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第22回総合リハビリテーション研究大会
「地域におけるリハビリテーションの実践」-総合リハビリテーションを問い直す-報告書

【対談】:社会福祉基礎構造改革とリハビリテーション

司会:共同作業所全国連絡会
藤井 克徳

対談者:武蔵野女子大学教授
三浦 文夫
日本障害者協議会代表
調 一興

 はじめに
○藤井 一昨年11月に忽然と社会福祉基礎構造改革が姿を現し、2年ほどたちました。この間さまざまな論議を呼び、意見もたくさん出されましたし、また憶測も呼んでいます。奇しくも今日から始まった第146回臨時国会には、この社会福祉基礎構造改革の一連の改正法案の上程は困難であるということが伝わってきました。来年の通常国会で審議され、おそらく通過するだろうと思われますが、今日のこの対談では、社会福祉基礎構造改革の全体像と概要を正確におさえ、わが国の障害者政策の到達状況、あわせて基礎構造改革を踏まえての今後の課題、あるいはリハビリテーション従事者の実践上の課題などを深めていければと思っています。
 本来、対談はお二人で話し合うわけですが、鼎談にはならないけれども対談プラスワンということで、私も多少なりとも加わらせていただきたいと思っています。
 さて、三浦さんは、民間を代表して社会福祉基礎構造改革分科会の委員をされました。調さんは民間のさまざまな団体、とくにJDを代表されています。まず冒頭に三浦さんから、今回の社会福祉基礎構造改革の概要と、議論の簡単な経過をご説明いただけるでしょうか。

 社会福祉構造改革の流れと障害者関係福祉

○三浦 今回の社会福祉基礎構造改革については、1997年に突然に出てきたというよりも、その10年くらい前から社会福祉の制度改革の議論は出ていました。現在の社会福祉の基本的な制度的枠組みや事業運営の原理原則は、昭和20年代半ばにつくられました。それが、これだけの時間を経過し、そのままでは通用しなくなるというのは明らかです。その意味で、1985年くらいから、社会福祉の制度全体の見直しを行わなければならないという議論が展開しはじめています。当時は福祉関係三審議会合同企画分科会というものができ、福祉全体についての見直しが議論され、その結果の一部が1990年の社会福祉8法の改正につながったわけです。
 そのような問題意識は一貫していました。今回の基礎構造改革についても、基本的には、戦後間もなく構築された制度を21世紀に向けて新しく組み直していかなければならないという問題意識で引き継いできているものだと思います。ただ、90年代に入って、社会福祉をめぐる状況は大きく変わってきました。80年代に論議された以上にこの時期の変化は非常に大きかったということが、今回の基礎構造改革にさらに拍車をかけることになった、ひとつの背景ではないかと思います。
 90年代の動きとして、たとえば介護保険が登場してきました。介護保険によって、医療分野だけでなく、社会福祉にも大きなインパクトを与えることはご存知のとおりです。あるいは97年には児童福祉法が改正されました。その2年ほど前から、とくに保育所をめぐって検討されてきたのですが、その結論を踏まえて児童福祉法等の改正が行われました。
 その他、例の岡光事件に象徴される、社会福祉法人等における不祥事件も起こりました。このことは単なる岡光個人の問題だけでなく、制度そのものにそのことを生み出す条件があったのではないかということを含めて、社会福祉の制度全体を見直さなければならないという議論の背景のひとつにもなりました。国全体の動きのなかでは、規制緩和と分権化の動きが進んできています。
 そのような背景を踏まえて、1998年、厚生省内部において「今後の社会福祉のあり方について」という主要な論点の整理を行っています。それを受けて、中央社会福祉審議会に社会福祉構造改革分科会が設けられ、社会福祉の基礎構造改革について論議されるようになった、という経緯かと思います。

 障害関係福祉法のかかわり

 しかし、障害者福祉関係でいうなら、別の道筋を考えておかなければならないでしょう。たとえば1995年に障害者基本法が制定され、精神障害者を障害者という範疇に組み込むということが行われました。1996年には厚生省は組織改変を行い、大臣官房のなかに障害保健福祉部をつくりました。身体障害者、知的障害者、精神障害者に対する諸対策を一括して行政として進めるような部ができたのです。
 そして同年10月から、それまで身体障害、知的障害、精神障害は審議会は別であったものが、施策を総合化する必要があるということから、障害者保健福祉関係三審議会の合同企画分科会が設置されました。そこでの大きな役割は、三分野に共通する事項の検討、さらに今後の障害者の施策のあり方を検討していくということです。たしか調さんもこの合同企画分科会の委員でしたか、そこで論議を重ねてきたなかで、1997年12月に「今後の障害者保健福祉施策のあり方について」という中間報告が出されています。
 ですから、この段階までは、社会福祉の基礎構造改革とは別途のかたちで進められてきましたが、基礎構造改革の議論が、同じく1997年12月から中央社会福祉審議会の分科会で開始されてきたということがあり、それ以降、基礎構造改革と障害者施策のあり方についてという観点からの論議を展開してきています。具体的には、1993年3月から合同企画分科会の主要なテーマとして、障害者福祉分野では基礎構造改革をどのように受け止めるのかということでの論議を重ねてきました。その間、障害者団体との協議を行ったり、国としても各方面との調整を図りながら、この議論を進めてきたわけです。
 そして1998年6月、中央社会福祉審議会の社会福祉基礎構造改革分科会から中間のまとめが出され、それまで議論されたおおよそのことが整理されました。さらに、この中間のまとめについて、中央社会福祉審議会でも関係者の意見を聴取しながら、全国的なシンポジウム等を行ったり、さまざまな意見を加味しながら議論を重ねてきています。
 一方、障害者関係では、この問題について精力的に合同企画分科会で検討するというかたちをとってきました。
 1998年12月、基礎構造改革について追加意見というかたちで報告をまとめていますが、これは中間のまとめに加えてさらに強調すべき点や、曖昧だった部分などに踏み込んだものです。
 この追加意見に基づき、厚生省内部において法案化するという作業を行ってきました。そして1999年8月10日、厚生大臣から基礎構造改革関連の法案、8法改正についての大綱が諮問されました。この諮問を受けて9月30日に答申を行い、基本的にこの方向でよろしいという了承の意見を出しています。
 障害者関係についても、この問題についての論議を行ってきました。とくに法律の問題になると、たとえば身体障害者福祉法や知的障害者福祉法等、法律が分かれていますから、それぞれの審議会等において、同じく諮問を受けて9月30日、趣旨については賛成であるという意見を付しています。

 民間からのアプローチ

○藤井 基礎構造改革の議論は、障害者分野の審議と並行して、中央社会福祉審議会の社会福祉構造改革分科会で議論が進んできた、ということでした。これに対して民間団体等からさまざまな意見、あるいは論議を呼びましたが、調さん、JDはどのように対処してきたのか、いかがでしょうか。
○調 私はいま、日本障害者協議会の代表という役割を仰せつかっています。その立場から、日本の障害者施策は現状はどうであり、そして何をしなければならないのかということを絶えず思い続けているなかで、この基礎構造改革をどうとらえ、どのように取り組むべきかというような対応をしてきたつもりです。
 1998年11月、基礎構造改革の主要な論点が出されましたが、そこにはかなり刺激的なことが書いてありました。私はこれについて社会援護局長と4回ヒアリングに出て意見を述べる機会がありました。また、基礎構造改革と障害者施策との連動という点では、大臣官房障害保健福祉部長と4回、議論してきました。その他、課長さんたちも半日くらい時間をかけてじっくり話し合う機会をつくってもらったりしました。

 措置制度の是非?

 当初私が感じたのは、これは大変大きなことが始まるということでした。しかし、社会福祉全体の構造改革といっても、現場で働いている者にはなかなかわからない。つまり、障害者福祉の分野や老人福祉の分野など、個々の分野についてはある程度わかるけれども、「日本の社会福祉構造全体を本格的に検討するということになると、とても……」という人は非常に多いのです。ということは、現場サイドで活動している人たちの意見を反映することにならないのではないかということを心配したりしました。私も、社会福祉事業法等いろいろな法律を改めて読み直したりして、主要な論点が出て3カ月後くらい、あるところへこれに対する考え方、問題点を発表するというかたちをとることができました。
 主要な論点で目につくのは、措置制度が槍玉にあがっているということです。私は、措置制度については、これをそのまま維持することにこだわる立場ではありませんでしたが、しかし、あまりにも「措置制度がすべての悪」という論じ方がされているというのが私の問題意識でした。

 「選択」と言うけれど

「対等性」「選択できない」「利用しにくい施設」「創意工夫をする誘引に欠ける」「事業者補助のため腐敗を起こす」など、悪いところばかりあげてありましたが、それでは、たとえば対等性ということについて、いったいどういう制度にすればそれが実現できるのかということについては、まったく触れていません。選択できないということについても、障害者が働く施設といえば、三分の一の市町村都道府県にしか設置されていません。制度的な不備から選択できる余地がまったくないなかで、「選択できない」云々とは言い過ぎではないか、選択できる条件をどうつくるかという政策の具体化が先に行われ強調されるべきではないか。それらの保障を前提にしたうえで、選択性や対等性など論じるべきであるという視点で、私はヒアリングでは問題提起をしてきました。

 家族介護から社会介護へ

 社会福祉基礎構造改革という場合、たとえば日本では少子高齢化が進み、家族の機能や構造が大きく変化しています。そういうなかで、民法の扶養義務は法律には書いてありますが、実態では空文化しています。ところが、障害者だけがそれの影響を受けます。もうそろそろ、家族によるケアから社会的ケアに切り替えていかなければなりません。障害者分野で稼得能力の低い人は、依然として入所施設に依存して暮らすか、家族に依存して暮らすか、という二つの選択肢しかありません。親から独立して地域で暮らすという条件はまったくない。この依存から脱却するという施策を講じてこそ、障害福祉分野の構造改革といえるのではないでしょうか。そういう施策を並行して講じて、障害者の側にきちんとした条件がつくられなければ、これは言葉だけに終わってしまうのではないか、ということを主張してきました。

 精神障害者の問題

 もうひとつ、精神障害者の問題があります。精神障害者の福祉施策は、量においても質においてもきわめて低い現状にあります。施設の運営費も知的障害の2分の1、身体障害の3分の2の単価です。しかも量的にきわめて数は少ないのです。
 それに対して社会援護局長は、現状の精神障害者の施設補助単価が低いのは納得できないとおっしゃるのですが、しかし、基礎構造改革で最後にまとめられたもののなかに精神障害者の問題が入っているでしょうか。身体障害者と知的障害者のことは書くけれど、精神障害者の問題は枠外であるという扱いには問題があります。これは、扱いに問題があるのか、行政がひとつの部にまとまるといいながらも、保健、医療、福祉を一本にした法律なのだから、そういうことは事実上できないということなのか。しっかり見つめなおさなければならないのではないかと思いました。
○藤井 本質的な問題に入る前に、今日の参加者はリハビリテーション従事者も多く、しかもテーマが「社会福祉基礎構造改革とリハビリテーション」です。三浦さん、今回の基礎構造改革はリハビリテーションという観点からみればどのようなことがいえるのか、かいつまんでお話しいただけますか。

 制度の改革と理念の転換

○三浦 基礎構造改革の文章のなかには、改革の必要性、改革の理念や社会福祉の目的が書かれています。これらについては、長い間社会福祉関係者が苦労して培ってきたことを、ある意味で集約しています。私たちはこの理念と目的を十分かみしめてみる必要がありはしないかと思います。
 つまり、今後の20年、30年を考えていく場合、制度自身は動いていきますが、基本的な考え方については合意を得る必要はありはしないか、ということです。今回の基礎構造改革は、制度の改革と受け止められがちですが、私は、基本的な理念について大きく転換を迫ってきているのではないか、その確認をしているのではないかと思うわけです。したがって、リハビリテーションの概念についても、そのレベルで議論しなければならないと思っています。
 ごく簡単に、今回の改革の理念なり、社会福祉の目的をあげてみますと、大きくは4点あります。
 ひとつは、成熟社会における生活についての自己責任原則を強く打ち出しています。生活を自分の責任で行っていくというのは、ある意味では当たり前です。ただし、それができない場合、社会福祉の支援が必要になってきます。
 その次に、従来の社会福祉と異なって、すべての国民が自己責任で自立を達成できない場合、それを社会全体の精神にのっとって支援をする、ということが出てきてます。ここで注意していただきたいのは「すべての国民」という部分です。従来の特定のグループに対する対策から広げて全国民を対象としているということを、私たちは十分にとらえておく必要があるかと思います。障害者の問題についても、障害をもつがゆえに特別なニードが出てきますが、それについては障害の有無に関わりなく支援するという思想がここに入っています。
 もうひとつ、この考え方のなかには、今まで障害者自身の自立ということがいわれてきましたが、しかし、障害者のなかには自己責任で生活している人もずいぶんいます。その人にとって必要なことは、たとえば社会的ニードが出てきた場合それを充足することです。今までは、ニードをもつ人の自立を丸抱えで援助しようという発想がありましたが、そこを社会福祉のニードに着目し、それを解決することによって、あとは自己責任で、という考え方があるといわれています。

 個人の尊厳・ノーマライゼーション

 第2点目に、「個人は人としての尊厳をもって、家庭や地域のなかで障害の有無や年齢に関わりなく、その人らしい安心ある生活が送れるような自立を支援する」ということが出てきますが、そこにはいくつか重要な議論があります。ひとつは「個人が人としての尊厳をもって」というところです。ここで人間の尊厳論をもう一度確認してきたということは、十分考えなければならないことではないかと思います。人間の尊厳の根拠になっているのは命の問題だと思います。障害者であれ、誰であれ、それぞれ生き、育っていくという可能性をもっている。たぶん、リハビリテーションの基本的な精神もそこにあるのだろうと思います。そのへんを謳い上げているということがひとつあります。もうひとつ基本的人権の内容をなしているのは自由です。自由ということについては、国家ではなく神が与えたものです。さらに、すべての人間は生まれながらにして平等であること、一人ひとりがかけがえのない人間であるということ、そういう発想が「個人が人としての尊厳を」ということに含まれる内容ではないかと思います。おそらくリハビリテーションの議論もそこから出発しているのではないでしょうか。
 さらに一歩進めて、「家庭や地域のなかでその人らしい自立を」、また「障害の有無や年齢に関わりなく」ということを謳っています。これも、長年障害福祉関係の人たちが努力されてきた、そしてそれが一般化されてきたノーマライゼーションの議論を組み込んでいるのではないかと私には思われます。家庭や地域のなかで自立してということは、当たり前の生活です。いかなる障害をもとうと、どういう年齢であろうと、それを達成していこうというところに、ノーマライゼーションの発想が出てきていると私は受け止めています。
 さらに重要なことは「その人らしい自立」ということです。たとえば障害者のいろいろな運動や動きを見ていますと、87年に身体障害者福祉法の見直しを行っていますが、そのとき、自立ということを、職業的自立や経済的な自立だけを意味するものなら大変狭いものであるという批判を加えています。それぞれの人たちの生活力をどうするのかということであり、その頃出てきたアメリカのIL運動でいえば、自己決定すること自身、自立につながる重要な要素であるということが謳われています。全面的な介助を受ける身であっても、なおかつ自分自身の意思の自由が確立される場合、それは自立につながるというように自立の概念が広がってきたのは、長い間の障害者運動やリハビリテーションの成果のではないかと思っています。
つまり、今回の基礎構造改革のなかでは、リハビリテーションという言葉自体は出てきませんが、しかし、リハビリテーションの今までの考え方、あるいは到達点といえるかどうかわかりませんが、そういうものを含んでいると受け止めていいのではないかと思います。

 利用者本位へ

 ただ、私が審議会のなかでも繰り返し申し上げたのは、自立という概念と同時にもうひとつ、社会的な参加ということも大事な目標になるということです。残念ながらそのことが曖昧になって抜けているのです。この点が明確に出なかったことは、障害福祉関係のなかで、今回の基礎構造改革はいったい何なのかということを、改めて問わなければならないひとつの理論的な根拠は、そこにありはしないかと思っています。
 加えて申し上げるなら、このような基礎構造改革の理念のもとに社会福祉を支えるためには、国民全体の支え合い、さらには国と地方公共団体の責任ということが謳われていると受け止めてよろしいかと思います。
 この理念は、すぐに実現できるものではありません。だからこそ「理念」なのです。理念、目的を具体的に実現するために、いろいろな制度等見直していかなければなりません。そのなかの重要な柱のひとつが、利用者本位の社会福祉制度への組み替えであったり、サービスの質の向上であったり、社会福祉の新しい推進、地域福祉だったりする、ということではないかと思います。

 構造改革、拙速を憂慮

○藤井 言葉として具体的には出てこないが、理念のなかに読み取ることができるだろうというお話でしたが、この理論のもとで、さらに障害者の地域生活の改善が進んでいくのかどうか、調さん、いかがでしょうか。
○調 リハビリテーションの理念と基礎構造改革は、三浦さんがおっしゃったようなことだと私も思います。社会生活を送っていくにはさまざまな困難があります。その過程にリハビリテーションの専門家が関わり、解決していくという役割があります。それは、福祉のどういう分野についても、言葉として「リハビリテーション」を使わなくても、リハビリテーション分野に働いている人たちの役割は必ずあると考えています。
 いま三浦さんは、理念はなかなか実現できない、だからこそ「理念」なのだといわれました。障害者の権利宣言が出されたのは1975年ですが、それ以前の1970年にわが国では障害者対策基本法が制定されています。そのなかにもすでに「すべての障害者は個人としての尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有する」と書かれています。改正された障害者基本法では、これにさらに「社会的・文化的、あらゆる活動に参加する場が与えられるものとする」というふうに広げています。政府でもノーマライゼーション、完全参加と平等、バリアフリー、リハビリテーション、QOLなどはキーワードであると示されています。
 今回の構造改革の議論より先に、障害関係の三審議会の合同企画分科会が開かれており、障害者プランをより具体化するという作業に入っていました。障害の種別を越えて基本的な問題について整理し、具体的に施策化していこうということでしたが、これがある時期、基礎構造改革の議論の様子を見なければ進められないということで中断して、議論が深められないままになっています。
 そういう全体の動きのなかで、社会的なシステムとして障害者が地域で暮らせるという方向に向けて、せめて道筋をつけてほしいと思ったのですが、それが、三浦さんの言葉を借りれば、「理念は理念であって、実現するには時間がかかる」ということでは困ると思うのです。その意味では、今回の基礎構造改革では大事な問題がほとんどすべて先送りされたということから、私は反対はしないが、賛成もしないという立場です。

 理念の実現性

○三浦 おっしゃるように、基礎構造改革が始まるときには、すでに障害関係の中間のまとめは出ています。そこでの基本的な理念は、障害者の自立と社会経済活動への参画、主体性・選択性の確立、地域での支え合いです。本来ならこれらを基礎構造改革のなかに全面的に取り入れなければならなかったかと思いますが、社会経済活動への参画については必ずしもはっきりしていないという点では、私個人としては問題があるかと思っています。
 ただ、これは基礎構造改革では触れないということではありません。地域福祉の推進という重要な課題のなかに、自立と社会参加という議論を組み込んできていますから、否定しているわけではないのだろうと思います。
 それから、理念は実現できないということではなく、理念とは常にそこに戻って考えるべきこと、ということなのです。施策をつくったり、運用したりする場合立ち戻るべきところと考える必要はありはしないか、と思っています。
 ついでに発言させていただければ、一人ひとり平等であるということは、まさにそのとおりです。ただ、これを人権というかたちで汲み取る場合、たとえば、人間は生まれながらにして平等であるということは、17世紀くらいからその思想が芽吹き、18世紀をかけて確立されてきました。続いて、市民的権利というかたちの民主主義の問題に入ってきて、1920年代になると、社会権というものが人権として定着してきます。それに加えていま改めて、ノーマライゼーションを含めて社会への参加という議論が出てきています。これは私は新しい人権だと思います。だからこそ、障害者の人権といわれたのだと思います。
 そのときの人間観は、個人は生まれながらに平等という意味での自然保護的な平等ということは当然ですが、それと同時に、障害者も含めてそれぞれが社会を構成する有力な一員なのだという認識のうえにたって、あらゆる機会に参画をということが出てきていると思います。ですから、リハビリテーションの考え方のなかには、「社会的な存在としての障害者」という受け止め方が根底にあるのではないでしょうか。そういう意味で、いまや障害者の社会参画の議論は、人権というかたちで組み込んでいいのではないかと思っています。
そして、それらのものをどう実現するか。基本的人権がいろいろな行動の基本になるように、いま申し上げたことを含めて、絶えずそれを問題にしなければなりません。その具体的な方法として、利用者本位のサービスの形態をどうするか、あるいはサービスの質だとか、地域福祉というような議論として展開していくわけです。ここのところで、いま申し上げた理念がどのようなかたちで具体化するのかということを追求しなければならないのではないかと思っています。

 競争原理・市場原理

○藤井 今回の基礎構造改革のなかでは、競争原理、市場原理という言葉が、とくに中間のまとめでは出ていました。障害分野に競争原理、市場原理という言葉は似つかわしくないのではないかという議論もありますが。
○三浦 私も同じように考えています。ただ、その場合に、市場原理と競争原理をイコールにしてはいけないのではないかと思うのです。需給を科学メカニズムで調整するのが市場原理です。それを進めていくときに出てくるのが、多様な供給主体間の競争です。
 競争イコール市場原理ということになっているようですが、私は、市場原理においてだけでなく、競争は十分ありうると思います。つまり、複数の供給主体があれば競争が生まれます。それは、利潤追求でなくても起こりうるのではないかと思っています。
 今回の基礎構造改革の論議のなかで、競争原理の重要性と市場原理が混乱しているのではないかという気がしないでもありません。主要な論点では、市場原理ということがかなり出ていましたが、そこでいうのは競争原理のことだったと思うのです。基礎構造改革の場合には、市場原理ということについては薄められ、どちらかというと競争という原理が出てきています。
 具体的な問題になりますと、措置制度をなくした場合それをどうするのか、競争原理ということが問題になってきますから、こういうものはもっと高めなければならないという点については、私は異論はありません。ただ、市場原理ということになると、簡単にいえば、民間事業者が営利事業者を含めて社会福祉分野に参入してきます。社会福祉自身が、本当に競争原理だけで処理できるかどうか。競争原理を中心とするかたちで社会福祉というものを考えるということについては、大きな躊躇いを感じざるをえません。競争原理が導入されるにしても、社会福祉のなかでそれが有効に機能するためには、条件等きちんとしなければ、市場原理はそう簡単に入ってこないだろうと思っています。

 営利の介護事業と措置制度

 私自身は、市場原理という言葉については否定はしませんが、そのとき入るにはルールがあります。そのルールをつくったうえで、多様な民間事業者の参入ということを考えたほうがいいのではないかと思っています。
 たとえば障害者分野で、株式会社のような利潤の極大化を図るようなかたちでの市場原理はおそらく働かないでしょう。障害者分野でいろいろな事業を行っていく場合、利益が出ること自身、決して間違いではありませんが、それがさらに事業を拡大する方向に進むということになると、むしろ非営利団体に近いのだろうと思います。その意味で、障害者分野の場合などは、全体的にいえば手放しの市場原理というものは浸透しにくいのではないか。そのための条件整備が必要であろう、というふうに受け止めています。
○調 障害者分野では、東京都には脳性マヒ者等介護人派遣手当があり、すでに業者が介護事業に積極的に参入しています。この例からみて、在宅サービスのある部分には業者が入ってくる可能性があります。
 ただ、そこで効率だけを追求されるとするなら、非常に問題です。企業は社会福祉を目的としているわけではないので、そこについてはなんらかの制約がなければ、おかしくなるでしょう。
 施設の経営については、民間事業者が参入してきても、営利ということは考えられませんから、ないだろうと思います。全体として少ないお金で、いろいろな工夫をして効率を高めていくということについては、私たちも努力していかなければならないだろうと思います。
○藤井 主要な論点が発表された時期は、国では財政改革という大きな旗頭がありました。全体に緊縮財政で、公的責任が薄まってくるのではないかということがいわれ、「措置制度から契約へ」ということでも、その本質は費用負担が地方自治体や本人に負わされ、国の責任が曖昧になってくるのではないかという意見もありますが、三浦さん、いかがでしょうか。
○三浦 むしろ、従来の公的責任論は硬直していたのではないでしょうか。従来の社会福祉を構築する場合の公的責任論は、いわば憲法でいえば25条論で進めてきたわけです。今回の基礎構造改革での議論では、25条を否定したのではなく、13条(個人の尊重と幸福追求の権利)をも踏まえて、その両者を結びつけたかたちで今回の問題が出てきているのではないかと私は理解しています。さらに、しいていえば14条(法の下での平等)を踏まえたうえで、もっと総括的なかたちで公的責任を考えなければならないのではないかと思うわけです。

 公的責任・措置制度から選択へ

 具体的にいえば措置制度がそうですが、公的責任において生存権を保障するということは当然です。そして、その場合に出てくるサービスその他についての選択は個人に委ねるというかたちですから、その分については私は大きく後退しているとは思いません。従来は、公的責任を狭く理解しすぎていた、それをもっと広げたものだと思います。
 逆にいえば、公的な責任はもう少し別なかたちで広がってくるだろうと思っています。たとえば措置制度は、一括して行政処分だといいますが、内容的に分析してみれば、ニードの把握は誰がどう行うのか、行政の権限で行うのかという議論があります。そのニードに対して、必要なサービスの情報を誰がどう与えるか。さらに、具体的なサービスの調整・斡旋を誰が行うのか、自分で選択するのかどうか。そのときの費用は誰が、どのようにもつのか。そのように、いくつかのレベルで措置論を議論しなければなりません。
 たとえばニードの判定について、行政が専門性をもたないかたちでの判定でよかったのか、どうか。専門家が加わるというかたちがあっていいのではないか。また、情報の提供についても、行政が行わなければならないと同時に、サービス提供者自身も情報を提供していかなければならないのではないか。サービスの利用についても、行政がすべて丸抱えでパターン化して提供するというのではなく、選択の余地をどこにみていくのか。サービスを提供する事業や施設に対して、公費その他はどのように関わってくるのか。
 このようにいくつかのレベルの議論があるにもかかわらず、「措置制度をなくして契約へ」という乱暴な議論が出てきているのではないでしょうか。措置制度から契約へと移行していくためには、いくつかの条件をクリアするなかで、いくつかの対応の仕方があるのだろうと思っています。

 公から民へ、事態は好転するか?

 今回の基礎構造改革で身体障害者福祉法において利用料の助成方式が出ますが、そういう流れのなかでとらえていくのなら、「措置制度から契約へ」というひとつのプロセスと考えていいのでしょうが、利用料については従来通り考えていこうという発想が出ているのだろうと思います。
 その意味で、公的責任論も、何もかも丸抱えでやるというのではなく、公的にもいろいろなかたちにブレークダウンし、どの部分については公的責任で負うべきなのかということについて整理していかなければならないのではないかと思います。  そういうなかで、公的責任が後退したとはいちがいにいえないのではないか、むしろ公的責任論がもっと広い分野に展開してくる、というふうに私は受け止めています。
○調 厚生省の文章によると措置制度は、対象者にサービスを請求する権利がない、また対象者がサービスの実施主体を選択できない、というふうに書かれています。しかし、かつて私たちは、措置制度については、「施設入所や在宅サービスを受けることが適当であると判断できる人については、本人の意思に反しない限り、措置しなければならない」というような説明を受けた覚えがあります。ですから、「対象者にサービスを請求する権利がない」「サービスの実施主体を選択できない」と説明していることに関しては不思議に感じます。本来措置制度というものは、私たちがかつて説明を受けたようなものとして動いてきたのではないかと思うのです。
 なにか措置制度をすべて「悪人」にして、それを軸にして構造改革を進めるというかたちになっています。精神障害者については措置制度はない、利用制度であるということがあるのでしょうか、基礎構造改革の全体像のなかに精神障害者の問題を入れていないということなども、ここにポイントがあろうかと思います。そういう意味では、公的責任は一歩後退した、民にかなりの責任が移ったと理解しておくことが正しいと私は思います。
○三浦 措置制度については行政処分行為であり、だから改めなければならないという説明になっていますが、実際の措置となってくると、いまおっしゃったように、本人の意思を十分に参酌するということは、運用上は当然のことです。

 選択の条件整備を

 じつは、1990年の8法改正に至る、合同企画分科会の最後の総会の席上で措置制度の議論が出て、えらくもめた問題です。そのとき出されたのは、「その方向性はわかるが、いまは無理だろう」ということです。それは、選択できるほどサービスがないということもあるし、国民自身にも選択できる能力があるか、また情報の問題もあったと思います。ですから、当面は措置制度を維持しなければならないが、その間できる限り本人の意向を反映できるような運用を図るべき、とされました。
 おっしゃるように、措置制度において本人の意向を十分参酌するということなのですが、1990年の議論からこの間、今回出そうとしているのは、本人の意向を十分参酌して、そして最終的にはどうするかということです。たとえば本人の希望だけで参酌できえない場合どうするか。サービスが足らなくて選択できない場合どうするか、というような極限の議論になってきますと、どうしても行政責任で行うというのが措置制度として残してきた部分だと思います。
 私は、今回の基礎構造改革で措置制度がすべてなくなったとは思っていません。障害者福祉の利用料負担方式など見ていきますと、行政が直接関わってきているということについてはあまり変わりがありませんし、さらに情報提供の義務が市町村に与えられています。場合によってはサービスの調整まで行わなければなりません。
 そういう点からすれば、措置制度から大きくそれたとはいえませんが、方向としては、行政がすべて処理をするのではなく、本人自身の自己責任において決定できる方式に組み替えていこうというのが、今回の流れだと思います。
 したがって、今回の基礎構造改革で措置制度が大きくクローズアップされていますが、方向性として、その方向について確認することと、現実にそれをどのようなかたちで展開していくかというなかで、具体的なかたちが追求されるべきではないかと思っています。
○調 措置制度は完全に廃止されませんでした。緊急の場合等例外的にではありますが、制度は残されています。
○三浦 もちろんそうです。たとえば旧教護院のような、性格上措置しなければならないものは残されています。
○藤井 そこで、理念はわかったけれども、実態が好転するのかということです。たとえば精神障害者の社会的入院が減らない、全国で障害者の法定施設が設置されている市町村は4割ほどしかない。こういった実態が変わらないのであれば、その理念は、理念ではなく妄想、空想ではないかという意見もあります。
○三浦 たとえば、利用者本人が自己決定するということについては反対する人はあまりいないと思います。知的障害者は自己判断力がない、無理だという意見もありますが、しかし、自己判断力がなければそれを行政が肩代わりするのではなく、その人をいちばんよく知っている人たちが十分代弁できるような仕組みをつくっておかなければならないわけです。
 日本では、本人が判断できなければ行政がすべて肩代わりするというかたちですが、しかし、行政にそれほど専門性があるのかという点については問題があります。そういった条件をつくっていくということを考えていかなければ、措置制度をなくし本人の選択に任せるというのには、なかなか時間がかかるのではないかと思います。
 ですから、私には、そう慌てないで進めるべきだ、という思いがあるのです。理念が変わったからすぐ実態も変わっていくというのではなく、方向が出たのですから、その方向に向かって実現していくために一つひとつ詰めていかなければならない。たとえば調さんがいわれたように、選択できるだけのサービス量の整備ということを、この機会にさまざまなかたちで訴えていかなければならないのではないでしょうか。さらにまた、利用者がサービスを選択することを支援する仕組みをどうつくっていくのかなど、一つひとつ積み上げていかなければならないと思っています。

 地域で共に暮らすために

○藤井 最後になりますが、今日的に残っている基本政策、およびリハビリテーション従事者としての今後の課題というようなことについて、調さん、いかがでしょうか。
○調 どんなに障害が重くても、地域のなかで他の市民と同じような生活を送ることができる、その条件をどうつくるかということが障害者問題の基本的テーマです。そのためには、所得保障がひとつ大きな問題になります。日本では、障害者は家族に依存しているという現状があり、家族会や育成会も、自分の子どもに対して所得保障をしてほしいということをいいきれない、「親亡きあとは頼みます」というレベルの運動です。障害者プランでも無年金者については触れられてはいますが、これさえ手がつけられていません。いったい年金で保障できるのか。また考え方として、今の手帳制度、すなわち障害認定制度を改めて、一人ひとりの障害者に何が必要かという視点に立ってサービス内容を決めていく方法にすることが望ましいと思います。稼得能力の低い人にしぼって生活できる所得保障をしていくということも、詰めていかなければならないと思います。要するに、地域でどう生きていけるのか。施設のなかで暮らせても、なぜ地域では暮らせないのかということは、絶えず問いつづけていかなければならないと思います。
 そういうなかで、今回の基礎構造改革で評価できる部分は、たとえば通所授産は定員を20名から10名にするなどの点で、これははっきり書いてあります。これは明らかに、地域で就労する場が足りないために非常な勢いで増えている小規模作業所問題が念頭にあるわけです。
 全国5200の小規模作業所に7万の人たちが就労しています。この人たちに、授産レベルの措置額と同額の補助金を出すことはむずかしいという議論があります。このことに対して安易に妥協すると、同じ作業をする通所施設が新しい制度としてできるということになりかねません。といって、そこで頑張り通すと、いつまでも無認可のままです。
 ですから、このあたりについてはしっかり考えて結論を出していかなければなりません。すべての小規模作業所がきちんとした補助金の額を含めて対応されるよう、全体として取り組んでいかなければならないのではないかと思っています。とにかくたくさんのことがありますが、みんなで力をあわせて行動していかなければならないと思います。

 構造改革と当事者参加

○三浦 今日的に残っている課題として、まずひとつは、サービスの質をどう高めるかということです。そのなかで、社会福祉に従事する人の質をどう高めるか、リハビリテーションワーカーがもつ力量を十分発揮できるような人的資源の確保とその質の向上が大変重要だということを痛感しています。
 もうひとつは情報開示の問題です。とくにハンディキャップをもつ人たちのことを考えると、情報開示ということについては問題にしなければなりません。さらに、サービスの評価問題はもっと真剣に考慮していいのではないかと思います。それは、サービス提供者だけでなく、利用者自身の評価、オンブズマンを含めて第三者機関の評価など、検討していいのではないかと思っています。こういったことを障害者分野ではもう一度議論していただく必要がありはしないかと思っています。
 それから基礎構造改革と障害者関係、両方にわたることとして、統合化の議論は大変むずかしいという気がします。せっかく精神保健福祉の対策など入ってきたわけですが、これがなかなかうまく入り込んでいません。まして今回の基礎構造改革のなかには精神障害者については一言も出てきません。そのへんの総合化をいったいどう進めるのか。これは、昔からいわれながらも大変むずかしい議論であり、どうやって深めていくかということは大きな課題だと思います。
 もうひとつ、自立の問題と結びつけて、障害者自身の参加の問題は大変重要かと思います。これは、障害者福祉の中間まとめにおいては強調されていますが、今後ともあらゆる機会に、スローガンではなく現実的なかたちで参画・参加を進める必要があろうかと思います。たとえば障害者のためのいろいろな援助が出てくる場合でも、当事者自身の力量を高めていくための参画・参加論は重要です。そのあたりをもう少し具体的につめていく必要がありはしないかと思っています。

 介護保険と障害者

 もうひとつの大きな議論として、地域福祉という議論がこれからの基本だと思います。障害者問題においても、これから地域における自立をどう達成していくのか、そのために地域福祉というものをどう構築するかということが出てきています。このあたりのことも、基礎構造改革でも大きなテーマとしながらも内容としては必ずしも明らかになっていません。これを障害者の立場から、たとえば地域福祉の計画をどのように障害者プランと結びつけるかなど、具体的につめていくことが重要ではないかと思います。
 また、当面の課題ということになれば、2005年の介護保険の全面的見直しまでの間に、介護保険と障害者の関係をはっきりさせなければならないと思います。審議会でも議論している部分ですが、いったい介護というなかに社会参加等を含めたかたちのものをどうやって持ち込んでくるかということも含めて、介護保険とのからみでの検討があっていいかと思っています。
 もうひとつ、一貫して日本の基礎構造改革等々、障害者問題もそうなのですが、その根には生活保護制度が手つかずで残っています。戦後の社会福祉の展開を見てみますと、生活保護事業は基礎になってきています。現在の救護施設など精神障害者の人たちが多いということを考えていくと、生活保護の改革問題がこれから大きな議論になるだろうと思っています。
○藤井 もっと議論を深めていきたいのですが、残念ながら時間となりました。冒頭申し上げたように、基礎構造改革については今国会での上程はむずかしくなりました。さきほどから出ているように、その中身を吟味してみると明暗交錯という状態で、したがって、全面反対あるいは全面賛成ではなく、いいところをどう伸ばしていくのか、そして問題点をどう消去していくのかという立場で立ち向かっていくことが肝要なことだろうと思います。中途半端な感じもしますが、今日は両先生ありがとうございました。


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