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国際セミナー
「障害者権利条約」制定への世界の最新の動き

●来賓挨拶

衆議院議員 八代 英太

今日は権利条約制定に向けての歩みを含め、どういうことが審議されているか、日本各地でセミナーを通して当事者の皆さん方の、関心を深めるのを一つの目標として、日本障害者リハビリテーション協会、JDF準備会、関係団体の皆さんのお骨折りをいただいて、新幹線で嵯峨野の手話通訳研修センターに駆けつけました。昨日スタッフの皆さんとゆっくりとバリアフリーの部屋で休ませて頂き、本当に疲れも癒えた思いです。

今月の末から9月にかけ、国連での障害者権利条約の特別委員会が開催されます。そこには、毎回のように私たちの代表であるいろいろな方々が参加をし、日身連の会長兒玉さんをはじめ、この権利条約の特別委員会を熱い思いで見つめ、ときとして発言をしており、私もその審議の状況を見て、着々と権利条約の制定に向けた大きなうねりを肌で感じています。日本政府として、あるいは国会議員として、どう権利条約を進めていくべきか、油をそそぐ役目を果たせるのか。私自身、今月末には、ニューヨークへ行きたいと思います。

つい先日も、東京の戸山サンライズで結団式がありました。20数名の方が出席したかと思いますが、そこで、第4回特別委員会で力強く当事者として発言していこうでないかと、ひとつの決意をみんなで述べ合ったところです。どの機関もそうですが、国連という政府機関でも、当事者の声を、あまり、聞き入れるすべを持っていません。国連ではいろんな条約が、批准され、各国で制定されるのですが、私たちの知らないところで、そういう条約が決められていくというプロセスがあります。しかし、障害者の権利条約だけは、我々自身の声を生かされずして、本当の意味の障害者権利条約とはならないだろう、とこんな風に思っています。

そのためにも、今回私も、国連の会議に出席させて頂いて、もし発言する機会があれば当事者の声を、我々自身の声を、しっかりと権利条約の中で各国政府はくみとるべきだと、力強く申し上げたいと思っています。
折りしも今年の国会では障害者基本法が、11年ぶりに大改正をしました。中味はご存じかもしれませんが、その障害者基本法の中にも、障害者の差別禁止を強くうたっています。生きていく上でいろいろなバリアを除去していくための権利というもの、それが、それぞれの国の政策に生かされていかなければならなりません。一生懸命に汗を流しその汗が報われる社会を作るということが私たちの究極の目標であります。権利条約のというものの雰囲気を踏まえながら、障害者基本法を大改正をすることが出来ました。

しかし、実行する段階になると、障害者基本法も5年間くらいで見直そう、ということで与野党、お互いにコンセンサスを得ました。なぜ5年か?ちょうど5年後ぐらいが権利条約の制定のころであろうということです。国連が一つの条約を作るときには、早くても5年、ゆっくりすると10年ぐらいかかる。もっと急がさなきゃいけないと思います。私は他の条約と違い、障害者の条約の制定には、スピードアップが大切だと思っていますので、この5年を障害者基本法の一つの見直しの時期と制定し、その時に、国連における障害者の権利条約を各国がめでたく批准をして、それが制定されその時に、権利条約をひとつのたたき台としていこうと、今日本の国内での障害者差別禁止法の呼びかけをしています。

この障害者差別禁止法で車の両輪のように作っていくことが国内法の制定にも必要になってくるのでないかと思います。第2弾の改正というのが実は、障害者権利条約への批准に向けての、大きな呼び水でもある、の思いも持っています。今日はそういう中で、外務省の方、国連の長田さんというすばらしい障害者専門のエキスパート、各大学の先生方や、いろいろな方々がここにこられました。私たちが権利条約を挙げて、作っていくのが大変重要だと思っています。

実は、私自身の人生を振り返りますと、今年は車椅子になりまして31年になります。1973年に、障害を持つようになりました。1975年に実は国連では、障害者の権利宣言が発布され、そこで初めて、障害者の権利がこの国際社会で大きくクローズアップされ1981年の障害者年の「完全参加と平等」キャッチフレーズは素晴らしいのですが現実は、「不完全、不参加、不平等」です。本当の完全参加と平等へのまさにプロローグであったと思います。1981年、私はそのとき、世界の障害者に呼びかけをしました。障害者自身の国際連帯することが大事でないか、我々自身の問題が、これから、クローズアップされていくのに、我々自身の国際組織が無いのはおかしいと思い提唱しました。
我等自身の声、ボイス・オブ・アワオウン。DPI、障害者の独自団体が、世界で誕生したきっかけです。1981年、シンガポールで産声を上げてから16年間、アジア太平洋地域のDPIの議長をさせて頂きました。アジア太平洋各国では、世界人口の6割を占めています。ここの障害を持った人たちが、生きていて良かったと思うことが、やがて世界のすべての障害者に幸せを呼ぶのではないか、との思いでDPIの結成に参加しました。

以来、DPIは社会においてもステータスは高まり、国連でも、NGOとして、当事者団体として発するわれら自身の声を、各国政府が認め、いろいろな障害者施策に活かしております。特に日本はアジアにおけるリーダー的存在ですから、障害者の施策は日本から発信する、日本に追いつけ、こういうようなうねりがあります。我々が当時、欧米に追いつけ追い越せ、その思いをみんなで語り合ったように、今は、アジアにおける日本は、それなりの立場と推進役を担っております。こう思いますと、アジアの声は、日本がまとめる責任がある、と考えます。

アジアの声は、また日本の声でもあります。日本の声がアジアの声でもあります。日本の障害者のアジア太平洋における、その責任は大変な物であります。また一方、国連の中における日本の存在は、世界のスポンサーです。これは、政府にも頑張って頂くと同時に、われわれ自身も特別委員会のなかで、障害者権利条約が障害者の声を生かせる権利条約、その産声を上げるためのお手伝いをしなければならないと思っています。

日本政府も、いろんな条約には、比較的に消極的であるがこの権利条約に関しては、かなり、入れ込んでいます。川口外務大臣も国連でこの問題に触れていますし、いろんな意味で、日本の権利条約制定への努力を感じています。政治に携わる者としてこの権利条約制定に向けて、議員間でも連盟をつくっていきたい、と存じます。例えば「障害者権利条約推進議員連盟」でもいいかもしれません。こんなものを作ろうという声が障害者権利条約の特別委員会のあと、永田町でも発せられています。


心からご期待し今日のセミナーが実り多い物となりますよう、どうぞがんばってください。
ありがとうございました。