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旅で始まるいきいきライフ

第1章 旅は道連れ世は情け

1. 北海道電動車いすの旅

もっと優しい旅への勉強会 副代表 曽根原 純

2011年5月20日10時20分京浜急行電鉄品川駅JR連絡口切符売り場の前のシースルーのエレベーターから、今回の私の旅は始まりました。私は、以前は山手線(やまのてせん)を通勤等でよく利用していました。ですから、山手線まではどうしても日常の一部という感覚があるのですが、このエレベーターのところまで来ると、これから日常を離れて、「旅に出るんだなあ」という思いがこみ上げてきます。

エレベーターをあがって、右側の駅員さんのところで、「羽田空港」と行先を書いた紙を示してスロープの手配をお願いすると、駅員さんが「どちらの航空会社をご利用ですか?」と尋ねてきました。これ、今は、事情は分かっていますが、最初に尋ねられたときには、「まだ関係ないのに、なぜ、ここで聞くんだろう」と、少し戸惑いました。全日空(ANA)系列であれば前方車両、日本航空(JAL)系列であれば後方車両が空港カウンターへ行くのに便利だということです。今回は、私は後方車両に乗り込みました。

写真 1

実は、私は、親しくさせていただいているANA系列の旅行会社の方に手配などをお願いしていたこともあって、これまで羽田での搭乗は、ANAしか経験がありませんでした。そのため空港ターミナルの中でもたもたするかもしれないということで、少し早目に家を出たつもりでしたが、羽田空港駅に到着したのが、10時50分。想定より多少遅れてしまい、そこから10分と計算すると、車いすで搭乗する場合に推奨されている「出発時刻12時05分の一時間前の到着ぎりぎり」になってしまいました。

急いで、何とか迷うこともなく、出発ロビーへ行くと今回旅行をご一緒する何人かの方の顔がありました。ご挨拶もそこそこに、取材・撮影クルーと事前の打ち合わせもなく、ほぼぶっつけ本番で、JALスマイル・サポート・カウンターでの撮影付きのチェック・インの手続き。そこでは私が取材・撮影の主な対象となっていましたので、いつもよりは緊張しながらの手続きでした。

ここで今回の私の旅行について説明します。目的は2011年5月21日に北海道弟子屈で行われた「障がい者と旅」のフォーラムin弟子屈に、もっと優しい旅への勉強会副代表として会のこれまでの歩みなどを報告することと、翌日の乙武洋匡氏講演会に参加することでした。従って、もともと純粋の観光を目的とする旅行ではなかったところに、障害者の旅ハンドブック編集委員会(委員長 薗田 碩哉 実践女子短期大学教授)による取材・撮影が重なってしまいました。

利用フライト:20日羽田12:05-女満別13:50, 22日釧路20:15-羽田22:00
宿泊ホテル:ピュア・フィールド風曜日
現地移動手段:リフト付きマイクロバス(風曜日所有)

私を含めて、勉強会メンバーは参加者個人による予約(フライトを現地送迎との関係で推奨便としましたが、原則は個人旅行の集合体であったと私は理解しています)、ハントブック編集委員会メンバーは旅行会社企画旅行への参加でした。

私は、風曜日での宿泊をメールで直接予約してから、航空券を4月はじめにJALのサイトからインターネットで予約しました。予約の後、プライオリティー・ゲスト・センターに連絡して、座席の手配をお願いするという手順でした。スーパー先得予約でしたので、キャンセルが効かないというリスクはありますが、障害者割引よりもかなり安くなりました。

以前ですと、スマイル・サービス・カウンターで自分の車いすを預けて、航空会社の用意した車いすに乗り換えなければならなかったのですが、最近になって、自分の車いすで保安検査を通って、搭乗カウンターの前まで行くことも可能になりました。それでも案内のために付添いの係員が同行してくださいますが、通常、一般用の立ちトイレを利用している私としては、搭乗の直前まで自分の車いすが使えることで、ぎりぎりの時間を見計らってトイレには行きやすくなりましたし、ちょっとした買い物にも行きやすくなったという感覚があります。

搭乗ロビーには、勉強会メンバーと障害者の旅ハンドブック編集委員会のメンバーが集まっていました。初対面の方も何人かいらっしゃいましたので、自己紹介や名刺交換を行っていると、一般の乗客の搭乗開始時刻の5分ほど前に、優先搭乗の案内がありました。ここから座席に着くまでは、今回の私を対象とする撮影の重要な部分です。私は、手すりの近くに自分の車いすを止め、その手すりを利用しながら、航空会社の用意した車いすに乗り換えました。

ここからは係員の方が特別仕様の車いすを押して航空機の搭乗口まで案内してくれます。車いすのまま機内に入ると、そこから座席までの通路が狭いということで、車いすの外側の車輪とアームレストが外されます。ここに特別仕様の意味があります。そして私の体が前後左右にずれ落ちないように、シートベルトが装着されます。これで、私も手を前で交差させて少し小さくなる格好をしながら座席の横まで案内されて、座席に乗り移って一件落着です。

写真 2

それからおよそ2時間は女満別空港までの空の旅です。途中、今回の震災で大きな被害を受けた東北地方の上空を通過しました。もちろん、下の細かな状況を見ることはできなかったのですが、海岸線沿いの木々が失われていたり、建物が流されたような場所があることは、私のような素人の目からも確認できたような気がしました。一日も早い復興をお祈り申し上げます。

女満別空港では、一般の乗客が航空機から降りた後、係員の方が外側の車輪とアームレストを外した車いすを座席の横まで持ってきてくれます。そこからは搭乗と反対の手順で到着カウンターに行き、そこで自分の車いすに乗り換えることになります。搭乗のときも含めて、車いすユーザーの場合、時間的には一般の人よりもかなりの余裕を見ておくことが必要になります。

女満別空港には、普通ですと、「風曜日」のオーナー支配人の三木さんがリフト付きマイクロバスを運転して出迎えてくださるのですが、その日はフォーラム関係の準備で忙しいということで、別の方のお出迎えでした。ここで勉強会メンバーと取材・撮影のクルーはマイクロバスに乗り込みました。

ハンドブック編集委員会のメンバーは、網走までタクシーで行って、そこからはJRで弟子屈に向かうとのこと。昔、ちょっとした鉄道ファンだった私としては「そっちの方がよかったのに」と少し残念にも思いました。実際、最近数年間で、新千歳空港-札幌、札幌-函館、札幌-帯広、帯広-釧路-摩周(弟子屈)の北海道の鉄道乗車経験はあります。

マイクロバスはとりあえず観光ということで、大空町の東藻琴芝桜公園に向かいました。途中の車窓からの景色、道東の遅い春の訪れということで、きれいな花があたり一面に咲いているというようなことも想像していたのですが、まだ少し早いということなのでしょうか、寒々しさを感じました。そういえば、空港の温度表示は10℃前後でしたし、日陰の道端には雪も残っていました。それでも、道沿いの桜の花はほぼ満開で、またあちらこちらの民家の庭先には芝桜が咲いていました。

芝桜公園の前の駐車場にマイクロバスを停めて、車いすで外に出ると、公園の中では「ノンキーランド芝桜まつり」をやっていました。丘の上に大きく描かれた牛の花絵など見ることができましたので、まつりの会場の中には入らずに、トイレを済ませて、30分ほどでマイクロバスに戻り、そこからは、道沿いの屈斜路湖の展望台の前でマイクロバスを停めたりして、のんびりと広大な一面の原野というような北海道らしい景色を楽しみながら、宿泊先の風曜日に向かいました。

風曜日には17時前後に到着しました。三木亨さん・和子さんご夫妻のお出迎えでした。私は、ここは3回目の訪問ですので、玄関から中に入るときに、「ただいま」と言いたくなるような感覚がありました。さっそくチェック・インの手続きをして、全館バリアフリー・ユニバーサルデザインのシングルルームの客室に荷物を置き、ベッドで足をのばして、しばしくつろぎました。そうしているうちに、少し遅れて、ハンドブック編集委員会メンバーも到着し、また、それからしばらくたって、ハンドコントロールのレンタカーを運転して、勉強会代表の黒嵜弁護士が到着し、19時ごろから食事ということになりました。

フォーラムの盛会を願いながら三木亨さんと黒嵜さんの音頭で乾杯。食事は、食材にもこだわった三木和子さんによる手作りということで、今回もおいしくいただくことができました。このころには、勉強会メンバーとハンドブック編集委員会メンバーの思いも打ち解けて一つになったように思います。

写真 3

食事もそろそろ終わるころ、刑事コロンボの役柄を彷彿とさせるような一見風采の上がらない感じの一人の初老の男性が玄関に到着しました。ハンドブック編集委員会メンバー代表の薗田先生でした。これでとりあえず全員がそろったということになります。薗田先生の音頭でもう一度乾杯です。

食事が終わると、皆さんは、部屋に戻ったり、カラオケ・ルームに入ったり、バリアフリーの大浴場に入ったり、思い思いの時間を過ごしました。私はハンドブック編集委員会のメンバーと食事の続きで、少し飲みなおしてから、22時ごろ部屋に戻りました。ユニバーサルデザインの客室とは言っても、夜、何回もトイレに行くことは少し大変なので、私は持参した携帯用の簡易トイレを使いました。

旅行二日目の21日は、ハンドブック編集委員会メンバーには、午前中観光のメニューが用意されていたのですが、勉強会メンバーは、私も含めて、朝からのフォーラムの準備、午後からのフォーラム、夜の参加者懇親パーティーで、天気があまり良くなかったこともあって、ほぼ一日中、風曜日の中で過ごしました。この夜は、私は客室のシャワーを使って体を洗いました。

旅行三日目の22日もあまり天気は良くありませんでした。この日の午後には乙武氏講演会「みんなちがって、みんないい」が予定されていたのですが、午前中には、フォーラムのプログラムの一環としての弟子屈町内観光地のユニバーサル・デザイン度チェックが行われました。朝食の後、8時30分、三木さんの運転するマイクロバスで出発です。行先は、美幌峠の道の駅でした。

マイクロバスで峠に向かう道を登り始めると、あたりに霧がたちこめてきました。上に行くにつれて霧は深くなり、10メートル先も見えないほどで、昼間であったにもかかわらず、行き交う車は危険防止のためにライトをつけて運転していました。

写真 4

美幌峠の駐車場にマイクロバスを停めて道の駅の建物の中に入りました。そこは1階が土産などの売店、2階が展望・休憩スペースになっています。道の駅は、国土交通省管轄の公共施設ですので、年少者、高齢者、障害者等、様々な人の使いやすさに配慮がなされています。入口のスロープ、1階から2階へのエレベーター、展望・休憩スペースから展望台への通路、トイレ等きちんとした形で車いす利用者への配慮がなされていました。特に、展望台への通路には、景観への配慮ということもあり、路面に木材チップが埋め込まれていました。

一昨年の夏にここを訪れたときには、展望台から素晴らしい屈斜路湖の全景を一望することができましたので、今回も期待していたのですが、あいにくの濃霧、展望台からは何も見えなかったと言っても過言ではなく、白い幻想の世界だけが一面に広がっていました。この辺、ハンドブック編集委員会メンバーで視覚障害者の鈴木さんはどのようにお感じになったのでしょうか?

それからマイクロバスは、晴れていれば展望台から見えたはずの、屈斜路湖に突き出た形になっている和琴半島に向かいました。三木さんの解説によると、そこはミンミンゼミの生息北限だそうです。マイクロバスで湖面沿いのせまい道を少し入ると、天然の露天温泉が湧きだしている場所がありました。

実際に、入浴している年配の男性もいました。ここは近い将来バリアフリー化されて、車いすでも温泉を利用できるようになるとのこと。また、湖面沿いには自然探勝路が整備されていて、車いすで回ることもできるとのことでした。道沿いの湿地には意外なほど大きな水芭蕉が咲いていました。ここまで大きいと暗いところでは少し不気味に感じられるかもしれないと思いながらも、私は「水芭蕉の花が、咲いている」と、思わずあのメロディー(ラララシドーシラシソ ソソラファ)とともに口ずさんでしまいました。

農家の庭先などに生活感が少し色濃く感じられるような横道に入ったりしながら、弟子屈町の中心部にある摩周観光文化センターに12時前に到着。乙武氏講演会会場です。センターの中の食堂で昼食を済ませて、13時から15時まで講演。さすが乙武さん、入場者は1,000人を超えました。乙武さんも午前中に美幌峠に行ったとのこと。講演のときに「霧で何も見えませんでした」と言っていました。(写真のような絶景が見えるはずでした)

写真 5

講演が終わってからは、一度風曜日に戻って、ちょっとした事務処理。そして、16時過ぎに三木和子さんのお見送りを受けながら、勉強会メンバーは地元の社会福祉法人アシリカのリフト付きマイクロバスで釧路空港に向かいました。ハンドブック編集委員会メンバーは一足早くタクシーで釧路空港に向かったとのこと。少し皮肉なことに、このころから今回の北海道旅行では初めて太陽が顔をのぞかせ、明るく、また少し暖かく感じられるようになりました。

釧路空港までは、寄り道をしなければ一時間半程度とのことなのですが、アシリカさんのマイクロバスは、釧路湿原方面、観光案内付きでかなり回り道をしてくださいました。私が行きと帰りで空港を別にしたことには、車での移動のときに、できるだけ違う景色を見たいという思いがありました。その思いは実現できたように思います。

釧路空港には19時少し前に到着しました。運転をしていただいた方と案内をしていただいた方にお礼の気持ちを伝えて別れた後、空港ターミナルの搭乗カウンターでチェック・インの手続き。往路の羽田での手続きとほぼ同様でしたが、撮影はありませんでした。それから一時間程度時間がありましたので、ターミナルの中のレストランへ行くと、そこには、なんとハンドブック編集委員会のメンバーが先に到着していました。さっそく合流して、打ち上げ前の乾杯です。

やはり釧路湿原には行ったとのことでした。そのときの薗田先生の一句-「爺一人放尿するか枯野原」。この辺、トイレのないところでどうするのか? 多少頻尿気味の私にとっても切実な問題です。

釧路空港での搭乗と羽田空港での降機は、往路とほぼ同様でしたので撮影も行われませんでした。ちょっとした裏話になりますが、実は、私がこの釧路から羽田までのフライトを予約した時点では、JALのプライオリティー・ゲスト・センターの担当の方から、今回は小型でボーディング・ブリッジのつけられない機材なので、搭乗・降機ともに、タラップでの係員による抱きかかえになるということを言われていました。

そのことは、車椅子での搭乗者が複数であったこと、もしくは取材・撮影への配慮のどちらかの理由によって機材の変更が行われたために、実際には避けられたのですが、抱きかかえが避けられないケースもあるということは知っておくべきことだと思います。

羽田空港では、22時30分を少し回ったころ、お互いにどこかでの再会を願いながら到着ロビーで解散(まあ、近いうちにお目にかかる予定のある方がほとんどなのですが)。皆さん家路に向かいました。

これで今回の旅は終わりです。お疲れ様でした。おやすみなさい。

今回の旅行は、基本的には個人責任での旅行でしたが、勉強会メンバー、ハンドブック編集委員会メンバーもご一緒でした。従って、私としては、本当に困れば比較的容易に助けを求めることができたはずです。でも、実際に助けを求めることはほとんどありませんでしたし、同じコースであれば、全くのひとり旅であっても、同じ行動をとって、旅行を楽しむことができたと思っています。

実際、電動車いすを使うようになってから、札幌の渡辺淳一文学館を訪れることと札幌から函館までの鉄道乗車をメインの目的として、一人旅をしたこともありますし、冬の北海道を見たいということで、ある研究会にかこつけて、札幌を一月の初旬に一人で訪れたこともあります。

おまけになりますが、そのあと、私はノンステップの送迎バスでホテルJALシティー羽田に向かいました。もう、大きな余震等の心配をしなくても構わない時期になっていたのかもしれませんが、この旅の予約をした時点では、まだ、夜遅くに電車を利用することは少し怖いというような感覚がありました。

今回の旅行にかかった費用は、品川から羽田空港までの運賃が630円×2、航空運賃が18,800円×2、風曜日宿泊料金(バリアフリー・シングルルーム)が8,400円×2、リフト付きマイクロバス送迎代が5,000円で、食事は別としました。また、ホテルJALシティー羽田の分は、インターネットでの早割予約で6,600円(普通のシングルルーム)でした。

最後に私のことなど少し書かせていただきます。1953年に生まれ、小学校からずっと普通教育でした。1976年に早稲田大学・政治経済学部を卒業し、日本社会事業大学の研究科を終えた後、現在では、本業としては,某・大手金融機関で基本的には在宅での翻訳の仕事を30年以上しています。

それとは別に、福祉、障害者関係の翻訳にもかかわっています。また、旅行で経験したようなことをアレンジしながら、趣味として、ちょっとした小説を書いているというようなこともあります。この辺、私の旅行には小説の取材目的という意味もあるのかもしれません。

私の障害ですが、比較的言語障害(構音障害)の重いタイプの脳性まひです。以前には歩いていましたが、長年歩いていたことで,頸椎を痛め、7年前に突然歩けなくなりました。入院・手術によって機能的には多少歩ける程度には改善されたのですが、それでも実用的にはほとんど歩けない状態ですので,電動車いすを使っています。

とりあえず、一般用のトイレを利用できますので、旅行も含めて、介助なしで、どこへでも一人で出かけています。冬でも大汗をかきながら歩いていたころのような体力的な疲労を考慮しなくて済みますし、少々の大きな荷物でも膝の上に乗せられますので、以前よりむしろ旅行には出やすくなったという感覚もあります。

電動車いすを使うようになって感じていることなのですが、新宿などに行って、歩道にちょっとした段差があったとき、当たり前のように車いすを押してくださったり、引っ張り上げてくださる方が、必ずと言っていいほどいます。私自身は、そのまま前向きで上がることができなければ、バックで上がる用意をしていますので、必ずしもそのことを期待しているということではないのですが、大げさに言えば、「心のバリアフリー」に関して「日本もここまで来ているんだ」とうれしく思うことがあります。

旅行に関しても、意志があって、それを何らかの形ではっきりと伝える手段があれば、何とかなるという時代になってきているのではないかと思います。私は、行き先などを書いた紙をいつも用意していますが、駅員さんも、航空会社の係員の方も、ホテルマンの方も笑顔で対応してくださることがほとんどです。

皆さんも、ちょっぴり勇気を出して旅行に出かけてみませんか?


報告

弟子屈フォーラム盛会御礼

弟子屈UDプラザともっと優しい旅への勉強会との共催で5月21-22日に開催させていただきました弟子屈フォーラム&乙武洋匡氏講演会、盛会のうちに無事終了いたしました。皆様方のご支援、ご協力に心より感謝申し上げます。
弟子屈フォーラムには、勉強会メンバー、「障害者の旅ハンドブック」の取材メンバーを含めて東京などの遠方からの参加も多く、参加者総数は63名でした。また、乙武洋匡氏講演会の参加者は1,000名を超えました。

弟子屈フォーラム(「障がい者と旅」のフォーラム in 弟子屈)では、前半の一時間程度で、代表の黒嵜と副代表の曽根原が「もっと優しい旅への勉強会の活動の足跡と現状報告」ということでのあいさつを兼ねた発表をさせていただき、会員の三木和子さん(風曜日)から「風曜日誕生の由来」をお話しいただきました。

代表 黒嵜の報告

もっと優しい旅への勉強会の代表をしております黒嵜と申します。私自身は、現在東京で弁護士をしております。

勉強会は、今年が20年目ということになります。旅行業界の人たちと障害を持つ旅行のユーザーが同じテーブルの上で旅行環境を良くするための意見を出し合う場として、毎月定例会を開いてきております。実際の旅行も何回か行ってまいりました。

私が勉強会に最初に参加したのは15年前、司法試験に合格した年でした。私は、大学3年のときに東京でオートバイによる交通事故を起こして、脊髄を損傷し車椅子になりました。大学を卒業してから、司法試験の勉強を始め、10年かかって合格することができました。合格して、これから社会に出るということで、旅行もしてみたいと思い、そのための情報を得たいと思っていたときに、勉強会のことを知り、参加するようになりました。そこには、障害者旅行の草分け的な存在であった勉強会前代表で元JTBの故・草薙さんという方がおられ、いろいろ教えてもらって、それまで旅行を全くしなかったということではないのですが、自分も旅行ができるのではないかと思うようになりました。旅行をしたいという思いは、障害があってもなくても、誰もがもっていることだと思います。

その年に、初めての海外旅行として、アメリカに行きました。アメリカではびっくりするような体験がいろいろありました。日本では、電車にも乗りにくかったですし、宿泊についても、事前に調べきれずに、うまく宿泊できなかったこともありました。しかし、アメリカでは、ハンドコントロールのレンタカーを各レンタカー会社に少なくとも一台は置かなければならないという法律があり、言葉が通じないにもかかわらず、日本よりもアメリカのほうがスムーズに旅行ができました。ホテルについても、アメリカでは小さなホテル・モーテルでも必ずバリアフリーの部屋があり、そういう法律があります。私は、そのことにびっくりし、日本でもそういう環境整備を推進することが必要と考え、勉強会にも積極的に参加するようになりました。また、弁護士としても、障害のある人の社会参加を進めるための活動をするようになりました。

特に、旅行というのは、日常生活から解放されて、いろいろな刺激や感動を受けたりする機会ですが、障害のある人にとっては、日常生活から解放される機会が限られる分、そのような旅行による刺激や感動は非常に大きなものになるのではないかと思います。勉強会のメンバーも、恐らくそのような意識を持ちながら、活動をしているのではないかと思います。

こういう活動を行っている会だということをこの機会に知っていただいて、また、この弟子屈の町では観光が大きな柱となっていると聞いておりますし、風曜日さんもその思いで、この地で非常にがんばっている仲間として応援しておりますし、今回の情報の発信と皆様に受け取っていただける気持ちがひとつになって、これから発展していくことになればと思っております。

副代表 曽根原の報告

もっと優しい旅への勉強会・副代表の曽根原と申します。本業としては、某・大手金融機関勤務で基本的には在宅での翻訳の仕事をしております。30年以上になり、定年まであと2年を切りました。ここ風曜日さんは3回目の訪問になりますので、到着したときに、「ただいま」と言いたくなるような雰囲気さえございます。

代表の黒嵜からの報告に続きまして、勉強会のこれまでの活動等について、少し詳しい報告をさせていただきます。

もっと優しい旅への勉強会のホームページには次のようなことが書かれてあります。

「もっと優しい旅への勉強会は、ノーマライゼーションの理念を尊重し、障害のあるなしにかかわらず、だれでも、自由に、どこへでも旅が楽しめる社会環境を作ることを目指します。ここでいう障害とは、心身の障害だけでなく、高齢・けが・病気・妊娠等の理由により、旅を楽しむ上で一時的な配慮や特別な医療的介護を必要とする、すべての人を意味しています。」

わたくしたちが、英文名称をツーリズム・フォー・オール・イン・ジャパンとしていることには、そのような思いが含まれています。

「もっと優しい旅への勉強会」は、1991年4月より毎月勉強会を開催してきました。私自身は、その3回目からの参加でした。その後、分科会として、身近な課題を法的側面などから学習する「学び隊」の活動も行われています。また、勉強会主催のハワイ旅行を実施したり、交通機関や観光施設の改善についてのアドバイスや広報活動、イベントへのブース出展なども行なってきました。

1994年および1997年には「もっと優しい旅へのシンポジウム」を開催し、マスコミや各方面からの反響を呼びました。1997年のシンポジウムには、明日の講演会の講師で、当時早稲田大学の学生だった乙武洋匡さんにもかかわっていただきました。

また2001年には、ウェブサイト「もっと優しい旅ネット」を開設いたしました。

「もっと優しい旅への勉強会」では、毎月定期的に様々な「優しい旅」に関係のある方々を講師に招き、お話をお伺いするとともに、その内容に関する討論会や意見交換をして異業種間の横のつながりを深めています。

会員の構成は、旅行会社関係者・学生・医師・弁護士・航空会社関係者・ホテル関係者・主婦・福祉団体関係者・専門研究者・教員など障害のありなしにかかわらず様々な方がいます。「みんなちがって、みんないい」ということになるのでしょうか。

また、会員の中には、所属する組織・会社の中でのバリアフリー、ユニバーサル・デザインの実現のためのキーパーソンとしての役割を果たしていた方もいます。内閣総理大臣賞を受賞した京成ホテルの秋元さん、みずほ銀行の平田さん、また地域のキーパーソンということでは三木さんご夫妻、あと勉強会前代表で、JTBの故・草薙威一郎さんの積極的な活動も忘れることはできません。

勉強会として、ここ風曜日さんを六年前に訪問させていただいたことも含めて、勉強会とその分科会の学び隊では、これまで日本各地への旅行をおこなってまいりました。その中で、今の段階で、私にとって特に印象深く思われているのは、1998年の東北・岩手への旅行です。盛岡近郊のつなぎ温泉と三陸海岸の宮古にそれぞれ一泊して、地元の方々との意見交換会なども行ったのですが、今、そこの光景が一変しているのかもしれない、また、そこにいらっしゃっていた方々やそこで出会った方々の中にも被災された方がいるのかもしれない。そう思うと心が痛みます。一日も早い復興をお祈り申し上げます。

震災後の旅行をめぐる環境に関しては、日本旅行業協会が「日本を元気に、旅で笑顔に」、クラブツーリズムが「心で旅を届けよう」、ジェイ・アール東日本が「あなたが旅を楽しむことも、きっと誰かの力になる」などのメッセージを発し、多くの人が旅行に出かけることが被災地のより早期の復興につながることをPRしています。あすの講演会の講師の乙武さんも、「大震災によって、多くのかたがつらい思いをしています。被災地以外の方々だって、これまでと変わらぬ生活を送ることに戸惑いや罪悪感を感じたり…。何が正解かは、わからない。それでも、僕なりに、みなさんの心がくつろげたり、前向きになれるようなメッセージを発信していきたいと思います。」というメッセージを、今、はやりのツイッターのプロフィールの中で発し、自粛や、不謹慎という言葉がまかり通るような風潮に疑問を投げかけています。今月の上旬には、何が自分にできるのだろうと、自問自答しながらも、東北の被災地を訪問され、彼なりの方法で大きな支援活動を展開されました。彼のクリネックス・スタジアム宮城球場でのプロ野球のマウンドに立っての始球式には、多くの方々が深い感動を覚えたはずです。もちろん、私もその一人です。

旅行に出かけることには、旅はリハビリと言われているように、人間にとってさまざまな身体的・精神的効用があります。リハビリという言葉は、リハビリテーションという言葉を略したものですが、リハビリテーションという言葉の本来の意味は、生命、生活と人生を大切にするための全人間的復権ということです。それは、復興という言葉にも置き換えることができるのではないでしょうか。また、そのことは、経済を回すためにも役立つはずです。経済の回復なくして、被災地の復興もあり得ないと私は考えます。

勉強会では、過去4回フォーラムを開催してまいりました。いま、ここ、弟子屈で開催させていただいているフォーラムはその5回目になります。過去のフォーラムのそれぞれのテーマは2007年が旅の喜びをすべての人に、2008年が、車椅子ユーザーの旅を考える、行かれるところから行きたいところへ、2009年が勉強会の代表の黒嵜さんの出身地の熊本で、火の国発旅行の障害学入門、熊本の旅のよろこび株式会社との共催でした。昨年2010年には、鎌倉で、三木和子さんにもご参加いただき、観光バリアフリーと住民の住みやすさというテーマで、観光バリアフリーの推進が住民の住みやすさの向上にもつながるということをアピールいたしました。

勉強会の分科会の学び隊では、最近数年間、毎年日本福祉のまちづくり学会に参加し、そこでの論文発表を行ってまいりました。一昨年、帯広で行われた研究大会では、終了後、足を延ばして、ここ風曜日さんに宿泊させていただきました。その帯広大会での論文発表のテーマは、「事例から見た歴史的建造物の保存とバリアフリー -対立から共生へ」でした。

その中では、バリアフリーの目的は、すべての人が同じところへ行き、同じ体験をすることであり、人口の高齢化、障害者の社会進出により、コスト、技術をバリアフリーに配慮しないことの言い訳にできる時代ではなくなりつつあるという問題意識のもとで、その建物本来の姿の維持を優先して手を加えることを最小限に抑える場合であっても、外から中を見えるようにすることや、一階部分だけでも入ることができるようにするなど、それなりのバリアフリーへの対応があるはずです。その建造物の段差や場所によって対応は様々であろうが、少なくとも公的機関で管理され、内部を含めて公開されている建物であれば、最低限の対応をし、そのレベルをさらに上げていく努力が求められるのではないかという提言をいたしました。そのことは、自然とバリアフリーとの関係にも当てはまるように、私は思います。そのような建物は、長い歴史を経て、その場所にあることが当たりまえになっていて、自然の一部のように認識されているのかもしれないのですから。

また、自然とバリアフリーということを考える場合に、外側から自然の風景を楽しむということばかりでなく、自然の中で何ができるかということも、重要になってきているのではないかと思います。もう一つ、勉強会の紹介の中でも触れさせていただいたのですが、関連する組織や地域の中に、率先してバリアフリー、ユニバーサル・デサインの実現に取り組むキーパーソンがいるということも、重要なことではないかと、私は思います。

報告「風曜日誕生の由来」 三木和子

こんにちは。三木和子です。よろしくお願いいたします。先ほど皆様のお出迎えをさせていただいた格好のままで、ここに立たせていただいています。ここでは観光庁の方がお見えになって報告をなさる予定でしたが、残念ながら、震災の後、動けないということで、急きょ、私が「風曜日誕生の由来」ということでお話をさせていただくことになりました。

私たちが、なぜ、全館バリアフリー、ユニバーサル・デザインのホテルを作りたいと思うようになったかをお話しさせていただきます。

諸々のしがらみを忘れていただいて、皆様に「何がしたいですか」と尋ねると、多くの人からは、旅行がしたいという答えが返ってくるのではないでしょうか。私は以前、専門学校や短大で、講師として、レクリエーション指導法という科目を担当していました。その中で30年ほど前に在宅の障害者を対象に調査を行って「何がしたいですか」と尋ねました。一番多かった答えは「街に出たい」、次に多かったのが「喫茶店に入りたい」、「そこで友達とおしゃべりがしたい」でした。街に出たいけれどもバリアだらけでなかなか出られないということもあったと思います。

その時の調査を一緒にやった方に、今日は残念ながらお見えになっていないのですが、車椅子の勝矢さんという方がいらっしゃいました。その後、勝矢さんが電動車いすを入手して、街に出られるようになったときに、彼は「笑顔のシャワーを浴びにいこう」ということを言っていました。特に、私の印象に残っているのは、上野の美術館には障害者割引があり、介助者も割引になる。そこで勝矢さんは、入ろうかどうかためらっているような人に「私の介助者になってくれませんか」と声をかけると、初めは怪訝な顔をされるんだけれども、割引で入れることがわかって笑顔になるというようなことを話してくれたことでした。「笑顔のシャワー」を浴びるためには、まず外に出ること。そのように健常者が普通にやっていることが、障害者にとってはとても大変なんだなあということを感じました。

また、これも20年ぐらい前の話になるのですが、戸山サンライズで研究会などのお手伝いをさせていただいたことがあるのですが、そのときに京都の養護学校の生徒さんたちが、そこの宿泊部門に泊まっていました。当時は高級なホテルにはハンディキャップ・ルームができ始めていましたが、養護学校の生徒さんが団体で宿泊できるところは、戸山サンライズぐらいでした。

その頃、障害のある方で海外に行く人も見られるようになっていました。そのような人たちに話を聞くと、黒嵜さんの話にもありましたが、海外の方が安心して出られるし、むしろ国内の方が大変だとのことでした。それで、当時車いすマークの設備のあるところに行ってみると、「これでいいの?」と思うところがたくさんありました。中でもショックを受けたのは釧路空港で、男性用トイレのいちばん奥が障害者トイレになっていたことでした。そこに行くためには、私は、車椅子を押して、用を足している男性たちの後ろを通らなければなりません。私は女性です。でも躊躇しながらも、意を決して入って行かざるを得ませんでした。今なら、笑い話ですよね。でもその頃はそれが現実でした。私が車いすの利用者であったとすれば、絶対に行かれないのではないかと思いました。

いろいろと、疑問を感じるようになっていたころに、今度は、夫が45歳のころから、50になったら会社を辞めて、何か始めたいと言うようになりました。その頃、私は非常勤講師の仕事などをいくつかやらせていただいていて、そのような生活を充実していて、楽しいと感じていたので、夫のそのような話も「いってらっしゃい。私は東京で頑張るから。夏休みには遊びに行くからね」と思いながら聞いていました。

ところが、ここの隣のユースホステルを、摩周湖に魅せられた私の兄がずっとやっていて、その兄に続いて、夫が弟子屈にはまって、弟子屈町で何かやりたいと言い始めました。そのようなときに、私がなにげなく「ここのユースホステル古いから、改築して半分ぐらいバリアフリーにしたら」と兄に言ったところ、兄からは「それだったら、お前たちやれよ」という言葉が返ってきました。私は、「そんなの無理よ」と思ったのですが、夫の方がその気になってしまいました。そんなところから誕生したのが風曜日ということになります。

私の心の中にも、設備を障害者が使いやすいものにしようというような思いはありました。また経営ということは別にしても、福祉や障害のある人について全く知らない者同士が始めたということではなく、それなりの問題意識の積み重ねの上に成り立っているのがこの風曜日です。その宿を始めようというときに、勝矢さんから「もっと優しい旅への勉強会」のことを紹介されて、私たちもずっと会員になっています。

経営的には決して楽ではありませんが、ありがたいことに「金儲けは下手だけど、人儲けはうまい」と言われることがよくあります。皆さんにご協力いただいたり、お泊りに来ていただいたり、思いがけない出会いもたくさんあります。そのようなことを大切にしながら、これからも続けていきたいと思っています。

以上は、勉強会会員からの報告でした。

フォーラムの後半は、会員外の方々にも加わっていただいてのシンポジウムでした。

「北海道道東地区観光地のUD化の現状と課題」
 コーディネーター
   黒嵜 隆
 シンポジスト
   (社福)網走市社会福祉協議会 新海 康孝さん
   NPO法人知床斜里町観光協会 青木 憲一さん
   環境省川湯自然保護官事務所  黒江 隆太さん
   弟子屈UDプラザ       三木 亨さん

採録につきましては、前半の勉強会会員からの報告のみとさせていただきました。

もっと優しい旅への勉強会
副代表(フォーラム担当)曽根原 純

※この報告は、もっと優しい旅への勉強会会報より掲載しました。