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報告2−3 障害者の自立生活におけるCBRの役割

司会 中西さん、ありがとうございました。それではここで質問を受け付けたいと思います。1つか2つ。今のお話の中で、ここはもう1回もう少し詳しく聞きたいとか、分かりにくかったとか、そんなことがありましたら、ぜひお願いいたします。

 

質問者 浦和大学に勤務しています。どうも、いろいろ教えていただき、ありがとうございました。少し追加でご説明いただきたいのですが、パーソナルアシスタントと人権モデルの関係について、もう少し詳しくお話しいただけますでしょうか。

 

中西 パーソナルアシスタントというのは、途上国においては例えば障害者が使っている家の中のお手伝いさんであったりするんですが、ここで言うパーソナルアシスタントというのは、障害者のニーズをカバーしてくれる存在であり、それは当事者が自分でパーソナルアシスタンス・フィー(料金)をもって、その時間内で雇用する、雇用契約に基づいた存在なんですね。

今までは、日本でも、このパーソナルアシスタントの制度が確立と言うか、紹介される以前の場合には、無償のボランティア中心のものであって、そこでは人の善意に頼る活動であるので、そのボランティアの人の都合に依存せざるを得なかったところがありました。これが制度となった場合には、障害者が自己の欲する生活、自立生活運動では「自己選択」もしくは「自己決定」という言葉で表すのですが、それが十分に守られるようになるのではないかということで、権利モデルの確立のためには介助制度というのは必要だと考えられています。これでよろしいですか。

 

質問者 今は、いろんな国に、このパーソナルアシスタントの制度ができていて、アメリカでさえ、あるんですよね。先日アメリカのカリフォルニア州の人が来日し、障害者が行政機関からお金をもらってホームヘルパーを雇っているという例が、カリフォルニア州アラメイダ郡にも11,000名ぐらいはおられると言っていました。北欧には以前からパーソナルアシスタントの制度がありますので、いわゆる発展途上国での「開発」と、先進国でやっている、いわゆる「パーソナルアシスタント」という制度とのギャップはかなり大きいのではないかと思います。

 

中西 もしよろしければ追加の情報なんですが、例えば少額でもお金を払った方が、きちんとした形で、介助するほうとされるほうの間に、「介助」ということの仕事に関する契約が成立するわけですね。例えばパキスタンの場合には、お金持ちがたくさん介助費を取って、それを今度は貧しい人が介助者を雇う際に使う、というような取り組みをしています。途上国は途上国なりに、少しでも「契約」という形で、単なる「かわいそうな障害者」とか、「障害者のために何かやってあげたい」という善意だけで、この介助制度が運営されないような仕組みを模索しているところです。

 

司会 ではもう1人、お願いいたします。

 

質問者 中西さんにお伺いします。当事者が中心になって運動を進めていくというのは、私自身が関わっている仕事から見ても正に必要なことだと思っていますが、中西さんは、「当事者」という言葉を英語でどのように表現していらっしゃるのでしょうか、教えてください。

 

中西 その文脈にもよりますけれども、普通はやっぱり当事者は person with disabilities で、「障害団体」という言い方を日本ではするんですが、そのときは、当事者団体であるのか関連団体であるのか、すごく難しく、英語の場合には、そこは簡単に、organization forになるのか、ofになるのかで区別はできるんです。あとは「当事者」という言い方ですが、それを直接直訳で「この言葉で」というのは、使っていません。その文脈によってです。

 

司会 最後の質問の方、どうぞ。

 

質問者 途上国ではILは不可能であるという誤解のところで、ちょっと明確にしたいんです。ILは先進国の活動であり途上国にはそれを実施する資源がないとか、ILを活動する余裕がないからというのは、経済的な余裕がないからと理解していいのか。そこを明確にする上で、先ほどのパーソナルアシスタントとか、人を契約ベースで雇うので、雇用とサービスという意味では、障害をもっている人がお金を持たなきゃいけない。途上国の場合は、そのお金というのは、結局公的な資金を期待しているのかなということで考えますと、途上国は、日本のような福祉がちゃんとしている国に比べると国家予算が十分ないという意味で資源がないという誤解があるのかなと、私なりに思ったのです。しかし、それが誤解であるというところを、もう少し分かりやすく説明していただけるとありがたいです。

 

中西 国の中で予算がないから障害者が生活できないというのは、逆転的に言えばおかしな話であって、やっぱり、どんな人でも国の中で生きられなければいけないわけです。当然政府は、重度の障害者に対して、例えばモデルケースであっても何らかの支援というのはしたほうがいいわけですよね。先進国の中で行われた自立生活運動に対する途上国からの批判と結局同じようなことなんですけれども、やはり1人でも、重度障害者が自立可能だということが分かれば、それは当然のこと、他の重度障害者にも当てはまるわけです。そしてそれは社会保障のお金がない中でも、例えば少額でも、そこに対して政府のお金を出していく責任はあるわけです。それからCBRと同じようにコミュニティ基金を使って、その中で支援していく。これは同じように、その人の生を尊重する、人間の安全保障の考え方なんですけれども、その考え方をベースにすれば、やはり重度の障害者であっても誰であっても、CBRの場合と同じように、自立していくことが権利なので、当然国の中で、ポーションの一部は障害当事者の中で使われるべきだという権利性に基づいています。

 

司会 ありがとうございました。ILとCBR、ないしは当事者をどう捉える、といった、これもまたCBRでもたくさん時間を要する議論の項目が挙がってまいりました。まだまだ質問続くと思いますが、後ほどディスカッションの時間のほうに回していただきたいと思います。ではこれで中西さんの報告を終わります。