルージョン」の内容になっています。

第24条「教育」ではインクルーシブ教育の原則を規定しました。特別支援教育など、いろいろな形で変わりつつありますが、いまだに学校教育法施行令第5条では、障害のある子どもは、市町村が就学通知を出さないことになっています。まず入り口を障害のある子もない子も一緒にしなければインクルーシブにはならないと私たちは考えています。

さらに第24条3項で、手話や点字の取り扱いが特にふれられています。手話の取得、社会の言語的の促進のためのろう教育について示されましたが、それは手話を言語とする学校です。

聴覚障害のある知人から話を聞くと、昔のろう学校は、手話を教師の前で使うとひどくしかられたそうです。先生たちがいない時に隠れて子どもたち同士で手話を使っていました。それはこの20年ぐらいで変わってきてはいますが、ろう学校の先生は、手話ができることが任用資格にはなっていません。第24条3にある「手話の修得、ろう社会の言語的アイデンティティの促進」を適用するならば、その教育にあたる教師は手話が使えないとダメだと思います。さらにいえば、ろう者自身が先生になることがいいのではないかと思います。

第27条には「あらゆる形態の雇用差別禁止」があります。第2条で「合理的配慮」が規定されていますから、雇用や協議の場面では合理的配慮とは何かが非常に重要な課題になってきます。厚生労働省では今年の春ぐらいから研究会を設置しているという動きがあります。

第33条は「国内的実施とモニタリング」です。今までできた7つほどの人権条約と比較すると、唯一、国内モニタリングが規定されています。政府と独立したモニタリング機関を設け、その中に障害者を入れることをうたっている非常に画期的なものです。

このように障害者権利条約には少し見ただけでもたくさんの論点があります。その中で障害者権利条約の批准について最近の動向をお話しして、まとめに代えたいと思います。

今後の国内での批准に向けての動き

先ほど松井先生の話の中でIDAの話がありました。IDAは国際組織で、その国内組織として、障害者権利条約作成段階で、連携をベースにした日本のNGO傍聴団を組織化しました。そして、条約採択後も定期的に政府と意見交換会をしてきました。

2007年9月の日本政府の署名後、国内完全履行に向けて各省庁ごとに意見交換会を開始しています。今年2月に内閣府、5月に厚生労働省、今週8月26日に文部科学省と意見交換をしました。

障害者権利条約が採択されてから1年半ほど経つので、啓発、広報も充実してきたと思っています。JDFが最近つくった「みんなちがって、みんな一緒 障害者権利条約」というキャッチフレーズは、非常にわかりやすいと思います。DPIでは、「障害者の権利条約でこう変わるQ&A」を出しています。

研究者側では、東大の長瀬修さん、川島聡さん、弁護士の東俊裕さんが『障害者の権利条約と日本?概要と展望』という本を出しました。

さらに、福祉新聞社からも連載記事をもとにした「障害者権利条約で社会を変えたい」という本が発行予定です。障害者権利条約の政府仮訳に対するJDFのコメントなども所収していますので、ぜひお読みください。

また、内閣府が障害者差別の事例収集を始めています。これは私どもJDFの団体も関わっており、この9月からアンケートの発送を始めています。約6,000人の障害者にアンケートを実施し、してほしいこと、してほしくないこと、どういうことが差別と思うか、もっとこういった合理的配慮があれば、といったことを具体的な事例をとおして検討しています。

自治体での差別禁止条例づくりとして、千葉県では2006年に「障害のある人もない人もともに暮らしやすい県づくり条例」が制定されました。それに続く形で今、北海道、岩手県、愛知県、長崎県などで条例づくりの動きが出ています。

JDFは、地域フォーラムを開き、すでに北海道、愛知県で開催しました。今年度、大阪府、岡山県、宮城県で予定しています。障害者権利条約をテコに権利の時代をつくっていきたいと思っています。

今、日本ではセーフティネットが非常にもろくなってきているといわれていますが、私は崩れてきているのではないかと思います。障害者権利条約は、障害者の権利のことが中心ではありますが、この条約を完全履行するということは、障害者をはじめ、すべての人の権利が当たり前に守られることになるので、大切なことだと思います。今の日本の格差社会やセーフティネットの崩壊などの問題を、先どりしてきたのが障害者問題ではないでしょうか。つまり、障害者権利条約を批准し障害者の人権を確立することは、今セーフティネットを張りなおし、社会的に排除されている人たちの人権が守られることにつながります。そのことをもう一度考え直したいと思います。