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国際セミナー
「障害者権利条約」制定への世界の最新の動き

講演2 障害者権利条約、現在のポイント

国連ESCAP社会開発局障害専門官 長田 こずえ 

 2003年の10月にバンコクで会議があり、政府の代表NGOの代表がアジア・太平洋地域から来られて、バンコク草案をつくりました。このバンコク草案は今年1月のニューヨークでの作業部会に出され、バンコクから特別委員会の議長宛に送りました。
 バンコク草案の内容は、今年1月のニューヨークでの作業部会の特別委員会の議長案とほとんど同じ内容だったと理解しております。そういう意味でアジア・太平洋の貢献がニューヨークでも少し認められたのかと思います。
 今日は人権条約の多様なアプローチに関してどのような議論がなされているか、特に第3回特別委員会での議論の中身はどういうことなのかについてお話しさせていただきます。

国際権利条約の三つのモデル

 国際権利条約に関しては三つのモデルがあります。まずは「被差別モデル」。女性の権利条約はこの被差別モデルに当てはまります。二つ目のモデルとしては、「統合モデル」と言われるものです。子どもの権利条約はこのパターンに当てはまります。三つ目の新しいパターンとしては、この二つを混合した「混合モデル」があり、バンコク草案は、この混合モデルに入るのではないかと思います。
 被差別モデルにあたる女性の権利条約の場合、どういうことを言っているのかというと、女性を差別してはいけない、女性を学校から排除してはいけない、女性だけにベールをかぶれと言ってはいけない、といった女性だけにしてはいけないというのを禁止しています。たとえば、政府は子どもに小学校教育を与えなければいけないとか、親は自分の子どもを必ず学校に行かせなければならないといった、こうしなさい、しなければいけない、というのが統合モデルに当たるとご理解いただければと思います。
 混合モデルというのは、この二つを組み合わせたものです。つまり障害者を差別してはいけない。と同時に、政府は障害者に対するアクセスを提供しなさいということです。してはいけないものと、しなさいというものを混ぜたもので、この新しいモデルがバンコク草案のモデルになっていると思います。

人権条約の多様なアプローチ

国際協力

今の論争の一つの問題としては、国際協力です。国際協力自体には問題はないのですが、国際協力には、国際援助というお金の問題がありますから、先進国と開発途上国との間では考え方の違いはあるものの、徐々にこの国際協力の考え方は定着してきたと思います。以前のように国際協力は絶対ダメだという政府はなくなったと思いますし、ただ金銭援助という観点だけから見るのではありません。専門家を送るとか、福祉用具を提供するとかいろいろな方法があります。広義の意味での国際協力がずいぶん定着したと思います。

障害者の定義

 障害者の定義に関しては、各国にそれぞれ定義があるわけです。だから国際権利条約の中で定義について詳しく述べるのは、定義が変わる可能性があるのでかえってよくないことです。誰が障害者かというのは大事なことです。なぜかというと、誰がこの法律によって得をするかがわかるからです。たとえば女性差別禁止法の場合は、女性が誰に当たるのかは皆さんわかっています。子どもの条約もそうです。子どもというのは誰かというのは、皆さん大体合意しています。ただ障害者に関しては、障害者が誰かということがはっきりとわからないから、誰のための障害者権利条約なのかが大事になります。
 あまり詳しく定義するとかえっていろいろ問題があって、その対象となる人しかカバーされないということになります。だから医療モデルよりも、たとえば社会モデルや差異モデルなどのようなモデルのほうがいいのではないかという程度のコンセンサスは、国際社会にあります。
 アメリカのADAの担当者とこの前ニューヨークでお話ししたのですが、彼らに言わせるとADAの今のつまずきはこの定義だと言うのです。アメリカでは裁判がいろいろ起こされています。誰が障害者かというときに、「私も障害者」だと自分で障害者だと手を挙げる人が多くて、裁判を起こす人の数が増えてきているのです。そうなるとADAが下手すると生き残れなくなるかもしれないそうです。
アメリカの国連代表の方に聞くと、アメリカのADAが今後生き残れるか生き残れないかという要は、誰が障害者なのかという定義をし、裁判によってどのような判決をつけていくかなどということだとうかがっています。社会モデルのほうがいい、差異モデルでもいいのだというだけでいいのかと私は思うのです。ADAの経験を踏まえたほうがいいと思います。

国家の義務と法的救済措置

先ほど山崎先生がおっしゃいましたが、条約を批准すると国家の義務が出てくるわけです。ただし国家の義務については、バンコク草案には法的な救済処置を国家が与えるということが入っていたのです。国家が条約に批准しても、実際に障害者が差別されたときにどうするかということがあります。私が思うに、結局、条約はどうやって使えるかというと司法・行政を通しての交渉に一番重要なのです。
 二つ目としては、裁判にもち込むときに使えると思うのです。その際に国家がどういう救済措置を与えるのか、平等委員会をつくるのかつくらないのか、といったことがバンコク草案には入っていたのですが、今の草案にはなくなってしまいました。私はエスキャップの代表として非常にさびしいことだと思います。できればまた入れていただければと思います。
法的救済措置を入れることに賛成を示す政府はけっこうあります。たとえばコスタリカ、オーストラリア、カナダなどは入れることに賛成しています。国家の義務と法的救済措置はもう1回考え直す必要があると、私個人、エスキャップとしても思います。

合理的配慮

 合理的配慮は新しいコンセプトですから、今まであった平等促進のための特別措置、法定雇用率などとの関係はどうなるのでしょうか。たとえば合理的配慮という考え方が雇用において主流を占めるようになったら、日本の現在の法的な雇用割り当て制度はどうするのかという問題があります。両方共存するのか、それともだんだん合理的配慮が中心になるのかは大事なことだと思います。

統合教育と分離教育

 これは選択と強制が課題です。たとえば聾唖者の方とか視覚障害者の方にはどういう教育が一番いいかということを自分で選択したいのです。確かに統合教育はいいのかもしれないけれども、それを強制されるのは嫌だという意見があると思いますから、やはり私は選択の範囲をある程度設けることは大事なことだと思います。

モニタリング

 モニタリングには国内モニタリングと国際モニタリングの両方があります。実際問題としてこの条約が使えるものになるためには、国内モニタリングが一番大切だと思います。
 国連の国際モニタリングは、山崎先生がおっしゃったような立派な機構があるけれども、それは事実上機能していないと思います。政府のモニタリングのレポート提出は毎月どこも遅れているし、一つひとつのケースにおいて世界中からモニタリングのレポートがきますが、国連もチェックに必要な人材や予算が追いつきません。
 国際モニタリングはあること自体は非常にいいことですが、実際的にはあまり機能しないと思います。日本の場合は国内モニタリングにぜひ力を入れて、国内モニタリングで対処できるようにがんばっていただきたいと思います。

NGOの参加について

 5月の第3回特別委員会には約40か国とNGOが参加しました。24の条項と国際協力の付録に目を通してコメントしましたけれども、タイトル・構成・定義・全文・モニタリングは8月か9月に開かれる第4回にもち越しです。大変悲しいことは、政府のコメントのみが国連の正式な議事録として記録されることになったことです。皆さんにお渡しした資料の中にはNGOのコメントが入っていますが、それは正式な議事録ではなく、あるNGOが出したものを訳しただけです。正式な国連の議事録には政府のコメントしか入っていません。
NGOの参加についてもだんだん意見が分かれてきて、次の第4回はNGOの正式な参加は難しくなるというのが私の予想です。NGOの参加を難しくする仕組みに対処していくことを考えていかなければならないと思います。

障害者と政府の話し合いの重要性

 障害者と政府の話し合いは重要です。NGOがニューヨークの国連の特別会議の段階で正式に意見を言って、NGOの意見が取り入れられる可能性がどんどんなくなり、最終的にはなくなると思います。過去の国連の条約の機構を見ていると、この条約を早くつくりたいという意見と、さらによくしたい、充実した内容にしたいという二つは相いれないものだと思うのです。内容をよくしようと思ったら、NGOの意見などをどんどん入れなければいけない、けれどもそうすると反対する国がいるので、会議の交渉には時間がかかるのです。ですから内容をよくしようと思えば思うほど時間はかかるということを念頭に置いたほうがよく、よい内容で条約が早くできることはないわけです。
 日本人としてこの障害者権利条約とはいったい何かと考える場合は、中身の濃い法律であり、国内の裁判や法廷でも使える条約にするためには当然時間はかかるわけです。NGOも参加しなければいけません。ともかく1年か2年の間に条約を書き上げて、それを参考にして国内法の改正を生かしながら日本は自分の利益を考えていくことも考えなければいけません。
早くて中身の濃いものは難しいと思いますが、早ければ早いほど中身は薄くなるというのが現実です。先進国の日本政府と先ほど山崎公士先生のお話ででてきたブータン政府の意見は、基本的には同じに取り扱われなければいけないですが、実際は同等に扱われることはないかもしれないのです。国際社会というのはそういうところです。世界第二の拠出国日本政府が発言したら、皆話を聞きます。日本の1票は非常に重みのある1票ですから、NGOの方はこれから直接参加が難しくなるのであれば、今日のような会議を開く、あるいは交渉をしていただいて、日本政府を通して意見を言っていただくのが一番よいかと思います。バンコク草案まではアジアはがんばって一緒にやっていたのですが、その後はアジア一つとしてはまとまりがない感じがします。

新たな展開と挑戦

我々を抜きにして我々を語るな

 新たな展開としては、まず我々を抜きにして我々のことを語るなという考え方が定着してきたということです。国際協力は、発展の権利という考え方ではなく、広義で考えていきたいと思います。社会モデル対医学モデルの場合は、社会モデルのほうが圧倒的にコンセンサスを得ています。締約国の法的救済の義務はバンコク草案には含まれていますが、今の草案にはありません。差別された場合どうするのか、本当に法廷にもっていくのか、どのように救済されるのかということです。

障害者の統計

障害者の統計に関しては、昔は反対意見が多かったのですが、最近は障害者の統計はこの条約に入れるべきだというところで落ち着いていると思います。今までの国際条約には統計がなかったようです。法律家の方からは前例ないからと反対があったのですが、入れたほうがいいのではないかという意見に変わってきたようです。これはバンコク草案の中身とほとんど同じですから、これがもし残ればバンコク草案の貢献といえると思います。

社会権の実現義務

それから社会権は経済状況などを考えて徐々に実現義務を課すものなのか、いつも繰り返す必要があるかという問題があります。法律家は社会権は経済的な裏づけがなければ、徐々にしか実行できないことはわかっているのですけれども、いつも書き続けることでは内容は薄くなってしまうのではないでしょうか。

生命に対する権利

 障害者の方が生まれる前に障害を理由に妊娠中絶することについて反対するかということです。人権・国際人権問題では今生まれた人間の権利を扱い、生まれていない人間に対する国際人権法や人権という考え方はまだ定着していないというのがEUの方々の考えです。あるいは宗教的な問題、女性の地位向上の問題から産む権利、産まない権利などいろいろ複雑なことがありますから、私自身はこれについて条約でふれるのは避けるべきだと思います。
障害を理由に妊娠中絶をしてはいけないというところに視点を置くならばいいけれども、気をつけないと妊娠中絶はしてはいけないというほうに重きがいってしまう可能性はあります。同じ国連でも女性地位向上委員会の人たちは、そういうことに関して非常に敏感ですから、今の女性の地位がこれだけ上がった状況で生命の権利にふれると大きな問題になってきます。内部調整もありますから、こういう複雑な問題は必ずしも条約に入れる必要がないのではというのが私の考えです。

モニタリング

 モニタリングに関しては、日本の場合は国内モニタリングを考えていくほうがいいということです。どうしてかというと、山崎先生がおっしゃったように国際モニタリングは事実上あまり機能していないということと、さらに機能しなくなるのではないかという心配があるからです。
国連自体に予算がないということで、今の国際権利条約は六つ、移民労働者の国際権利条約も入れると七つあって、障害者権利条約が八つ目になります。そして八つ全部に国際モニタリング機構をつけると、国連の予算が非常にかかります。予算不足、人材不足で、今の国連はお金をどんどん減らすほうに向かっていますから、国連の事務局の中では今までの国際モニタリングシステムを全部改革してほしいという意見がEUなどからかなり強くなっています。国際モニタリングのことを考える必要はありますが、あまり頼りにしないほうがいいというのが私の意見です。

言語的アイデンティティー

 バンコク草案のときは文化的・言語的なアイデンティティーである手話を言語として認めるというのがはっきり入っていたのですけれども、今のものにはありません。

合理的配慮

 一番難しいのは、合理的配慮の定義です。合理的配慮を提供しなくてもいい「不釣り合いな負担」とはいったいどういうものでしょうか。オーストラリアの場合は国内と司法、国内の行政の分野で救済の問題を扱うときに合理的配慮という考えがよく使われているそうです。                                             
オーストラリアには平等人権委員会があり、そこに合理的配慮を与えられなかったことを理由に苦情を言うことができるのです。その場合、国内の人権委員会が調停をします。事実上裁判にもち込まれる件数が非常に少ないそうです。オーストラリアの場合は約95%は調停で解決しています。つまり、職場の人に差別された場合、合理的配慮という考え方を基にして自分で職場の担当の人などに申し出るということです。自ら調停に出るか、あるいは人権委員会にもっていって調停に出てもらうかします。オーストラリアの場合、法廷に行くのは5%くらいしかありません。

 アメリカの場合は、調停を通さないでいきなり裁判にもち込まれることがもう少し多く、敗訴の場合も非常に多いということです。ですから裁判にもち込めばいいというわけではなく、敗訴になってしまったら調停のほうがいいということもあります。これは、他の人権条約にはない新しいコンセプトです。だから非常に難しいことです。
 女性の差別廃止条約などには合理的配慮の考え方はありません。合理的配慮ともっと古典的な法定雇用率などの特別措置の関係はどうなっているでしょう。あるいは不釣り合いな負担を課す場合は適応されなくてもいいといいますが、不釣り合いな負担とはどういうことなのでしょうか。アメリカのADAの場合は、不釣り合いな負担とはまず費用と財源の問題、それから経費全体への影響、その会社の従業員の数とはっきりと定義されています。

 最後に、基本的に国際権利条約は国の義務なのですけれども実際は国だけの義務ではすまないわけです。雇用の問題であれば、雇用の問題に実際に責任をもつのは国ではなく、私的な企業です。だから基本的には国が責任をもつ権利条約に企業団体、会社や学校などの私的なものをどうやってはめていくかということには非常に難しいことがあると思います。
アメリカのADAの定義で合理的配慮の例としては、労働環境へのアクセス、面接のときに手話や通訳をつける、仕事の再編成、パートタイム、勤務日数の変更、教材・試験を点字などに変更していくこと、朗読者の通訳を提供すること、空席への配置転換というように、きちんと雇用面での合理的配慮の定義をしています。

日本の障害者などの今後の課題と挑戦

 今後日本の障害者団体やJDFはどうしたらいいかということですが、まず、一般の国民に権利条約についてもっと広く知ってもらう。今ここに集まっている皆さんは専門家の方とかその分野で働いている人が多いからご存知ですが、一般の国民に権利条約といっても知らない人が多いのです。障害者権利条約を中心にして、日本の国民全体に権利条約についてもっと広く知ってもらう必要があると思います。

 障害者基本法の2004年の改訂版を読みましたがずいぶんよくなっています。5年後にもう一回見直して差別禁止法などをつくっていくということもいいかと思います。政府の5か年計画や都道府県、市町村の障害者計画の実行などにも差別禁止の考え方を入れていただきたいと思います。そしてNGOと政府との話し合いと協力がますます重要になってきます。日本の場合は人権問題があまり進んでいませんから、完全に独立した第三団体の国内人権委員会がありません。ですから、政府から完全に独立した国内人権委員会を、これを機会につくっていくのもいいのではないでしょうか。

 障害問題だけを切り離さないでほかの人権問題との連携プレーがとても大事だと思います。女性問題はずいぶん前から取り組まれていますのでかなり進んでいます。そういう女性の権利の活動家などと連携プレーを組むということ自体が、国内の人権の考え方を全般的に向上させるということで大事になると思います。
いったい障害者権利条約とは何なのか、これは新しい国際行動計画なのか、琵琶湖ミレニアムフレームワークのようなガイドラインなのか、それとも差別禁止、法的な救済を目指すものなのか、それによって内容は違ってくると思います。どのような条約を望むのかということだと思います。

海外の障害者差別禁止法-香港の場合

 日本の場合は差別禁止条約がありませんから、香港の1996年の障害者差別禁止法の中身について述べます。まずアジア・太平洋で障害者差別禁止法がはっきりある国というのは、オーストラリアと香港とフィリピンくらいしかありません。フィリピンの場合は必ずしも全般的に差別禁止だけとは言いにくいので、オーストラリアと香港だけが差別禁止法をきちんとつくった国だと思います。
 差別禁止法は香港が中国に返還される前、1996年にできました。香港には障害者人権委員会があります。女性の差別と障害者の差別を両方扱っており、教育の場で差別禁止法をどのようにして実行していくかというガイドラインもあります。こうしてはいけないという詳しいガイドラインが法律を中心にできているわけです。これには障害者が誰かということがはっきり書いてあって、障害者と障害者の家族や一緒に働いている人も含めて、差別されない対象とされています。

香港の障害者の定義には、HIV、エイズの患者も入っていますから、いろいろな国によってどういう人が障害者かはだいぶ違ってくるわけです。
 また、直接的な差別と間接的な差別についても書いてあり、直接的な差別とは障害を理由に大学に入学させないことなどです。間接的差別とは、障害のある人は定期的に病院に行かなければいけないので、学校の出席率が悪いということを理由に低い点数をつけることがそれに当たります。これが間接的な差別で、これが直接的な差別だ、という香港の判例が全部出ていますから、まだ差別禁止法の例がない日本では、オーストラリアや香港など他の国の判例を見るということはいいことだと思います。

 国際性というのは権利条約そのものだけではなく、権利条約に基づいたものであるならば他の国の判例でも代わりになるのではないかという気もするのですが、どうでしょうか。日本のように今から判例をつくらなければならないのであれば、国際権利条約であるなら、他の国の判例も使えるのでないかと、私は法律家でないのですが思うのです。
 障害者の権利条約はまず国が一番先に責任を負います。国のほかに、教育に関するガイドラインなどに関しては、教育機関、これは大学などの学校、それから学校の先生や職員などです。大学などで道路工事をしているときに、工事を請け負っている建築業者なども責任を負うということです。
古い話ですが、私がまだ国立大の学生だった頃に、大学に工事現場がありました。工事を実際にしていたのは業者です。私が校内を歩いていると、工事をしている人から明らかにセクハラである言葉を言われました。そのとき私は怒って、学校に言いつけると大騒ぎをしましたけれども、友だちがそんなことを言ってもムダだと言ったのです。あれは工事現場の請負の業者だから、そういう人がセクハラをしても問題にならないから、言うだけムダだからやめなさいと言われて結局やめたのです。今思えば私が正しかったわけです。どういうことかというと、その工事の業者であろうと学校にいれば業者も責任を取らなければいけないということです。

 ハラスメントについても香港でははっきりと定義されています。合理的配慮に関しても定義がはっきりなされていて、まず学校に関しては学校の建築物のアクセスが対象になります。次は教育サービスの提供、これは入学試験、評価、規律、試験、評定に関して全部です。サービスの提供に関して合理的配慮をしなければいけないのです。
 過度の負担に関しても定義がなされていて、合理的配慮をするのが過度の負担である場合にはしなくてもいいとしています。過度の負担とはどういうものかということも規定されていて、経費の問題などです。
 過度の負担のために合理的配慮を与えなくてもいいという判例がありました。学校のビルがあまりにも古すぎてアクセスをよくできないのです。ビルを全部壊さなければアクセスをよくできないという場合、その工事に6か月くらいの期間がかかるというとき、これは過度の負担というケースで、判決は無罪になりました。
合理的配慮の場合、障害者の参加を目指すこととは、他の生徒への影響があります。ユニバーサルデザインなどで、障害者だけではなくほかの生徒にもよい影響をおよぼす場合は非常に点数が上がります。障害者だけではなくほかの人に対する影響も合理的配慮の対象になります。合理的配慮を計算する場合に、この人は車イスだからと勝手に決めないで、個人のニーズを聞いて調べる必要があるということです。

日本における障害者権利条約の意味

最後に言いたいことは、このような海外での判決などもありますから見ていただきたいということです。香港の差別禁止法は、権利条約の中身はいらないくらいよい法律です。そういう国と日本のような差別禁止法のない国とは全然立場が違うということをわかってください。香港の場合は国際権利条約の中身はあまり重要ではないと思っているのです。自分の国にこれだけの判例がありますから、ともかく何でもいいからそういう国際的な権利条約ができたという事実だけがほしいわけです。
 日本のようなまだ差別禁止法がない国では、権利条約の中身が濃いか薄いかということは非常に大切なことなのです。日本も先進国だと私は言いたいのですけれども、差別禁止法がまだないのだから必ずしも先進国ではないわけです。香港は、もう自分の国にあるから権利条約の中身に的は絞っていません。それより実行が大事なのです。日本の場合は中身が大事だと思います。