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国際セミナー
「障害者権利条約」制定への世界の最新の動き

障害者権利条約に関するパネルディスカッション

条約制定に向けて戦略的課題とわが国の役割

パネリスト
弁護士・DPI日本会議常任委員 東俊裕      
財団法人全日本ろうあ連盟理事長 安藤豊喜
日本障害者協議会常務理事 藤井克徳 
外務省国際社会協力部人権人道課首席事務官 小川秀俊
リソースパーソン       
東京大学先端科学技術研究センター特任助教授、 全日本手をつなぐ育成会国際活動委員長 長瀬 修
新潟大学法科大学院教授 山崎公士
指定発言者         
日本身体障害者団体連合会理事 嵐谷安雄
DPI日本会議・障害者権利擁護センター所長 金 政玉
日本盲人会連合国際委員会事務局長 指田忠司
全国「精神病」者集団 山本真理
コーディネーター       
DPI日本会議副議長 楠 敏雄
花園大学社会福祉学部講師 三田優子
総合司会           
知的障害者更生施設みずのき施設長 沼津雅子

 本日はまず4人のパネリストから問題提起をいただくことになっています。最初は、日本障害者協議会の常務理事の藤井克徳さんに権利条約の制定の意義、なぜ権利条約が必要なのか、どんな課題が課せられているのかということを中心に、権利条約全体のイメージを含めてお話をいただくことにしたいと思います。

パネリストからの発言

なぜ今、権利条約なのか

藤井 権利条約の採択に向けての戦略的な検討と、そしてわが国の役割について全体像をお話しさせていただきます。もう一度少しそれをなぞる感じで、なぜ今、権利条約なのかということをお話しします。後半では、わが国の役割についてお話ししようと思います。
 今、なぜ権利条約なのかについては、国内的な理由と国際的な理由があります。国内的理由は、安心できる、安定した、安全な地域生活のために条約を制定するということです。
 今日、お話がありましたように、国際条約は国と国の間の約束事なのですが、日本の憲法では、第98条に「国際法の遵守」について書かれています。つまり、国際条約はいったん衆議院で批准をします。承認をすると、効力を発揮します。したがって、国連で採択、制定しただけではまだ効力は弱く国内には響きません。日本の国会で批准すると効力が増します。どのくらい増すかというと、最高法規の憲法と、日本には約7,000以上ある一般法の中間ぐらいに位置して、言い換えれば一般法を縛るわけです。
 批准されれば、日本には差別禁止法がないということがまず問題としてくるでしょう。さらには、法定雇用率が決められているけれども、まったく守られていないとはどういうことなのかということも出てくるでしょう。
 最近注目されている「扶養義務制度」は、死ぬまで親兄弟から面倒を見てもらうということです。これは結果的には公的責任を回避させているのです。これは親の元でしか生きられないという自立意欲の衰えにつながっていきます。
 もちろん、精神障害者の強制入院、社会的入院、あるいは知的障害者の社会的入所は「権利条約」が批准されたら完全違反行為です。ですから国内の懸案事項であって、まず国内の政策の背景を見ておく必要があります。
 次に、国際的に見ますと、国際的な共通言語、概念的な基準がはっきりすることで交流がしやすくなります。また日本と同じような国力、経済力の国々、欧米との比較がしやすくなってくるという点では意義があると思います。と同時に、発展途上国の人権の底上げにつながっていくということです。これらの点において、障害者権利条約は、国内外で大きな意味をもちます。

特別委員会の到達点と評価

藤井 第3回目まで終わった特別委員会の到達点と評価についてお話しします。私は第1回から3回まで1週間ずつ参加してきました。まず、NGOに驚きました。今回NGOを排斥しようという動きがあったのですが、NGOに一つ部屋が確保されていました。つまり、作戦基地があって、そこで朝8時半から毎日ミーティングをもつのです。IDA(国際障害同盟)のメンバーを軸にし、メンバーが行動スケジュールを確認し合って、ロビー活動の分担もしていました。
 そしてNGOは高い能力、優れた調整力がありました。特に世界盲人連合、世界ろう連盟、DPI世界会議、ヨーロッパ障害フォーラムは非常に活動が活発でした。大変厳しい中でも、それを尊重しようという国連側の配慮もありました。発言が難しい中でも、政府間によって評価はまちまちでしたが、全体として何とかみんなで応援しようという雰囲気はあったのです。
 日本政府は、はっきり言って消極的でした。たとえば、第1回の特別委員会では、途中民間の感想や評価が入っていない文書を国が作りました。これに対して、日本のNGOは適切でないと意見を述べました。この頃から双方で協議しようという動きになりました。
 そして第2回特別委員会では、今日ここにいらっしゃる東俊裕さんを民間側の一員として政府の代表部に顧問という形で入ってもらいました。同時に角参事官を中心に日本からも代表団が派遣され、現在は国連の場でも、国内の準備の場でも議論をしながら展開しています、決して十分ではありませんが、ようやくそういう流れは作られつつあります。

今後の課題

藤井 そこで、今後の課題についてお話しします。国内においては立法府として何を求めていったらいいでしょうか。行政府では、ようやく10月末をめどにして、元外務大臣を長とする超党派の障害者の権利条約推進議員連盟をつくる気運が盛り上がっています。そういう動きもありますので、できれば予算委員会、つまりテレビが映る場で質疑をしてほしいと思っています。
 それから政府に対してお願いしたいのは、もう少し省庁を超えた特別の連携体制、つまり障害者権利条約制定に向けての特別体制がほしいのです。非積極性が特に目立つのは法務省だと思います。
 民間に関しましてはJDF日本障害フォーラムの初仕事となるわけですから、連携を増していくということも含めて、アジア域内との交流、世論形成も必要だと思います。

 先ほど藤井さんからは日本の障害者運動を何とか統一させたいという準備作業が進んでいるというお話が出ました。次は全日本ろうあ連盟理事長の安藤豊喜さんに障害者運動の統一的な課題の意義、これからの展望などについて、ご報告をお願いしたいと思います。

全日本ろうあ連盟の高い権利意識

安藤 障害者権利条約に、障害をもつ私たちが個人として、また運動的にどう対応していくかについてですが、いくつか問題提起をしたいと思います。
 私は全日本ろうあ連盟の活動に参加してから40年以上になるのですが、一番誇りに思っていることは、他の障害者団体と比べても、障害者の基本的人権尊重や権利意識が非常に強いと言うことです。それは聞こえない、話せない、情報やコミュニケーションに大きな支障があるという障害の特徴のためもあると思います。

これまでの運動の経過から感じたことですが、わが国の障害者福祉の歴史には障害者の基本的人権や権利性というものが明確に見えていませんでした。
障害者は普通の人と比べると能力的に劣っている、それを教育やリハビリで回復させ、人間としての尊厳性ある自立や生活の機会を保障するという視点がなく、慈善的、保護的な面が前面に出ていました。
日本の障害者の歴史は、慈善、排除の歴史であったと思います。これは、聴覚障害者関係で言えば、1981年の国際障害者年まで、わが国の医師法関係の法律に「おし・つんぼ」という言葉が記されていたことからも明白です。
その「おし・つんぼ」という差別用語を撤廃するよう私たちは長年に亘って国に要望していきましたが、ずっと無視されてきました。それが1981年、国際障害者年になって初め不快用語の改正で「おし・つんぼ」というのが、「耳が聞こえない者、口が利けない者」と改正されました。差別語と言わず、不快用語という言い方にも人権に対する配慮不足が感じられます。しかし、この改正も、字句の表現だけが変わっただけで中身はそのままで、職業資格の取得などの門戸は閉ざされたままでした。

このように、わが国の障害者福祉は、慈善、保護が基調であって、障害者問題を権利の視点で処遇する環境の整備が遅れているといえます。
幸いに1981年の国際障害者年を契機として、社会の完全参加と平等に向けて、わが国の障害者福祉は大きな転換を迎えました。その転換の中で、特徴的なのは、障害者や障害者問題が障害のある個人や家族の問題から、広く社会的な問題として受容れられ社会的な連帯の中での処遇が進んできたことです。
つまり、障害者問題を広く社会的な問題として対応できるような国民全体の意識の転換があったということです。1981年から今までの20年間の中で障害者に対する考え方は、大きく発展してきました。けれども、基本的には、障害者の本当の意味での権利保障や機会平等の整備というより、経済成長や国民の意識の変化の後押しを受けた福祉レベルの範囲での発展だったと思っています。障害者問題は、基本的人権保障の視点で対応すべきであります。
 今、私たちは、手話を言語として国が認め、権利としての手話通訳の法制化が必要であるという考え方を出しています。だが、手話問題も福祉レベルでの対応でしかありません。
障害者問題における基本的な事柄は、政府全体の一貫した対応が必要であって、日本ではまだそこまで到達していないのが現状です。

障害者権利条約のもたらすもの

安藤 以上に述べたように、1981年からの約20年間の我が国の障害者福祉の発展の経過、背景を見てみますと、国の経済成長と、国際的な流れによって発展して来たものであって、障害者の権利に視点を当てて、それを保障していこうとする考え方はまだ弱い感じがします。ただ、先ほど言いましたように、わが国の障害者福祉は国際障害者年をきっかけとして、抜本的な転換がありました。したがって、国連の取り決めの中で、障害者権利条約が制定された場合の影響は大きいのではないかと思います。幸いに権利条約の草案には、手話を言語として認める方向が出されています。また、障害者の情報コミュニケーションを権利として保障していこうという考え方も出されています。
 課題は、わが国の国民的な人権意識がまだ低いことです。私は先ほど、日本の障害者福祉は慈善や保護が基礎になっていると言いましたが、それは、国民全体の人権意識が高まってこなかったという背景があるのではないかと思います。
わが国で人権や権利という言葉が一般的になったのは、終戦後、高度経済成長の兆しが見えたときからです。日照権とか公害などの問題が発生し、また、核家族化が進み、個人の権利が非常に高まっていきました。このように、国民全体の人権意識の歴史も新しいものです。ですから、障害者の権利をきちんと打ち出していくには国民全体の人権意識を高める動きとの連動が必要です。
私たちは、障害者福祉がわが国の国民的な社会保障の基盤になるという考え方でこれまで運動してきました。今回の権利条約についても、障害者問題だけではなくて、国民全体の人権意識の高まりを期待する運動だと思っています。今、社会的な環境は、障害当事者から国民の皆さんに権利のあり方を提起するための発信ができるようになっています。

アジア地域への対応

安藤 この20年間の障害者運動は、大きな成果をあげました。また、これから個々の障害者団体が縦割りで運動するのではなくて、より大きな障害者の組織を立ち上げて運動することが必要ですし、これから、障害者自身が主体的に運動をするという方向を確認して、先ほど司会者が言われたように、日本の障害者フォーラム、JDF準備委員会を10月の末頃に正式に立ち上げる予定です。
これは、日本の障害者運動にとって歴史的なことだと思います。日本の障害者団体の中心的な団体が団結して一つの組織をつくれば、権利条約の制定、批准によって、国内における障害者差別法の制定という運動にもっていけると思います。
そういう意味で、権利条約を障害者自身がきちんと受け止めて、障害者団体が大きな力となって運動していくことが非常に大切だと思います。
 午前中の講演では、障害者の定義などいろいろな難しい問題が出ていました。わが国の今の福祉の到達レベルから言えば、権利条約が制定され、批准されるという対応はもう可能ではないかと感じます。障害者団体が踏み込んで運動し、もっと積極的に出れば対応できるのではないかと思います。アジア全体の一つのモデルになる成果があげられるのではないかと期待感をもっています。
 アジア地域ではまだ福祉や教育が非常に遅れた国があります。その人たちへの対応をどうするのかは、これからの私たちの課題として考えていかなければなりません、時間がかかるとは思いますが、成功できるのではと思います。
 権利条約は、私たちに明るい展望を与え、励みになって運動ができるものだと思っています。

 これまで日本の障害者運動は、ややもすると障害の種別によって、それぞれの利害のための運動になりがちで、なかなか統一的な課題に取り組むことができなかったという状況にありましたが、これからはぜひ統一した運動を展開したいと思います。
 JDF日本障害フォーラムについては、10月31日に東京で結成大会が開かれます。この結成を通して、権利条約の制定に向けた運動はより障害者全体の課題となります。誰かにやってもらうのではなく、当事者自らが立ち上がるということが非常に重要であり、それが障害者の運動に明るい展望を切り開くことにつながると強調していただいたと思います。
 それでは次に、DPI日本会議の常任委員であり、弁護士の立場からさまざまな障害者の人権に関わる訴訟に取り組んでおられる東俊裕さんにご報告、問題提起をお願いしたいと思います。

合理的配慮とは

 第2回と第3回の特別委員会には代表団として参加させていただきました。今回は弁護士の立場での発言いたします。
 私の事務所では障害のある人たちの差別、虐待に関する相談事例がかなりあります。差別には、大きく分けてその人の行為自体が障害のある人に対する区別、取り扱い、制限といった誰が見てもわかるような差別と、平等にするためには必要な配慮がいるのだが、それが得られないために結果的に異なる取り扱いをされ、制限や区別をされるたという差別の二類型があるのです。後のほうの問題を合理的配慮の問題と呼びます。合理的配慮についてお話ししたいと思います。
日本でも合理的配慮をめぐって行われた裁判が少しだけあります。知人の弁護士が扱った事例を紹介します。車イスを使う方が、車イス用のトイレのない長距離列車に乗りました。長距離なのでご飯を食べたり、お茶を飲んだりしてトイレに行きたくなったのですが、使えませんでした。本当に苦しい思いをして目的地まで着いたそうです。JRが一般の人が使えるトイレを設置しているのに車イスで利用できるトイレを設置しないのは、合理的配慮義務違反で差別に当たるという裁判を起こしました。

 ところが地裁、高裁とも「JRには車イス用のトイレの設置義務はない」という判決を下しました。それはJRの裁量であって、法的にそれを義務づけることはできないという判決理由でした。確かに日本には障害者基本法をはじめ、障害者関係の法律がある。しかしこれは理念を示すにとどまって、権利を示した法律ではない。だから、実質的な平等をどこまで図るかということについては、新たな立法を待つほかないという判決が出ました。
 私たちはいろいろな相談を受けますが、法律という武器を使って裁判所で闘いたいけれども、武器がないのです。やっても負ける覚悟でやらざるを得ません。だからこそ私は権利条約や法律の中で、何が差別なのか、何が合理的配慮なのかを細かく記して、明らかにしてほしいという思いで「DPIポジションペーパー」などをつくりました。
 今回、草案の中に「合理的配慮」という言葉は4か所出ています。まず、定義のところでは、一応合理的配慮のことが書いてありますが議論されていません。7条の4項の平等・非差別の項では、合理的配慮についての定義が述べられております。

 そして労働の場面と教育の項にも、合理的配慮という言葉があります。そのほか、条文上は、合理的配慮という言葉が使われているというわけではありませんが、日本政府から提案していただいた「法の下の平等の中での司法手続きにおける合理的配慮」の問題や表現や意見の自由、アクセシビリティについても合理的配慮の問題に関わるところです。
 一応、このような形で合理的配慮が今回の草案に触れられてはいますが、合理的配慮をしないことが差別であるとは書いてありません。条文の書きぶりとしては、合理的配慮を提供するため、適切で効果的な措置をとるとか、適切な段階を経ることにより公的な情報を提供するなどの形で、国家の義務として書かれているに留まります。(もちろん国家の義務の程度は、さまざまな書きぶりですが)。
しかし、こう書いてあるけれど、果てして「どの程度の義務なのか、権利なのか」という議論となったときに、「これをしないことが差別である」とは草案に書いてないので非常に弱いのです。だから、このままでいいのだろうかという不安感をもっています。

なぜ合理的配慮が必要か

 こういう合理的配慮の話をすると「どうして障害者だけそんな特別な配慮が必要なのか、誰が金を出すのか」という人が必ず出てきます。講演会などで「皆さん、今日どうやってこの会場まで来られましたか、誰かの援助を受けてこられた人はどのくらいいますか。手を挙げてください」と聞くとほとんどいません。みんな自分の力で自分の金で来たと思っています。しかし、みんな公共交通機関、自動車などを使ってきているはずです。自動車にしたって道がなければ来られないわけです。バスにしても鉄道にしても明治以来、多くの税金と労働力とお金を投入し、その成果として、今のシステムがあるわけです。そのシステムを使ってみんな生活しています。そのシステムがなければ、社会生活は営めません。でも、そういう恩恵を被っているというのは誰も考えません。
 自分たちがそのような恩恵を被っているという意識がないので「どうして障害者だけ、特別のことが必要なのか」という発想が出てくるわけです。時代の進歩と共に、一般の人に対しては多額のお金をかけたいろいろなシステムが発展してきました。しかし、そのシステムの中で障害者のことが考えられてきたのでしょうか。私たち障害者は、社会の発展の中で取り残されてきたのです。だから、合理的配慮という視点がなければ差別というのは、ある意味では、社会が発展すればするほど拡大していくのです。障害者個人の責任ではありません。社会がむしろ差別を拡大し、問題を引き起こしているという側面があるのです。
 合理的配慮義務というのは社会進歩の中で見落とされ、無視され、排除されることで、生じた格差をなくしてほしい、少なくともスタートラインを同じにしてほしいという問題です。特別に障害者だけに配慮するということではなくて、これまで無視されてきたことをやめて、健常者と同じような視点を向けるということです。

合理的配慮と積極的な措置の線引き

 確かに合理的配慮と積極的な措置とは、どこで線引きをするのかという議論があります。積極的措置は、逆差別にあたるのではないかという観点から議論され、一見すると合理的配慮の問題とは、全く違う訳ですが、しかし、国家ないし社会が一定の作為をしなければならないという点では、同じ側面を有します。その面から言えば、どこで線引きするのかという議論も成り立ち得るでしょう。しかし、両者は内容が全く異なると思います。少なくとも一定の配慮をしなければ実質的な差別を生みだすもので、障害を理由とした区別、制限、排除という不利益取扱の場合と同視できる場合は、合理的配慮の問題として扱い、それを欠くことは差別だと考えるべきだと思うのです。だからその区別を文章化することは難しいのかもしれませが、これを差別として扱わなくていい、ということにはならないと思うのです。
 合理的配慮は新しい概念で、これを権利条約に入れるのは難しいという議論もあります。しかし、もとをたどれば、合理的配慮という言葉を使わないだけで、同じような考え方は以前からたくさんありました。たとえば、労働基準法や労働組合法は私に言わせれば、合理的配慮義務の塊です。近代憲法下では、労働者と雇用者は平等だと言われていました。だからこの平等観念を受けて、民法には雇用について条文があります。これは当事者が対等であることを前提に書かれたものです。しかし、現代憲法下では、実質的には雇用者と労働者には不平等があり、これをどう埋めるかということで、団結権等が認められております。それを基に作られた労働基準法、労働組合法は、形式的平等を前提に作られた民法を修正する形で、作られた特別法です。不平等に対して、実質的な平等をどう確保するかという観点からいろいろな使用者の作為義務や受忍義務などを盛り込んで、実質的平等を確保するための権利義務を規定したのが労働関係の法律です。このように不平等な関係に置かれたときに、これを是正して実質平等を図る考え方は昔からあったわけです。こういうことを忘れて、合理的配慮という概念は今までなかったからできない、という議論にはなり得ないと思うのです。

金銭負担の問題

 あと一つ、お金がかかるという問題があります。たとえばエレベーターを後で設置する場合はかなりお金がかかります。小さなお店に要求することができないのはよくわかります。しかし、火事や地震などが起こるたびに建築基準法が厳しくなって、建物を建てるときには多額のお金がかかるようになってきているのです。人が焼死したらいけないからということで設置するスプリンクラーなど、設置費用は、かなりの額になります。ほとんど使う機会がないにもかかわらず、建設するときには、どうしても作らなければなりません。設置しても、この建物が解体されるまで、訓練では使われることがあっても1回も使われないかもしれません。そういう一般的な危険性については、建築基準法が罰則をつけて強制しても国民は何も言いません。でも私たちが、毎日使う所に階段があって利用できないことがあるのです。毎日必要なのに、別に建築基準法で強制もされずハートビル法で努力義務になっているに過ぎません。これはおかしいと思いませんか。「障害者のため」とつくと、思い込み的な慈善的な発想がどこかにあるわけです。国民全般のこととなると金を出して当たり前ということで従います。そこに何か考え方の差別性があるのかもしれません。
 ですから、民間だから、お金がかかるから、こういう義務を課すことは難しいという議論はおかしいと思います。他の問題であれば、似たような事例はたくさんあるわけですから、他の事例と同じように、障害者の問題もきちんと義務づけるところは義務づけ、お金をかけるべきところはかける。もちろん、小さな企業にお金を負担しろというのは無理かもしれませんが、そこはバランスの問題でしょう。原則としては差別の一類型として、合理的配慮をしないことは差別であり、その差別を受けない権利を認める形で条約の中に、保障すべきだと私は考えています。

 最近、駅のプラットホームに柵が設置されはじめています。私は今まで4回ほどプラットホームから線路へ転落したことがあります。その頃国鉄(現在はJR)にホーム柵や点字ブロックをつけるように要求してもなかなか認めてくれませんでした。それが、最近酒に酔った人などが落ちるので柵をつけるようになってきました。ですから障害者の利益になるということは実は高齢者や子どもなどにもプラスになるということで、権利条約が決して障害者のためだけのものではないと、今、東さんのお話を聞いて考えさせられました。
 パネリストの最後として、午前中の特別報告でもお話しいただきました外務省の小川秀俊さんに政府を代表して、特に政府として強調したいことなどを補足していただきたいと思います。

NGOの参加は重要

小川 まず、3人のパネリストの方がおっしゃったように、合理的配慮を厳しく義務づける条約ができれば、障害者の権利の促進のために素晴らしいことだと思います。けれども、条約である以上は国際的に多くの国が締結(批准)できるような内容でなければなりません。もちろん、あまり低いところに引っ張られるようでは、意味が薄れてしまいますが、あまりにも高すぎる基準を設定すると、ついていける国が少なくなります。ふつう条約には、例えば20ヶ国が批准したときに発効するといったように、発効するための条件を決めてあります。条約文が出来てもなかなか発効しないのでは困るので、よく見ていく必要があります。また、発効したとしても締約国数が極端に伸びないようでは、国連の場で国際的な人権条約として制定された意義が薄れてしまうことにもなります。
また、条約だけではなく、それと並行、連動して、立派な国内法に引き直していくこと、あるいは既存の法制度を条約の精神・趣旨にかなう形で適切に運用していくことが不可欠です。それによって条約内容が実体化されることが権利の促進のためには不可欠だと考えています。そのためにも、障害者権利条約について多くの方に興味を持って頂き、国内的にも議論を盛り上げて頂くことが重要と考えております。
 次回は第4回の特別委員会での議論になりますが、一部の国からはもうNGOには遠慮いただきたいという主張も見られます。しかし、交渉が始まったばかりの現時点でNGOを排除して秘密交渉にする必要は全くないと思います。日本としてはそういうやり方には反対であるということを、議長や議長を補佐する役の国にも強く申し入れたところです。

 以上で4名のパネリストから権利条約の制定、今後の展望に関わる問題提起をいただきました。これを受けて、今度は指定発言としてもう少し課題を限定して4名の方に、問題提起をお願いしたいと思います。
 主には、障害の種別ごとのニーズです。この権利条約でどういう課題があるのかということを当事者の体験、思い、ニーズにそってご発言いただきます。それから、権利条約の中で差別は何を指すのかに絞ってお話をいただきます。
 それでは最初に、DPIの金政玉さんから、障害者差別とは何なのか、権利条約の中でどういう議論が展開されているのかについて、ご報告をお願いしたいと思います。

指定発言者からの発言

差別の定義

 JDF準備会の中では、障害者権利条約の推進に関する専門委員会があるのですが、専門委員会の事務局を担当しております。今、権利条約の特別委員会の中で、差別の定義についてどんな議論が行われているかという点について、ごくポイントの部分だけお話をさせていただきます。
 まず、差別の定義に関わる条文としては、草案の第3条(定義)と第7条(平等及び非差別)が挙げられます。特に7条に中身としてはよく触れられていると思います。すぐにはわかりにくい言い方なのですが、まず「直接差別」と「間接差別」という言葉が第7条2項にあります。基本的には障害を理由とする「あらゆる形態の差別」のことです。具体的に日常的に起こる差別事象を、どれが差別で、どれが合理的な区別なのかを判断をするのは難しいことです。そういった難しい現状がある中で「あらゆる形態の差別」という中身の問題をこれから考えていく必要があると思います。それは、国内の障害者の差別禁止法などをこれから検討していく場合でも要になる論点だと思います。

直接差別と間接差別

 簡単に直接差別と間接差別のことをご説明します。直接差別というのは、言葉を換えて言うと、たとえば雇用主が故意に障害者を解雇する、障害があるとわかっていて一方的に解雇するといったことが直接的な差別に該当すると思います。
 次に間接的差別ですが、草案をつくった作業部会で取り上げられた事例としては、エレベーターが設置されていない2階でレストランを経営する経営者は、最初にレストランをつくるときに、障害者を利用させたくないから2階にレストランをつくったのかといえば決してそうではありません。立地上などいろいろな条件で、2階にレストランをつくったといえると思います。しかしその結果、エレベーターがないとなると、車イスの使用者が自分でレストランを利用することができないのです。こうした結果としての放置された差別が、間接的な差別には非常に多いのが現実だと思います。
 そこで、レストランの経営者が何も配慮しなかったら、直ちに間接的な差別に当たると言えるかどうかも、今後の議論だと思います。過度な負担、不釣り合いな負担がある場合は、その限りではないということも草案の中には書き込まれているのですが、私は不釣り合いな負担があるときは、説明責任が事業者には求められていいのではないのかと思っています。なぜ、適切な配慮ができないのかという意味での説明責任です。その説明責任を行ったうえで、公的な施策としてどういう場合にそれをカバーしていくかということが、今後の国内的な差別禁止の法制を考えるうえで、非常に大きな課題だと思います。

差別の免責事由

 次に差別の定義に関わるところで、今後の論議の中で重要な課題として皆さんに理解してほしいと思いますが、草案の第7条3項に「差別の免責事由」が述べられています。「差別の免責事由」というのは非常にわかりにくい表現ですが、簡単に言うと、締約国が、障害者に関する法律などを定める場合に、正当な目的があって、合理的な基準であれば、一定の合理的な区別は差別とは見なさないという内容です。これは今後のそれぞれの立場から議論していくべきだと思います。
 具体的には欠格条項などの問題に、当てはまる場合が多いと思いますが、たとえば運転免許の試験を受けるときの適正基準というものがあります。聴覚障害者の方の場合なら、90デシベル以上の音が聞こえるか聞こえないかで適正基準に該当するかどうかが判断されます。視覚障害者の場合だったら、視力0.7以上がないと、運転免許の試験を受けられません。そういった基準は当事者から見ると、決して合理的ではない場合があるわけです。
 ここで差別の免責事由を定めてしまうと、そういった問題点が曖昧にされ「合理的な区別」が拡大解釈されてしまい、当事者の権利の主張がしづらくなってしまうという問題があると思います。既存の人権の諸条約では「差別の免責事由」は、どこにも盛り込まれていません。障害者の権利条約にだけ盛り込まれていくのは、権利条約の権利性の水準を後退させてしまうことにもつながりかねないので、JDF準備会としては、基本的には反対をしていて、意見書や要望書を政府や各政党に提出する取り組みをしているところです。

 何を基準に障害者差別と見なすのかを規定しようとするのは非常に難しいのです。障害者が社会生活を送るうえで、不利な状態に置かれることについてはできる限り解消する方向が望ましいと思いますので、運動当事者の力、団結は非常に大切だと思います。
 次に、障害をもつ個々の立場から、権利条約にどういうことを盛り込んでほしいのかということを意識して、ご発言をお願いしたいと思います。最初は、日本身体障害者団体連合会の理事の嵐谷安雄さんからご報告、問題提起をお願いします。

雇用問題が大きな課題

嵐谷 権利条約はいったい何なのかを当事者にどう伝えるかが今後の課題ではないかと思います。権利条約は国内法ではなくそのもう一つ上の大きな枠組みにある条約であるので、個々の障害者当事者の細かい部分を規定するものではありませんが、その中でも、雇用問題が一番大きな問題ではないでしょうか。
 法定雇用率が1998年には1.6%から1.8%に引き上げられましたが、実質は1.4~1.5%程度の雇用率になっています。法定雇用率を達成できなかった企業に対しての雇用納付金は1人当たり月額5万円、年間にして60万円支払うことになっています。これは制裁金でも罰金でもないという非常に曖昧なもので、企業に対しての制裁になるのかならないのかが明らかにはなっていません。やはりこのあたりはきちんとした法制化をして、雇用の促進につなげていかなければならない問題だと思います。
最低賃金法の中の適用除外の部分で「精神、または身体の障害により、著しく労働能力が低い者」とあります。これは障害者の不利益で、大きな差別だと考えています。このあたりも、当然是正していっていただきたいと考えています。
 また、障害者自身、それぞれ障害があってでも自分で精いっぱいの努力をするという部分が今後の障害者としての課題ではないだろうかとも考えています。

 嵐谷さんからはいまだに法定雇用率を達成されていない状況の中で、権利条約、これに関わる国内法でどう補って拘束力をもたせていくのかということを、特に条約の中で取り上げてほしいテーマだという問題提起を受けました。
 続いて、日本盲人会連合国際委員会事務局長の指田忠司さんから、視覚障害者の課題、権利条約で採り上げるべきテーマなどについてご報告をお願いします。

指田 レジュメでは、1.「多様なニーズの反映」、2.「国内問題との連携」、3.「条約への理解の促進」の3点について触れましたが、ここでは、第1点目についてお話したいと思います。特に教育、情報アクセス、職業の問題について、視覚障害者のニーズと関連させながら権利条約制定の意義を考えてみます。

教育におけるニーズの反映

 一般に視覚障害者の文字といえば、点字であり、点字教育の重要性が強調されています。しかし、一口に視覚障害といっても、低視力(ロービジョン)、視野狭窄、あるいは色覚障害など、障害の現れ方や程度もさまざまです。したがって視覚障害者であっても、点字ではなく、残存視力を生かして普通の文字の読み書きをするほうが当人にとっても都合がいいわけです。このように考えてくると、視覚障害者に対する教育は点字によるだけでなく、その障害に合わせて、大活字(ラージ・プリント)の印刷文字や、拡大読書器などの補助装置を用いた読み書きの教育も必要になります。
 日本では、文部科学省が点字教科書を作成・提供してきましたが、ようやく今年度から、弱視児童・生徒向けの拡大教科書の作成・提供が始まりました。これは弱視者の方々が長年訴えてきたニーズが、ようやく国に理解されて実現したものです。

情報アクセスにおけるニーズの反映

 次に情報アクセスについて考えてみます。現在、視覚障害者は、音声あるいは点字のディスプレイを通じてコンピューターへのアクセスができるようになってきました。これも技術革新の恩恵を受けているわけですが、すべてのパソコンやソフトウエアが視覚障害者にとって使いやすいわけではありません。その意味で、パソコンなどのハードウエアばかりでなく、ソフトウエアの開発段階でも、視覚障害者のニーズを取り入れて、視覚障害者が音声や点字を使って十分アクセスできるシステムをつくっていく必要があると思います。
 午前中のコーディネーターの辻川さんもおっしゃっていましたが、ウェブ・アクセスについては、日本でもかなり有効な指針が出されています。これはW3C(ワールド・ワイド・ウェブ・コンソーシアム)という団体が国際標準を目指して作成した指針を参考にしたものだと思います。情報アクセスについては、ITU(国際通信機構)などが国際レベルでこの問題を討議し、WSIS(世界情報社会サミット)の宣言などでも取り上げられています。その意味で、視覚障害者の情報アクセスの権利を保障するためにも、権利条約において、視覚障害者固有のニーズに着目した形で機器開発やアクセシビリティの保障が行われるような仕組を設けていただくことが必要になると思います。

職業におけるニーズの反映

 第3に、職業について考えてみます。権利条約の中では英語で“employment”と表現されていますが、これは、労使関係を前提とした「雇用」だけでなく、“self-employment”という言葉があるように、元来「自営」を含めて「仕事に従事すること」を意味しています。「雇用」の場面では、使用者が障害のある労働者に対して「合理的配慮」を行うことが必要だとされており、権利条約草案でもその意味内容が論じられています。
 ところで、視覚障害者も含めて、障害者の多くが、自営業を営んでいます。日本では24,000人の視覚障害者が鍼灸マッサージの仕事に就いていますが、その大半が自営です。アメリカ、スペイン、タイなどでも、視覚障害者のための自営支援プログラムがあります。こうした現実を直視して、雇用だけでなく、自営業で働く障害者の競争力を強化するような施策が求められています。権利条約草案の検討に際しても、こうした自営障害者のニーズを踏まえて、障害者の働く権利全般についてこれを保障していくようなものにしていっていただきたいと思います。

 視覚障害をもつ立場から、文字情報へのアクセス、それから、特にITを使った情報入手の問題、そして職業・雇用の問題が、視覚障害者固有の課題としてあるということでした。私はこれにさらに交通の問題、移動の問題もテーマとして加わると思います。視覚障害者固有の問題はもちろん国内法で保障されなければならないわけですが、権利条約においても課題にしていって、それが国内の法律にまた反映をするという関係になるのではないかと思います。
 次に長い間医療の名のもとに隔離的な厳しい処遇を受けて、いまだにこういった状況が続き、十分な権利保障がないという立場から、全国「精神病」者集団の山本真理さんから、当事者の立場、権利条約に対する提起も含めてお願いをしたいと思います。

強制収容・強制医療の禁止の現状

山本 実は、今私は閉鎖病棟に入院中で、任意入院ですから当然解放処遇等ことで、主治医の許可の下昨日は外泊をして、今日また閉鎖病棟に帰るのです。
今現在わたしたち精神障害者は障害を理由として、鍵をかけて閉じ込められています。私ども全国「精神病」者集団も、そして世界精神医療ユーザー・サバイバー・ネットワークもこれは差別であり、人権侵害であり、絶対あってはいけない、そういう主張のもとに、権利条約に強制収容、強制医療の禁止を入れることを主張して、草案に書き込まれました。そのことは我々にとっては大きな歴史的な勝利であったと思うのですが、午前中に小川さんがおっしゃったように、世界中のどこの国においても強制収容法、強制医療を正当化している法律のない国はありません。逆に言えば、それを禁止している国もないという現状では、非常に難しいところにきていると客観的には認識しています。
 先ほど合理的配慮のお話が出ましたが、たとえば今閉鎖病棟に入院していて、医療側が「この人は現金を取り扱う能力がない」と判断したとします。これが適切かどうか検証するシステムは今ないのですが、一応正しかったとします。
そうするとお金を管理してあげるから、その代わり病院が管理料をとりますということになります。生活保護で入院している人たちにとっては、なけなしのお金から、毎月安いところで3,000円、高いところで6,000円ぐらいが、管理料としてとられてしまうわけです。そして生活保護受給すらできない人は家族にお小遣いをもらうしかなく、生活保護受給者の日用品費以下の小遣い銭しかない方がたくさんいます。そういう方に家族が月1万円入れても、手元に渡るのは4,000円などという事態になっています。

お金の管理をお手伝いするための料金を誰が払っているのかというと、実は精神障害者本人なのです。本当に現金管理能力が一時的に落ちているとすれば、当然それに対する介助は障害への介助として無料で保障されなければならないのに、現実には応能負担ですらなく、応益負担でもなく一律に管理料が取られています。合理的配慮など一切ない厳しい状態です。
 私たちが「これは人権侵害だ」と精神病院で言ったらどうなるでしょう。たとえば、閉鎖病棟の中で何か起こって、私が「人権侵害だ」と言ったとすれば、人権侵害あるいは人権を主張すること自体が症状としてとらえられ、そしてそれが懲罰的な強制医療の対象となります。そういったことに今はまったくチェック機能はないわけです。
 では、それは強制医療や強制収容はやむを得ないから手続き的保障をすればいいのかというと、そうではないと我々は主張しています。確かに日本の精神保健福祉法は非常にルーズで、強制医療・強制入院をチェックする独立した第三者機関もありません。行政に事務局のある精神医療審査会しかなく、独立した事務局すらありません。そういう意味では欧米のほうがはるかに手続き的には厳密です。

EUによる精神障害者の人権保障のための提言採択

山本 では欧米では強制入院は本当に減っているかというと、この10年間、むしろどんどん拡大しています。先日デンマークで世界ユーザー・サバイバー・ネットワークの総会がありました。そこで大きな議題となったのは、というよりもこの権利条約を考えるうえでの一つのきっかけとなったのは、EUのヨーロッパ評議会、別名閣僚理事会が、この秋に精神障害者の人権保障のための提言採決をしようとしていることです。これは精神障害者のヒアリングを一切していないという、手続き的にもひどいことです。中身はすでに各国でつくられている強制医療法、あるいはもっと強制を拡大することを認めるものです。
 その中で、とりわけ私どもがひどいと思うのが「精神障害をもつということだけを、生殖能力を永久に奪うことを正当化する根拠としてはならない」としていることです。裏の意味をとれば「精神障害以外で何かの理由・根拠があれば、強制断種をしてもいい」と読めます。あるいはそれを許容し得ます。それをわざわざ精神障害者の人権保障の提言の中に書いているのです。
 このように、ヨーロッパ人権条約の水準よりはるかに下回ったものを、わざわざ精神障害者のための人権保障という形で作られようとしているのが、今のEUの現状にあります。国連の障害者権利条約における強制をめぐる議論を聞いている方ならばEUのあの言い方というのは想像できると思います。この背後には、精神保健全体が、各国で強制的になっていることがあるわけです。

強制医療はやってはならない

山本 日本でも、優生手術の問題で言えば、つい最近も福岡県で生活保護受給の精神障害者に対して「お宅の奥様はお体が弱いようですから、こういう手術もありますがいかがでしょう。もちろん強制ではございません」と言って、自己決定に基づく優生手術を勧めたという事件も起きています。
こういう時代ですから「本音は条約の中でどこで譲るつもりか」という質問を私もときどき受けますが、ともかく強制を理由とした拘禁というのはあってはなりません。そして、我々のことは我々で決める。自己決定に例外はつくってはなりません。つまり、強制医療はやってはならない。これは我々の譲れない線として、絶対に守らなければなりません。精神医療における拘禁というのは、国家にとっては非常にやりやすいことです。これは決して精神障害者だけの問題ではなく、すべての人の人権の問題として譲れない一線だと思います。

 とりわけ精神障害者が置かれている医療の名による差別、強制的な医療・管理の厳しい状況に対して、法的にどうこれを守るか。もちろん法律だけで守れるものではありませんが、権利条約の中で、どう明文化できるかということが大きなテーマだと提起されました。

質疑応答

 十数名の方から質問が寄せられました。最初は嵐谷さんに対する質問です。

三田 嵐谷さんに二つあります。一つは「当事者、障害当事者自身のいっそうの自己努力が必要であると言われましたが、具体的にどんな努力でしょうか」。もう一つは「日身連の中に人権委員会を結成したほうがいいのではないでしょうか」というご意見です。

障害者の自己努力

嵐谷 では、最初の質問にお答えをさせていただきます。障害者には非常に甘えの部分があると私は思うのです。どういうことかといえば、仮にものを落として自分で拾い上げるだけの力はあっても「拾ってほしい」と頼んでしまったり、あるいは3m向こうまで自分で何とか歩けるけれども、それを「おんぶしてほしい」、「抱っこしてほしい」と頼んでしまうという、甘えの部分がどうしても出てくる部分が多いのです。それを自分はここまでは努力してできる、残りの部分は行政なり福祉施策の中でやっていただく、と考えてほしいのです。自分でできる能力の部分は精いっぱい自分でやるというのが、私の持論です。

人権委員会の設置

嵐谷 人権委員会を設けることはいいことではないかと思います。私も理事の1人ですので、働きかけたり相談をして立ち上げる方向ができればいいのではないかと思います。

三田 日本障害者協議会の藤井さんにご質問です。「障害者の同意を得ないで家族の決定で入所施設への入所決定を下すことは差別に該当しますか。私の考えでは差別であり、障害者の自己決定に基づいて入所が決められるべきだと思います。支援費制度が始まりましたが、どうでしょうか」という質問です。

本人の同意を得ない施設入所

藤井 支援費制度のセールスポイントは「自己選択」「自己決定」です。とても耳障りがいい言葉ですが、こういう言葉には注意したほうがいいのです。私は今の質問は基本的に差別だと思います。
 選択には形式選択と実質選択があって、本当の実質選択のためには、私は四つ条件があると思います。一つ目には、知的障害のある方へ配慮された情報を提供するか、工夫を凝らした情報をどう提供するか。つまり、わかってもらえるための工夫があるかどうかです。
 二つ目は、選択という場合に選択肢がどれくらいあるかです。支援費には選択肢は多くありません。まったくない地域もたくさんあります。
 それから三つ目は試行的、つまり試しで利用する可逆的な施策になっているかどうかです。やってみたけれども、やはりこれはどうも具合が悪いので、やめることができるかどうか。
 四つ目は、やはり親子というのは場合によっては利害がぶつかります。ですから妥当性を評定する第三者の部署があるかないかです。
 これに加えて、差別というのは人の意識にかなり起因することですから、それをモラルにしてしまってはいけないと思います。極力、政策化していくことが大切なポイントだと思うのです。さらに支援する側が障害者の気持ちになれるかどうかということも大きいと思うのです。
 そう考えると、20歳あるいは18歳を超えた方たちの進路を親が決めるのは、よくないと思います。ましてや本人がいいと思っていないという場合には、完全に差別に当たるのではないでしょうか。

三田 東さんからご発言があるようです。

自立生活の権利性

 支援費制度になって選択という形で自己責任も問われるようになってきおります。しかし、施設入所自体は一般の生活形態とはまったく違う形態です。そのような入所施設をほんとに任意で選択して入所するということがあり得るでしょうか。
アメリカでは1970年代の初めぐらいから、施設入所をめぐる裁判という形で脱施設化運動が始まりました。一番新しいものとして、原則として地域で生活する権利を有するという「オルムステッド判決」というのが出ています。例外的に医療的ケアなどいろいろな面で施設処遇が必要な場合は別として、原則として地域で暮らすのが当たり前だと連邦最高裁の判決が言っているわけです。
 アメリカの国家予算では70年代の福祉予算は施設処遇の予算がほとんどでした。でも、今では大きく減ってきて、逆に地域で生活するための予算が増えています。ところが日本では予算約3,000億円のうちの6分の1ぐらいしか在宅の費用をかけていません。
 そのように選択肢がないところで「選びなさい」と言われても施設に入らざるを得ない状況があるわけです。入所措置自体が違憲、違法だという裁判を私はやっています。しかし、支援費制度になって措置ではなくて契約となったので、そういう訴訟自体が非常に難しくなっています。
 しかし支援費制度になっても、社会サービスの劣悪さにより入所を選択せざるを得ない状況があるわけです。そういう意味で、社会サービスについての行政の無制限の裁量権を限定させ、自立生活のための必要最低限度のサービスを確保するためには、自立生活の権利性をきちんと権利条約の中に入れ込む必要があるのではないかと考えています。

三田 東さんへの質問は「人は生まれながらに権利があるのか、社会から与えられるものか」という内容です。

権利は勝ちとるもの

 「天賦人権説」は近代憲法以前にはありませんでした。近代憲法以前の社会から生まれ変わるときに、「人は生まれながらにして自由権を有する」というスローガンのもとに「人権は生まれながらにして与えられるものだ」という考え方が出てきます。これが「天賦人権説」です。平等な権利をもっているというのは普遍的な原理であるはずです。そのことを教えてくれるこのスローガンは非常に重要だとは思います。
 しかし実際、権利はどうやって勝ちとってきたのでしょうか。人権侵害をされている側が社会に向かってアピールして、自分たちの存在を認めさせるプロセスの中で権利というのは生まれてくるわけです。天賦人権説も当時抑圧を受けていた側の運動の理念であり、スローガンであったわけです。だから、何もしなくて、当然与えられるものと言うことを意味するのではありません。「権利は社会が与えるものでもなくて、勝ちとるものだ」とドイツのイェーリングが言いましたが、やはり権利は勝ちとるものだという認識が大切ではないかと思っています。

職場における手話通訳の問題

 次の質問は「地方自治体で障害者を対象とした公務員採用の際、『自力事務が可能な者』という職務遂行能力条項があります。手話通訳者は介護に当たるかどうか議論が必要だと思われます。条約締結後、こうした問題についての取り組みの見通しはどうなるのか」という内容です。難しいところではあるのですが、これも合理的配慮義務の問題です。
 ジョブコーチという制度はありますが、ここで言われているのは手話通訳を必要とされる方が就職する場合に「うちでは手話通訳者がつけられないから採用しない」ということが差別に当たるかどうかという問題になってくると思います。
 手話通訳者がいないと必ずしも仕事ができないかというと、できないことはありません。やはり職場では他の人とのコミュニケーションが必要ですが、1人でできる職種もあるわけですし、実際上も1人でできる職種にかなりの多くの人が勤務していと思います。人と話せるということが職務の本質的な能力とは限りません。だから、これをもって採用を拒否するということは合理的配慮以前の問題として、差別に当たると言えます。
 それとはまた別に、ひとりぼっちで仕事をさせればいいということにはなりませんし、これほどつらいことはないと思います。ただ、合理的配慮義務として、同僚に手話が出来る人を配置することや、聴覚障害者の人に手話通訳をつけることを要求することが権利になるかというのは、合理的配慮義務の範囲の問題で、特に後者では一般的には難しいところもあります。しかし、大きな会社で何人も聴覚障害者がいる職場であれば、手話通訳ができる職員を養成するということは会社の義務と言える場合もあると思います。それは会社の規模、職務の性質などによって合理的配慮に入るかどうかが具体的に決められていくのではないかと感じます。

知的障害者の権利

 三つ目の質問です。「知的障害者の権利はどう考えておられるでしょうか。措置から契約へと変わり、表面上は権利を保障しているように見えますが、当事者は一方で契約能力はないとされているのはおかしいと思います」という内容です。
 まず前提としてあるのが、法的に能力についての制限することがいいのかどうかという問題です。国によって後見制度にはいろいろな違いがありますが、自己決定する能力は誰もがもっている、ただ、それを困難にするいろいろな状況があるから、その部分をサポートするのが後見制度として考えるのがベターでしょう(支援を受けた上での自己決定)。他人が代わって決定するのではなくて、その人が困難にしている部分を援助して、決定できるようにするというシステムに変えていくべきだと思います。
 それは、足が動かないから車イスを押す人に助けてもらうのと何ら変わりはありません。そういう意味で知的障害をもっている人も、権利条約に書かれている権利は基本的に共有の対象であると思いますが、日本でも民法の根幹的な部分にかかわる問題であるだけに、行為の能力に関する制度に影響を与えるほどの条約になるのは困難だと言われています。

 次に全日本ろうあ連盟の安藤さんに対して聴覚障害をもつ方からのご質問です。

職業訓練校における通訳制度

安藤 質問の内容は「ろうあ者が職業技術を身につけるために職業訓練学校に入りたいと相談をしたけれど、通訳制度がなくて断られた」ということです。
 全日本ろうあ連盟は、これまで公的な施設、病院には手話通訳者を絶対に配置をしてほしいという運動をしてきました。日本の福祉の歴史は行政主導になっています。この弊害を改めて、福祉施設は障害者個々のニーズに合わせて施設運営をすべきです。だから、職業訓練学校も障害者から要望があった場合は、手話通訳を配置するのが普通です。それを公的施設などがしていないのは大きな差別だとこれまでも主張しています。手話は言語的に認知されていません。医療、教育、労働の場において国全体が手話通訳の統一的な制度を確立した場合は、教育や訓練の場に手話通訳を置けると思います。そういうことを目標にして運動してきています。その目標は障害者権利条約と大変関係が深いと思っています。
 午前中の八代さんのお話の中にもありましたが、権利条約を国連で論議をしていますが、制定されるのは早くて5年、10年後ぐらいだそうです。でも10年も待っていたら私たちはいなくなってしまいます。ただ、日本の今の福祉制度のレベル、障害者に対する国民の理解のレベル、また障害者自身の自立のレベルを考えたら、もう一歩踏み出せば権利条約の締結、批准を待たなくても国内での差別禁止法はできると思います。
 だから、権利条約の制定も大切ですが、並行して日本での差別禁止法の制定の作業も急がなければと思っています。このセミナーをきっかけとして障害者権利条約制定だけをがんばるのではなくて、国内で差別禁止法を早く成立させるということもあわせて考えていきたいと思います。それによって、権利条約の中身も深まり、広がってくるのではないかと思っています。また、職業訓練学校については、全日本ろうあ連盟としてもその学校の調査を行って、受け入れができるかどうかチェックをして、国に対して要望を出すつもりです。

 次に、国連のESCAPの障害専門官の長田さんに対する質問があります。関連で、外務省の小川さんからも補足的にお答えいただければと思います。

国内の差別禁止法のために求められる権利条約の中身

長田 午前中に私が「国連の国際モニタリングをあまり当てにせずに、国内法でのモニタリングをがんばってほしい」、と言ったことに関して「日本は外圧に弱いから国内法、差別法の制定を待っていてもらちが明かない。国内で差別禁止法が制定されるようにするには、どのような内容を条約に入れればいいのか」という質問です。
 まず1点誤解がありますから、誤解を正します。私は日本の国内法によるモニタリングの確立とは言わなかったと思います。国内法ではなくて、国内でのということです。ですから、差別禁止法があってもなくても、国内でのモニタリングは可能です。
 ただ、国連の職員として言わせていただくと、国連というところは国際世論をつくることは得意です。国連が何か言うと派手になるし、良い意味での言いたい放題で世論をつくって、その世論を使うことによって外圧をつくるということは国連が得意とすることです。逆に国連が苦手とする分野は、警察や裁判の機能です。国連が平和維持活動をしてもあまり実行力がない場合もあります。だから、モニタリングをする、世界の警察となって治安を守るといった仕事は、皆さんが思っておられるより不得意です。ですから、私が言ったのは国内でのモニタリングの確立に努力するべきだということです。

 そして、条約にどういう文章を入れたらいいのかというご質問です。バンコク草案の中に国内モニタリングと国際モニタリングの箇所があり、完璧に近い文章となっているので、そこを読んでいただければと思います。ですから、そのような条約を入れていただければ、国内モニタリングでも活用できる可能性はなくありません。
 では、国内で何ができるかということです。まず、第一に国内でのモニタリング機構を設定することです。そのためにはやはり国内に第三者の独立型の人権委員会のようなものができればいいと思います。そこが国内でのモニタリングの機能を果たすになると思います。もちろん、そこには障害者団体が入るということです。
 それから、マスコミ、マスメディアを使って、どんどん世論を盛り上げていくということが必要です。そして、NGOなどが活動することも必要です。こういった今やっているセミナーも活動に当てはまると思います。

外国と比べて、日本は国際的外圧に弱いというのはまったく逆だと思います。どちらかというと、日本は差別禁止法制定に近づいている国の一つだと思います。国連の権利条約が先か、日本の差別禁止法が先かと聞かれれば、私はわかりません。ひょっとしたら日本の差別禁止法のほうが先にできるということはあり得るのではないでしょうか。日本だけではなくて、どこに国も外圧が大好きです。国連の権利条約を待たなくても、先ほど言いましたように、もう外圧はあるのです。たとえば、香港にもオーストラリアにも差別禁止法がありますし、フィリピンのような途上国でも「マグナカルタ」という非常にいい法律をもっています。そういったものがどうして外圧にならないのでしょう。
 それから私から質問があります。合理的配慮、過度の負担の概念がある香港やオーストラリアではすでに裁判での判例があります。その判例はインターネットで探すことができます。権利条約ができた場合、海外での判例は、日本の訴訟、調停には使えないのですか。小川さんと東さん両方にお聞きしたいと思います。それがいい意味での外圧にはならないでしょうか。

モニタリング制度

小川 まず、モニタリングの話のほうからいきたいと思います。国際モニタリングの実効性について、長田さんからストレートなお言葉をいただきました。確かに、国際モニタリングは、強制力があるスキームではありません。国内モニタリングの方がその点幾分ましかも知れませんが、訴訟の前の段階では基本的には同じことだと思います。しかし、国内手続の場合には、裁判など「その後」があるのに対し、国際的には、別に人権分野で少々国際法を破ったからといっていきなり経済制裁をされるわけでもありませんし、極端な話、どこからか軍隊が攻めてくるわけでもないという意味で、強制力がないのです。ですから、各締約国がどれだけ真剣に自分のこととして受け止めて、条約の内容を実施するかということにかかってくるというのが基本的な出発点になります。
 しかし、こういうモニタリング制度を置くことにより、定期的に国際的な委員会に対して報告書を提出させられ、またその場に政府が呼び出されて、そのうえで丸1日各分野の専門家から質問を受け、更に勧告が公表されるのですから、各国当局にとっては相当なプレッシャーになるわけです。特に日本のようにまじめな国は、そこで厳しいことを言われると、外務省に限らず、関係省庁も真剣にとらえるものです。
 ですから国際的モニタリング制度は、実際各国政府にとり大変なものです。ご指摘のあったように、直接的な強制力を具備したものではありませんが、人権の保護促進メカニズムとしては、国際法の現状に即した興味深いものですし、一定の役割を果たしていると思います。ただ、現在の国際法のようにゆるやかな法のみならず、国内で有権的にものを進められるきちんとした制度を並行して整えるほうがよりよいと思います。もちろん日本の国内法であれば、それは日本だけの保障ということであって、世界の他国の人権には直接反映しないのですが、日本国内での人権促進という意味では、条約と整合的なきちんとした国内法が整備され、国際法も国内法も両方ともあるというのが一番いいと思います。

他国の制度が日本に与える影響

 香港やオーストラリアなどの進んだ制度が日本にどれだけ影響を与えるか。これは新しい施策、法律、制度をつくる際に、皆さん方が例えば「オーストラリアではこれだけいいものがあります。なぜ日本でそこまでいかないのですか。」というようなはたらきかけを、立法府や関係省庁に対して声をあげてしていただくことにより、一層効果的に作用すると思います。
 個別案件の裁判や調停の場となると、現存の日本の国内法をもとに判断することになりますから、オーストラリアではこのような判例がありますと言っても、日本の裁判所でそのまま使えることにはなりません。裁判は日本の法律に基づかなければならないからです。調停であっても他国の例というのは、その精神を間接的に参考にすることはできても、なかなかそのままでは使えないと思います。
 ですから他国の制度等で優れたものについては、日頃の運動の場でどんどん言及していただいて、日本の制度をさらにいいものに改善していくという、未来志向的につなげていただくのが一番いいだろうと思います。

外国の判例は根拠になりにくい

 弁護士の立場から言うと、外国の判例は、裁判所としては極めて採り上げにくい部類の証拠です。基本的には日本の法律の解釈に基づいて裁判が行われます。ただ、日本の法律の上に条約などある場合には、条約の解釈が日本の法律の解釈に影響を及ぼします。その条約はこういう背景でできてきた、条約はこういう形で外国では運用されていて、こんな判決がある、という場合であれば、日本の法律の中身を明らかにするという意味で外国の判例は使えます。
 しかし、条約を直接的な根拠として判決を下したという判例は本当に少ないのです。私も2002年のDPIの世界会議で国際文書に関するワークショップのセクションを担当するようにと言われて初めて国際法を勉強しましたが、日本語で書かれた日本の法律を見慣れている人が他の国の法律や判決を見ると、非常にわかりにくいのです。特に国連では日本語は正文になっていません。そういう関係もあって非常に言葉として伝わりにくい部分があります。だからそれを直接的な判例の根拠にするのは、裁判所としても非常に勇気がいるのが現実です。
 しかし、いかに難しい英語で書かれていても、条文自体を具体化すれば日本語でも具体的な内容をもつのです。だからこそ、今度の権利条約は、条約という性質の関係上、内容を細かく書くわけにはいかないという限界もありますが、なるべくそれを具体的にわかりやすく書くという努力が絶対必要だと思います。抽象的なものであれば、実際の裁判所では何の役にも立たないという結果にもなりかねません。なるべくわかりやすく類型化して規定をつくり変えていくという努力が必要ではないかと考えています。

リソースパーソンからの発言

 今までの討論をふまえた形でリソースパーソンのお2人に発言をお願いしたいと思います。1人は午前中にも基調的な講演をいただいた新潟大学の山崎公士さん。もう1人は東京大学先端科学技術研究センター特任助教授、全日本手をつなぐ育成会国際活動委員長の長瀬修さんです。

国内法と国際法の関係

山崎 これまでの皆さん方のご発言や議論、それから私にも質問をちょうだいしていますのでこれらをふまえてお話ししたいと思います。さらに私の直前に話題になったことなどを交えて、考えをまとめてみたいと思います。
 第1点は午前中に私がご説明申し上げた条約と法律の関係です。言い換えれば、国際法と国内法の関係と言えると思います。これには二つの側面があります。一つは国際社会では国際法と国内法はどうなっているのという話と、国内、たとえば日本ではどちらが上にあるかという話です。
 ここでは日本国内でどうかという話に集約したいと思います。日本国憲法98条の2項によれば、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」と書いてあります。要するに「国際的に確立した国際法上のルールを、日本政府はきちんと守ります」ということです。これだけだと条約と法律はどちらが上か下かよくわかりません。その上下関係をはっきり規定する法律はありません。
 従って、判例や学説において、日本では今どう理解されているかということになります。結論から申しますと、やはり日本では憲法がトップです。日本の国内法だけだとその下に法律、命令、規則、処分ときます。条約は日本が批准、加入したものについては法律よりは上、しかしながら、憲法よりは下ということになります。

 具体的な話をしますと、女性差別撤廃条約に日本が入ったときに、これと矛盾する国内法はいくつか直しました。たとえば、国籍法で、日本人男性を親とする子どもはすぐに日本国籍はもらえるけれども、父親が外国人で日本人女性から生まれた子どもはそうではなく、男女によって区別がありました。それで父親か母親が日本人なら国籍が取得できるようにしました。
 もう一つは男女雇用機会均等法という、雇用分野におけるジェンダー差別を規律する法律をつくりました。これをつくらないと日本の法状況が女性差別撤廃条約と矛盾するので、法律を改正したのです。
 これらを見ればわかるように、条約があってそれに入るということは、その国の法律より上の規範ができることになり、これは法の世界では大きな意味があるとご理解いただけると思います。

裁判での条約の適用

山崎 さて、先ほど話題になっていた裁判上、条約はどの程度使えるのでしょうかという話です。これは東さんもおっしゃっていましたが、実務的には非常に使いづらいと思います。なぜかというと、条約というのは基本的には他の国との間で約束しあっていることで、国民に対して約束しているわけではないという本質があります。
 しかし、「条約の直接適用可能性」というアメリカの法的な考え方があります。一般的には国民は条約を使って自分の権利主張はできません。そうはいっても、条約の書きぶりからして明らかに個人に権利を与えるような中身、権利性がはっきりしている規定については、裁判上、権利主張の武器として使える。これが条約の直接適用可能性の論理です。
 日本政府も基本的にはこの論理をふまえていると思われます。政府がどのように理解しているかで、その国の裁判所の判断が決まるというのが英米法上の判例の状況です。こういう点で見れば、障害者権利条約が障害のある方の権利性について明確に規定をすることができ、かつそれに日本が入れば裁判上援用、主張のために条約の規定を利用することができるようになると思います。

日本の国際貢献

山崎 第2点目は、先ほど、小川さんのご発言を聞いて感動しましたので、その点について申し上げたいと思います。私も国際人権を20数年勉強しています。20年ほど前は、残念ながら日本政府は国際人権、人権条約の批准に熱心ではありませんでした。自由権規約の批准、あるいは人種差別撤廃条約への加入などを進める過程経で、私も人権NGOのいくつかに関わってきましたが、外務省、その他の省庁の間の定期的な接点が非常に難しい状況が続きました。
 しかし、10年ほど前から、東京の「国際人権NGOネットワーク」と外務省の人権課との間に接点ができました。今回の権利条約の制定過程では、最後のまとめの段階になったら難しいかもしれませんが、それまではなるべく当事者の意見をふまえた制定を続けたほうがいいという判断を日本政府がされているという話をうかがって、大変勇気づけられうれしく思いました。世界では障害当事者の方やNGOが、自分たちの権利主張、エンパワメントのために条約をつくってほしいと運動されています。日本政府がその他の条約交渉国に対して、「ぎりぎりのところまではNGOの参加を認めるようにしましょう」ときちんとした態度をとってくだされば、お金のかからない大きな国際貢献になると考えています。

国内モニタリングの重要性と人権委員会の必要性

山崎 第3点目は、モニタリングの話を申し上げたいと思います。モニタリングについては国際的なレベルのものが重要ですが、むしろ私は国内の面について強調させていただきたいと思います。その国の法制度が条約に照らしてきちんとできているかどうか、行政慣行など矛盾がないかどうかという、一般的な検討と意見表明は国際的モニタリングでは可能です。しかし、障害のある方が権利侵害を受けた場合、個別的な一人ひとりに対応するのは国内的な権利救済レベルの話になります。
昨年10月の衆議院の解散により人権擁護法案が廃案になって、その後、残念ながら国会に再度提出にはなっていません。廃案になった人権擁護法案には重要な意味があると思います。その第3条で、障害のある人への差別禁止の規定が初めて盛り込まれていたのです。しかし、残念ながら廃案になってしまったので、また、スタートラインに戻ってしまいます。
さらに、裁判はお金がかかって大変で、みんなの前で自己主張しなければいけないため、めんどうで、場合によっては2次、3次の人権侵害を受けるかもしれず、泣き寝入りになっていることが今まで世界的にも国内的にもありました。正義に反する権利侵害、差別をそのままにしておかずに、権利救済の機会を提供することは、社会が税金をもってやるべきだということは、90年代から国際社会で合意されてきていることです。政府から独立した国内人権機関をつくろうというのがその動きです。
 今日のこの会議は、障害者権利条約ができることが非常によいことで、そのために日本社会の知恵を集めて国連のプロセスに何とか強いインパクトを与えよう、そのことを知っていただこうという貴重な機会です。
 さまざまな人権分野が世の中にたくさんあります。それについて差別を受け、権利侵害を受け泣き寝入りしている方もたくさんいるわけです。この状況は、社会正義に反するもので一刻も早く改善しなければいけません。こうした泣き寝入り状況を許さない社会をつくるために、政府から独立した、裁判所ともまた違う第三者機関、たとえば、人権委員会をつくる重要性を、皆さん方にも認識いただければ幸いです。

 東京大学の長瀬修さんには、特に教育問題、それからNGOの評価、この点が今までの議論の中で少し弱い部分だとも言われていますので、補足的な提起、強調したい部分についてご発言をお願いしたいと思います。

NGOの参画・本人主体

長瀬 NGOの参画、教育について、さらに第4回特別委員会に向けて条約の構造の議論についても簡単に触れさせていただければと思います。
 まず、今回の障害者の権利条約策定の過程では、いくつか目立った特色があります。一つは、NGOと呼ばれる市民社会を代表する、政府ではない組織がきちんと参画できていることです。第1回特別委員会以来、障害者のNGOが「私たちのことを抜きにして私たちに関することは何も決めないで」(Nothing about us without us)という標語を繰り返し発言しています。
 国際的な障害者の人権保障のプロセスの中で、これまでもNGOの参画はありました。たとえば、1971年に「精神遅滞者の権利宣言」というのがありました。これは国連で宣言されたものですが、この宣言にもNGOは参画していました。私が今所属している「全日本手をつなぐ育成会」の国際組織は、71年当時は知的障害者本人を含まず、家族中心の組織でした。今は、本人もずいぶん入ってくるようになりましたが「精神遅滞者の権利宣言」は、当時の知的障害者の家族の提言によって行われたものでした。

 また、1981年の国際障害者年の宣言は、リビアが76年に国連総会で提案を行いましたが、リビアに働きかけをしたのは「国際リハビリテーション協会」という障害分野のリハビリテーションの専門家たちでした。
 しかし、今回の権利条約策定の過程では、もちろん家族や専門家の存在もありますが、中心になっているのはあくまで障害者自身です。このNGOの参画のみならず、家族や専門家から障害者自身へと主体が明らかに変わっているという点を強調したいと思います。93年に国連総会で採択された「機会均等化に関する基準規則」、略して「基準規則」の策定過程では、障害者自身の参画がある程度実現してきました。92~93年に私はウィーンの国連の事務局にいましたが、そういった審議過程で、知的障害者や精神障害者本人の発言、参画はほぼありませんでした。知的障害者についてはあくまで家族であり、精神障害者に関しては、その参画はほとんど何もないという状況でした。

 しかし、今回の障害者の権利条約策定の過程を見ると、知的障害者、精神障害者自身が代表となっているNGOが非常に活発に参加していて、時代が変わったと痛感させられます。私が所属している国際育成会連盟も、1月の作業部会、今年の6月の特別委員会に、10代から15年間もの施設収容を経験したニュージーランドの知的障害者自身が代表として出席することが実現できました。作業部会のときは2人、第3回特別委員会では1人の支援者がついて、委員会の内容を理解できるよう支援したり、発言の支援をしたりしました。車イスの方にスロープが必要なように、知的障害者本人にとっては、そういう支援も欠かせないバリアフリーの一環だということがようやく明らかになってきたと思います。ニュージーランドではすでに取り組んでいますが、条約ができた暁には、わかりやすい表現を用いた条約をつくることが必要です。そして、それには知的障害の方自身の参画が重要であると考えています。
 今回の権利条約策定の過程でのNGOの参画について振り返ってみると、NGOは特別委員会のあらゆる公開の会合に出席することができる、時間がある限り発言も許されるということが2001年の第1回の特別委員会で決まりました。それ以来、NGOは公開の会合には出席をして、政府の発言が終わった後で、NGOとして発言しています。そして、1月の作業部会では、40人の正規の委員が選ばれ、その3割が障害者NGOの代表でした。これは、これまでの他の人権条約をつくる過程と比べても非常に異色であると言われています。

 ここまでは順調に障害者NGOの参画がされてきました。今年の第3回特別委員会では、1月の作業部会でまとめた草案について議論をしました。それについてはどこからも異論が出ませんでしたが、もう少し議論を詰める検討にさしかかったところで、NGOが参加できるかどうかという点で、アフリカ諸国の一部からNGOの参画について異議が出て、NGOが参加する形ではこれ以上具体的な審議は進められないようになってしまいました。私は若かった頃に、青年海外協力隊でケニアに3年ほど行っていたこともあり、アフリカには特別の思い入れもあるので、非常に残念なことです。
 なぜアフリカ、またアジアの一部の国からそういった意見が出てしまうのかというのを考えたときに、私たち先進国のNGOとしては考えなければならないことがあると思います。それは主だった障害関係のNGOのトップにはどういう人たちが就いているのかということです。私自身が所属する国際育成会連盟のトップを考えても、ほとんど欧米先進国の人たちです。主だった障害者組織の中で、途上国の人をリーダーに据えてきたのは障害者インターナショナル、DPIだけです。そういったことから、NGOといっても、結局声として出てくるのは先進国の声ではないかという意見も出ています。  また、民主主義が確立されていない国は、市民社会を代表する存在であるNGOの参画を必ずしも快く思っていないようです。こうした声を受けて、今月末からの第4回特別委員会でのNGOの参加の形態がどうなるかは、現在も議論が行われているそうです。
山崎さん、小川さんからもお話がありましたように、日本政府が、NGOの参画について一貫して支持をしているのは非常にうれしいことです。

教育について

長瀬 第2点目は、教育についてです。作業部会草案の第17条に「『インクルージョン』か『専門的教育』か」と記されています。そして強制か選択かという課題もあり、この2点が大きな論点になっています。これはESCAPの長田さんからご紹介いただいたとおりです。
 従来は機会均等基準の規則6で統合を原則するとなっていますが、権利条約の議論の中で、「統合」の原則から「インクルージョンか専門的教育」へと論点が移ってきました。文部科学省は、機会均等基準の議論の際には強硬な姿勢をとって、専門的教育もしくは分離教育を訴えたという経緯がありました。今回も私どもは、その点は非常に懸念していましたが、現在のところ、作業部会草案では、機会均等基準のときのように大論争になっていないので、その点はご安心していただけるかと思います。
 障害者NGOの間では教育に関する多くの議論が行われてきました。それは、インクルージョンか専門的教育かという点に関することです。権利条約に関しては、国際障害コーカスというゆるやかな障害NGOの議論・協力の場があって、第3回特別委員会でも、教育に関してだけはコーカスとしての提案を行うことができました。

 全25条の作業部会草案のうち、教育に関しては一番議論が白熱してきた部分であるだけに、逆に、各NGOがまとまって話し合いをしなければ、バラバラな立場になって、政府、加盟国に対して一致した意見を出せないという危機感がありました。そのために、17条の教育に関してだけはNGOコーカス提案を出すことができました。
 その内容を全部は紹介できませんがかいつまんで申し上げますと、一つは障害のある子ども全員に地域でのインクルージョンの選択肢を保障することです。これはDPI、または国際育成会連盟が強く訴えた点です。もう1点は、ろうの子どもたち、また盲ろうの子どもたちが自らの集団の中で学び、手話と書記・音声言語のバイリンガルとなる権利を有するという点です。これは世界ろう連盟、また世界盲ろう者連盟からの提案によって行われました。3点目に盲、弱視の子どもたち、そして盲ろうの子どもたちが盲学校、特別学級で点字、もしくは他の代替的な形式で学ぶ権利を有するということです。これは世界盲人連合が訴えた点です。
コーカスとしては、この3点が第4回特別委員会で、教育に関する提案として採用されるように引き続いて働きかけをしていきます。

第4回特別委員会に向けて

長瀬 最後の第4回特別委員会に向けての議論について、主要な点だけご紹介申し上げます。今は第3条にある定義が本当に必要なのかという議論になっています。第4条の「一般的義務」と、第5条の「障害のある人に対する肯定的態度」、そして、第7条の「平等及び被差別」に関しては、EUが新たな3条提案を出し、4条、5条、7条を一まとめにしようという大胆な提案をしています。これが生かされるかどうかも、条約全体の構造にとっては重要なポイントになると思います。
 また、ジェンダーについては韓国が非常に熱心で、新たに第15条第2次案として女性の障害者についての提案をしています。これは今のところ多くの支持が得られていますので、おそらく新たな条文として盛り込まれると思われます。
 また、第21条では健康とリハビリテーションが現在同一の条文になっていますが、これも分けたほうがいいという提案が出ています。また、第23条の「社会保障及び十分な生活水準」も、それぞれ分けたほうがいいという提案が出ています。第24条では、文化的な活動とリクリエーションや余暇、スポーツを今はまとめていますが、これも、文化的な活動とレクリエーションやスポーツとは分けたほうがいいという提案が出ています。
 そして最後に、今まで独立した条文としては認められていなかった国際協力が、第24条第2次案としてメキシコから提案されていています。これに関しては欧州連合(EU)が強硬に反対してきましたが、今の雰囲気ではおそらく認められることを考えられます。
このように、構造の点だけ見てもまだ非常に多くの論点が残されていて、一筋縄でいかないとは思われますが、議長からは来年の9月を目指すというスケジュールも出ているので、できるだけ早く、しかし中身はしっかりとしたものを作っていく必要があると思います。

三田 今までのお話を通して、いろいろな話が出ましたが、発表者の方にお聞きになりたいことや提案したいことがありましたらお願いします。

その他提案など

時間がかかりすぎる人権条約の制定

藤井 20以上ある人権条約の中で、代表的な六つだけを見ても、提案があってから採択まで平均10年以上かかっています。それで、なおかつ採択してから日本で批准されるまで10数年、合計で20年以上です。
 障害者権利条約はメキシコ大統領が2001年10月から12月にかけて提案し、2001年12月の総会で特別委員会が設置ました。ここから20年以上というのはあまりにもかかりすぎです。子どもの権利条約は1978年にポーランドが提案して、採択が89年です。11年8か月です。その後ずっと何年かたって日本は批准しました。八代英太議員の話だと、批准されてから差別禁止法を作るとなると、いつのことになるかわかりません。
 課題の一つは、時間短縮と権利条約の水準性の担保です。もう一つは、国内の障害者差別禁止法の制定を展望することで、それは段階的ではなくて、同時並行させるべきです。先ほど長田さんがおっしゃったように、場合によっては差別禁止法を先行させて、その視点とレベルをもって日本政府は国連で発言していただいてもよいのではないでしょうか。これは戦略上考えていかなければいけないのではないかと思います。
 既存の6大権利条約の流れをふまずに、時間との関係、国内の障害者差別禁止法の制定との関係で、今後どんな運動をして、どんな日本政府へプレッシャーをかけていき、どんな世論形成をしていくのかを考えなければいけません。このあたりは東さんや金さんたちなどに、少し発言していただけたらと思います。

差別の免責事由は認めてはならない

 今後の進め方、道筋について今藤井さんが整理をされました。どういうことが今後の道筋の中で課題になるかということになると思います。私は同時進行にはもちろん賛成で、権利条約ができてその後に差別禁止法をとは考えていません。
 障害者基本法との関係で言うと、今回改正された結果、見直し規定にあたるの付則第3条に「5年後をめどに障害者施策のあり方の見直しを行い、必要な措置を講じる。」と書かれています。これは八代議員のお話では、この「必要な措置」は法的措置を含んでいて、当然差別禁止法の制定も視野に入れるということを意味しています。今日も八代議員は差別禁止法の制定と権利条約の制定が、ほぼ同じ頃にドッキングすることも十分可能ではないかと話されていました。長くても5年ぐらいの見通しで考えていきたいと思っています。
 ただ、私の指定発言のところで問題提起をさせていただいた差別の免責事由については、これからかなりこだわっていきたいと思っているのです。国内でこれからできる障害者関係の法律や、法律に基づく基準や運用に権利条約が役に立たなければ意味がないと思います。障害者の権利条約に他の権利条約にはない、合理的な理由がある場合は差別があってもやむを得ないという条項が差別の定義の中に盛り込まれることは、あってはならないと思います。これがある限りは、実際に裁判等で争う場合に権利条約が、国内法制との関係で、場合によっては足かせになる可能性は十分にあります。
 今後は、政府との意見交換、超党派でつくられていくと思われる権利条約の推進議員連盟の中などで、差別の定義に関わる内容をいろいろな切り口から議論をしていくプロセスが重要だし、国内でいろいろな場をつくっていきながら世論を喚起し、議論を活発に起こしていくことが大切です。
 日本のNGOと政府から、他の権利条約にはない差別の免責事由を障害者権利条約に盛り込むことのマイナス面を、国際的に問題提起をして、最終的には条約の条文からなくなる形にもっていきたいと思います。

差別の免責事由と合理的配慮との関係

小川 差別免責事由についてはこれから議論されていく予定です。外務省だけではなく、他の省庁も深く関わってくることなので今の時点で確言できないのは、隔靴掻痒の感はありますが、あくまで私見としてお話しさせていただきます。
 定義の中に、差別の免責事由を明記するのは、非常に危険な要素があるというのは金さんのおっしゃったとおりだと思います。他の人権条約においても、そのような免責事由については書かれていません。しかし、不利になるようなものを含めて、あらゆる異なった取扱いが差別になる訳ではないということは、条約の「行間」で読めると解釈されています。わかりやすい例を挙げますと、人種その他による差別は禁止と言いつつ、ある国に暮らしていてもその国の国籍のない人に参政権を認めないのは差別かというと、人権条約上は不合理な差別ではないから、国際人権規約違反にはならないというのが、これまでの規約人権委員会の確立した判断であり、国際的な慣行です。
 しかし、行間から読めるということと、読めるからといってそれを明記することとはまた別の話だと思います。従って、差別の免責事由を権利条約からすっかり落とすのか、落とさないまでも、誤解を受けないような書き方にするよう工夫していくべきではないかと考えています。

 なお、条約草案でわざわざ免責事由を明文化したのは、合理的配慮義務のような、他の人権条約にない障害者権利条約ならではの概念とセットになっているからという感じもしています。
 障害者への差別があることは絶対に許されないことですが、合理的配慮義務に関しては、規模の小さい企業に対して、どこまでその負担を課すことができるでしょうか。合理的配慮義務の欠如が差別となるのかどうかについては未定ですが、免責事由に関してはそういうことも絡んでいるような気もします。ですから合理的配慮義務のところでむしろ議論すべきなのかもしれません。もっとも、合理的配慮義務自体は、すぐれてケース・バイ・ケースのもので、国の政策といったレベルではなく、それぞれの裁判にもち込まれる個別のケースごとにまったく異なり得るものです。つまり、どこまでが合理的配慮というのかは、そのケースごとに判定せざるを得ないのです。合理的配慮の有無が差別の有無と直接因果関係があるとなると、差別の免責事由は、国の政策や制度のみならず、より一般的に関係してくるものになると思われます。

支援費制度の行方

安藤 支援費制度がスタートしましたが、財政的に行き詰って、介護保険との統合が選択肢の一つになっています。それから、教育問題もインクルージョンなどの論議がされていますが、国内では特別支援教育という方向が出てきて、障害者の学校、特にろう学校の統廃合という方向も出ています。戦後、身体障害者福祉法が制定されたときから、私たちは、障害者福祉は、国の責任で行う公的な保障であるべきとの目標を持って運動してきました。
高齢者とは違って、障害者には誰もがなるとは限りません。それを国が責任をもち、税金でみようという方向で、私たちは運動してきましたし、国もその方向を容認してきたと思うのです。けれども、国のお金がなくなって、三位一体の改革、補助金の削減という方向が出てきて支援費制度と介護保険との統合という話になりました。つまり、保険料を払わなければならないということです。介護保険の場合、応益負担で1割の自己負担が必要です。けれども、支援費制度の場合は応能負担で、一定の所得制限がある以外は、ほとんどは無料で援助が受けられます。これは、一つの権利としての保障を前提とした考え方があってのことです。現時点では、介護保険と統合に向けて今年の12月頃には法案ができて国会に出される方向です。このような動向は、障害者の生活や自立を脅かすものであり、障害者に対する差別に当たるのではないでしょうか。
今までの公的保障としての障害者の生活や自立の権利はどうなるのでしょう。このようなことも権利条約、差別禁止法とどう関係していくのでしょうか。
国の財政事情による福祉・教育改革のあり方などをどのように整理していくかなど、非常に難しい問題があると思います。当面は、このような方向をきちんと整理して、権利条約、差別禁止法につなげなければならないと思います。

自由権と社会権のリンク

 支援費も介護保険などの社会保障の分野は、憲法でいうと社会権に関することです。社会権の問題については、実施主体は国、行政で、障害当事者にはなかなか権利性はありません。極端に言えばプログラム規定説のもと、一定の目標にすぎないから、どの程度のことをやるのかは、国家予算を前提に国が決めるものだという考え方があります。そういうことになると、介護保険、支援費が障害者個々人のニーズに応じた権利だと主張しづらくなってきます。
 これまで自由権と社会権はばらばらに考えられてきました。先ほど言いましたオルムステッド裁判のように、地域で生きるための権利を自由権として保障するということになれば、そのためには地域支援のシステムが必要なわけですから、自由権と社会権がそこでリンクしてくるわけです。実質上、それでアメリカの予算はかなり変わってきた経緯があります。
 だから、支援費、介護保険にかかる請求権を具体的な権利として権利条約の中に入れ込もうとしてもそれは無理な部分があるのですが、しかし、その前提としての自立生活の権利というものを認めていくことが大切ではないかと思います。

立法の運動目標になる権利条約

藤井 安藤さんが、確かに権利条約は大事だけれども、現実的に障害のある人びとの地域生活をどうするのかとおっしゃいました。私は、冒頭の発言でやはり権利条約と地域での安心、安定、安全な生活はつなげていくものであると述べました。
 今度の介護保険と支援費との統合問題にしても、しょせんこれは手段にすぎません。地域生活を支援するためにはあまりにも仕組みがなさすぎるのです。日本には差別禁止法もなければ、相変わらず家族丸抱えで面倒をみるという形が残っています。今のままでいけば、1割自己負担にしても家族の収入まで合算されるだろうと思われます。これは、いかに公的責任を逃れる方便かと思うのです。障害認定基準は、相変わらず傷痍軍人のための医学モデルが基本になっています。さらに、総合的な地域生活支援法もありません。
 権利条約は介護保険との関係では今すぐの効力は弱いかもしれません。しかし、日本は立法は弱すぎるので、立法の運動目標に権利条約がなればと思います。つまり、権利条約があれば、それぞれの国の立法を運動目標化しやすいと思うのです。また、運動も交渉上で広がりが出てきて、調停、訴訟運動も起こしやすくなるでしょう。予算をきちんと裏づけさせるための立法体系をつくることを権利条約から学べるのではないでしょうか。

権利の不可分性

山崎 今の発言を聞いていて、思ったことを二つお話しさせていただきたいと思います。
 一つは、自由権と社会権が従来分断されていたものが、現実に地域で人間が生活するという場面に立ち返ると、別々に考えるのはおかしいという東さんのご指摘についてです。日本社会でこれがはっきり表れたのは阪神・淡路大震災のときだったと思います。家がどうなる、飲み水がどうなるといった途上国のような状況が日本に突如として出現したのです。そうなったときにそこで雨をしのぐ家を求めるというのが社会権です。憲法学上はプログラム規定で、財政的にゆとりのある場合には保障するけれども、拷問しないとか、不当に逮捕しないというたぐいの自由権とは違って、社会権は条件つきで可能になる場合とそうでない場合があると言われてきました。
 しかし、阪神・淡路大震災が起き、「神戸市にはお金がありませんから知りません」とは言えない状況が出てきて、そこで、初めて自由権と社会権とは別々に議論するのはおかしいということが納得できたのです。ちょうど同じ頃、国連でも自由権規約と社会権規約の委員会が別々にあって、社会権規約委員会では、フィリップ・オルストンという有能な人物が委員長になっていました。そして、社会権の権利性は即時性がなくて、少しずつその国の経済の都合に見合った形で保障していけばいいという、今まで一般的に言われていたことがおかしいという意見が出始めました。
 今、国際社会では「自由権」、「社会権」と分けて言わずに、経済的、社会的、文化的権利と市民的、政治的権利を一緒にして、英語ではABC順に表現します。このように権利の不可分性という議論が一つのトレンドになっているということを思い出しました。

地域生活の権利

山崎 それからもう一つ、障害のある方の生活も含めて、地域できちんと権利を確保していくことが障害者権利条約の意義であり、場合によっては、差別禁止法を先行して日本でつくっていく必要があると何人かの方がおっしゃっています。まったく同感です。私は国際法が専門なので、地域レベルのことはあまりよくわかりませんが、私がこのセミナーの後に参加する、大阪の人権政策研究会で今、論議されているのは人権のまちづくりについてです。本セミナーとは切り口が違っても、そこでくしくもここで提起されたと同じような問題について議論されているということを、非常に不思議に思うと同時に、ある意味では必然なのかという気がしました。

まとめ

三田 そろそろお一人ずつにまとめのご発言をいただきたいと思います。

山崎 今日ここにいらしている皆さんに、この権利条約の成り行きについて関心をもっていただいたことに感謝申し上げたいと思います。ありがとうございました。

長瀬 この権利条約が、国際的な決まりであるということをしっかりと考えなければいけないと、皆さんのいろいろなお話をうかがって思いました。私たちは「国際障害者年」、「国連・障害者の十年」、「アジア太平洋障害者の十年」などというさまざまな取り組みから多くのことを得てきたと思います。たとえば「アジア太平洋障害者の十年」では、アジア・太平洋地域の中でいろいろなことを共有することができました。
 今度の第4回の特別委員会も、日本からは20名を超すNGOのメンバーが傍聴し、さまざまなロビー活動を行うことができました。これは、日本という国が、経済的に非常に力があって恵まれた国であることの証明です。多くの途上国のNGOの代表は、年に2回、3回とそれぞれ2週間ニューヨークの国連本部に行って、障害者権利条約制定の過程に参加することはできませんが、私たちの場合はそれが可能な立場にあります。そういう立場に置かれた者として、自分が住んでいる国のことだけを考えるのではなく、メキシコ提案の中に書かれている連帯の精神を発揮する一つの道筋としても、この権利条約を考えなければならないと思います。

 確かにバブル以降、経済が弱体化した日本は、政府開発援助(ODA)も相当削減してきました。私もかつてODAに従事した者として、確かにすべてのODAが、必ずしも有効に使われているのではないということはよくわかります。しかし、逆に、日本よりもそうした資源の活用がうまくいかない環境の国があるからこそ、ODAが必要であると考えなければならないと思います。ODAがどんどん削減されてしまっても、障害分野の研修、障害者のリーダーの研修を、日本や他のアジア地域、アフリカ地域対象で行うという形で、私たちの税金が非常に有効に生かされています。日本のODAは障害者の研修、人材育成では世界に誇れるものです。
日本は国際的に見たときに経済的に豊かな国であることを認識すれば、他の国の人たちにも、権利条約は大きな意義をもつと思います。そういう連帯の精神をこの権利条約の策定の過程で、そして、できあがってからもまた考えることは非常に重要なことではないかと思います。

小川 つい数日前に行われた第4回アドホック委員会の結団式のときに、八代先生より「国連で交渉している人々は、条約や交渉の専門家であるかもしれないけれども、障害者の問題に関してはいわば素人である。そんな素人だけに任せずに、我々当事者が専門家としてもっと声を出して、必要な説明をして、意見を言っていかなければいけない。」とおっしゃっていました。本当にそのとおりだと思います。
 障害者政策に関わる関係の府省庁、内閣府、厚生労働省や文部科学省といったところは、外務省よりは各所管分野についての専門家であって、それぞれの現状を一層よく理解しているでしょう。もちろん外務省関係者も国際法や対外関係の専門家として、関係分野全体をよく把握した上で交渉に臨もうとはしていますが、障害を持つ当事者でないという意味で、どの省庁、どの国の(非障害者の)政府関係者も「非専門家」による独善に陥る可能性があります。ですから、このような機会にお招きいただき、経験に基づく切実なお話をうかがったり、障害者団体の方々にいろいろ意見をお聞きしたりできるのは、政府関係者にとっても本当に助かることです。
 今後、日本の政策と異なる部分があるところも議論されると思います。先ほど申し上げましたように、第3回アドホック委員会までは、各国政府・NGOの意見を広く聞いたうえで、それぞれの意見を並記する形になっています。しかし、今後は一つの条約案になるべく早くまとめていく作業が求められるので、これらにつき交渉し、取捨選択していかなければなりません。先にご紹介したように、アドホック委員会の公開の場ですら、NGOの方はご遠慮願いたいなどという意見も一部に出始めましたが、どのような状況になったとしても、より良い障害者権利条約の策定のため、最後まで皆さまに支えていただきたいと思っておりますし、様々な意見交換の場やこのような場にお呼びいただけるのであれば喜んで参加させていただきます。今後ともよろしくお願いできればと思います。

 ADAができた直後は、日本でもJDAをつくろうという動きが高まりましたが、その後はダメになってしまって、差別禁止法の話が出てこなかった時期もありました。その頃から、私はやはり必要だという話をしていたのですけれども、なかなか耳を傾けてもらえませんでした。でも、今、国内的に言えばJDFの成立が多くの障害者団体を結集する軸になっているし、世界的に見ても、多くの当事者が差別禁止法などを課題にしてがんばっている姿を見ると、人権という問題は、日本の風土にはなじみにくい問題ではあるけれど、普遍性のある問題だと感じます。
 話が少し変わりますが、自立生活センターの人権委員会の中で、3年ぐらい前から虐待防止のワークショップをしています。ワークショップをするときに、知的障害のある人に「虐待受けたことがある?」と言葉で聞いても「そんなことはない」とみんな言うのです。でも実際、ロールプレーで虐待の場面を見せると、経験がないと言っていた知的障害のある人が「僕もそういう経験はある」と言って、自分の受けたことを表現します。そういう場面を見て、人権とは何なのか、虐待は何なのか、きちんとした認識をみんなが持てていないと思うのです。嫌なことがあっても、それは自分の責任や障害があるからしょうがないと思い込まされている日本の風土があると思うのです。だから、人権運動はなかなか起きてきません。
結論としてどんな条約ができるのか、どんな禁止法ができるのかは非常に重要なことではあるのですが、制定の過程でみんなが参加して、自分の経験などを問い直して人権意識を高めていく、みんなで話し合って、みんなが参加する運動が非常に大切ではないかと思います。

 日本の障害者運動は、長い歴史の中で重みもあると思うのですが、一人ひとり地域で生きていくうえで、そこまでの運動との関わりをなかなかもてない人が多いのです。さみしい思いをして独りぼっちで生きている人たちも巻き込んで、運動の輪を広げていくという地域での掘り起こしが、一番求められているのではないかと強く感じます。
 韓国の盧武鉉大統領は、差別禁止法をつくることを公約しました。それで、韓国の58団体ぐらいの障害者団体が結集して地域で話し合いをしながら、どういう差別禁止法がいいのかをつくり上げてきているのです。そういう話を聞くと、日本の運動は、地域への広がりという面ではまだ足りないものがあるのではないかと感じます。
 リーダー的な人たちは本当にがんばっているのですが、やはり、トップだけの運動ではなくて地域での広がりに目を向けて、こういうセミナーを全国各地で開いて声を集めていく、自分たちの権利を確認していく作業を並行してやっていくことが、今の障害者団体に求められていることではないのかと思います。自分に対する反省も込めてそういう思いを抱いています。

藤井 「障害者を締め出す社会は弱くて脆い社会である」。これは、国際障害者年にちなんで出された一連の国連決議の一節です。これを言い換えれば「障害者の権利を守る社会というのは、たくましく、しなやかな社会である」ということです。
 障害問題というのは、人権問題を含めてさまざまな矛盾や問題が凝縮している部分です。「障害者権利条約」という漢字7文字で表すと、一般市民になじみにくいかもしれませんが、「すべての人びとの社会参加のための最低基準条約」、こんなふうに考えればすべての人びとのための一つの水準を担保する条約であると広められると思うのです。
 早期に高い水準の権利条約をという、一見矛盾するお話が今日出ました。権利条約は歴史的な意味をもつ条約です。だから、やはり高いレベルのものをつくる必要があります。そのためにはNGOの奮闘ぶりが高い水準を規定すると思うのです。
 おそらく秋にはJDF、日本障害フォーラムが結成されます。この中心軸が権利条約制定に向かってエネルギーを傾注することになるでしょう。その場合、二つの視点が大事だと思うのです。一つは国際NGOとの連携、とりわけアジアとの連携をしっかりして、そして、世界に向かっていくことです。
 それから、もう一つは日本の地域の障害団体の連携だと思います。地域でしっかりと手を携え、そのエネルギーを押し上げてもらうために、NGOは地域と国際ということを視野に入れる必要があります。そういう点ではJDFの準備会も大きな力を発揮していくことを期待しながら私もがんばっていくことをつけ加えて終わりにします。

三田 最後にコーディネーターから感想を言わせていただきたいと思います。
 私は不勉強で、今日は初めて聞く言葉がたくさんあったのは事実です。10か月ぐらい前から、学生と一緒に勉強会と称して関西のある入所施設に無理を言って行かせていただいています。
 私たちが勉強会で質問した知的障害者の方は、今まで「権利」と言うと怒られてきたそうです。生意気なことを言うと「かわいくない」と言われたのだそうです。それが最近、時代の流れで権利ぐらい知らなければいけないと思ったそうです。でも、誰に聞いても意味がわからなかったそうです。社会福祉を大学で教えている私に「わかりやすく教えてほしい」と言われたのですが、答えられませんでした。では、一緒に考えるしかないということで学生を連れていったら、学生は「生まれてこの方考えたこともありません」と言いました。今は入所者の方に学生が鍛えられているという感じです。
 「権利」という言葉は私自身もまだ難しくてわからないのですが、学生にとっても障害者本人にとっても共通の大切な話題になってきたと思っています。ですから、やはりいろいろな人が参加して、もっと身近なこととして話し合っていくのは本当に重要なことだということを考えさせられました。

 この前、JR大阪駅を歩いていました。自分の乗る電車は何番線だったかなと探そうとしていたら、点字が階段の手すりに張ってあったのです。「これは進んだな」と思ったのですが、実際読もうと思ったら点字が読めないのです。おかしいなと思ったら点字が反対に張ってあるのです。だから、何段か上って手を反対にしてやっと「あ、読める」と安心したのです。これは、当事者抜きで点字を張っているために反対に張っいてもそれを気づかないということなのです。権利条約の一つの理念として「私たち抜きで私たちのことを決めないで」というこのスローガンを象徴している出来事だという気がするのです。権利条約は私たち自身のものです。私たちだけで決めるのではないけれども、私たち障害者抜きで絶対に決めないで。この立場は堅持しなければならないと思います。
 もう1点は、私たち日本の障害者運動は、あまりにも長い間障害種別で分断されてきたので、自分たちの利害がかなえばとりあえずそれでいいという思いが強すぎたのではないかと思うのです。もちろん障害の違いは違いとして議論する必要がありますが、大事ことでは、きちんとした理念に基づいて団結しなければなりません。このことをろうあ連盟の安藤さんも強調されました。これをしないと、結局それは当事者主体の団結、運動になりません。
 権利条約制定に時間がどのぐらいかかるかという心配はありますが、時間を早め、質の高い運動をつくるうえでも、私は今こそ障害種別を超えた当事者の団結を堅持すべきだと強く感じました。今後の運動の継続、発展にがんばっていきたいと思います。

松井 長瀬さんからNGOの話があったときに、小川さんがすぐに話をされると思ったのですが、日本政府はボランタリー基金に10万ドルを出していて、第4回特別委員会の途上国からの参加者に対して、一定割合のお金を指定して出すことになったと思います。
 今後とも日本政府には、参加したくても参加できないNGO、特に途上国に対する支援をぜひお願いしたいと思います。お礼とお願いを兼ねて、一言この場で言わせていただきました。

沼津 本日はパネリスト、リソースパーソンの方々から大変貴重なご発言をいただきました。それから、フロアにいらっしゃる指定討論者の方からも、貴重なご意見をいただくことができました。参加いただいた方々に盛大な拍手をお願いしたいと思います。
ありがとうございました。