○浅倉むつ子委員 労働法律旬報1735+36 合併号(2011 年1 月)掲載 巻頭言:労働と法−私の論点 複合差別 浅倉むつ子(早稲田大学)  もう15年も前のことになる。1995年11月、東京で、ブリティッシュ・カウンシル主催の「社会と女性」と題するシンポジウムが開かれた。イギリスから招聘されたシンポジストの一人が、当時のEOC(機会均等委員会)議長、カムレッシュ・バールさんだった。記憶力には全く自信がない私でも、彼女の名前と顔を鮮明に覚えている。というのも、当時、ブリティッシュ・カウンシルで日英文化交流企画を担当していたモリス・ジェンキンス氏から依頼を受けたため、私も、ほぼ1週間の間、シンポジウムのみならず各種の研究会や交流会でバールさんとご一緒し、彼女の知性とユーモアに感じ入ったからである。黒い大きな瞳、すらりと伸びた手足に薄いブルーのスーツを着た彼女は、インド系アジア人の法律家で、常にやさしい笑顔を絶やさない魅力的な人だった。  その後、2〜3年は手紙をやりとりしていたが、1999 年に私がロンドンに短期留学した頃は、彼女とは連絡がとれなくなっていた。EOCを訪ねたものの、彼女はすでに議長職から離れていた。ところが最近、複合差別をめぐるイギリスCA(控訴院)判決の中に、原告としての彼女の名前を見つけることになった。Bahl v. Law Society [2004] IRLR 799という事件である。この判決は、イギリスの「複合差別」の事案として注目を集めた。  バールは、EOCの議長を努めた後、1998年にロー・ソサエティの副会長に就任した。しかしその直後に、複数のスタッフから、「バールが屈辱的で不適切なやり方で我々を扱った」という不満が申し立てられ、この問題を内部の審査委員会でとりあげたロー・ソサエティは、2000 年3 月に彼女を停職とした。バールは、副会長を辞任した後に、このような扱いはインド系アジア人女性である自分に対する人種と性別の複合差別だと主張して、ET(雇用審判所)に訴えたのである。  ETは、バールはロー・ソサエティにとって白人でも男性でもない初の副会長であり、その結果、「黒人女性」として差別された、との結論に達した。ETは、彼女の取り扱いを個々に性差別もしくは人種差別と設定するのではなく、もし彼女が白人か男性であったとすればこれほどまでにスタッフらから不利益な対応を受けなかったはずであるから、性と人権の複合した差別だとして、バールの申し立てを認めたのである。  しかし、EAT(雇用上訴審判所)とCAは、ETは人種差別と性差別とを区別することを怠り、法的な解釈を誤ったとして、その結論を覆した。本件では、まずそれぞれに人種差別と性差別を立証する証拠となる事実を見いだす必要があったはずだ、というのである。本件のように二つ以上の差別が交差している状態は、一つの差別がある状態とは質的に異なるものだというバールの主張に関して、イギリスの上訴裁判所は、理解を示さなかったということになる。  このように人種とジェンダーが交差する差別(intersectional discrimination)について、ある論者は、黒人女性と白人女性が経験する差別が類似しているというのは誤った仮説である、と述べている(Iyiola Solanke, Putting Race and Gender Together : A New Approach To Intersectionality, Modern Law Review Vol.72 No.5, 2009 at 731)。黒人女性が経験する差別は白人女性のそれとは質的に異なるものであって、人種とジェンダーが一緒になると、差別の二つが加算され総計されたものよりも、さらに悪化した条件がもたらされるという相乗効果が生まれるのであり、CAは、この交差差別の相乗効果をとらえ損なっているというのである。  バール事件判決は、イギリスに大きな反響をもたらしたようだ。EUでは、2000 年の「人種、民族均等指令」(2000/43/EC)および同年の「一般雇用均等指令」(2000/78/EC)が、「特に女性がしばしば複合差別multiple discrimination の被害にあうことが多いので、差別撤廃と男女平等を促進することをめざさなければならない」との一文(前者指令の前文(14)、後者指令の前文(3))を設けており、この問題が十分に意識されていることがわかる。イギリスでは、このバール事件を契機に、2010年平等法14 条が、「結合差別 combined discrimination」を禁止する規定を設けるに至った。複合差別のうち2つの事由が重複する差別をこの規定で取り扱おう、という趣旨である。  同法14条は、次のように述べる。「二つの重要な保護されるべき特性の結合を理由として、AがBを、その特性のいずれをも有しない者を扱いあるいは扱ったであろうよりも不利に扱う場合は、AはBを差別するものとする」。EUの要請とはいささか異なり、イギリスでは、3つ以上の複合差別ではなく、2つの事由が結合した差別を禁止する規定をおいたのである。しかし、交差差別の90%はこの結合差別禁止規定で扱われるであろうし、また、イギリスにおける差別事件の7.5%は結合差別を含むために、14 条の創設によって、差別救済の訴えは10%程度、増大するだろうと予想されている(IDS, The Equality Act 2010,Incomes Data Services Ltd (2010) at 36)。  それでは、2010 年平等法が14 条を創設したことによって、具体的に、従来の差別事案の取り扱いにどのような変化が生じるのだろうか。確かなことは、一つの事由による差別が差別と認定されにくい場合でも、結合した差別として認容される場合があるということであろう。  たとえば、高齢の女性が自動車運転のインストラクターとして採用されなかったという事案である。使用者はこの仕事は高齢女性には向かないと主張しているが、もし「高齢男性」もしくは「若い女性」であれば採用されたはずであったとすれば、これは年齢とジェンダーの結合差別となるだろう。あるいは、黒人女性が昇進できなかったのは、使用者が、黒人女性は顧客サービスにおいてよい成績をあげられないと考えていたからだ、という事案において、現実に白人女性や黒人男性が昇進している場合でも、彼女は、人種とジェンダーの結合差別を訴えることができることになる。これら以外にも、宗教とジェンダーの結合差別(イスラムの男性をテロリストとステレオタイプ化すること)や、性的指向とジェンダーの結合差別(ゲイの男性保育士の不採用)など、具体的な事案がいくつか示されている(Equality Act 2010 : Explanatory Notes (2010) para.68 )。  日本でも、複合差別に言及する文書がみられるようになった。2009 年8 月7 日に公表された国連の女性差別撤廃委員会による、日本政府第6回報告に関する「最終見解」は、マイノリティ女性が性別や民族的出自に基づく複合差別に苦しんでいるのに、情報や統計データが不十分であるとして(para.51)、マイノリティ女性に対する差別撤廃の有効な措置を講じるように、日本政府に要請した(para.52)。2010 年12 月の内閣府「第3次男女共同参画基本計画」でも、高齢、障害、外国人、アイヌ、同和などの問題に加えて、女性であることによる複合的に困難な状況におかれている人々に留意する、ということが強調されている。障がい者制度改革推進会議の「障害者制度改革の推進のための第二次意見(案)」(2010 年12 月17 日)は、「障害のある女性」という項目を設け、「障害のある女性が複合的な差別を受けていることを施策上の重要課題に位置づけ、・・・・必要な措置を講ずること」と述べている。  日本ではまだ、複合的に差別される人々への施策の重要性が指摘説かれている段階にすぎず、イギリスのように、差別禁止法理としての「複合差別」の議論はない。ただし、障害者差別禁止法制の立法化が目前に迫っており、この議論は必須となるのではないだろうか。  来日した当時のバールさんの笑顔からは、その後、彼女の身の上に複合差別が降りかかってくることなどは想像もできなかった。しかし、ジェンダーという差別事由を共有している私たちにもう一つの差別事由が生じることは、それほどめずらしいことではないのかもしれない。 (あさくら むつこ)