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障害者放送協議会 放送・通信バリアフリーセミナー
障害者と放送・通信

第2部 
ファシリテーター報告

荒井 洋
全国精神障害者社会復帰施設協会事務局長

それでは第2 部を始めていきたいと思います。私のファシリテーターという役割は、この第2 部の話の方向付け、というふうに理解しております。あと通常の言い方ですと、まず聴衆の席を温める、意見を出やすい雰囲気にするというのが、その裏側にある意味かと思いますけれども、もうすでに十分に会場は温まっておりますので、その辺は少し大丈夫かなと思っております。

先程ご紹介頂きました、社会福祉法人全国精神障害者社会復帰施設協会事務局長の荒井と申します。私どもの団体は、精神障害者と言われている人達が、社会復帰に向けてのトレーニングをする社会福祉施設で、全国に1,800 ヶ所ほどございます。そのうちのおよそ1,000 ヶ所が会員であります。平成2 年の結成でありますので、まだ歴史的に非常に浅い団体であります。障害者放送協議会の方には私どもと、あと精神障害者を家族に抱える集まりの全国精神障害者家族会連合会(略称、全家連ぜんかれん)という団体が所属しておりまして、精神保健福祉の分野から色々な意見を述べさせて頂いております。

まず冒頭、高岡委員の方から、この放送協議会についての役割といいますか、議論の内容について若干説明があったと思いますけれども、著作権の問題とか、字幕の問題、それからこれから本格的に迎えるデジタル放送時代に向けて、より障害者の方に使いやすいシステムにしていこうということで、色々な意見・協議を行っているところであります。その中でいつも出てくるのが、障害者の描き方という課題があります。数年前でしたか、ある民間放送の方で知的障害者の方を主人公にした番組が放送されたかと思います。

ちょっと今、私、題名を忘れておりますけれども、その制作過程で脚本家と放送業者の方が、「知的障害者の方の描き方は、こんなんでいいのでしょうか?」という事前の何か協議があったような気がしております。放送事業者がそういう仕組みを求めているのならば、我々全国規模の障害者団体もその辺を拡大していって、いい方向にというふうに話題が少し盛り上がったと思うのですけれども、今、定期的にそういう話し合いの場はないのです。でもこれは非常に重要なテーマだと思います。これから演者の方から少しお話しがあるかと思いますが、もう一つ、テレビに限らず映画の場面でも、やはり障害のお持ちの方の姿というのを描かれております。

古くは「レインマン」とか、精神でいえば「カッコウの巣の上で」というのですか原題はちょっと分かりませんけれども、それから「フォレストガンプ」とか色々あるかと思います。けれどもクリエイターからすれば、そういう障害の方を通じて普遍的な人間のあり方とか、社会とか世界を描くのだということだと思うのですけれども、でもそこに描かれている障害者の姿を、障害をお持ちの方自身から見れば、やはりある一方の思い込みといいますか、やはりその辺を少しなかなか馴染めない部分もあるかと思います。

それから私自身も、やはり色々なテレビ放送の中で、障害者の方が頑張っているドキュメンタリーとか色々ありますが、24時間、25時間長いやつで、ある程度見て感動部分もありながら、やはりどうしても「画一的だな、一方的だな」という感じは拭い去れないのです。別にそれは良い、悪いという価値判断は加えません。やはりそこにおける制作者側から見た色々な思い込みというのが、ましてや映像というのは、これもうけ売りですが「テキストで入ってくる情報よりも、映像で見る方が7 倍・8倍の認識度がある」と言います。私も、時々夜眠れぬ時にNHKを見ますと、「アーカイブ」という昔の新日本紀行とか、昔のドキュメンタリーの古いのを流しています。そうすると30 年・40 年前の映像がながれると、「あ、この場面覚えている」というのがよくあるのです。内容については全然覚えていないのですけれども、例えば、秋田のマタギの方の最後の熊撃ちの場面とか、ああいうのを覚えています。ですから、かなりその映像がこう入り込む姿というのは、かなり情報的には凄いものがあります。凄いものの反面、やはり一方的な思い込みや、色々なもので流されますと、それを受け取った方というのは、かなりの部分が「そうなんだろうなぁ」と言います。ましてや時々、私の友人で障害者の介護をやっている者とお話しをする事がありますが、やっぱりこの事を少し話すと「あそこで色々流されているけど、障害もっている人は、もっと真剣に真面目な人ばっかりだよ」という声もある反面、「いや、あんなきれい事じゃないよ」という意見も聞くのです。

たまたま私は、そういう友人がいるから「ああそうなんだろうな、色んな側面、色んな見方があるんだな」という事は分かりますけれども、でもたまたまそういう知り合いとか、そういう付き合いの環境にあまりない人は「あれが障害のもった人の姿なんだ」と。そこに決して嘘はないかと思います。私この種の話をしますと、ちょっと出典が曖昧なのですが、フランスのジャーナリストだと思いますけども、「時には、事実は真実の敵と成りうる」という言葉が頭にうかびます。要するに事実は事実であります。それは素晴しい事実で歴然たる事実でなんですが、でもその事が真実の姿を100%表しているかというと、決してそうではないという警告の一種だと思います。私はやはり、こういうマスコミやメディアの色々な放送や、重大な事件のニュースを見る時に、なぜかこのワンフレーズを思い出すのです。

例えば精神保健の分野の話から言いますと、今から6 年前の話ですが、ある放送事業者が、地域で素晴らしい実践を行っている精神障害者グループ活動のルポルータージュを作りたいという事で、事前に色んな打合せがありました。結果的にはそれは企画が通らなかったのですが、やはりそれは制作サイドの思い込みがあったということです。こういう障害のお持ちの方でも一生懸命やっている、これを何とか放送番組にしたり、ドキュメンタリーにしたい。

でもやはり上の経営者サイドの方でOKが出ない、このケースで何故OKが出なかったかといいますと、今は大分状況が変わりましたが、やはり精神障害をお持ちの方を画面に出す事に対する人権への配慮といいますか、実際彼らはテレビが来るというので張切っていたわけなのです。でも映す側からすると「ご本人の顔を映していいのかな」と、やはりその当時まだ、いまだにあるかと思いますけれども、精神障害というものを放送するに対する、一つの何か不安感と言いますか、そんな事が一つあるかと思います。その時のディレクターと立ち話程度なのですけれど、やはりまだまだ放送業界の中には、人権問題に対する明確な方針といいますか、当たらず触らずといいますか、例えば、そのルポタージュを作るにもあたっての色々な放送禁止用語や、今でもあるかと思いますが、そういうものが何かあたかもある様な話を、その当時のディレクターはしていました。

でも私は、最近復刊になりました「放送禁止歌」というルポタージュを読んでみますと、皆さんもご存知かもわかりませんが「イムジン河」という歌があります。今、映画「パッチギ」の挿入歌で使われているのですが、私が若い頃は、あの歌は、朝鮮半島の政治状況を歌にしている、ということで放送禁止歌の代表だったのです。でもそのルポタージュを読んでみますと、誰が何処で放送禁止にしたのかというプロセスが明確になっていないのです。やはり流す方は流す方で、自主規制と言いますか、レコード会社があり、コンサートをやる会社、そこの所が明確なものが無いにもかかわらず、皆がなにか政治的なテーマなので自主規制で、いつの間にか放送禁止歌というジャンルに入ってしまったという、そのような、業界の方が持っていらっしゃる一つの心配といいますか、私も実際障害を持っていない人間ですから生意気な事言えません。けれども私からしてみると、やっぱり生身の姿を映して欲しいと思います。

映す側からにしてみれば、やはりその辺で人権の問題があり、用語の問題があり、色々な表現の問題があるという事で、そういうお互いが何かこう構えてしまって、なかなか交わる機会がありません。それで放送協議会の方でも、やはりそういう障害者をめぐるメディアの放送のあり方について、定期的にとは言わずとも時々話し合いを持ちましょうと。きっと放送事業者はそんな思いを持っているだろうと、我々も一つの思いがあります。その思いを定期的にといいますか、交じり合わせる場がなかなか少ないので、そういう場がもしあれば、もう少しスムーズにフランクな形で障害をお持ちの方の姿とか、色々な事業が放送に流れます。放送に流れるという事は、かなり認識度によって大きいわけですから、その様な事も放送協議会の役割の一つだろうという事は、我々の会議の中で少しずつ議題としては載ってはいます。

さて、本日な障害者を描くアメリカの実状といいますか、現状をお話し頂きます。私の知る範囲では、これだけの時間を取って、実状をいただくのは全く初めての機会だと思いますので、私自身非常に楽しみにしております。次いでNHKさんの方から、やはり放送事業者の立場から現場の方の声という事でじっくり聞く機会もなかなか少ないと思いますけれども、貴重なセミナーになるかと思います。非常に私自身も期待をしております。それでは私の方で一応方向付けというようになったかどうかわかりませんけれども、終わりたいと思います。