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気になるカタカナ

ボランティア

真崎頌也

 ボランティアという言葉を私に教えてくれたのは、まさに現代ボランティアの草分けの1人であった大槻久子さん(故人)という方であった。「……そういうことって放ってはおけないでしょ……」と、なじるように言われた言葉を思い出す。昭和36年のことであった。ボランティアという言葉も、カタカナ語の多い社会福祉用語の中で、何度か漢字に変えることが試みられた。奉仕活動、篤志活動、しかしボランティアのニュアンスは違う。「奉仕」も「篤志」も本来は美しい言葉であるはずだが、歪められたニュアンスで使われ過ぎたために、ボランティアということばになじまないのだ。「奉仕」と聞けば「お国のために」であった時代を、私は今の若い人たちにも覚えておいてほしいと思う。

 私事を言って申し訳ないが、私が教えられたボランティアは、「放っておけないからする」と言う、「自発性」が核であった。

 ボランティアは無償の行為である。ボランティア活動に参加したために、その経費を頂くことがある。そのためにするのは、ボランティアではない、それのあるなしは大きな問題ではないのがボランティアである。さらに言うなら、学習の単位が貰えるから、するのは、ボランティアではない。むしろプロになるための実習と割り切るべきである。私はこのことを、多くの大学や高等学校の学生、生徒さんに申し上げたい。

 阪神大震災で、多くの青年たちが、その日に神戸へ出向き、その復興にボランティアとして参加した。報酬はそのイメージには無かった。これこそボランティアなのだ。

 ところがそういう活動を見ると、すぐ「組織化」しようとか、「経費助成」しようとか考える人たちがいる。海外援助の医療ボランティアを身分保障を前提に募集したり、将来老人人口が多くなるからボランティアでケアを補おうなどという感覚は「ボランティア」活動に身を投じたことのない人々の感覚なのである。福祉の世界だからと、ボランティアという言葉を使ってプロを安く使う風潮も困ったものだ。安い経費で人を使うことは、プロにとって失礼であると同様にボランティアにとっても誇りを傷つけられることではないだろうか。

(まさきのぶや 啓発広報研究所すたじおペリ主宰)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1995年12月号(第15巻 通巻173号) 14頁