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日英セミナー「障害者のためのソーシャルインクルージョン」

講演1「わが国の社会福祉施策と英国とのかかわり」

炭谷 茂
日英高齢者・障害者ケア開発協力機構日本委員会副委員長
(環境省事務次官)

 ただ今過分なご紹介をいただきました、環境省の炭谷でございます。ちょっと風邪をひいておりましてお聞きにくいところがあろうかと思いますけれども、お許しをいただければありがたいと思います。

既に今日レジュメで皆さんのお手元にお配りしておりますけれども、今日は私が個人的に英国との体験を通じまして感じてきたことについて、簡単にお話をさせていただければありがたいというふうに思っております。

 まず、戦前の動きでございますけれども、戦前におきましては、日本とイギリスとの関係というのは、時々イギリスの教会の関係者が日本にいらっしゃるということで、例えば救世軍を創設したチャールズ・ブースが明治40 年、1900 年に当たりますけれども、明治天皇にお会いしまして、救世軍、特に社会福祉の重要性ということについてお話をされた。これに明治天皇が感銘しまして、日本済生会という一つの今日でもあります慈善団体を作ったということでございます。

 また、戦前できました救護法ですね。これは1929年にできたものでございますけれども、これは1834年にできました救貧法の影響を大変強く受けているというふうに聞いております。戦前というのはあまりイギリスとの関係というのは、組織的にはなかったんじゃないのかというふうに思いますけれども、1942年11月に英国の今日の社会福祉を構成させたと言ってもいいような、ベバリッジ報告というものが出されました。これはいわば日本に対しても大変衝撃を与えたんじゃないかなというふうに思いますけれども、その6カ月後、日本でベバリッジ報告を既に紹介している。1942年というとまだ第二次世界大戦中でございましたので、敵国の制度を紹介するということで、大変驚くべきことだろういうふうに私は思います。第二次世界大戦後、1946 年に、既に日本の福祉の状況というものをなんとか変えなくてはいけないということで、各種の研究会、また調査会というものが作られました。そのとき、一番の参考になったものがこのベバリッジの報告だというふうに言われています。実際見てみますと、1946年の2月に作られました社会保障研究会という民間の学者による研究会では、既にこのベバリッジの報告というものをもとにして、研究報告がなさているようでございます。また、政府の方におきましても、社会保障制度調査会において、このベバリッジの報告を基本にして検討されているというような状況でございます。1950 年には社会保障制度審議会の報告というものがなされますけれども、この制度審の報告というものは、結局はこのベバリッジの報告を基礎にしたというものの、私の見たところ、未消化に終わっているという状況ではないのかなというふうに思います。つまり、ベバリッジの報告というのは社会保険を中心にした全体の体系というものを示そうとしたものでございますけれども、日本人にとっては、ベバリッジの報告はいわば社会福祉全体の報告をしたのではないかというふうに、一つの誤解があったように私は思います。ベバリッジの報告というのは簡単に言えば、ベバリッジの報告の重要なところは、国民保険というものを中核にして、それで足りないものについては、公的補助で補うというような構成になっていて、その基礎になるものは雇用とか児童手当とか、ナショナルヘルス・サービスとか、そういうものが基本になっていると、そしてさらに個人の自主的な努力がそれに付加されるということではなかったのかと思うのですけれども、肝心の個人の努力であるものとか、また雇用が大切だというものが、日本にとって十分、咀嚼できなかったということろがあるのではないかなというふうに思っております。ただ、いずれにしろ、ベバリッジ報告の実践は戦後、英国では特に労働党政権によって推進されました。

 しかし、日本にとって英国というのはひとつの憧れの的であったわけですけれども、実際は、日本の戦後の福祉制度というのは、イギリスよりもアメリカの影響を強く受けて進められました。これはなぜかといえば、やはり日本は当時、GHQの支配下にあったわけでございますので、GHQ を通じて、アメリカの考え方、特に重要な点を申しますと、福祉における専門性とか、また、公的な福祉の重要性、さらには公私というものを分離させるということにあったのではないかというふうに思います。でも、結局、そのようなアメリカの考え方というのは、19 世紀から20 世紀の初めにかけて、イギリスからアメリカが学んだものが日本に来たということでございますので、考えてみれば、日本は戦後、アメリカの指導のもとによって、社会福祉を築いてきましたけれども結局は、もとを正せば、イギリスから来たというふうに言っても過言ではないだろうというふうに思います。これがこのレジメに書きました、1940 年代から50 年代にかけてのことでございます。

 第2期がこのレジメでは、非対称形の施策の導入というふうに書かせていただきました。これは私は大体60年代から70年代ぐらいがこういう時代に該当しているんじゃないかというふうに思います。これはどういうことかといいますと、非対称というのは日本が一方的にイギリスの施策を導入すると、学ぶということではなかったのかというふうに思っております。ちょうどこの頃、先程司会の河村さんからご紹介頂きましたけれども、昭和50 年、西暦1975 年に、私はイギリスで勉強させていただく機会が10ヶ月程度ありました。当時は、キャラハン政権ということでちょうどイギリスがやや陰りが出て、経済的な力がやや弱まってきた。また、一方、社会福祉の充実がやや止まり始めた時代じゃなかったかというふうに思っております。このような時に、イギリスで私自身、勉強させていただきましたけれども、大変、得るところが多い10ヶ月でした。当時の思い出を浮かべてみますと、一つは、特に勉強しにいきましたのは、今日の議題になっております「障害者の福祉」ということでございました。びっくりしたのは、まずレンプロイ社(注)という所へ見学に行きましたら、障害者の方々が、いわば普通の雇用といいますか、通常の仕事をされているということでした。日本ではまだまだこういう障害者の方々が一般の企業的な形態で働くということは少のうございましたから、私にとっては大変新鮮な驚きでございました。そして、小規模な授産施設ですね。レンプロイ社というのは大変大きな授産工場、授産のための会社と言ったほうがよいと思いますけれども、小規模な授産の施設もたくさんございました。そういうところで障害者の方々がそれぞれの能力に応じて働いていらっしゃる、というものは私にとっても大変勉強になるところでありました。

 中でも非常に感激したのは、当時、その3年前に実はアメリカに行ってまいりました。そのアメリカに行った時は、アメリカの障害者の対策というものは、いわば重度の障害者を排除すると言いますか、重度の障害者を雇用の対策から落とすというのが、アメリカの障害者施策でございました。これに対して、イギリスの場合はむしろ逆でして、障害者にとって重要なのは、より重度な人が重要だと、いう考え方でございました。そういうところで、イギリスとアメリカというのは、相互に影響し合いながら福祉施策が発展してきたなというふうに思いましたけれども、イギリスとアメリカとは違うなと、大変関心深く見たものでございます。

 また、先程、マーティン公使から紹介がありましたように、イギリスでは障害者のいろいろな公共的な施設やサービスに対するアクセスというものが大変重視されております。当時、ちょうど慢性疾患及び障害者に関する法律というものが、作られようとしている時でございました。その時、その法律の狙いというのは、障害者が公共的な建物にアクセスすることを一つの権利として認めようということでございました。今日でいえば当たり前の、いわゆる「バリアフリー」ということでございます。でも当時日本ではそういう「バリアフリー」という考え方はまだ全くありませんでしたので、その慢性疾患及び障害者法の内容というのは、大変私にとっても新鮮な驚きでございました。日本でもそのようなことを紹介する論文等が現れましたけれども、なかなか日本で取り入れられるということは少なかったんじゃないかなというふうに思います。

 二番目に書きました、「非対称形の施策の導入」というのは、60 年代、70 年代ですね、いわばイギリスの進んだ政策をいわば「つまみ食い」をするという時代ではなかったのかなというふうに思います。例えば高齢者福祉分野で言いますと、英国では、ホームヘルプサービスが大変盛んです。たまたま日本から、出張に行って、ホームヘルプサービスの状況を見て「これは優れている」と、このホームヘルプサービスを日本に持ってくるとか、デイセンターのようなサービスを見て、これも日本で必要だなということで、いわば、優れたものをそのまま一種の「つまみ食い」的にもってくるというような時代だったというふうに思います。ですから、このような施策は日本語に翻訳されることなく、そのままカナ書きで取り入れられたということが一つの象徴的な事柄ではないのかなというふうに思います。これが第2 期の時代ではなかったのかなというふうに思います。

 第三番目の時期が、ここに書きました1980 年代の「サッチャー改革の与えた衝撃」というところだと思います。サッチャーは1979 年に登場しまして、いわば英国病というものをなんとか解決させたいということが、彼女の最大の政治目標だった。むしろ政治信条だったんじゃないのかなというふうに思います。英国病というものについて、その原因がなにかというのは、ここで詳細は避けますけれども、やはり小さな政府、肥大化した政府支出というものをおさえて、できるだけ、民間の活力というものを使っていこうというものが、サッチャー改革の一つの眼目だったというふうに思います。それは、年金制度、医療制度、福祉制度、それぞれの分野に及んでいたんじゃないかなというふうに思います。その影響というものは、日本の行政改革、1981年から始まりました第二次の臨時調整調査会、いわゆる「臨調」というふうに略されていますけれども、その「臨調」影響を与えていたというふうに思います。サッチャー改革自身がすべてが正しかったというふうなことが言えるかどうかというのは、まだまだ歴史の評価を待たなければいけませんけれども、これが世界に影響を与ていったと、特に日本にも大きな影響を与えていったのは事実だろうと思います。

 特に福祉の世界では、ここに書きましたコミュニティ・ケア改革が特に注目すべき改革ではなかったのかなと思います。コミュニティ・ケアというのは英国では戦後一貫して求められてきた福祉政策だろうと思います。1963 年にはコミュニティ・ケアを進めるためのブルーペーパー(青書)が作られています。さらに1968 年にはシーボーン改革が進められ、コミュニティ・ケアというものがしっかりと福祉政策の中に位置づけられたのではないのかなあというふうに思いますけれども、なかなか英国では定着しなかったということで、1988 年にサッチャーは、センスベリーの会長をしていたというグリィフスさんという方に報告をまとめてもらいます。そして1990 年にコミュニティ・ケア法というものが制定されるわけでございます。この1990 年というのは、ぜひ今、頭の片隅に残しておいて頂きたい年でございますけれども、このコミュニティ・ケア改革の内容は大きくいって4点あるんじゃないのかなというふうに思っています。

 一つは、福祉施策、コミュニティ・ケアにおいて、重要なものは単に家庭的な施設のなかで、地域の中で生活するということだけではなくて、福祉において重要な選択をする。それから、障害者といっても独立的な生活をする。また、この自分のやりたいことを発言するということが大切だという点が第1点だろうというふうに思います。

 第2点はコミュニティ・ケアというものを総合的に行うこと。今日で言えばとケア・マネージメントということだろうと思いますけれども。ケア・マネージメント、一つ一つのサービスではなくて、介護保険で行われているような、ケア・マネージメントというものが福祉の世界で取り入れられたのが第2点だろうというふうに思います。

 第3点は、福祉のサービスの質と効率性の向上ということが大事だというふうに言われたものだろうと思います。そのために例えば、積極的に民間のサービスを利用しようということもあるんではないかなというふうに思います。

 第4点は、コミュニティ・ケア計画。日本的に言えば、地域福祉計画といってもいいだろうと思います。コミュニティ・ケア計画というものを各地方自治体につくってもらう。この4点がコミュニティ・ケア改革の内容だというふうに思います。

 同じ時期に、実は先ほど覚えておいていただきたいといった年号ですね、1990 年の6 月にコミュニティ・ケア法がイギリスで出されます。そして今申しました4点が主な内容だったわけですね。それと全く同じ時期に、日本では1990 年の6月に、福祉関係の8 本の法律の改正が行われました。全く同じ時期に行われた改正でですね、内容がずいぶん違うんですね。日本の福祉関係8法の改正というのは、高齢者サービス、身体障害者サービスについて、それをできるだけ国や都道府県ではなくて、住民の身近なところ、つまり市町村の単位に移すということが主な狙いでございました。私自身はちょうど1990年の日本の福祉8法の改正作業の一部に従事しておりました。その時に、やはりコミュニティ・ケア改革の内容というのは知っていましたので、日本においても、先程言いました4つの内容ですね、いわば福祉における受給者の権利性ですね、自分で声を上げる、発言をする、障害者といっても独立的な生活をする、それから選択をするというようなことが、やはり福祉8法の改正においても、やるべきではないのかなと思いましたし、また、厚生省の中でもそのような発言をしておりました。また地域福祉というものがコミュニティ・ケア改革の中で、相当抜本的に取り上げられ、定着をしたのが1990 年の英国のコミュニティ・ケア改革ではなかったかというふうに思いますけれども、日本の福祉関係8法の改正というのは、そのようなことについて当時議論はしましたけれども、結局、時期尚早ということで先送りという形になったわけでございます。ですから、全く同じ時期に行われた福祉に関する大きな改正の中身が相当の差が生じていたわけであります。できれば、こういうものを早く追いつきたいというのが私の基本的な願いでございました。

先程、司会の河村さんから紹介していただきましたけれども、たまたま私自身が社会福祉の責任あるポストにつきましたときに行うことのできました社会福祉基礎構造改革というものが、まさに、先程申しました1990 年のコミュニティ・ケア改革というものに追いつきたいと、できれば欲張りですけれども、追い越したいというような気持ちで行ったものでございます。基礎構造改革に関する法律はちょうど2000 年6 月に公布されますけれども、ちょうど10 年間遅れて、それに到達することができたんじゃないかなというふうに思います。

 コミュニティ・ケア改革の内容、先程4点いいましたけれども、その4点というのはちょうど、社会福祉の基礎構造改革の中心部分をなしていると考えていただいてもよろしいんじゃないかなと思います。ですから、私自身基礎構造改革においては、英国のコミュニティ・ケア改革の内容を相当勉強させていただきまして、取り入れたというものでございます。気持ちとしては、一部分はそれを超えているなと、その上をいったものがあるというふうには自負はしておりますが、大変多くのことを学ばせていただきました。これがいわばサッチャー改革の与えた衝撃という3 番目でございます。

 次に、4でございますけれども、いわば1990 年代、対称形の交流という時代に入るわけでございます。対称形の交流というのは、いわば日本がこれまで一方的に学んできたという時代から、相互にそれぞれ、交流し、対称形、対等の立場で学び合うという時代に入ってきているんじゃないのかなというふうに思っています。そういう気持ちで、私共は福祉の勉強をしたり、活動をしているわけでございます。

先程、初山委員長からご紹介いただきましたように、この日英高齢者・障害者ケア開発協力機構は1999年に発足しましたけれども、その中で学んできたことの一つに「ソーシャルインクルージョン」という理念がございます。日本もイギリスも同じような新しい社会問題に悩み始めているなというふうに思っています。なぜそうなってきてるかは明らかなんですね。福祉のニーズというのはそれぞれの社会構造の基盤の上に、社会のニーズが出てくるわけですから、そこから発生してくる問題、ニーズというのは日本もイギリスも社会基盤が世界のグローバリズムによって、世界が同じような流れできていますから、同じような構造になります。したがってその上に生ずる問題、ニーズというのは、同一になっていく。ということは、ある意味では、当たり前なんだろうと思います。その新しい問題、ニーズというものを掴み出すという視点として、社会から排除されてること、社会から孤立しているという目でみると、非常によくわかるんですね。これまで社会福祉の目というのは、貧しいとか、障害があるとか、病気があるとか、そういう目で社会福祉のニーズを見てまいりました。しかし、これからはそれに加えてですね、これからは社会から排除しているとか、社会から孤立しているというような目で見てみることが非常に社会のニーズを探る大きな手がかりになるんじゃないかなというふうに思います。

 例えば排除の例としては、ホームレスの問題があろうかと思います。イギリスもホームレスの増加で悩んでいる。日本もホームレスの増加でいろいろと問題になっています。これはホームレスというものが社会から排除されているというものが大きな問題の一つになっていると。また、在日の外国人の問題ですね。そういう問題も日本の場合、異文化との交渉が少のうございましたから、より在日外国人に対しての、この社会から遠ざけたいというような気持ちというのはあるというのは否定できないだろうと思います。これはイギリスでもやはり同様な状況があるのではないのかなというふうにも思います。一方、孤立という面では、これは社会が排除するというプラスの力ではなくて、個人が閉じこもってしまうという側面があろうかと思います。これの典型的な例は、高齢者の孤独死ですね。高齢者が誰にも見守られなく、誰からも世話されることなく死んでしまう。一人で寂しく死んでしまうというような、孤独死というものが大変日本でも多くなってきております。また、DV もそうだろうと思います。DV というのは結局、家庭のなかで、配偶者同士がいがみあう。それに対して社会の援助が与えられないというところだろうと思います。また、児童虐待ですね。この児童虐待というのも、日本の児童虐待というのは、昔であれば、祖父母といったような人、また親戚の人の支援、近所の人たちから助けなり、助言が得られるのですけれども、今日、そのような孤立化していると、若い母親が孤立をして、子どもの状況に対して腹立たしく思い、児童虐待に走るということが、児童虐待の一つの原因だろうと思います。

そのような目で見てみると、新しい社会ニーズというものが、たくさん浮かび上がってくる。このような問題に対して、社会福祉に携わる者が対応してくることが重要ではないのかなというふうに思います。 後ほど司会をされます、大山先生が中心となって作られました地域福祉計画のガイドラインもこのような問題に対して取り組もう、そして、排除と孤立に対応するために「ソーシャル・インクルージョン」という理念を入れられたというふうに承知いたしております。

同じ時期に、1997 年に登場した現在のブレア政権も、政策の大きな柱に社会からの排除の防止というのもを掲げているというふうに承知しております。そしてそのための施策として、「ソーシャル・インクルージョン」というものが入れられていると思います。まさに、日本もイギリスも同じような問題にぶつかり、そして同じような政策手法で進もうとしているというふうに考えるわけでございます。ですからこのあたりが両国がお互いに学びあうと、そして意見を交換するという意味で大変意味のある分野ではないのかなというふうに思っております。

 そのほか、例えば福祉技術ですね。今日、ITの技術ですとか、このような物理的な技術もあれば、たとえばNPO の活用といった、または社会起業家の活用といった、ソフト面の福祉技術もあるだろうと思います。そのような分野でも、これから日英が対称形となって、交流をしていくという時代ではないのかなというふうに思っております。

 最後に、これからの私自身の日英の施策の交流という分野について、簡単に、自分の夢というものを話させていただきまして、締めくくりというふうにさせていただきます。

 一つは、福祉の領域というものはどんどん拡大しているんじゃないのかなというふうに思います。従来の福祉といえば高齢者・障害者について、例えば在宅福祉サービス、施設サービスという形で、行われていただろうと思うんですけれども、これからの福祉サービスというのはさらにそういう在宅サービス、福祉サービスの領域を超えて、その拡大を図っていかなければいけないんじゃないのかなというのが私の、一つの福祉への夢であります。例えば高齢者や障害者に、芸術、例えば絵画を描いてもらう、また陶芸をしてもらう。それぞれ障害の克服にはならないかもしれないけれども、人生の生きがいという面で大変効果がある分野がございます。また、現在たまたま私自身は、環境の仕事をしておりますけれども、環境教育というものを、例えば児童登校拒否をしている子どもとか、閉じこもりをしている子どもに対して、自然に触れさせるというような新しい手法を用いれば、かなりの効果があがるというふうに思っています。これについては現在、東京都の福生市にあります、NPO 青少年自立援助センターというNPO がございます。そこの理事長は工藤さんという方ですけれども大変力強い援助をしてくれていますので、環境省と一緒になって、閉じこもりや登校拒否をしている子どもたちのケアをすることによって解決できないか、なんとかいい成果が出てくるんじゃないかというふうに期待をしております。

 そのほか、グローバルな対応。これは日本とできれば英国とがお互いに協力して、日本では大変関心があるのは、やはりアジアだろうと思います。アジアの例えばモンゴルとかですね、ミャンマーとかいろいろと福祉の遅れている地域がございます。そういう地域に対して日英が一緒になって、これまで私どもが培ってきた技術とか、資源を活用して、この福祉に関する支援をしていくということは、やはり地球人としての一つの使命ではないのかなというふうに思っております。 どうもご静聴ありがとうございました。

河村/どうもありがとうございました。それではですね、10 分間ほど時間がありますので、滅多に炭谷さんと直にお話しする機会はありません。今日は大変、非常に歴史的にも、横の社会的にも広がりのあるお話をいただきましたので、ぜひこの機会を活用して、「もうちょっとここが聞きたい」というご質問をまず受けたいと思います。ご遠慮なくどうぞ挙手をお願いいたします。どうぞ、最初に、お名前をおっしゃって、それからご発言ください。

会場/文京区から参りました石塚と申します。障害のある子どもの母親です。現在、文京区の方で教育改革区民会議というものが始まりまして、その区民会議の区民委員として選ばれた者です。現在、特別支援教育が始まりまして、私達の方でも、今回、ピーター・ミットラー博士、マンチェスター大学からうちの区の方で、インクルージョン教育についての講演会がありました。議員の方たちも出席して頂きまして、インクルージョン教育に関する関心は深まったのですが、区長の方と私も直接お話しまして、「インクルージョン」は政策であるっていうことお話しました。そういたしましたら区長の方も、政策や英国のサッチャー改革のことや、それからその後の改革につきましても非常に勉強していらして、「インクルージョン」をこれから進めていこうというように宣言をしてくれました。しかしながら、区の内部の方についてはなかなか理解を求められず、インクルージョンはソーシャルインクルージョンである。インクルージョンは政策であるということを申し上げると、インクルージョンは教育だということで、特別支援教育をやればインクルージョンなんだというように言われてしまいます。大きい事は私もよくわからないんですけれども、国のなかで、いろいろな話をされるときに、そのような部分はどのように皆さん話をされていて、どのように理解をされていて、どのように進んでいくか教えていただきたいと思います。

炭谷/どうもご質問、ありがとうございました。まず、「ソーシャルインクルージョン」という理念が、日本の政治や行政の中で浸透しているか、定着しているかということについては、私は非常に懐疑的な立場をとっています。あまり浸透していないなというふうに思います。ですから、今ご質問いただきました文京区の職員の方々の反応というのは、その通りだろうなというふうに、全く推察がつくわけですね。つまりなぜかと言えば、このソーシャルインクルージョンというのは、やはり新しい考え方なんですね。ですから、ごく行政の分野でもそのようなことを理解している人というのは、福祉の中でも、割合からすれば1%だと思うんですね。少ないが故に、私自身が常に言っていかなくちゃいけないのかなと。「ソーシャルインクルージョン」という言葉が、例えば厚生労働白書の中に一つでも載っているかと言えば、全部見たわけじゃありませんけれども、載ってはいないと思います。しかし、これからの社会福祉、社会政策の基本的な考え方というのは、やはり全てではないけれども、「ソーシャルインクルージョン」という考え方をしないと、障害者の問題、またはいろいろな高齢者の問題を含めて、解決できないんじゃないのかなというふうに思います。しかし、あまり悲観したようなことではなくてですね、ソーシャルインクルージョンについての日本における学問的な研究というのは大変進んでいて、最近、ここ2 ~ 3 年、たくさんの学者によって論文が出されたりしているだろうと思います。ただ、行政の分野では、私自身が声高に叫ばなければならないほど、あまり進んでいないということが実情だろうと。少なくとも、政府の役人の中で、「ソーシャル・インクルージョン」という言葉を使っているのは少ないというのが実情だろうと思います。これは残念ながらその通りだろうと思います。今日来てくれている、河さんという内閣府の審議官がいらっしゃいますが、彼もこういうことを発言してくれていると思いますけれども、ほとんど、実際の政府や国の中で残念ながら「ソーシャルインクルージョン」の理念を真に理解をし、発言を続けてくれている人というのはほんのごく僅かだろうというのが、残念ながら実情なんですね。しかし、いろいろな関係者の声がどんどん上がっていますから、必ず重要な、方向的には正しいことだろうと思いますので、浸透していくだろうと思います。事実、昔、障害者のリハビリテーションという言葉が、実はこれが定着するまで10-20 年、こんな当たり前ことが、「リハビリテーション」という言葉自身が定着するまで、何年かかったか。今日の目から見れば「ふーん」と思うようなことですけれども。

司会/ありがとうございました。それではもうひと方。どうぞ。

山田/埼玉県所沢市から来ました、山田と申します。先程の大使のお話の中に、2001 年に障害者法ができたと、ここから社会がずっと変わってきたと言われてきてますね。先程の、今の質問の方とも同じだと思うんですが、実際にいろいろなことをやっている、私達も地域の中で障害者問題をやっているわけですけれども、なかなか雇用にしても、それから本当に自立をしていくということの基本的なものが、なかなか実際には難しいですよね。そこでやはり、アメリカではADA 法ですか、やっぱりイギリスでは障害者法。日本で、基本的なところで、ここら辺はどうしたら一番いいのかっていうのを、先生のお考えをお聞かせいただければと思います。よろしくお願いします。

炭谷/ありがとうございます。結局ですね、特に私自身は、イギリスのことを勉強して福祉を学んできましたけれども、イギリスの障害者行政と日本の障害者行政の基本的な違いというのは何かなというふうに常に思っているんですけれども、それは何かと言えば、イギリスの場合はまず、二つあると思うんですね。一つは国民的な広がりですね。それが大変広いと思うんですね。ですから、いわば典型的なのはボランティア活動等が非常に盛んで、それに対して国民が参加をしているというところがまず違うだろうと。それでは日本の場合はまだまだ、だいぶんその点は、随分進歩したと思いますけれども、まだまだ国民的な広がりというものが薄いなというのが第一の印象だろうと思います。

 第2の違いというのは、英国の場合も先程公使がおっしゃいましたように、2001 年に法律ができたということですけれども、その前にもう何回も、何回も、実は一足飛びに今回にきたわけじゃなくて、何年かの歴史を経て、ようやくここまで来ているわけですね。イギリスというのはいわば改善主欽で、次から次にステップをとっていくと、そして経験主義に基づいて改善をしているんじゃないのかなというふうに思います。それに対して、日本という国はですね、やはり本来はなるほど一歩一歩前進はしているけれど、何か几帳面なところがあるのかなと思いますけれども、悪ければ、すぐ直して、改善していけばよろしいんですけれども、その改善の歩みがある意味では大変遅い。そしてある程度まとめてドンとやらないと、なかなか前に進まないというような、これはむしろ行政なり、政治のシステムではないのかなというふうな気がいたします。

 確かに、日本とイギリスなどを比べて、障害者の分野で、私がまだまだ足りないなと思うのは社会参加ですね。例えば職業にしろ、社会的な活動にしろ、その分野については制度的にみればある程度日本もいいところまで来ていると思うんですけれども、社会における活躍、または職場における活躍というのは、まだまだ理想的なものにはほど遠いという状況だろうというふうに思っています。

炭谷氏とハワード氏の写真

事務局注:レンプロイ公社

1944年に制定された障害者(雇用)法により設立された非営利公社。全国95のワークショップに7,000名の重い障害がある人が就労し、このほか2,400 名に外部の企業で援助付き雇用を実践している。(1997年)

炭谷茂氏による講演内容のレジメ

わが国の社会福祉施策と英国とのかかわり

―日英社会福祉交流史の個人的感想―

  1. 憧憬としてのイギリス(1940,50 年代)
    ●ベバリッジ報告
    ●福祉国家の建設
  2. 非対称形の施策の導入(1960,70 年代)
    ●高齢者福祉
    ●障害者福祉
  3. サッチャー改革の与えた衝撃(1980 年代)
    ●コミュニティ・ケア改革
    ●民間活力の活用
  4. 対称形の交流(1990 年代~)
    ●ソーシャル・インクルージョン
    ●福祉技術
  5. 今後の展望
    ●拡大する福祉領域
    ●グローバルな対応