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障害者対策に関する新長期計画推進国際セミナー報告書

基調報告2:ADA法施行後における米国障害者施策の進展について

ジュディ・ヒューマン (Judith E. Heumann, USA)

1歳6か月のときに脊髄性小児麻痺(ポリオ)になる。カリフォルニア大学バークレイ 校卒業後、バークレイ自立生活センター(CIL)の副所長を務める。その後、世界障 害研究所の主宰となり、現在はアメリカ合衆国教育省次官として、特殊教育とリハサー ビスを担当。

はじめに

 また日本に来ることができて、本当に嬉しく存じます。今回の来日で、たくさんの友 人にお会いすることができました。全世界の障害をもつ人の機会均等化のために活動し ている友人たち、そしてこのセミナーを開催してくださいました方々にお礼を申しあげ ます。

 スウェーデンのリンドクビストさんは、国連の「障害者の機会均等化に関する基準規 則」について、素晴らしいお仕事をなされていますし、今朝の講演も、大変わかりやす い、いいお話でした。また今日の午後には、八代さんがシンポジウムのコーディネーター をしてくださるとのことですので、それも楽しみにしております。デンマークの千葉さ ん、ビヤタさんのお話も楽しみにしております。スカンジナビア諸国は、アメリカから 見ても、本当に素晴らしいお仕事をされていると思います。

社会を変えるということ

 今日、こうしてそれぞれの立場から意見を交換することは、障害をもつ人たち、また 彼らを支援している人たちの夢を実現するうえで、役立つと思います。アメリカや、日 本や、世界中で、障害をもつ人たちに対する差別をなくし、本当に自由に、完全に社会 参加ができる、社会に貢献することができる国をつくるという夢の実現です。

 日本と同じように、アメリカにも独自の伝統がありまして、私たちはこれを誇りに思っ ています。偏見のない社会を作りあげること。そして、障害をもつ人が、偏見によって 潜在能力を活かせない社会ではなく、完全に活かせる社会にすること。それが私たちの 夢です。今日は、いろいろな話をしながら、そのための戦略を立てていきたいと思いま す。今日でも、障害をもたないあまりにも多くの人たちが、障害をもつ人の問題は慈善 の問題であると考えています。しかし私たちは、障害をもつ人の権利が、すべての人と 同じように守られる社会を作っていくことができるはずです。

 私は15年以上にわたって、日本の様子をずっと見てまいりました。皆様方は、素晴ら しい業績を上げてこられたと思います。世界中どこでもそうなのですが、時に私たちは、 変化はなかなか起らない、時間がかかるものだということに失望してしまいます。しか し、アメリカの市民権運動の素晴らしい指導者であるマーチン・ルーサー・キング牧師 は、「変化は、不可避の車に乗っては来ない。変化は、継続的な闘いから生まれる」と言っ ています。私たちは、このような継続的な闘いの結果を、私の国でも、皆さんの国でも 見てきました。しかし初めのうちは、なかなかその変化を目で見ることができませんで した。

アメリカ社会の変化(1960~70年代)

 それはまるで、チューニング中のヴァイオリンの1本の弦のように小さなものでした。 アメリカ全土の障害をもつ人たちが、小さなグループを組織し、自分たちの住む地域社 会を変えようとしたのです。最初は、本当に街の片隅に追いやられていました。ビルを 利用するのに、法律が必要なときもありました。1960年代の学生たちは、障害をもつ人 たちが高い教育を受けられるように、キャンパスで活動を始めました。このような活動 が始められてしばらく経つと、小さなグループ同士が手を合せて活動するようになりま した。それによって地域社会を変え、あるいは州を、国を、世界までも変えることがで きると学んだのです。そしてこれらの小さなグループは、オーケストラの1つのセクショ ンのようになりました。

 人々の活動により、国内のいくつかの州で、障害をもつ人に関する法律が策定されま した。例えばニューヨーク州では、すべての新しい建物は、障害をもつ人も同じように 利用できるようにしなければならない法律を作りました。マサチューセッツ州では、障 害をもつ子供たちが公立学校に入学し、無料で授業が受けられる法律を作りました。ペ ンシルバニア州のフィラデルフィアでは、以前は施設で社会から隔離されていた発達障 害や情緒障害をもつ人たちが、教育や職業の支援が得られ、施設を出て地域生活をする のに必要なサービスが得られる法律を作りました。

 そして1972年には、私どもの友人でありますエド・ロバーツをはじめ、多くの人々に よって、アメリカにおける最初の自立生活センターが設立されました。自立生活センター は、障害をもつ人たちと、その友人たちを大いに勇気づけることになりました。このよ うな組織によって、障害をもつ人が新しい発言権を持つことができたのです。

 さまざまな州で、さまざまなグループが活動を続けてきましたが、何年か後には、ちょ うどオーケストラのように、全体で力を合わせて活動するようになりました。障害をも つ人たちが、政府や議会、その他の組織と力を合わせて活動し、そしてついに、連邦政 府が新しい法律を策定することになったのです。この法律によって、障害をもつ人が、障 害をもたない人と同じような選択を、生涯を通じてできるようになりました。

私の子供時代

 アメリカは、私が子供のころに比べて、本当に進歩をしてきました。もちろん、私が 子供だったのはすいぶん前のことですが、私が子供のころには、障害をもつ人たちは、社 会の片隅に隠されていました。自分たちの将来には、大きな期待はできないと思ってい ました。

 私は、大変幸運でした。私の両親が、私に信頼を寄せていたからです。私は1歳半の ときにポリオになりました。5歳になり、学齢に達しましたが、地域の公立学校の校長 先生は、車椅子に乗っているからという理由で私の入学を拒否しました。

 私は仕方なく家に帰りました。その後1週間に2回、延べ2時間半の在宅教育を受け ることになりました。これは、1950年代のことです。ほかの子供たちが一日中勉強して いるのに、私はほんの少しの時間しか教育を受けることができませんでした。私にとっ ても、私の家族にとっても、この経験から受けたメッセージは明らかでした。つまり、私 たち障害をもつ子供たちの将来は、障害をもたない子供たちの将来よりも価値がない、と 言われたのと同じだったのです。

 9歳、4年生になりますと、私は学校に通うことができるようになりました。私の両 親のお陰です。しかし、障害をもたない子供と一緒のクラスではありません。公立学校 の地下室にあった特殊クラスに入ったのです。私たちは、二級市民のように扱われまし た。このときに受けたメッセージも明らかでした。つまり、障害をもつ子供たちは、何 かおかしいのであり、障害をもたない子供たちと平等ではなく、価値も異なる、という メッセージです。これでは将来の見通しは簡単についてしまいます。このような特殊ク ラスに入った子供たちの中で、上級の学校に進学する人はごくわずかだったのです。ほ とんどの人は高等教育を受けられず、良い仕事に就くこともできませんでした。

 しかしそんな中で、私は私のクラスで初めて高等学校に進むことができました。私の 両親が闘ってくれたお陰です。

大学進学と就職

 卒業後は、家に戻り、在宅で勉強を続けなければならないはずでした。しかし、私は 大学に行けることになりました。

 私は先生になりたいと思い、そのための勉強をしようと思いました。しかしある友人 によれば、先生になるための学費は、政府は支払ってくれないというのです。そこで私 は、スピーチセラピストになると嘘をつき、教育学を専攻することにしました。教育学 の勉強を続けながら、先生になりたいという秘密は人には語りませんでした。

 卒業後、私は教員の仕事に応募しました。しかしこのときも、5歳のとき学校で言わ れたのと同じことを言われたのです。「車椅子に乗っているあなたは、教師になることは できない」と。しかし、このときは、黙って家に帰ろうとは思いませんでした。私は、教 師になることが、自尊心を維持する上でも、経済的に自立する上でも、大切だと理解す るようになっていたのです。私は、私の家族、友人と共に闘う決心をしました。ニュー ヨーク市の教育委員会を訴えたのです。そして、大変幸運なことに、素晴らしい判事の 下で勝訴することができました。ニューヨークの公立学校で、私は初めての車椅子の教 師として、3年間教鞭を執りました。もう20年以上も前のことです。

 この当時は、まだアメリカには、私のような障害をもつ人に対する差別を防止する法 律はありませんでした。仕事を持ちたいのに持てないというような、差別を回避する法 律はなかったのです。その意味で、私は幸運でした。

現在の仕事

 今日では、私はクリントン大統領に任命され、政府の高官として仕事をしています。教 育省の、特殊教育およびリハビリテーションサービス担当の次官として、法律の実施を 監督したり、障害をもつ子供の教育や、障害をもつ成人の就労、その他に関するさまざ まな研究や事業を実施しております。およそ60億ドルの予算を受けています。

 私どものオフィスでは、全国4,900万人の障害をもつ国民を対象に、さまざまな事業を 実施しています。また子供や若者を含めた600万人の障害をもつ人々に、実際にサービス を提供しています。私が与えられた最初の任務は、さまざまな障害をもつ人たちの問題 やニーズが、各省庁の政策立案に必ず組み込まれるようにすることです。つまり、障害 をもつ人たちに対する配慮が、あらゆるレベルで払われるようにすることです。このよ うな変化が政府の中に持ち込まれたことは、完全参加と平等という夢を実現する上で、非 常に大きな一歩になりました。

アメリカ社会の変化(1970年代以降)

 しかし、まだまだ問題があります。地域社会においては、特に地域の中心的なメンバー の中には、障害をもつ人も、もたない人も同じであることを認めない人が大勢います。で は、前述したようなアメリカにおける変化は、どのようにして起きてきたのでしょうか。

 まず、障害をもつ人たちが民間レベルの組織を作りまして、皆さんと同じように政府 や議会と協力をします。それによって差別を禁止し、人権を守るような法律を作り、こ のような変化をもたらしたのです……。

リハビリテーション法504条

 1970年から90年代にかけて、私たちは差別を禁止する一連の法律を作ってきました。 1973年に、アメリカは「リハビリテーション法」を成立させました。その中に第504 条というのがあります。この504条は、連邦政府から補助金を受けている団体は、ど のような団体であっても、障害をもつ人を差別をしてはならないというものです。ここ でいう団体とは、例えば小学校、中学校、高校、大学、病院、州政府、地方自治体、運 輸関係の組織などを含みます。504条は、障害をもつ人は、政策の上でも、習慣・慣 習の上でも、雇用やサービス提供の上でも、平等に扱われなければならない、差別を受 けることがあってはならないと謳っています。

 504条は、民間企業や、映画館、レストラン、ショッピングセンターなどには適用 されませんでしたが、障害をもつ人も平等な社会の参加者であることを広く認識させる 上で役立ちました。また504条は、障害をもつ人が平等に扱われるように、連邦政府 こそが指導し、方向性を与えなければならないという認識を高めました。学校、大学、病 院などの代表者、また中央政府の代表者が、初めて障害をもつ人たちと直接会って、差 別をなくすためのプランを作りました。この法律により、障害をもつ人が、自分が差別 されていると感じたとき、政府に苦情を申し入れたり、法に訴えたりすることができる ようになったのです。

 さらに政府は、障害をもつ人に対する差別をなくすために、政府自らが介入しなけれ ばならないという認識を持つようになりました。私たちアメリカの障害をもつ人たちは、 政府、労働組合、企業、宗教団体、その他の代表者と手を合せるようになりました。で
きるかぎりさまざまな人たちを教育し、圧力をかけ、ときにはより良い明日をもたらす ために、今日、妥協しなければならないこともありました。アメリカの2大政党も、最 初から、私たち障害をもつ人の運動を支持してくれました。

 中には、教育することができない人、圧力をかけなければ動いてくれない人もいまし た。いまだに理解してくれない人もいます。しかし、私たちは、懸命に努力してきまし たし、これからも努力を続けていくつもりです。

障害者教育法(IDEA)

 20年前に、私たちはこのような形で政治的な技術を身に付けました。そして更なる運 動の結果、「障害者教育法(IDEA)」が成立しました。IDEAは、アメリカの歴史 の中で初めて、すべての障害をもつ子供が学校へ行く権利を認めました。同法は、障害 をもつ子供は、無料で、統合されたクラスの中で教育を受けられると謳っています。ま た普通のクラスに通うために必要な援助、例えば、手話通訳、職業訓練、言語訓練、機 能訓練、コンピュータのような技術、学校と家との交通手段などを、受ける権利がある としています。

 言いかえれば、IDEAという法律は、障害をもつ子供が無料で適切な公共の教育を 受けることができると認めたわけです。3歳から21歳の子供、青年たちは、障害をもっ ていても、最も制約の少ない教育環境で教育を受けることができなければなりません。つ まり、一般の教室で教育を受けることができるように、学校がその準備をしなければな らないのです。IDEAは、親と、教師と、行政を一体化しました。さまざまな問題が 起こったとき、私たちは共に努力し、闘いました。さもないと、法律の実施ができない こともあったのです。

 この法律は、非常に強力な法律です。親たちは、自分の障害をもつ子供が適切なサー ビスを受けていないと感じた場合には、学校区に対して苦情を申し立てることができま す。また州政府、あるいは連邦政府の私のオフィスに対して苦情を申し立てることもで きます。法に訴えることもできるようになりました。

 IDEAができる前は、親も、教師も、行政も、障害をもつ子供は学習することがで きないと考えていました。世話をしなければならないけれども、将来的な可能性は少な いと考えてきました。しかし今日では、障害をもつ子供たちも、もたない子供たちと同 じように学ぶことができるし、彼らにも教育を行わなければならないと考えるようにな りました。

ADAの成立

 1975年から90年にかけて、アメリカ全土の障害をもつ人々が、504条、あるいはI DEAを実施するために、運動を展開しました。また、法律をまず州レベルで成立させ、 これを拡げようとする努力も続けました。

 さらに、これとは別に、全国レベルの新しい法律が必要だという認識が生れました。そ れは、差別を禁止する法律です。障害をもつ人に対する民間部門における差別を禁止す る法律です。この結果成立したのが、1990年の「障害をもつアメリカ国民法(ADA)」 です。

 ADAは、アメリカでも最も重要な法律の1つです。内容そのものも重要ですが、障 害をもつ人が、このように闘って獲得した法律だということが重要なのです。私たちは さまざまな苦労をし、努力をして、議会に働きかけ、アメリカ国民を啓蒙しました。ア メリカの社会を説得しました。1人に対する差別は、万人に対する差別です。1人に対 して平等の機会を拒否するならば、アメリカという国家そのものが弱体化してしまうの です。

 ADAは、劇場、レストラン、ホテル、ショッピングセンター、民間交通機関、政府 関連企業など、504条の対象となっていないところも含めて、すべての企業・団体は、 障害をもつ人を差別してはならないと謳っています。つまり、障害をもつ人に対する差 別の防止こそが、このADAの狙いなのです。サービスの提供や雇用における差別は、も ちろん禁止されてます。また、新規にビルを建設する際には、障害をもつ人に対するア クセスを確保しなければなりません。

法律と社会の偏見

 もちろん、法律を作ったからといって、一般社会が障害をもつ人に対して常に持って いる偏見を、ただちになくすことはできません。こういった社会の偏見があるためにこ そ、障害をもつ人々は、物理的に隔離され、排除されてきたのです。この排除というこ とが、さらにまた、差別を呼ぶ原因ともなりました。障害をもたない人たちは、障害を もつ人たちと、個人的な付き合いをする機会がほとんどなかったからです。

 最近、「フォーカス・グループ」という討論会を、教育省の私のオフィスで予算を出し て開催いたしました。雇用者が、なぜ障害をもつ人を雇用しないのか把握することが目 的だったのですが、参加者には、「障害者と雇用」という討論のテーマは、あらかじめ知 らせておきませんでした。何も知らせずに招待状を出し、その場で質問することによっ て、偏見のない答えが得られるようにするためです。参加者の多くは、次のように答え ました。障害をもつ人の雇用を考えたくても、彼らと接触する機会がなかなかない。彼 らは仕事の能力が低いのではないかと推測してしまう。また、いったん雇用してしまう と、仮に障害をもつ職員の能力が著しく低かった場合にも、解雇することができないの ではないか。したがって雇用に躊躇してしまうというのです。

 しかし、今ではADAや504条があるお陰で、障害をもつ人の雇用が拒否された場 合、障害をもつ人は権利として訴訟を起こすことができます。これは、尊厳の問題とし て、権利として確保されています。過去の固定観念を打破することは困難です。しかし、 法律を徹底することによって、これを克服することができます。

 このADAによりまして、実は、前述の討論会に参加したある男性の娘さんが、いま、 ダウン症の障害をもつ女の子と同じ教室に、机を並べて勉強をしているのだそうです。こ の男性は、「娘は私と同じ偏見を持たずに育つだろう」と語っています。

 このように、障害をもつ人が平等な立場で教育を受けられるほかに、もう1つ、交通 のアクセスを良くするという効果もあります。より多くの人々が、街の中に実際に出て、 スロープなどを使って歩くことができます。劇場などのアクセスも改善され、統合は可 能になっています。昔は、例えば電車にも乗れない時代がありました。バスや飛行機に も乗れず、旅ができなかったために、障害をもたない人との付き合いがなかったことも
ありました。しかし現在ではそれが容易になり、お互いの接触の機会が増えたことによっ て、両者の間の偏見がなくなっています。しかし、変化には、時間がかかります。

市民権法としての位置付け

 障害をもつ人の平等を保証する法律は、アメリカでは市民権法として考えられていま す。ADAは、その他のマイノリティーのための法律をモデルとして作られました。女 性、黒人、スペイン系アメリカ人などと同じように、障害をもつ人に対する差別もなく すために、市民権法として確立したわけです。企業、州、地方政府、学校、大学のいず れもが、いまでは連邦法に従わなければなりません。その意味では、猶予を与えられて いないのです。

法律の効果的な運用

 厳しい法律であるならば、アメリカでは訴訟が多発しているとお考えになるかもしれ なません。アメリカ人は、訴訟好きな国民です。しかし実際は、そうではありません。A DAが施行されてから訴訟は750件しかありません。この法律の対象となるのが、4,900 万の障害をもつ人、600万の国内の施設、66万の政府・民間の雇用者、8万に上る政府・ 行政単位だと考えれば、訴訟は少ないと言えます。雇用に関する差別についても、訴訟 を起こさずに解決した事例が5万9,000件あります。

 なぜ、これほど実績がよく、したがって訴訟費用も押さえることができたのでしょう か。理由は2つあります。

 第1に、ADAは政府や企業に対し、障害をもつ人に対する設備が整わない場合に、代 替の手段を取ることを認めています。ADAは、企業が障害をもつ人を受け入れること、 受け入れ策を講じることを義務付けていますが、受け入れるための完全な設備が予算的 に整わない場合は、コストの低いもので代替することも認めているのです。例えばレス トランで、予算がなくて点字のメニューが用意できない場合には、録音されたメニュー を提供するという代替的な手段が認められています。

 第2に、政府は障害をもつ人、さらには雇用者、一般市民に対し、法律の中身や法律 をいかに実施するかについて、教育を徹底しています。クリントン政権は、この法律を アメリカ国民に説明するため、かなりの努力をしてきました。障害をもつ人、その家族、 さらには、政府、企業のトップに対するさまざまな事業も行われています。教育省の私 のオフィスでも、年間500万ドルの予算で、障害をもつ人と企業に関する技術支援セン ターを運営しています。また、やはり多額の予算を付けて、法律の実施に関する啓蒙を 行っているほか、障害をもつ人の親に対する事業も各50州で進行しています。これは学 校といかに効果的に協力するかという問題についてです。

法律の成果

 以前は、国内を旅行しても、私はレストラン、映画館、ショッピングセンターなどで トイレを使うことさえできませんでした。人間として、最も基本的な機能を果すことが できなかったわけです。私は怒りましたが、しかし、法律は私を守ってくれませんでし た。人間として平等な扱いを、あまり期待できなかったのです。

 しかし、いまではアメリカ中を旅行しても、利用できるトイレがないほうがまれです。 また、たとえトイレがなかったとしても、いまでは法律が私の味方をしてくれています。 トイレを用意してもらうよう正当に要求することができますし、それだけの変更が確実 になされると、期待できるわけです。これは、就労においてもそうです。障害をもつ人 が政府に依存するのではなく、納税者となることも可能です。障害をもつ人に対する権 利法であるADAは、このように効果を上げています。IDEAとADAは、より多く の障害をもつ人たちが教育を受け、仕事ができるよう機会を確保しているわけです。

自立生活センターについて

 現在、アメリカには200を超える自立生活センターが存在します。自立生活センター は、これまで大きな役割を果たしてきました。政府はADAを施行するために、これら の自立生活センターに4,000万ドルの予算を出しています。自立生活センターには、この ほかにもいろいろな資金が出ています。日本でも自立生活運動は活発に展開されている と伺っていますが、さらに可能性を模索して、拡大していただきたいと思います。自立 生活運動が力を持てば、日本でもアメリカと同じように、法制度が改正され、人々の態 度が変化していくことでしょう。

障害をもつ人自身の活動

 私が子供だったころは、障害をもつ人は慈善の対象と考えられており、その結果、他 人に依存するようになるのが常でした。いま、アメリカの国民は、ようやく理解し始め ています。障害をもつ人が、もたない人と同じように自由な選択ができないならば、社 会全体が損をするのです。私たちが社会に参加して、その知恵と想像力を提供しなけれ ば、社会全体が損をするです。完全参加と平等に向けて、大きな進展がありました。そ れでもまだ、アメリカが歩むべき道のりは長いと言わざるを得ません。

 現在、障害をもつ成人の3分の2が失業しています。失業、雇用不安というのは、な かなか克服できない問題です。アメリカにおける、障害をもつ人の権利のための運動は、 まだなすべき仕事が残っています。更なる努力が必要です。そのためには、自らに誇り と自信を持たなければなりません。これまでの実績にも誇りを持たなければなりません。 日本でも、世界のどこでもそれは同じです。私たち障害をもつ人は、学ぶことができま すし、学校に行く権利を持っています。バスや電車に乗って旅行する権利をもっていま す。障害をもたない人と同じ権利を持っているのだという自信と誇り、そして、差別的 な態度や慣習を許してはならないという気持を持たなければなりません。

 私は個人として、人間としての成長を試される問題に、いまも日々直面しています。社 会も私たちから多くを学ぶべきです。私たちは、多くの努力をしてきました。社会にも、 そこから学んでもらわなければならなりません。ヘレンケラーは、アメリカの作家、社 会活動家として有名ですが、目が見えず、耳が聞こえなかった彼女は、こんな言葉を残 しています。「私の闇は、知性の光で照らされている。日のあたる世界は、社会的な盲目 に喘いでいるのではないでしょうか。」障害をもつ人は、ヘレンケラーの探究した社会正 義をさらに追究することができるはずです。しかし、この誇り、自信を獲得するために は、自ら運動を展開しなければなりません。

 何世代にもわたって、アメリカでも、日本でも、また世界各国で、障害をもつ人は、当 然の権利を行使することができませんでした。政策の立案や施行に関与することも、政 策に関する議論に参加することもできませんでした。私たちにそんな能力はないだろう と世間は考えたのです。しかし、いまでは状況は変っています。国連やDPIなどの活 動も、状況が変っています。各国での努力も効果を上げています。国連の基準規則につ いて、リンドクビストさんが先ほどご講演されましたが、これもその証しの一つです。今 日、私たちが集っているこのセミナーも、世界が変わりつつある一つの現れではないで しょうか。今後も、国連やDPIの活動を励まし、支援していかなければなりません。障 害をもつ人が、必要な機会を得て、地域で生活し、仕事をする。このためには、障害を もたない人と共に生活する権利を獲得しなければなりません。

お互いから学び合うこと

 私たちは、世界を変える運動を展開しなければなりません。そのためには、お互いか ら学ぶべきです。アメリカは、日本から多くを学ぶべきです。例えば、アメリカの進歩 を阻んでいる一つの問題として、国民健康保険制度がないことが挙げられます。3,600万 人のアメリカ国民には、健康保険がかかっていません。貧しく、障害をもつ人に対して は、政府の保険がありますが、いったん仕事に就きますと、企業に厚生年金がない場合 や、障害をもっているために企業が保険をかけてくれない場合は、いっさいの保険や年 金の給付が止まってしまいます。したがって、仕事探しに消極的になってしまうのです。 それは、ある意味では当然と言わざるを得ません。アメリカでも健康保険制度の確立が 必要です。私たちは、いまこのための闘いを続けています。

 一方、日本もアメリカから学ぶことがあるかと思います。特に、障害をもつ人に関わ る権利は、市民権であって、個人の特権ではないのだというアメリカの立場は重要です。 これらの権利は、自治体の決定で付与するものではなく、権利として保証されるべきも のなのです。

 そのようなアメリカと日本の方法を、合せることが必要だと私は思います。一人一人、 全員が、その潜在能力を活かすことができる日まで、世界経済の繁栄は実現しないので はないでしょうか。

さいごに

 アメリカ政府の人間として、また、障害をもつ一人の人間として、以前は慈善の対象 であった障害をもつ人が、完全に参加する平等な社会を確立するまで、そういう世界を 作るという夢を実現するまで、全力をあげることを、この場で皆様にお約束したいと思 います。