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報告4−2 カンボジアにおける地域住民による知的障害者支援

ではここから、村人による27の小さな活動をいくつか紹介したいと思います。

真ん中にいるこの女性(写真2)が、村の人が見つけた知的障害の人です。ただ私たちが見た感じ、知的障害というよりは認知症に近いのかなと。最初の1分間ぐらいは「こんにちは、私の名前は」と話せるのですが、その後は1人でブツブツブツブツということになってコミュニケーションできないんです。

放浪癖のある知的障害の女性と彼女を支援するために発展した協同畑(写真2)

この人は放浪癖がありまして、1週間ぐらい後で半死半生で見つかるということを雨季に繰り返していました。村の人たちはそこを一番最初に何とかしたいと言っていました。それでどうしようというので、例えば椰子の実からお砂糖を作るというようなことだったら雨季にできる仕事なので、それをやったらどうかなどの意見がありました。しかし、「退屈だから放浪するんだよ」という結論になりまして、退屈させない方法を考えることになりました。本人にも聞きました。その結果、砂糖を作るのもいろいろ大変だし難しいし、畑が良い、ということになったんです。

そしたら他の村の人が、村には極貧家族がいて食べられないでいるので、その人たちも一緒にできることがいいと言うことになりました。その後は、土地を提供してくれる人がいて、耕すのを手伝ってくれる人がいて畑が始まりました。

この事業では、日本側から資金や物を提供することは殆どないのですが、ここの畑に関しては種代30ドルを出しました。モーニングローリーとトマトとかナスとか、いろんなものを栽培しまして、彼らの家庭で食べて、残ったものを販売して、次年度の種を買ったり、個人の収入にしています。

 

この人(写真3)は「仕立屋の息子」です。38歳で知的障害があります。ここの家の家業は仕立屋なんですね。お母さんは、彼、一人っ子なものですから、継いでほしいんですけれども、なかなか仕立てを覚えない。まず裁断ができないというところで引っかかっていて、「もうどうしようもないよ」とさじを投げていました。そこで、村の人がこの人に「何をしたいの?」と聞きました。そうしたら、「工場に働きに行きたい」と言ったんですね。ここのエリートの若い人たちは、ここから20キロぐらいのところの工場に働きに行くものですから、同じようにしたいのですね。で、村の人が工場に交渉したんですけれども、知的障害があるのでというので受けてもらえませんでした。そのうち本人が「やっぱり家の仕事を継ぎたい」と言うので、お母さんにお願いをして、他の人も手伝って、ゆっくり何回も教えました。

「仕立て屋の息子」(写真3)

そしたらボタンつけなどからできるようになりまして、ミシンもかけられるようになりました。今は村の人たちが、簡単な仕事は彼に注文してお金を払うようになりました。そうしましたら彼はとっても意欲が出てきまして、今は裁断も覚えたいというふうに言っています。

 

これ(写真4)は「鼻つまみから、メンバー・オブ・ワインクラブ」となっていますが、この男の人は20歳で知的障害があるんですけれども、このプロジェクトの始まったときには鼻つまみで、誰も口もきかないし、彼が通ると、みんなよけて通るという感じでした。なぜかと言うと、洋服が1枚しかないので洗えないんですね。常夏の国ですから、それは大変な臭いで、誰とも話もしないで暮らしていたわけです。

「鼻つまみからメンバー・オブ・ワインクラブ」(写真4)

村の人が、この臭いは何とかしてよと「何で洋服が1枚しかないの?」とに家族に聞きましたら、「知的障害なんだから仕事に行くわけじゃないし、服はいらない」と言われたのです。「いや、でも生活するんだから、服はもう1枚買ってよ」とお願いして、古着をもうワンセット買ってもらいました。

臭いがなくなったらこの人、人気が出てきまして、最初は子どもたちと遊ぶようになり、そのうち、これ、お酒好きな男の人たちの飲み会なんですけれども、そのメンバーになって、今は飲み過ぎるようになりまして、それが問題で。飲み過ぎて道で寝ていたりするようになったので、今、そこを何とかしなくちゃというふうに、また村の人たちが考えています。下は水浴び場なんですけれども、彼、本当に人気があって、水浴び場でみんなで一緒に水浴びをしたりしています。

この26歳の女性(写真5)も知的障害があります。ただ働き者で、ここの家は9人兄弟ですが、そのうちの4人に障害がある家庭です。あとの5人、障害のない人はみんなプノンペンですとか工場とかに働きに行っちゃって、今、家にいません。村に残っている子どもの中で身体障害がないのは彼女だけなので、親としては働き手として期待があるわけです。ただ、知的障害があるので、買物とか作物の売買はできないんです。で、お金の勉強をすることになりました。後ろにいる女性は村の人ですが、ボランティアで彼女にお金の概念を教えています。

お金のレッスンの様子(写真5)

このようにして1年間の個別活動が進んでいきました。そして来年は他の住民も受益する活動へ来年は発展していきそうです。例えば10代の人たちは子供会をやりたいと言っています。その子供会には、もちろん障害のある子も障害のない子も行くわけです。この村には、数年前にINGOが入って子供会活動をやったんですね。3年間やったんです。ただ、INGOが場所を提供して、ゲームを提供して、すべての運営をやっていたものですから、そこが引いた後は子供会活動がなくなっちゃったんですね。今、ティーンエージャーになったその頃の子どもたちが、子供会に郷愁がありまして「やりたい」と言ってきました。

この建物(写真6)はセレモニーホールです。村の人たちはこのセレモニーホールをペイントして、もうちょっと壁なんかもきちっとして、ゲームを入れて魅力的な子供会の場にしたいと言っています。

セレモニーホールの写真(写真6)

右端の女の子(写真7)は知的障害があります。12歳ですが学校に行ったことはありません。というのは、親が「学校に行ったらいじめられるし、いいことないから」と。村の人が「でも学校大事だよ。お友達もできるし」って言ったんですが、親がどうしてもダメだと言うので、行けません。唯、この子に友達をつくりたい。そうしたら、「村長さんのところがいい」ということになったのです。実は村では村長さんの家に子どもたちが放課後集まって、村長さんの家にあるマガジンなんかを読んでいるんです。そこにこの子、行くようになりまして、障害のない子がこの子に雑誌を読んであげたりするようになりました。

村長さん宅での「学校」(写真7)

そういう経緯があり、次に来年度何しようと話した時、子どもなのに、こんな雑誌だけじゃかわいそうなので、ちゃんと本とか揃えたいという意見が出ました。それで、本を揃えて、村長さんの家の中に子どもの図書室を作ることになりました。

また、ここはポル・ポト時代を経ていますので、字が書けない人が多いんです。そしたら、中年以上の女の人たちが、「字が書けるようになりたい」と。知的障害の人も「字、書けるようになりたい」と言うので、識字教室を始める村もあります。

では次に、この事業から学んだことをお話します。このプロジェクトのために私たちはファシリテーターを養成しました。そして、その候補者を身体障害者のSHG(自助グループ)にしました。これには下心がありました。身体障害者がファシリテーターになれば、身体障害者への一般住民の目も変わると思ったんです。しかし、身体障害の中にもファシリテーターに向く人と向かない人とありました。それは途中で他の人に替わってもらったりしたんですが。そういうふうに、こちらの何て言うんでしょうか、意向を入れすぎたというのは、まずかったなと思っています。ファシリテーターの候補者は村の人に選んでもらうべきだったのです。

ファシリテーターとしての資質で一般的に言われるのは「よい聞き手であること」等ですが、この事業では他にも求められる資質がわかりました。それは、地域の生活者としての能力です。具体的にいいますと、農業や日常生活に関する豊富な知識があること、それから活動のことを日常生活の一部のように持ちかけることができること、そして村長や村人への報告や連絡が十分にできることです。それから、1人のファシリテーターがファシリテートできるのは半径15キロメートルぐらいの範囲に住む人々であるということも分かってきました。

それともう一点、プロセスが非常に大事だということがわかりました。コミュニティ・オーナーシップというのはもちろんですけれども、住民が能動的に活動するプロセスを大切にしていれば、ディスアビリティ・プロジェクト(障害プロジェクト)というのは、インクルーシブ・デヴェロップメント(インクルーシブ開発)のきっかけにもなれるのではないかというふうに考えます。ご清聴ありがとうございました。