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障害者放送協議会 放送・通信バリアフリーセミナー
障害者と放送・通信

第2部 
講演5 放送番組制作の経験から

泉谷 八千代
NHK 編成局担当部長

NHKの泉谷と申します。宜しくお願い致します。私は今、NHKの編成局という所におりまして、総合テレビの編成を担当しているのですけれども、2年前までは現場のプロデューサーでした。何をやっていたかといいますと、NHKの範疇の中では福祉番組というジャンルになるわけですけれども、主に障害者・高齢者の方の生き方、支援というような、そういう目的の番組を頑張って作ってきました。そのつたいない私の経験をしゃべれというふうに岩井さんから言われまして、大変躊躇もしましたが、一度聞いて頂ければなと思っております。ですから、私が今日はお話しする事は極めて平場の、現場の実践をどうしてきたかというようなことでありますので、理念論というよりもどちらかといえば、一つ一つの実践論の例というふうにお聞きいただければと思います。

現在も放送しているのですけれども、私が1999 年に「きらっといきる」という、今現在も放送しておりまて、丸7年ですけれども、毎週土曜日の午後8時から8時半までやっております番組の、もともと開発をさせて頂きました。他にもラジオの「ともに生きる」でありますとか、この番組をベースに派生した特集のドキュメンタリーを何本か制作をしてきたというようなことであります。

実は今まで、皆様のご指摘があった様に放送事業者というのは得てして、当事者の方から言えば、とんでもない表現をしているという事は多々あります。それは甘んじて受けると、そのご批判を甘んじて受けなければならないということは多々あると思います。

例えば、どうしても障害者の方といえば無垢か、可哀そうか、社会的無能力か、みたいなそういう事で、いわば健常者が描く障害者観、障害者像というものを、そのままドラマのキャスティングに押し込んだり、それから長時間のチャリティー特番になってしまったりということがあったりとか、それから私どもの番組の中でも、得てしてやはりそういうような視点に立脚したようなドキュメンタリーが、でないでもないという事は十分、私どもの中でも常に反省の材料としてあります。私が携わってきたジャンルというのは、ドラマだとかそういうものではなくてドキュメンタリーが中心なものですから、これからお話しするのはドキュメンタリーの部分、分野で極言してお話しをさせていただこうと思います。

実は障害者の描き方というお題を頂いた視点の中で、2つあるのではないかなというふうに思っています。一つは何かと言うと、番組制作者にとってスタンスです。どういうスタンスかという事なのですが、一言で言えば我々は、高みから障害者の人を見ていないかという事なのです。よく言われていますけれども、ディレクター自身の固定観念、立脚した取材をしてしまう。そうしますと、その取材を通して出来たものというのは、その本人のイメージが映像化されただけであり、形になっただけであります。

その取材対象の方の本質的なところというのは、実際には全然出ていないというような、そういう悪いドキュメンタリーというのは、今も散見されているのは事実だと思います。この場合、結局障害者の方はただの被写体でしかないという事であります。

いくつか例を言えば、ある知的障害の男性なのですけれども、彼が詩を作っていました。試作は結構面白い作品だったのですけれども、結局描いているドキュメンタリーの視点というのは、それを支えるお母様、母親のところにずっと寄っていっていきまして、支えるお母さんとの関係という事になるわけです。いわば美談として描かれるわけです。でもこの知的障害者の男性は、いくつだったかというと二十歳を超えている。つまり何かというと「大の大人でしょうと、子供じゃないのですよ」と、でも描くのは小さい子供の作品作りをお母さんが支えているかのごとくのような、そういう作り方になっていきました。「違うでしょ」というような事で、その番組の実は制作の途中で相当方針変更をさせまして、番組を相当変えさせたというような事も私の経験の中であります。

それからよく言われる、先程も出ておりましたけれども、非常にステレオタイプの表現というものがいつも沢山あります。「誰々さんは事故で障害を負ってしまいました、障害があるにも関わらず、障害を乗り越えて頑張っています」、というようなステレオタイプの表現というものを、やはり本当に楽に書いちゃうのです。それは本当に楽なのです。そういう風に書くのが楽だから。でもそうじゃなくて、その人の現在の状態をどういうふうに表現するかというのは、常に我々の予見の中にないかという事を検証しながらやっていかなければならないというふうに考えております。そういうある種の、今申し上げたのが我々の姿勢の部分です。

それからもう一つは、当事者の方々に私どもの番組を受けいれていただくための演出をちゃんとやっているかどうか、というような事も非常に視点としてはあると思います。実は私がこの「きらっといきる」を始める前にも、NHKの場合は福祉番組というジャンルで延々と何十年も番組を作ってきてはいたのです。決してその取り組みを否定するわけではないのですけれども、決して当事者に見られている事を意識していない演出だったなというようなことがあります。

例えば、当事者主体という言葉がありますが、当事者主体の、例えば活動をなされなければなりません、というような事をスタジオの中で、健常者のアナウンサーと、健常者の研究者が頷き合って理解をしている。でも障害者はその場にはいないというようなことが多々あったと思います。その障害者はどうなっているかといいますと、リポートの中で一部分活動の紹介という事で、5分とか3分とかVTRの中で切り取られていくわけですけれども、要するにその程度だったのです。あと高齢者の方の番組も作りますが、高齢者の問題を扱っているにも関わらず、例えばテロップといいまして字が出ますが、これのフォントが小さいのです。「こんな小さい字誰が読むの?」、それも普通、読むまでにそれなりの時間が必要だと思うのです。例えば難しい言葉だったら、5秒とか6秒とかしっかり我慢をして、それでテロップはアウトしていくというような形にしなければならないのだけれども、絵に合わせてしまって、3秒半とかピって出してピって終わる、難しい言葉が出ている、おまけにフォントが小さい、これは高齢者の当事者の方が、どう見ているかということに全く理解を示していない、無視しています。

こんな演出が実は多々あったのです。こういう事をどういうふうに変えていくかという事を、私が担当した時に課題として突きつけられた訳です。それでその時に、私が一応立ち上げた番組として「きらっといきる」とう番組だったのですが、この番組では徹底した当事者主体というのを掲げました。

その当事者主体というのは、どういうふうに実際の実践の中で出来るかということなのですが、まず私どもの番組はスタジオトークの番組です。プラスリポートなのですけれども、要するに障害者の方が主人公になって、毎週やっている番組です。年間50本程度ありますが、毎回毎回、色々な障害を抱えた方が番組の中に主人公として登場して頂きまして、その人達の行き方を提示する、その人達が持っている情報を発信していく、それからその人達が持っている独特の世界・文化というものをどんどん表現して頂く、というようなことでスタート致しました。別に大そうな事をしたわけではなくて、とにかく色々な人に出て頂こうというふうに考えていました。その中には失語症の人にも出て頂きまして、当然スタジオ番組で失語症の人が出て下さるということは、少し考えれば「難しいんじゃないの?」と、ふっと思ってしまうと思うのですけれども、でも出て頂く。

それから、重度の知的障害のパン屋さんをやっているグループに出てもらった事があるのですけれども、重度の知的障害の人がスタジオへ来て「何を話すの?」と、ふっとやっぱり誰かが頭の中でよぎるかもしれません。でも出て頂く。介助者なし、でもちゃんとコミュニケーションできるのです。やったら出来るのです。

要するに、今まで私達の心の中でセーブしていたものを全部取り払おうというようなことから番組はスタートしたわけです。当然それをどうサポートして、スタジオという場の中でおもいっきり楽しんで自己表現をして頂いて、自分の言いたい事、したい事というのがその中で出来るかということに関しては、全く今までとは違う演出技術というものの開発を、手探りで始めなければならなかったということがあります。

手探りだったものですから色々と失敗もありまして、ある聴覚障害者の人の活動を紹介しようと。それは聴覚障害者の人達の劇団だったのです。その人達がカラオケをやると、振動でちゃんとノリがあって、それでカラオケやるのだっていうようなことをおっしゃったので、「それは面白いですね」という事で、担当者は取材に行きました。

ところが、全く生まれついての聴覚障害者の人というのは、音というものの概念が元々ないわけですから、カラオケに行くところをグループで取材するという事はとんでもないということで、その仲間同士の中で取っ組み合いの喧嘩になってしまったということがあります。担当者はそれで、めちゃくちゃ落ち込んで帰って来て、結局取材といいますかカメラは一秒も回さずに帰ってきたわけです。

ところがその担当者は、その劇団の一人の女性に恋をしました。恋をするというのは凄い力でありまして、どんどん手話の力が上達をしていきました。一時はその劇団に関しては、ほとんどコミュニケーション出来ないというか、精神的にコミュニケーションも出来ないというような状態まで追い込まれたのでございますけれども、手話の能力がどんどん上がっていきまして、おまけに「あいつにアタックをしているやつだ」とかということで、半ば仲間にして頂いたという事であります。結局そういう形で、その人達の懐に自分が入っていったということで、スタンスが結局、一取材者の立場から、本当は色々な所で切り分けていかなければならないのですけれども、その一取材者の立場から、きちっとその聴覚障害の人達の活動というものをより深く理解できるようになっていったという事で、受いれて頂いてスタジオ出演にこぎつけたということもあります。

更に先程申し上げました知的障害のパン屋さんのグループなのですけれども、やはり非常に重度の人達だったものですから、私達もそういう経験が始めてだったのです。その中の一人が、非常に担当者をすごく気に入ってくれて仲良くなったのですけれども、スタジオに来ると、やはり全然今まで全く知らない世界にポンと放り込まれるわけですから、凄く精神的に不安定になられるという事があります。どうしたかというと、普段ですと我々ディレクターというのは、スタジオ番組の場合には副調整室、サブといいますけど副調整室に上がって「キュー」と言っているわけですが、それをしないで、そのスタジオの所に終始降りて行って、その出演者の人達とアイコンタクトをしながら、つまり「僕はここにいるんだ、僕はここにいるから」というようなことでコミュニケーションとりながら、ずっとやっていたわけです。そうしますと非常に落ち着いて頂いて、番組の中でいい話をいただくことが出来たというようなことがあります。ですから、それは色々な形で取り組みをしていく中で、手探りで「こうしたらいいじゃないか?」「ああしたらいいんじゃないか?」、その方々のベストパフォーマンスを引き出す為にどうしたら良いかというようなことを考えていったというのがあります。これが、私達が言うところの要するに姿勢の一つなのです。

先程申し上げました2つ目の視点として、受け入れて頂く為の演出・表現に関しても、徹底した当事者主体というのが必要なのではないかということで、私のレベルでも色々やってみました。例えば、視覚障害の方が主人公の番組をずっと作るわけですけれども、番組を作る中で、当然最初に企画があって、それで企画を練り上げて実際に交渉をしてロケをします。その方々達にスタジオに来て頂きまして、スタジオのトークの収録をします。またその中で編集があるのですけれども、編集をします。最終的に音楽を付けて、テロップを付けて、それからこの番組は字幕放送ですので字幕の段取りをずっとしていくわけなのです。けれども最終試写のところで、最後この番組が出来上がった、これでもう世に出しても恥ずかしくないというようなところを再チェックするのが、最終試写と言いますが、この最終試写のところで、例えば視覚障害の人が主人公の最終試写では、私は目を閉じて「この」という表現がないかとか、「その」それから視覚障害の方がウチの番組を見た場合に「何これ、バリアフルな」と思われないような形で、とにかくずっと目を閉じて30 分聴き続けます。それで駄目だったらもう一度というような形にもしました。

聴覚障害者の方の場合には耳を閉じて最終試写をしました。スタジオの収録の時も、当然手話で語られる方も結構いらっしゃいますので、物凄く良いお話をされている時にも、我々テレビ事業者はというのは良いお話をされているとズームインしたくなるのです。凄くズームインしたくなるのですが「我慢しろ」と。でないと手話が見えないから、ズームインをすると顔だけになってしまって消えてしまいますので、それを「我慢する」「我慢しようよ」と、それは本当にカメラさんとの葛藤になるのですけれども「お願いだから、これは我慢してくれ」というようなことを、その場その場で色々な事を考えながら、そのズームインしたことによって、一度お叱りも受けたりもなんかしたものですから「我慢する」という事を覚えたのですけども、そういうようなことを色々と試行錯誤しながらやってきました。では、この番組を何の為に私達はそれをやってきたかと言いますと、一言で言いますと色々な活動、スーパーな活動じゃないのです。

よく言われる言葉で「障害者でも出来るのね」というような言い方というのをよくされます。でもその「障害者でも出来るのね」という言葉を、一週間に1回、年に50回「でも」と言わせていると、今もう7年続いていますので5×7=350回、休憩を入れて300回超ですけれども、「でも」って言うと人間飽きるでしょ。だから「でも」って言わせ続けると絶対飽きるからっていうことなのです。でも「言い飽きるまでやっちゃえばいい」と、つまり何かっていうと、今まで絶対に放送が無ければ、先程おっしゃっていたように閉じ込められている方とか、世の中の目からは晒されないような方々だって沢山いらっしゃるわけですから、その人達の本当に小さな活動だったり、それが凄く良い活動だったりすると、それはきちんと世の中に表出していく義務が私達にはあると思っているのです。その義務をきちっと放送事業者として果たしていく、それで「でも」というのを無理解な、いわば健常者に「100回言わせて飽きさせる」ということを、私の一つの方針としてやってきたということなのです。

成果があったかというふうに言われますと「まぁどうだかな」というところがありますが、番組の3年目に「きらっといきるスペシャル」というのをやりました。この時点でご出演者は300 人になっていました。あらゆる障害を楽しんでもらうために、どうすれば良いかということを考えた最初の取り組みだったのですが、これは何かと言いますと、NHK大阪放送局のホールがあるのですが、1,500人位入るのですけれども、そこに当事者として850人、介助者を入れますとほとんど満杯になりました。あらゆる障害の方に来ていただいて、楽しんで頂くイベントというものをやってみました。その際には手話通訳、パソコンの要訳筆記、状況放送、それから磁気ループ、そういうテクノロジーは勿論なのですけれども、バリアフルな会場ですので、その安全確保をするために、初めてサポート体制というものを本格的に組んでみたりというふうなこともやってみました。おかげ様で本当に日本全国から850 名も、非常に重い障害の方も来て下さって、その日はちょっと感激をしたわけなのですけれども、その時にやっぱりやって良かったなと思うのと、当事者の方にその時に言われたのが、「今まで私達はNHKの福祉番組なんか見なかった、だけどきらっといきるは見てもいい番組だな」というふうに言われたことが、これは3年間やってきて良かったなというのと、いつもだったら反応が中々見えない私達の仕事に、こういう形で集まって来て下さったということで、大変意を強くして「これからもやっていこうかな」という事で7年も続いているということであります。この放送現場に、これから私達どれだけ課題があるかといいますと、やはり放送現場には当事者の制作者が必要です。実際にラジオの番組ですけれども、「ともに生きる」という番組を私どもやっておりまして、この番組で車椅子の番組のMC兼ディレクターを初めて番組の中にお招きした事があります。

その時に、ある障害者のずっと運動をやってこられた車椅子の方に「これが実は夢だったんや」と言われた事があります。これは今から3・4年くらい前の事です。それから進んでいないという事が問題なのですが、ともかく最初の一歩を何とかしてこじ開けていくというのも、私達の仕事かなというふうに思っています。今後は、障害者の方達同士のコミュニケーションをどんどん相互理解をより深められるような場を、今後とも作っていきたいなというふうに思っておりますので、色々と私達の番組も手探りをしながら、これから先も色々とご注意を受けながら進化していかないといけないとは思います。まずはNHKの福祉番組だけじゃなくて色々な番組で結構です。ウォッチングをして頂き、駄目だなと思った指摘をして頂いて、何が大事かというと放送制作者は「気づき」が必要だと思っています。言われたらそうだと思うのですが、日常の番組制作の中で忘れてしまいますので、常にその「気づき」の機会を与えて頂くと私達も一つ一つ成長していくのではないかと思っております。本当に頑張りますのでご支援宜しくお願い致します。ありがとうございました。